『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

5 東大寺

2023-02-12 | 奈良県

第10番 東大寺

日本が日本となるための大仏

 

 

 

 

参拝日    平成28年(2016)6月23日(水) 天候曇り時々小雨                                                  

所在      奈良県奈良市雑司町406-1                                               山号      なし                                                           寺名      東大寺                                                          宗派      華厳宗                                                          寺格      大本山                                                          別称      金光明四天王護国之寺                                                   本尊      廬舎那仏                                                         創建年     8世紀前半                                                        開基      聖武天皇

  
     

 

 

 

東大寺は、華厳宗の総本山で、聖武天皇と光明皇后の皇子の慰霊のために建立された金鐘山寺を前身とする。天平13年(741)に大和金光寺と改称して総国分寺となり、天平19年(747)ごろから東大寺の寺号が用いられるようになった。参拝の中心は「奈良の大仏」として知られる本尊の廬舎那仏座像。像の高さは14.7mで金銅仏像としては世界最大級を誇る。ほかにも二月堂や法華堂、南大門など多くの国宝、重要文化財の宝庫となっている。

 

 

境内案内図

 

 

 

 

奈良県庁の屋上から東大寺~若草山を見る

 

 

 

 

依水園からみた東大寺と若草山   南大門の屋根が見える

 

 

 

 

南大門の前の通り

 

 

 

 

南大門【国宝】  高さ25mにも及ぶ国内最大規模の門である。近くに立てば圧倒的な存在感で、鎌倉時代の大仏様式と呼ばれる建築様式を反映させた繊細さを感じさせる。天平時の創建であるが、平安中期の応和元年(962)の台風で倒壊し、その後鎌倉時代の正治元年(1199)に、東大寺中興の祖と言われた重源上人が指揮をする中で復興された。 多くの円柱や貫と言われる柱を巡らし、内部は天井がない吹き抜けのようにすっきりとした構造。見た目はシンプルであるが、実用的な観点からは地震にに強い構造で現在まで立派な姿を残している。

 

 

 

 

扁額は「大華厳寺」

 

 

 

 

円柱は長さ24mで縦に3本ずつ計18本で大き建造物を支えてる。

 

 

 

 

金剛力士像【国宝】 左に阿形像。右に吽形像。 8.4mの巨大像で鎌倉時代の建仁3年(1203)運慶や快慶などの仏師によってつくられた。

 

 

 

 

吽形像

 

 

 

 

南大門から中門にかけては幅の広い参道である。この広い道を修学旅行の生徒たちが埋め尽くす。

 

 

 

 

エサが欲しい鹿の群れが観光客にじゃれつく。

 

 

 

 

鏡池

 

 

 

 

中門【重要文化財】 享保元年(1716)頃の建立とされる。朱色の門で東大寺にしては目立つ外観。大仏殿を取り囲む回廊の中心で、大仏殿の正面に位置しており大仏殿に参拝の正式な参入門として用いられてきたが現在は閉められている。参拝には左側の専用の入り口を使用する。

 

 

 

 

大仏殿【国宝】 中門左端の拝観入口から大仏殿を参拝する。

 

 

 

大仏殿は東大寺の金堂である。奈良時代に創建されてから二度の火災に遭い、現在の建物は江戸時代の広慶上人によって再建された。消失前の天平、鎌倉時代の大仏殿は間口11間ほどあった。現在の建物は7間に縮小されたが、それでも世界最大の木造建築物。

 

 

 

 

八角灯籠【国宝】   東大寺創建当初のもの。再度にわたる兵火にも難をまぬがれた。宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなり、火袋の大きいのが特色。火袋の四面には音声菩薩が、扉の四面には雲中を走る四頭の獅子が、それぞれ菱格子の透し地に浮彫りされている。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柱は欅材で檜板で周りを囲い銅輪と鉄釘で締めている。木造工法では世界最大の建物である。大仏殿には屋根が二層になっている、下の屋根は裳階で雨風除けのため装飾である。

 

 

 

 

外側正面にある唐破風という曲線のある飾り屋根があり、その下の「観相窓」を開くと、外から大仏の顔が見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堂内の内陣 6月の奈良は修学旅行生のオンパレード

 

 

 

 

広々とした堂内。「少し空いたかな・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廬舎那仏座像【国宝】 正面に奈良の大仏は、東大寺のご本尊となる。 

 

 

 

 

大仏の一番美しいポジションは、この角度だと言われる。

 

 

 

 

大仏の右手は「畏れることはない」という意味。左手は「人々の願いを叶えよう」という意味を表している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創建当時の東大寺の模型  二つの大きな七重の塔があった。

 

 

 

 

径1.2mの柱に空いた穴は、大仏の鼻の穴と同じ大きさで縦37㎝、横30㎝。潜り抜けると無病息災などの御利益を得られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鐘楼  ひときわ天空にそびえる鐘楼。 承元年間(1207~1211)に再建されたもの。重さ26.3トンを支える構造は太くて頑丈。

 

 

 

 

梵鐘【国宝】  高さ3.86m。径2.71m。 東大寺創建時の鐘。毎日夜8時に突かれ、日本三大名鐘の一つ。

 

 

 

 

三月堂への階段

 

 

 

 

三月堂 法華堂【国宝】  東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺の遺構とされる。旧暦3月に法華会が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。礼堂は入母屋造りで、正堂は天平初期の建築だが時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。

 

 

 

二月堂【国宝】   この堂で修二会(しゅにえ)が旧暦の2月に行なわれることから名が付けられた。寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火、焼失し、現在の建物はその2年後に再建。修二会の行事で、毎年3月1日~14日まで行われるお水取りは、長い伝統行事で1270回以上を誇り、多くの参拝者が訪れる。回廊を赤々と燃える松明が駆け巡り、終盤は数本の松明から滝のように火の粉が落ちる模様は壮観。参拝者は火の粉を浴びて無病息災を祈るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二月堂は24時間いつでも訪れられる貴重な場所で、ここからの眺めは素晴らしい。

 

 

 

二月堂から奈良市街を見渡す

 

 

 

 

二月堂の階段を下る

 

 

 

 

校倉造りで知られた正倉院宝物殿  大仏殿の北側に位置する。

 

 

 

 

正倉院  奈良時代や平安時代の官庁や大寺には、重要なものを納める正倉が設けられていた。この正倉が集まっている一画を正倉院と呼ばれた。あちらこちらに置かれ焦燥は、歳月の経過と共にいつした滅んで、わずか東大寺内の正倉が1棟当時のままで残り、これが正倉院宝庫である。 管轄は宮内庁。

 

 

 

 

正倉院からの帰り道から大仏殿付近を見る。 さすがこの辺りに観光客は見当たらない。

 

 

 

 

若草山のすぐ近くを通り春日大社に向かう

 

 

 

 

案内地図

 

 

 

ー百寺巡礼からー

千二百年以上の前の日本人が、燃え上がるようなエネルギーを持っていたからこそ、東大寺造営というとてつもないプロジェクトが実現した。国家創成期の日本人が持っていたエネルギー。それを思うと熱いものがこみあげてくる。これほど巨大なものを創った奈良時代の人びと、いにしえの日本人のすがたから勇気を与えられたような気がする。

 

 

御朱印

 

 

(参考文献)   東大寺HP  Wikipedia  百寺巡礼第1巻奈良(講談社文庫)

 

 

             東大寺 終了

 

 

 

 

コメント

4 善光寺

2023-02-10 | 長野県

百寺巡礼 第50番 善光寺 

濁る川に生きる覚悟をする寺

 

 

 

 

信州には、年1回ていどは泊まりにきている。今回は長野と小布施をたずねる旅で善光寺に参拝することとした。

信州善光寺は、特定の宗派に属さない無宗派の寺である。すべての人々を受け入れる寺として、全国に知られている。一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)をご本尊とし、創建以来1400年の長きにわたり、阿弥陀如来様の血縁の場として、また民衆の心のよりどころとして深く信仰を得ている。

「善光寺縁起」によれば、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国と渡り、欽明天皇13年(552)の仏教伝来のおりに百済から日本に伝えられた日本最古の仏像と言われている。この仏像は、仏教という宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏の論争中に廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられた。その後、信濃国国司の従者として都に上がった本田善光が信濃に持ち帰った。はじめは今の長野県飯田市で祀られ、のちに皇極天皇元年(642)に現在の地に遷座された。皇極天皇3年(644)には勅願によって伽藍が造営され、本田善光の名をとって「善光寺」とした。

 

 

 

参拝日   平成28年(2016)6月26日 金曜日 天候晴れ

 

お寺の概要

所 在    長野県長野市元善町491 
山 号    定額山
寺 名    善光寺
宗 派    無宗派
寺 格    本山    
別 称    信州善光寺 信濃善光寺さん
本 尊    一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏)
創建年    皇極天皇3年(644)                                  開 基    皇極天皇                                         

文化財    本堂【国宝】 三門 銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか【国指定重要文化財】 

  
    

 

境内案内図

 

 

 

 

仁王門  宝暦2年(1752)に建立された。善光寺地震などで二度焼失。大正7年(1918)に山形村の永田兵太郎翁の寄進によって再建された。高さ14m、間口13m、奥行き7mの総欅造り。

 

 

 

 

善光寺の山号である「定額山」の扁額。

 

 

 

 

仁王像は、ほかの寺と異なり右に吽形(6.17m)左に阿形(5.95m)が安置されている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仁王門を潜り参道

 

 

 

 

参道に並ぶ店

 

 

 

 

参道にはおみやげ屋、煎餅屋、野沢菜の漬物屋、蕎麦屋などが並ぶ

 

 

 

 

山門 【国指定重要文化財】 参道を抜けて山門の前に出る。寛延3年(1750)に建立された。様式は五間三戸二階二重門。屋根は入母屋造の栩葺き。平成5年(2002)から5年かけて大修理を行った。

 

 

 

 

扁額「善光寺」 輪王寺宮筆で鳩文字といわれており、三文字の中に5羽の鳩が隠されている・・・と言われる。

 

 

 

 

本殿側から見る

 

 

 

 

山門の内部

 

 

 

 

山門から仁王門方向および長野市街を見る

 

 

 

 

本堂【国宝】  創建以来何度も火災に遭った。現在の建物は宝永4年(1707)に再建された。江戸中期の仏教建築の代表と言える。高さ29m、間口24m、奥行54m 東日本における木造の国宝としては最大級。

 

 

 

その前に本堂の前にある大香炉  戦時中に金属供出を強いられて姿を消したが、昭和31年(1956)に富山県高岡で造られ奉納された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の屋根 正面が妻になる寺院建築は珍しい。 下層の屋根は唐破風仕様。

 

 

 

 

 

下層屋根の架構をみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本殿の入り口前の香炉

 

 

 

 

本殿から境内、山門方向を見渡す。

 

 

 

 

向拝を横から見る

 

 

 

 

 

本堂正面から入り外陣

 

 

 

 

外陣から内陣を見る

 

 

 

外陣に入ってすぐに「撫で仏」といわれる「びんずる尊者」(賽頭蘆)の像がある。お釈迦様の弟子16羅漢の1人で、神通力が大変強く、お釈迦様から人々を救うように言われたという。病人が、自身の患部とこの像の同じところを撫でると、病気が治るという信仰である。

 

 

 

 

内陣を見る。150畳の広さの空間は、参拝者がお参りをする間。その奥に内々陣。

 

 

 

内陣と内々陣との隔たりの欄間には、來迎二十五菩薩像と百観音像が燦然と輝いている。来迎とは、極楽浄土からこの世へ阿弥陀如来と諸菩薩たちが往生人をお迎えする光景を表している。

 

 

 

 

本堂の東側

 

 

 

 

回廊から境内を見る

 

 

 

 

鐘楼【登録有形文化財】 嘉永6年(1853)に再建された。南無阿弥陀仏の6文字にちなみ六本の柱で支える。

 

 

 

 

梵鐘は、鐘楼より古く寛永9年(1632)に高橋白蓮によって発願鋳造。のち火災に逢い、寛文7年(1667)に再造立された名鐘。いまでも10時と16時に時を知らせる音を響かせる。長野オリンピックでは開会を告げた鐘でも有名。

 

 

 

 

ぬれ仏(延命地蔵)  享保7年(1722)に造立。江戸の大火を出したと言われる八百屋お七の霊を慰めたものと伝えられ「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれ、火伏の意味合いから「ぬれ仏」と言われる。

 

 

 

 

六地蔵  地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・仁の六つの世界で我々衆生を救ってくれる菩薩。

 

 

 

 

経蔵【国指定重要文化財】  宝暦9年(1759)に建立。五間四方形の堂。

 

 

 

善光寺は無宗派である。それで天台宗と浄土宗の住職が夫々の住職が二人体制で住職を担い、すべての行事をそれぞれ一回ずつ、都合二回行うことになっている。仁王門の脇にあるのが浄土宗の本坊「大本願」。山門の脇にある本坊が「大勧進」が天台宗。

浄土宗の本坊門  唐門で『大本願』の扁額  この一画は浄土宗の本坊で、社務所をはじめ、宝物館、本誓殿、位牌堂、光明閣、奥書院、表書院、明照殿、寿光殿、文殊堂などがあり、上人の称号を持つ女性が住職を務める。

 

 

 

 

本坊から見た善光寺山門。

 

 

 

 

善光寺全景(善光寺HPより)

 

 

 

牛にひかれて善光寺まいり

 

 

 

ー百寺巡礼からー

「牛にひかれて善光寺まいり」とはよくいったもので、何かのきっかけで友だちから誘われたり、あるいは仕事のついでにちょっと立ち寄ったりで「ああ・・来てよかった」と思えればそれでよい。細部にいろいろ違いがあるようだが、要は仏縁を得た老女の話だ。昔、信濃のある国にいた不信人な老女が軒先で布を晒していると、大きな牛が表れて、その布を角に引っ掛けて駆けだした。老女は慌てて牛を追いかける。牛は善光寺の本堂まで来ると消えていなくなった。実はこの牛は、観音の化身だったのだ。それ以来、老女は善光寺を信仰するようになり、極楽往生した。こういうあらましである。つまり物見遊山なんてと、非難する必要は無いのだ。理由は何であっても寺に引き寄せられ、寺に行けば必ずなにか得るものがある。それでいいと思う。

 

 

 

案内図

                                                   (旅をおもしろくする観光マップ/今八から)

 

 

御朱印

 

 

参考文献    善光寺HP  百寺巡礼 第5巻 関東・信州(講談社文庫)

 

4  善光寺 終了

 

コメント

3 増上寺 

2023-02-07 | 東京都

「百寺巡礼」第42番 増上寺  念仏の心と東京タワー

 

都心の一等地におよそ、27000坪の広大な境内のお寺。境内の前の道路は、国道1号線で正月の箱根駅伝の通り道でもおなじみ。現役の時に、勤めていた社の会長の葬式もここで行われた。三十数年前のことである。徳川将軍家とゆかりが深く、二代将軍秀忠とその正室江の墓所をはじめ6代家宜、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の墓所となっている。

増上寺は、西誉聖聡上人によって、現在の千代田区平河町の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建された。第12世存応のときに徳川家康の帰依を受け、一時は一宗を統括する機関となった。

 

参拝日   平成28年(2016)4月22日 金曜日 天候晴れ

 

お寺の概要

所 在    東京都港区芝公園四丁目7番35号 
山 号    三縁山
寺 名    増上寺
宗 派    浄土宗鎮西派
寺 格    大本山
正式名    三縁山広度院増上寺  
本 尊    阿弥陀如来
創建年    明徳4年(1393)
開 基    聖聡

文化財    国指定重要文化財・三解脱門 

 

 

 

境内図

 

 

 

 

参道は地下鉄大門駅の出口A6からビルの谷間に囲まれて350mほど。芝大門の交差点に増上寺の大門がある。

 

 

 

 

大門 鉄筋コンクリート造であるが大きな木板に増上寺の字体。垂れ幕は徳川の葵の御紋。

 

 

 

 

三解脱門 【国指定重要文化財】 三解脱とは涅槃に入るための空・無相・無作の三つの解脱門を寺院の門に擬したもの。 すなわち「迷いから解放されようとする者が必ず通らなければならない」という意味だという。いわゆる「三門」の門の言われ。

 

 

 

 

増上寺本堂は何度かの火災に遭っているが、三解脱門だけはいつも災害を免れ今日に至っている。

 

 

 

 

朱の漆塗で朱色が美しい。 江戸時代この門は人々に開放され、人々はこの門に昇り東海道や品川沖やお台場などが見渡しでき、晴れた日には房総半島や三浦半島まで見渡せたそうだ。

 

 

 

建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せている。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

 

 

 

 

三解脱門の隣にあった今月の言葉

 

 

 

 

黒門 慶安年間(1648~1652年)、三代将軍家光公の寄進・建立とされている。旧方丈門で昭和55年(1980)に当山の通用門として日比谷通り沿いに移築。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大殿  昭和49年(1974)、大本山の念仏の根本道場として、戦災に遭い焼失した本堂が再建された。首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室。

 

 

 

 

大都会のど真ん中にある境内は、どうしても背の高い建築に囲まれてしまう。 寺の正式名称は三縁山高度院増上寺で、三縁とは「親縁・近艶、増上縁」。

 

 

 

 

広い境内 大殿から見る三解脱門。廻りには高層のホテルやビルが立ち並ぶのは、いかにも大都会の風景。しかし広い境内の上には大きな空があり、寺の落ち着きは不思議と損なわれていない。

 

 

 

 

大殿の正面

 

 

 

大殿本堂のご本尊阿弥陀如来は室町期に製作されたもので、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀らている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本尊の阿弥陀如来座像  木像で室町時代の作とされている。江戸期には華頂宮門跡・尊超法親王の念持仏であったものを明治42年(1909)の旧大殿が火災に遭った折りに、当時の総本山知恩院門跡山下現有猊下から寄贈。

 

 

 

 

木造釈迦如来・両脇侍像(釈迦三尊像)・木造十六羅漢像

 

 

 

 

木造四天王立像・増長天  6代将軍家宣公がなくなられた際に追善の像として造られた。当初は江戸城内の紅葉山廟に安置されていたが明治維新の際に増上寺に移された。現在は安国殿内陣の四隅に祀られている。

 

 

 

 

木造広目天像、 多聞天像

 

 

 

 

光摂殿と増上寺会館を見る 皐月が美しい

 

 

 

 

大殿と光摂殿の間に東京タワー

 

 

 

 

大殿と安国殿の間に東京タワー

 

 

 

 

鐘楼堂  嘉永10年(1633)の建立であるが、戦後に再建されたもの。

 

 

 

鐘の大きさは東日本で最大級。朝と夕べに2回づつ突く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあると言われる。「江戸七分 ほどに聞こえる 芝の鐘」

 

 

 

 

境内の東がわに並ぶ石地蔵 千体子育て地蔵尊。子どもの顔か? なんともとぼけた顔にも見えるが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川将軍家墓所

 

 

 

 

徳川将軍墓所入り口「鋳抜門」  青銅製で旧国宝だったもの。左右の扉に5個づつの葵の御紋を配し、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれている。 普段は締め切り状態。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墓所の入り口側を見る。徳川将軍家の墓所は、ほかに上野寛永寺にもある。敷地の中央に砂利が敷き詰められ、周囲を取り囲むように様々な石塔が建ち並ぶ。太平洋戦争でほとんどの伽藍が焼失してしまう以前は、徳川家の御霊屋は境内のあちこちに分散していたようだ。

 

 

 

 

二代将軍秀忠公とお江の方の墓碑   調査によれば細部では各将軍若干の違いがあるものの、埋葬は、まず地中かなり深い部分に頑丈な石室を設け御遺体を安置し、二枚の巨石をふたにして、その上に基檀と宝塔は安置されていたといわれている。

 

 

 

 

一四代家茂公夫人(皇女)和宮の墓碑

石碑に刻まれたのは菊の御紋。この写真では判らない。柩の中には夫である家茂公の写真が入れてあったという。

 

 

 

六代将軍家宣公、七代将軍家継公、九代将軍家重公、十四代将軍家茂公の6人の将軍のほか、秀忠公夫人ら五人の正室と三代将軍家光公の側室桂昌院(五代将軍綱吉公の実母)はじめ5人の側室、および歴代将軍の子ら多数が埋葬されている。(左 7代家継公の墓碑、右 14代将軍家茂公の墓碑)

 

 

 

 

皇女和宮のゆかりの茶室   貞恭は和宮の法名から名づけられた。内部は見れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内には近代的な石碑もみられる。

 

 

 

 

境内の木々から垣間見る三解脱門

 

 

 

参道で見た瓦土塀

 

 

 

 

土塀に囲まれたお邸 三解脱門の前方東側

 

 

 

ー百寺巡礼よりー

徳川家と増上寺の結びつきは、徳川家康の代の天正18年(1590)までさかのぼる。この年の8月1日、家康は関東は八国を与えられ、江戸城に入る途中当時まだ麹町貝塚(現在の千代田区紀尾井町)にあった増上寺の門前を通りかかり、そこで12世法主の源誉在応上人と出合い、その人柄や考え方に感銘を受けてすぐに菩提所とした。別の話もあるようだが・・・。これから江戸を本拠地として関東を支配しようとした家康は増上寺の力を大いに活用できるはずと、踏んだのではあるまいか。

さらに家康は、町民感情をなだめるために古い寺社を保存し、そればかりでなく積極的に保護したという。増上寺のみならず、当時の多くの寺は庶民の日常生活と密接に結びついていたからだ。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

 

御朱印

 

 

参考文献  増上寺HP  五木寛之著「百寺巡礼」第5巻関東・信州(講談社文庫版) 

 

3 増上寺 終了

コメント