古寺を巡る 仁和寺
皇族や貴族とのゆかりが深かく御所風建築物が特長の寺。
2024年の冬、4日間にわたる京都の寺巡りは、この仁和寺が最後で計12の寺を巡った。冬の終わりで、どの寺も参拝客は少なかったが、土曜日の仁和寺はけっこうな人の出である。金堂の裏堂にある五大明王像壁画の特別公開のせいもあるようだ。
仁和寺は、皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法王が住んでいたことから、「御室御所」と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。
御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。普段は境内への入場は無料であり、本坊御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。
仁和寺は平安時代前、光孝天皇の勅願で出仁和2年(886)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(2024)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。出家した宇多天皇以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。応仁の乱(1467~1477)が勃発すると、東軍の兵によって焼かれ、伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像は運び出されており、焼失を免れている。寛永11年(1634)に幕府の支援を得て伽藍が整備されることとなった。また、寛永年間(1624~1645)の御所の建て替えに伴い、御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に境内に移築されている。
慶応3年(1867)以降、皇室出身者が当寺の門跡となることはなかった。ここに当寺は宮門跡「御室御所」としての歴史を終えた。
太平洋戦争の末期に敗戦が濃厚となった昭和20年(1945)のはじめ、数度にわたり、近衛文麿が昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画を検討している。昭和21年(1946)、真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、仁和寺はその総本山となった。
仁和寺は、建物、仏像、絵画など、国宝、国重要文化財に指定された文化財を数多く所有する寺としても知られている。
参拝日 令和6年(2024)3月2日(土) 天候曇り時々晴れ
所在地 京都府京都市右京区御室大内33 山 号 大内山 宗 派 真言宗御室派 寺 格 総本山 本 尊 阿弥陀如来 創建年 仁和4年(888) 開 基 宇多天皇 別 称 旧御室御所 札所等 京都十三仏霊場第9番 文化財 金堂、木造阿弥陀如来および両脇侍像。木造薬師如来坐像ほか(国宝) 二王門、五重塔、観音堂(国重要文化財)
境内案内図
二王門【国重要文化財】 仁和寺の正面入り口となる。寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。入母屋の二重門とした重厚な造りは、平安時代の様式を引き継ぐ純和風。19.2mの高さ。南禅寺三門、知恩院三門とともに京都三大門の一つ。
左の「吽形像」は怒りを内に秘めた表情をしている。
右に「阿形像」は怒りの感情を顕にした表情。
軒下の木組み。 三手先の斗栱。
門の天井は組入り天井。
二王門から境内を見る。
境内。
拝観手続きを終えて本坊表門から御殿に進む。
御殿の参道に這え松。
皇室門。 南庭の入り口用の平唐門。宸殿を囲む塀には勅使門と皇族門、二つの門が設けられ、皇室と関わりが深いこの寺らしい典雅な雰囲気を醸し出している。
本坊表門を振り返る。
本坊(御殿)の大玄関。 約6mの唐破風檜皮葺き屋根。
軒下には、蟇股や大瓶束の笈形に秀麗な彫刻を施し、威厳と華やかさを備えた大型の玄関。
中央に繊細な彫刻を施した蟇股。
内側から見る。
拝観の入り口は混雑。 正面の額が気にかかるが・・・・。
本坊に続く白書院は、令和5年(2023)暮れから令和8年(2026)春まで補修工事。当時は仮設掛工事で、まだ白書院内は見学可能だった。 現在(4月以降)は見学不可のようだ。
渡り廊下が続く。
白書院。 明治20年(1887)に御殿が焼失したため、仮宸殿として明治23年(1890)に建てられた。その後、宸殿などの諸建造物が再建され白書院となった。表と裏に三室ずつ配る六室構成で、表の三部屋が公開されている。三室の東側の間(10畳)。
中の間(10畳)。 襖絵は、大正から昭和に活躍した日本画家・福永晴帆が昭和12年(1937)に描かれた。松を主題とし三室全28枚の襖に描かれ、四季おりおりの松の姿が見ることができる。松の幹が墨で力強く描かれ、部屋の中心を貫くような堂々とした構図が印象的。
西側の間(15畳)。
白書院からの枯山水の南庭は仮設の足場で見ることができない。
白書院から左黒書院、右に宸殿。
宸殿の入り口の見られる板戸絵。
外廊下と濡れ縁の間の建具は蔀戸。
宸殿と北庭を見る。
北庭園。 宸殿の北東に広がる池泉回遊式庭園。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を見る。作庭年は不明だが、元禄3年(1690)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛によって整備された。宸殿から池越しに茶室・飛濤 亭の屋根、中門(工事中)そして五重塔がよく見える。
宸殿の屋根は庇が深く、広い廊下で外に濡れ縁が付き、解放された空間のなかに庭園を見ることができる。
北庭と南庭の仕切り。
池には木橋が架かっている。
奥には滝が流れている。
宸殿【国登録有形文化財】 寛永年間(1624 ~1644)に京都御所・常御殿を下賜されて宸殿としていたが、明治20年(1887)に焼失。、明治43年(1910)に勅使門や霊明殿などと共に、京都府庁に設計を依託。当時、数々の実績があり復古建築の天才と言われた、京都府の技師・亀岡末吉が設計を担った。大正3年(1914)にこの宸殿など御殿エリアの再建が完成した。亀岡は古典的な日本の建築の特徴に現代的なデザインの要素を融合させたことで知られている。この建物も、明治時代の建造だが平安様式を取り入れ、建物の北東に配置された庭園とともに、かつての宮殿の雰囲気を漂わせている。
外廊下に見る欄間。 繊細かつ華麗なる欄間の意匠は、設計を担った技師・亀岡末吉の特徴と言われる。
部屋は東(手前)から、下段の間、中断の間、上段の間の三室構成。三室に四季の風物が、明治期の京都の日本画家・原 在泉によって描かれている。全体に金地が使用され、白書院や黒書院と比べて豪華さが際立つ。下段の間(20畳)。
襖絵は「鷹野行幸図」で原在泉による。
障子の腰板には冬の草花だという。
三室とも長押の上の小壁には鴈の群れ。
2023年10月、竜王戦の行われた下段の間。 藤井聡太と伊藤匠が争った部屋。
中段の間。・
上段の間(16畳)。 床の間を設け、床脇には天袋付きの違い棚。折り上げ格天井、を設け特に格上の部屋。
帳台構え。 書院造に見られる装飾的な出入り口である帳台構えは、4面一杯に雉と牡丹に覆われている。
折上げ格天井と、中段の間との欄間は、連続する繊細な花菱模様などで設計技師の亀岡末吉の特徴的な造りである。
床脇には書院が設けられた。
黒書院から見た中庭。 正面には白書院の補修工事用の仮設囲い。
黒書院から霊明殿に進む渡り廊下。
霊明殿。 宸殿の北東側に位置する祈祷のための建物。杉皮葺きの屋根の頂部には宝珠が飾られている。この建物は明治44年(1911)年に再建された。
蟇股に唐草文様を取り入れ、設計者の亀岡末吉が好んだ意匠である。
霊明殿の扁額は近衛文麿の筆に寄る。
内部は折上格天井と格式が高い内装。 本尊は薬師如来坐像(国宝)。
薬師如来座像【国宝】 仁和寺の院家であった喜多(北)院のから移したもので他に、仁和寺歴代門跡の位牌を祀る。秘仏であったが、昭和61年(1986)に、京都国立博物館の調査で初めて概要が明らかになった。康和5年(1103)白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師の円勢と長円が作った。本体の像高11㎝で光背と台座を含めても24㎝ほどの白壇材の小像で、光背には七仏薬師像と、日光菩薩、月光菩薩、台座には前後左右各面に3体ずつの十二神将を表す手の込んだ像。 (写真はネットから引用)
霊明殿から見た宸殿(左)、黒書院(右)、仮設に囲われた白書院(中)。
霊明殿から見た北庭と宸殿。
宸殿から見た勅使門。
勅使門【国重要文化財】 京都府の技師・亀岡末吉の設計によって大正2年(1913)に再建された。前後唐破風の左右は入母屋造の檜皮葺屋根の四脚門。
繊細で装飾的な意匠は、左右対称に翼を広げる鳳凰。狭い虹梁上に蟇股と全面を唐草模様が重なる。
透かし彫りと繊細な細い桟が入った扉。繊細さが煌びやかさを生む美しい門である。
勅使門の前には天皇皇后両陛下(昭和?平成?)のお手植え桜。
境内から金堂側に向かう。中門はただいま工事中にいり仮設シートで覆われていた。
中門を潜り金堂のゾーンへ。 正面に金堂、右手に五重塔、左手に観音堂。
観音堂【国重要文化財】 寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。金堂の手前西側に建つ観音堂は延長6年(928)に建立され、現在の建物(重要文化財)は寛永21年(1644)に再建された。ここは仁和寺で最重要儀式とされる「伝法灌頂」がおごそかに行われる重要な場所であり、内部は非公開。
平成24年(2012)から半解体修理が行われ平成30年(2018)に完了。
内部の須弥壇。 (写真は九州国立博物館HPより)
観音堂の前。右手に名勝御室桜の桜林。正面に五重塔。テレビや映画の時代劇に出てくる五重塔は、ほとんどが仁和寺のこの五重塔だそうだ。屋根の大きさが五層同じで、江戸時代の様式をわかりやすく映せることが、時代劇の雰囲気を演出できるようだ。
五重塔【国重要文化財】 寛永21年(1644)に、徳川三代将軍・家光の寄進によって建立された。塔の高さ32.7m、総高36.18m。 各層の屋根がほぼ同一の大きさに造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表している。内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置。柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。
相輪。 九つの輪(五智如来と四菩薩を表す)の宝輪と水煙(火災予防を表す)。
軒下の木組み。
正面の扁額は「梵」の字。
九所明神【国重要文化財】 経堂の東側に位置し、仁和寺を守護する神社。本殿・左殿・右殿の三棟からなり、本殿には八幡三神、左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷、右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の九座の明神を祀る。現在の社殿は、寛永18年(1641)~正保2年(1645)頃に建立された。門前に立つ3基の灯籠は、織部型灯籠といい古田織部が考案した灯篭で、別名をキリシタン灯籠ともいう。
経堂【国重要文化財】 寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建。禅宗 様建築。輪蔵が設けられ、計768もの経箱が収蔵されている。
金堂【国宝】 慶長18年(1613)に建立された京都御所の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624~1644)に移築したもの。近世の寝殿造り遺構として重要。現存する最古の紫宸殿である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺に改修した。梵天像、竜灯鬼、天灯鬼などが安置されている。須弥壇の周囲には極彩色の浄土図が、背面(裏堂)壁に五大明王壁画が描かれている。
正面・全景。
金の装飾金物が付いた漆塗の黒框と格子の蔀戸。蔀戸を空ける場合は、軒から吊り下げられた金物で支える。
正面向拝。
須弥壇。 (写真は「トレたび」HPより)
木造阿弥陀如来像【国宝】。 仁和4年(888年)仁和寺創建時の金堂本尊。一木造で像のかもしだす和らいだ雰囲気は、平安時代の彫刻が次第に和様式への道をたどる出発点の造形と言われている。また腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像としても知られている。現在は脇侍である勢至菩薩立像、観音菩薩立像とともに霊宝館に安置され、春・秋の名宝展で公開される。 (写真は仁和寺HPより)
五大明王壁画。 金堂の北側部分に当たる空間「裏堂」の壁体に約370年前に描かれた5体の明王像。壁画は、普段非公開だが、特別公開時に見ることができる。正保3年(1646)の伽藍再建完成後の間もない時期に、当時活躍していた絵仏師・木村徳応が描いたとされる。絵は高さ2.2m、奥行き約15mの壁にあり、不動明王を中心に金剛夜叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王と五大明王が青や赤などの絵の具で描かれている。裏堂には日光が差し込まなかったため、完成当時とほぼ同じ鮮明な絵が見られる。 (写真は「そうだ京都に行こう」HPから)
金堂前の石灯籠。
瓦には仁和寺の文字が刻まれている。
鐘楼【国重要文化財】 寛永21年(1644)に再建。上部は朱塗で高欄が巡り、下部は袴腰式覆いが特徴。
御影堂中門【国重要文化財】 寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。
御影堂【国重要文化財】 寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。慶長18年(1613)に建立された京都御所の清涼殿の用材を用いて建立されたもの。宗祖・弘法大師、開基・宇多法王、仁和寺第2世・性信入道親王の像を祀る。
水掛不動尊。 近畿三十六不動尊霊場第14番札所。
土塀。
金堂の前から中門を見る。
境内の早咲さくら?
案内図
御朱印
(準備中)
仁和寺 終了
(参考文献) 仁和寺HP フリー百科事典Wikipedia 京都障壁画拝観記録HP
はてなブログ第二遊歩道ノート 4travel.jp ほか