『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

84 仁和寺

2024-05-14 | 京都府

古寺を巡る 仁和寺

皇族や貴族とのゆかりが深かく御所風建築物が特長の寺。

 

2024年の冬、4日間にわたる京都の寺巡りは、この仁和寺が最後で計12の寺を巡った。冬の終わりで、どの寺も参拝客は少なかったが、土曜日の仁和寺はけっこうな人の出である。金堂の裏堂にある五大明王像壁画の特別公開のせいもあるようだ。

仁和寺は、皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法王が住んでいたことから、「御室御所」と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。

御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。普段は境内への入場は無料であり、本坊御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。

仁和寺は平安時代前、光孝天皇の勅願で出仁和2年(886)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(2024)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。出家した宇多天皇以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。応仁の乱(1467~1477)が勃発すると、東軍の兵によって焼かれ、伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像は運び出されており、焼失を免れている。寛永11年(1634)に幕府の支援を得て伽藍が整備されることとなった。また、寛永年間(1624~1645)の御所の建て替えに伴い、御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に境内に移築されている。

慶応3年(1867)以降、皇室出身者が当寺の門跡となることはなかった。ここに当寺は宮門跡「御室御所」としての歴史を終えた。

太平洋戦争の末期に敗戦が濃厚となった昭和20年(1945)のはじめ、数度にわたり、近衛文麿が昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画を検討している。昭和21年(1946)、真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、仁和寺はその総本山となった。

仁和寺は、建物、仏像、絵画など、国宝、国重要文化財に指定された文化財を数多く所有する寺としても知られている。

 

参拝日   令和6年(2024)3月2日(土) 天候曇り時々晴れ

 

所在地   京都府京都市右京区御室大内33                          山 号   大内山                                      宗 派   真言宗御室派                                   寺 格   総本山                                      本 尊   阿弥陀如来                                    創建年   仁和4年(888)                                    開 基   宇多天皇                                     別 称   旧御室御所                                    札所等   京都十三仏霊場第9番                               文化財   金堂、木造阿弥陀如来および両脇侍像。木造薬師如来坐像ほか(国宝)  二王門、五重塔、観音堂(国重要文化財)

 

 

 

境内案内図

 

 

二王門【国重要文化財】   仁和寺の正面入り口となる。寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。入母屋の二重門とした重厚な造りは、平安時代の様式を引き継ぐ純和風。19.2mの高さ。南禅寺三門、知恩院三門とともに京都三大門の一つ。

 

 

左の「吽形像」は怒りを内に秘めた表情をしている。

 

 

右に「阿形像」は怒りの感情を顕にした表情。

 

 

軒下の木組み。 三手先の斗栱。

 

 

門の天井は組入り天井。

 

 

 

 

 

二王門から境内を見る。

 

 

境内。

 

 

拝観手続きを終えて本坊表門から御殿に進む。

 

 

御殿の参道に這え松。

 

 

皇室門。  南庭の入り口用の平唐門。宸殿を囲む塀には勅使門と皇族門、二つの門が設けられ、皇室と関わりが深いこの寺らしい典雅な雰囲気を醸し出している。

 

 

本坊表門を振り返る。

 

 

本坊(御殿)の大玄関。  約6mの唐破風檜皮葺き屋根。

 

 

軒下には、蟇股や大瓶束の笈形に秀麗な彫刻を施し、威厳と華やかさを備えた大型の玄関。

 

 

中央に繊細な彫刻を施した蟇股。

 

 

 

 

 

内側から見る。

 

 

拝観の入り口は混雑。 正面の額が気にかかるが・・・・。

 

 

本坊に続く白書院は、令和5年(2023)暮れから令和8年(2026)春まで補修工事。当時は仮設掛工事で、まだ白書院内は見学可能だった。 現在(4月以降)は見学不可のようだ。

 

 

 

渡り廊下が続く。

 

白書院。    明治20年(1887)に御殿が焼失したため、仮宸殿として明治23年(1890)に建てられた。その後、宸殿などの諸建造物が再建され白書院となった。表と裏に三室ずつ配る六室構成で、表の三部屋が公開されている。三室の東側の間(10畳)。

 

中の間(10畳)。  襖絵は、大正から昭和に活躍した日本画家・福永晴帆が昭和12年(1937)に描かれた。松を主題とし三室全28枚の襖に描かれ、四季おりおりの松の姿が見ることができる。松の幹が墨で力強く描かれ、部屋の中心を貫くような堂々とした構図が印象的。

 

 

西側の間(15畳)。

 

 

 

 

 

 

白書院からの枯山水の南庭は仮設の足場で見ることができない。

 

 

 

白書院から左黒書院、右に宸殿。

 

 

 

宸殿の入り口の見られる板戸絵。

 

 

外廊下と濡れ縁の間の建具は蔀戸。

 

 

宸殿と北庭を見る。

 

 

北庭園。 宸殿の北東に広がる池泉回遊式庭園。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を見る。作庭年は不明だが、元禄3年(1690)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛によって整備された。宸殿から池越しに茶室・飛濤 亭の屋根、中門(工事中)そして五重塔がよく見える。

 

 

宸殿の屋根は庇が深く、広い廊下で外に濡れ縁が付き、解放された空間のなかに庭園を見ることができる。

 

 

 

 

 

北庭と南庭の仕切り。

 

 

 

池には木橋が架かっている。

 

 

 

奥には滝が流れている。

 

 

 

 

宸殿【国登録有形文化財】   寛永年間(1624 ~1644)に京都御所・常御殿を下賜されて宸殿としていたが、明治20年(1887)に焼失。、明治43年(1910)に勅使門や霊明殿などと共に、京都府庁に設計を依託。当時、数々の実績があり復古建築の天才と言われた、京都府の技師・亀岡末吉が設計を担った。大正3年(1914)にこの宸殿など御殿エリアの再建が完成した。亀岡は古典的な日本の建築の特徴に現代的なデザインの要素を融合させたことで知られている。この建物も、明治時代の建造だが平安様式を取り入れ、建物の北東に配置された庭園とともに、かつての宮殿の雰囲気を漂わせている。 

 

 

 

外廊下に見る欄間。  繊細かつ華麗なる欄間の意匠は、設計を担った技師・亀岡末吉の特徴と言われる。

 

 

部屋は東(手前)から、下段の間、中断の間、上段の間の三室構成。三室に四季の風物が、明治期の京都の日本画家・原 在泉によって描かれている。全体に金地が使用され、白書院や黒書院と比べて豪華さが際立つ。下段の間(20畳)。

 

 

襖絵は「鷹野行幸図」で原在泉による。

 

 

 

障子の腰板には冬の草花だという。

 

 

 

 

 

三室とも長押の上の小壁には鴈の群れ。

 

 

2023年10月、竜王戦の行われた下段の間。  藤井聡太と伊藤匠が争った部屋。

 

 

中段の間。・

 

 

 

上段の間(16畳)。  床の間を設け、床脇には天袋付きの違い棚。折り上げ格天井、を設け特に格上の部屋。

 

 

 

 

帳台構え。  書院造に見られる装飾的な出入り口である帳台構えは、4面一杯に雉と牡丹に覆われている。

 

 

 

折上げ格天井と、中段の間との欄間は、連続する繊細な花菱模様などで設計技師の亀岡末吉の特徴的な造りである。

 

 

床脇には書院が設けられた。

 

 

黒書院から見た中庭。 正面には白書院の補修工事用の仮設囲い。

 

 

 

黒書院から霊明殿に進む渡り廊下。

 

 

霊明殿。   宸殿の北東側に位置する祈祷のための建物。杉皮葺きの屋根の頂部には宝珠が飾られている。この建物は明治44年(1911)年に再建された。

 

 

蟇股に唐草文様を取り入れ、設計者の亀岡末吉が好んだ意匠である。

 

 

霊明殿の扁額は近衛文麿の筆に寄る。

 

 

内部は折上格天井と格式が高い内装。 本尊は薬師如来坐像(国宝)。

 

 

 

薬師如来座像【国宝】    仁和寺の院家であった喜多(北)院のから移したもので他に、仁和寺歴代門跡の位牌を祀る。秘仏であったが、昭和61年(1986)に、京都国立博物館の調査で初めて概要が明らかになった。康和5年(1103)白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師の円勢と長円が作った。本体の像高11㎝で光背と台座を含めても24㎝ほどの白壇材の小像で、光背には七仏薬師像と、日光菩薩、月光菩薩、台座には前後左右各面に3体ずつの十二神将を表す手の込んだ像。    (写真はネットから引用)

 

 

 

霊明殿から見た宸殿(左)、黒書院(右)、仮設に囲われた白書院(中)。

 

 

霊明殿から見た北庭と宸殿。

 

 

宸殿から見た勅使門。

 

 

勅使門【国重要文化財】   京都府の技師・亀岡末吉の設計によって大正2年(1913)に再建された。前後唐破風の左右は入母屋造の檜皮葺屋根の四脚門。

 



繊細で装飾的な意匠は、左右対称に翼を広げる鳳凰。狭い虹梁上に蟇股と全面を唐草模様が重なる。

 

 

 

 

 

透かし彫りと繊細な細い桟が入った扉。繊細さが煌びやかさを生む美しい門である。

 

 

 

勅使門の前には天皇皇后両陛下(昭和?平成?)のお手植え桜。

 

 

境内から金堂側に向かう。中門はただいま工事中にいり仮設シートで覆われていた。

 

 

中門を潜り金堂のゾーンへ。 正面に金堂、右手に五重塔、左手に観音堂。

 

観音堂【国重要文化財】     寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。金堂の手前西側に建つ観音堂は延長6年(928)に建立され、現在の建物(重要文化財)は寛永21年(1644)に再建された。ここは仁和寺で最重要儀式とされる「伝法灌頂」がおごそかに行われる重要な場所であり、内部は非公開。
平成24年(2012)から半解体修理が行われ平成30年(2018)に完了。

 

 

 

 

内部の須弥壇。                    (写真は九州国立博物館HPより)

 

 

観音堂の前。右手に名勝御室桜の桜林。正面に五重塔。テレビや映画の時代劇に出てくる五重塔は、ほとんどが仁和寺のこの五重塔だそうだ。屋根の大きさが五層同じで、江戸時代の様式をわかりやすく映せることが、時代劇の雰囲気を演出できるようだ。

 

 

五重塔【国重要文化財】   寛永21年(1644)に、徳川三代将軍・家光の寄進によって建立された。塔の高さ32.7m、総高36.18m。 各層の屋根がほぼ同一の大きさに造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表している。内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置。柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。

 

 

 

 

 

相輪。  九つの輪(五智如来と四菩薩を表す)の宝輪と水煙(火災予防を表す)。

 

 

軒下の木組み。

 

正面の扁額は「梵」の字。

 

 

九所明神【国重要文化財】  経堂の東側に位置し、仁和寺を守護する神社。本殿・左殿・右殿の三棟からなり、本殿には八幡三神、左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷、右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の九座の明神を祀る。現在の社殿は、寛永18年(1641)~正保2年(1645)頃に建立された。門前に立つ3基の灯籠は、織部型灯籠といい古田織部が考案した灯篭で、別名をキリシタン灯籠ともいう。

 

 

経堂【国重要文化財】    寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建。禅宗 様建築。輪蔵が設けられ、計768もの経箱が収蔵されている。

 

 

 

 

 

金堂【国宝】    慶長18年(1613)に建立された京都御所の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624~1644)に移築したもの。近世の寝殿造り遺構として重要。現存する最古の紫宸殿である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺に改修した。梵天像、竜灯鬼、天灯鬼などが安置されている。須弥壇の周囲には極彩色の浄土図が、背面(裏堂)壁に五大明王壁画が描かれている。

 

 

正面・全景。

 

 

金の装飾金物が付いた漆塗の黒框と格子の蔀戸。蔀戸を空ける場合は、軒から吊り下げられた金物で支える。

 

 

正面向拝。

 

 

 

須弥壇。                             (写真は「トレたび」HPより)

 

 

木造阿弥陀如来像【国宝】。       仁和4年(888年)仁和寺創建時の金堂本尊。一木造で像のかもしだす和らいだ雰囲気は、平安時代の彫刻が次第に和様式への道をたどる出発点の造形と言われている。また腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像としても知られている。現在は脇侍である勢至菩薩立像、観音菩薩立像とともに霊宝館に安置され、春・秋の名宝展で公開される。 (写真は仁和寺HPより)

 

五大明王壁画。   金堂の北側部分に当たる空間「裏堂」の壁体に約370年前に描かれた5体の明王像。壁画は、普段非公開だが、特別公開時に見ることができる。正保3年(1646)の伽藍再建完成後の間もない時期に、当時活躍していた絵仏師・木村徳応が描いたとされる。絵は高さ2.2m、奥行き約15mの壁にあり、不動明王を中心に金剛夜叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王と五大明王が青や赤などの絵の具で描かれている。裏堂には日光が差し込まなかったため、完成当時とほぼ同じ鮮明な絵が見られる。   (写真は「そうだ京都に行こう」HPから)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂前の石灯籠。

 

 

 

 

 

 

瓦には仁和寺の文字が刻まれている。

 

 

 

鐘楼【国重要文化財】    寛永21年(1644)に再建。上部は朱塗で高欄が巡り、下部は袴腰式覆いが特徴。

 

 

御影堂中門【国重要文化財】   寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。

 

御影堂【国重要文化財】    寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。慶長18年(1613)に建立された京都御所の清涼殿の用材を用いて建立されたもの。宗祖・弘法大師、開基・宇多法王、仁和寺第2世・性信入道親王の像を祀る。

 

 

 

 

 

水掛不動尊。   近畿三十六不動尊霊場第14番札所。

 

 

土塀。

 

 

 

金堂の前から中門を見る。

 

 

 

境内の早咲さくら?

 

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

   (準備中)

 

 

 

仁和寺 終了

 

  

(参考文献) 仁和寺HP  フリー百科事典Wikipedia 京都障壁画拝観記録HP                     

       はてなブログ第二遊歩道ノート  4travel.jp  ほか

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83 神護寺

2024-05-11 | 京都府

百寺巡礼第23番 神護寺

二つの巨星が出会い、わかれた舞台

 

 

 

京都市街の北西、愛宕山(924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院。紅葉の名所として知られる。高山寺を参拝し、栂ノ尾バス停からバスに乗り高雄で降りる。バス停から神護寺への道は、人が通るだけの下り道で自然石を並べた階段となっている。坂道を下りきると清滝川が流れ、朱塗りの高雄橋を渡る。橋を渡り、自然石の階段を上る、これが神護寺の参道となる。山の中腹に境内があるためかなりの距離がある。高齢者や足が不自由な人は相当きつい。やっと門に辿り着く。

清滝川に架かる高雄橋からの長い参道は、石段と坂道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称するが、寺の史料の「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにも「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とある。

平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
 神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていない。私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900メートル以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。愛宕五寺(または愛宕五坊)と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。
 その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになるが、清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。
 天長元年(824)に、真綱、仲世の要請により神願寺と高雄山寺を合併し、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海に付嘱し、それ以後真言宗として今日に伝えている。
 神護寺は最澄、空海の活躍によって根本道場としての内容を築いていったが、正暦5年(994)と久安5年(1149)の二度の火災にあい,鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。
 わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た文覚は、生涯の悲願として神護寺再興を決意するが、その達成への道はとても厳しかった。
 上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ元以上の規模に復興された。
 その後も天文年中の兵火や明治初年の廃仏毀釈の弾圧にも消えることなく法灯を護持している。

 

参拝日   令和6年(2024) 3月2日(土) 天候曇り

 

所在地   京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄5                           山 号   高雄山                                       宗 派   高野山真言宗                                    寺 格   遺迹本山                                      本 尊   薬師如来(国宝)                                  創建年   天長元年(824)                                  開 基   和気清麻呂                                     正式名   高雄山神護国祚真信寺                                別 称   高雄神護寺                                     札所等   西国薬師四十九霊場第44番ほか                            文化財   木造五大虚空蔵菩薩坐像 絹本着色釈迦如来像ほか(国宝)大師堂(国重要文化財)ほか

  

 

 

境内図                                (神護寺HPより)

 

 

清滝川にかかる高雄橋。

 

 

 

清滝川。 

 

 

 

ここからが参道。

 

 

 

約300の石段が延々と続く。 お参りもいいがかなり覚悟が必要。

 

 

硯石。 楼門まであと5分の1程度の距離にある大きな岩は、空海が神護寺で修業している時に、嵯峨天皇が『金剛定寺』の門額を書くようにと勅使を送るも、清滝川が増水して渡れないため、空海はこの岩で墨をすり、空に向かって『金剛定寺』と書くと、文字が門額に現れたという伝説の石。

 

 

やっと楼門が見えてきた。

 

 

楼門。  山門とも三門とも言わず楼門という。 元和9年(1623)の創建。

 

 

「神護国祚真言寺」の扁額。 ・・・と書いてあるようだ。

 

 

 

持国天と増長天は、ただ今留守中。

 

 

 

この門の左手で参拝の手続きを済ませ、門を潜る。

 

 

門から上ってきた石段を振り返る。

 

 

 

楼門を境内の内側から見る。

 

 

 

門を潜り境内を見る。ひろびろとしている、300段の階段を上ってきてホッとするひととき。

 

 

 

 

 

 

五大堂。   元和9年(1623)の建立。元は講堂だったといわれる。 堂内には五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉が安置されている。

 

 

五大堂の前の鬼瓦。 よく見るとユニークな顔?

 

 

 

五大堂の正面向拝。

 

 

 

 

 

 

五大堂の前には毘沙門堂。

 

 

毘沙門堂。 元和9年(1623)の建立。五大堂の南に建つ。入母屋造の五間堂。金堂が建つ前はこの堂が金堂であったため、本尊の薬師如来像はここに安置されていた。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(国重要文化財)を安置する。

 

 

毘沙門堂の正面向拝。

 

 

 

 

 

向拝を見る。

 

大師堂【国重要文化財】。  毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、杮葺きの住宅風の仏堂。空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建である。内部の厨子に正安4年(1302)に作られた板彫弘法大師像(国重要文化財)を安置する。杮葺きの屋根にはうっすらと雪が残る。今朝降った雨はこの辺りでは雪だったのだろう。

 

 

板彫弘法大師像【国重要文化財】。    正安4年(1302)に仏師・定喜が土佐国金剛頂寺の空海像を模刻したものとされている。大師堂内に安置。

 

 

大師堂の前に合った石柱。 戸車のようなものが付いているが・・はて?

 

 

金堂への参道の石段。 両側には紅葉の樹だ並び、秋の盛りには子の紅葉見たさに参拝客でにぎわう。冬の終わりで彩は無いが、神護寺の最高のビューポイント。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂。    昭和9年(1934)に、大阪の実業家で高額納税者の山口玄洞氏の寄進により再建された。。楼門を入って境内を奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。入母屋造り、本瓦葺きの本格的な密教仏堂である。

 

 

 

 

 

妻側。

 

 

側面(西側)外観。

 

 

 

 

 

 

 

 

正面・向拝。

 

 

軒下の木組み。

 

 

 

 

 

 

 

 

向拝を横から見る。

 

 

入り口扉。

 

 

 

内部の撮影は出来ないため、この辺まで。

 

 

内陣と外陣。 須弥壇中央の厨子に本尊の薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光菩薩と月光菩薩立像(国重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。(写真は神護寺HPより)

 

本尊・薬師如来立像【国宝】     金堂本尊。像高170.6Cm、カヤ材の一木造。唇に朱を、眉、瞳などに墨を塗るほかは彩色などを施さない素木仕上げの像である。目を細めた森厳で沈うつな表情と体躯のボリューム感は、親しみよりも威圧感を見る者に与える。図式的・観念的に整えられた衣文などに平安時代初期特有の様式が見られる。下半身では両脚間に「U」字形の衣文を縦に連続させ、その左右に平滑な面をつくって大腿部のボリュームを強調しているが、こうした衣文形式も平安時代初期の如来像に多く見られるものである。(写真は東京国立博物館の「創建1200年記念特別展・神護寺ー空海と真言密教のはじまりより」) 

 

 

 

 

金堂の向拝から前方を見る。 階段下に五大堂と毘沙門堂。 手前の丸い基礎は、鉄製か銅製の灯籠が建っていたのだが、戦時中の供出により失ってしまった。

 

 

 

石仏は不動明王像。  金堂の西側に建つ。

 

 

多宝塔。    昭和9年(1934)に大阪の実業家・山口玄洞氏の寄進により再建。金堂からさらに石段を上った高みに建つ。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置。

 

 

 

 

五大虚空蔵菩薩像【国宝】。   多宝塔に安置してある像で、五大虚空蔵菩薩は金剛界の五智如来の変化身といわれ、富貴成就、天変消除をこの菩薩に祈って秘法を行う。像は五体とも像高90Cmあまり。ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる。肉身の色は中尊の法界虚空蔵が白色、東方尊金剛虚空蔵は黄色、南方尊宝光虚空蔵は緑色、西方尊蓮華虚空蔵は赤色、北方尊業用虚空蔵は黒色に塗り分けられている。これらは、いずれも一木造で、両腕のひじから先に別材を矧ぎ付けるほかは一材から彫り出し、部分的に木屎漆で仕上げている。
 彩色は九世紀末に塗りなおした記録があり、当初のものではない。木製の宝冠、瓔珞、臂釧などの装身具も後のもので、光背、台座も失われている。      (写真は京都観光Naviより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閼伽井。  仏前に供えるための水を汲む井戸。

 

 

石碑。 

 

 

 

金堂の横から木々の小道を抜けると苔覆われ区画があり、瓦屋根の地蔵院が建っている。

 

 

かわらけ投げ。 前には錦雲峡という峡谷がひろがり、この錦雲峡に向かって、健康や安全などの願いを込めて素焼きの皿をなげる「かわらけ投げ」の場所である。

 

 

 

はるか下には清滝川が流れている。

 

 

 

「かわらけ投げ」を終えて、金堂のある境内に戻る。

 

 

明王堂。  五大堂の手前(楼門側)に位置する堂宇。 天慶2年(939)に平将門の乱のときに、空海が刻した護摩堂(明王堂)に奉安されていた不動明王像を、現・成田市の成田山新勝寺に捧げ、21日間にわたり朝敵を調伏する護摩を修せしめた。乱の平定後には不動明王像が動こうとしないので、公津ヶ原に東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、神護新勝寺の寺名を下賜し勅願寺として創建した。扁額「明王堂」は五代目による筆。市川海老蔵の筆による。

 

 

鐘楼。  日本三名鐘(ほかに宇治・平等院、大津・三井寺)の一つ。 元和9年(1623)の建立。

 

 

楼上の梵鐘(国宝)は、貞観17年(875)に鋳造された。序詞を橘広相、銘文を菅原是善(菅原道真の父)、揮毫は藤原敏行の手による銘文が刻まれている。序、銘、書のいずれも当代一流の者によることから「三絶の鐘」と称された。名鐘は外からは見えない。

 

 

 

和気清麻呂の霊廟。  後の神護寺となる神願寺と高雄山寺を建立した和気清麻呂を祀った廟。こちらも大阪の実業家・山口玄洞氏の寄進による。

 

  

本坊の入り口。 楼門を潜る前の右手に位置する。

 

 

 

書院・平唐門。  この門の背面に「灌頂の庭」がある。奥は書院となる。

 

 

灌頂の庭。  書院の前に広がる石庭。 普段は非公開で、書院の虫払い行事の行われる5日間のみこうかいされる。                        (写真はYAHOO!ニュースより)

 

書院の虫払い行事。 新緑の季節、神護寺で保管してある寺宝が、虫干しのため書院において別公開される。国宝の伝源頼朝画像や、伝平重盛像、釈迦如来像、潅頂暦名など70点が展示。2024年度は5月1日~5日まで開催された。併せて、書院石庭「灌頂の庭」が公開される。また、茶室「了々軒」で茶席が用意されている。

釈迦如来像【国宝】  赤釈迦ともいわれる。 絹本著色、縦159.4cm 横85.5cm、平安時代後期の作。 朱

 

 

源頼朝像【国宝】   絹本著色、縦143.0cm 横112.8cm、鎌倉時代(13世紀)の作。鎌倉前期の大和絵肖像画の代表的傑作といわれる。

 

 

 

楼門を額縁にして参道方向を見る。

 

 

 

参道を下り高雄橋を渡ると、また上り坂になりその先に高雄のバス停が待っている。

 

 

 

バス停「高雄」から乗車し、しばらくは貸し切り状態、京都市街にすすみ、やっと客が乗り込んできた。次は仁和寺で降りるつもりだ。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーどんな人間でも時には「もう死んでしまいたい」と思うようなことがあるだろう。私自身、具体的に方法まで考えて、こういうふうにしようと決心しながら踏み切れなかったことが、これまで二度あった。どうにか立ち直って、いまこうして生きている。目の前にあるものはすべて変わっていく。去っていく。自然はすべて変化する。人間も老いていく。病を得る。そして死んでいく。天地自然も変貌していく。春も夏も、あっという間に過ぎていく。すべて目の前にあるものは消えていく。遠ざかっていき、みんないつかは別れなければならないのだ。友情も変わる。恋人も老いていき、やがて死んでいく。生まれてきたもの、今向き合っているものは、すべて別れなければならないのだ。そういう気持ちを抱いて生きていくことは、とても大切なことなのかもしれない。そこから結局、いまを惜しむ気持ちが生れ、惜しむ気持ちから悲しむ気持ちが生れ、悲しむ気持ちから、いとおしむ気持ちが生れ、そこから万物への愛が生れてくるからだ。空海は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く」と書いた。これは彼の生に対する覚悟だったのではないだろうか。そうしてそのどん底から絶望を力に変えていったのではないだろうか。目の前の薬師如来立像は、神護寺の変遷とともに、さまざまな人びととの人生を見守りつづけてきた。赤みを帯びた唇から、覚悟して生きて生きなさい、という言葉がこぼれてきたようなきがした。

 

 

 

御朱印

 

 

 

神護寺 終了

 

(参考文献) 百寺巡礼第三巻京都Ⅰ(講談社)  神護寺HP                     

       フリー百科事典Wikipedia SPICEHP ほか

 

 

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82 高山寺

2024-05-09 | 京都府

古寺を巡る 高山寺

自然豊かな世界遺産の寺。鳥獣戯画で知られる文化財の宝庫。

 

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中にある。京都駅前からバスに乗り約1時間である。高山寺は8時30分開門なので7時40分のバスが丁度良いの高山寺に丁度良い。バスの中は市街地を抜けると、吾輩ともう1人しか乗客はいない。 もう一人の乗客は手前の神護寺のバス停で降りたので、終点まで乗っていたのが吾輩只一人。バスを降りるとすぐに参道の入り口。さすが冬の終わりのこの時間、誰も参拝者はいない。

古代より山岳修行の適地として小寺院が営まれていたようだ。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774)に光仁天皇勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の相、明恵である。幼時に両親を亡くした明恵は9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚もとで仏門に入った。

明恵は建永元年(1206)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。

また明恵は、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い、当寺の境内に植えたという伝承がある。この地で栽培された茶は、栄西が南宗に留学した際にそこで種子を得て、帰国後に明恵の求めに応じて贈ったものと伝える。明恵はこれを初めは栂尾山の深瀬に植え、明恵が没した後も栂尾において栽培が続けられた。また宇治の民の願いによって明恵が宇治に種を撒き、宇治その他の土地に広まったとも伝える。

なお、この栂尾産の茶は鎌倉時代後期にはその味わいの良さが評判となり、東国の武士たちまで争って求めるほどの高評価を得た。「我が朝の茶の窟宅は、栂尾をもて本となすなり」として栂尾産の茶を「本茶」と呼び、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだ。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

 

参拝日    令和6年(2024) 3月2日(土) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8                         山 号    栂尾山                                      宗 派    真言宗系単位                                   本 尊    釈迦如来                                     創建年    伝・宝亀5年(774)                               開 基    伝・光仁天皇(勅願)                               中興年    建永元年(1206)                                中 興    明恵                                       文化財    石水院(国宝) ほか

 

 

高山寺境内図

 

 

 

 

栂尾バス停のすぐそば高山寺の入り口。

 

 

バス停から近いので裏参道から。

 

 

苔に覆われた石垣と木々の中に石の階段の小道をつづら折に登っていく。

 

 

 

階段を上り切ると石水院を覆う低い白壁が続く。

 

 

 

山門。

 

 

石水院の山門。 現在は締め切りで一般の参拝者は客殿より入る。

 

 

客殿入口。 一般の参拝者の入る入り口。

 

 

 

客殿の玄関。

 

 

 

客殿から国宝・石水院にすすむ渡り廊下。

 

石水院【国宝】     五所堂とも呼ばれる。鎌倉時代の建築。入母屋造、杮葺き。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝える。外観は住宅風だが本来は経蔵として造られたものである。もとは東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)に洪水で石水院が無くなってしまったため、その後に東経蔵が新たな石水院として整備され、春日明神・住吉明神を祀ることとなった。明治22年(1889)に現在地に移築された。

 

 

廂の間(ひさしのま)。石水院の西正面に1間の通り庇と呼ぶ屋根付きの広縁のような板敷の部屋で正面に幅1間の向拝。

 

 

 

中心に小さな善財童子像が安置され幻想的な空間が見られる。 床板は屋久杉が使われている。

 

 

 

正面の欄間にある扁額「石水院」は、富岡鉄斎の筆。

 

 

善財童子像。  明恵上人は、華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いていたと言われている。 現在の像は、近代の作で大正4年(1915)生まれで昭和に活躍した西村虚空の作。

 

 

 

 

 

蔀と菱格子を組み合わせた外壁部は透けており、林の木々が身近に感じられ自然との融和が図られている。深い庇によって陽の光を遮る、さらに神秘感を感じる。

 

 

全体的には簡素な造りを、菱格子や蟇股などを使用し品格のある造りになっている。 蟇股は鎌倉時代の作であるが、明治時代に造り替えたようだ。

 

 

 

庇の間から見る庭園。

 

 

 

向拝の前の庭園。

 

 

庇の天井は折上小組格子で貴賓性を高めている。柱は朽ちているが大きな面取りとなっていて組部の舟肘木を使用し、できる限り建てられた当時の材を残しながら、改築をしていることがわかる

 

 

高い崖の縁に建てられていることがわかる。深い庇を出し広い外縁が特徴で、眼前からは谷越しに遠く山並を望むことができる。

 

 

南面の欄間にある勅額「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」は伝後鳥羽上皇の筆。

 

 

 

 

 

 

広縁から仏間、8畳の間を見る。隅木や垂木、柱には大きな面。小舞のピッチも大きく、全体的にのびやかに感じる。隅木を受ける束が柱からずれているのは移築によって生じたものと思われる。

 

 

 

仏間。 石水院の西側の部屋は、5畳より少し広い部屋。 

 

 

天井は格子をはめ込んだ格天井で、そんなに古さは感じない。度々の改修で新たに造られた天井と思う。

 

 

 

8畳間。  床の間を設け、明恵上人樹上座像図が掲げられている。

 

明恵上人樹上座像【国宝】   床の間の掛け軸は鎌倉時代の作。紙本著色 縦145㎝×横59㎝。明明恵は貞応元年(1222)に栂尾へ還住し、最晩年を過ごす。高山寺の後山、楞伽山において上人は坐禅を行い、二股に分かれた一株の松を縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。この絵は縄床樹に座る明恵を描いたものである。床の間に飾られている軸はレプリカ。       (写真は高山寺HPより)

 

天井は船底で、天井板はもと屋根に葺かれていた厚い板で、桧皮の下に葺き込まれて残っていたものを裏返して天井板に用いたものである。その面が甚だしく風化して減っており、長く使われて来たことを物語り、各板の中央が雨水の流れで深く減っていることや、両端部にはもと板の合わせ目に長い目板を打った釘穴が残っていることなどもみらる。天井に用いるために美しく磨かれたことも想像できる。

 

 

 

8畳側から仏間、廂の間を方向を見る。

 

 

 

5畳の間。  8畳の間の穂が市側に位置し、現在は鳥獣人物戯画(国宝)が展示されている。

 

 

鳥獣人物戯画【国宝】。  こちらのガラスケースの中はレプリカであり、原本4巻は、1、3巻が東京国立博物館、2、4巻が京都国立博物館で保管し、それぞれ特別展の際に公開している。

 

 

 

 

 

石水院の南面は清滝川を越えて向山をのぞみ、視界が一気に開ける。冬になると純白の雪と赤いじゅうたんが調和し、色鮮やかな景色になるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

濡れ縁。  よく見ると縁板は節だらけだ。

 

 

 

 

 

 

廊下側の天井の様子。

 

 

柱は、虫に食われかなり朽ちていると思う。

 

 

石水院の前方の景色。前の樹木は紅葉で、秋の季節になれば彩艶やかになるのだろう。 冬の終わり、彩は無い。

 

 

 

 

 

 

門を出て近藤に向かう。

 

茶道の石柱。 高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院があった場所と考えられている。

 

 

 

金堂と、もとの石水院が建てられていた場所へ至る石段は、今も残されている。

 

 

開山堂。  江戸時代中期の享保8年(1723)に禅堂院跡に再建された。開山堂は鎌倉時代に高山寺中興の祖・明恵が晩年を過ごし、終焉の地とも言われる禅堂院が建立されていた場所。明恵上人坐像(重要文化財)を安置。

 

 

杉林の中に石の階段がある。昇り切れば金堂だ。

 

金堂。   仁和寺の堂宇の一部を移築したと伝えられている。 彩色などは全く施されていない入母屋造の建物。金物や塗色で飾った仁和寺とは異なり、凝った木彫や装飾はほとんどないが、舟肘木や蔀戸に仁和寺的な門跡寺院らしい気品がある。内部には、木造の「釈迦如来坐像」が鎮座している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏参道と表参道の間は渓谷だった。

 

 

 

案内図。

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

高山寺 終了

 

(参考文献) 高山寺HP フリー百科事典Wikipedia  ほか

 

 

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81 建仁寺

2024-05-03 | 京都府

古寺を巡る 建仁寺

花街・祇園にある荘厳な京都最古の禅寺。

 

建仁寺は、京都の中心部・四条大橋からすぐ近くの松竹南座の裏側にある。近くには八坂神社や花見小路などがあり、祇園の南側にあたり清水坂方面にもつながる、歴史的な地域で人通りの多い繁華街でもある。そのような場所にあり大勢の観光客が絶え間なく押し寄せる。俵屋宗達の「風神雷神図」や海北友松の襖絵など、多くの文化財を所有する。近くの高台寺や八坂の塔でおなじみも法観寺は末寺にあたり、寺院の傍にはいくつかの塔頭も建っている。

日本に臨済宗を伝えたのは栄西である。栄西は仁安3年(1168)と文治3年(1187)に、中国の南宗に渡航し臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(きあんえじょう)で修業を行い、建久2年(1191)に、虚庵から師匠の法を嗣いだという証明を得て帰国する。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。そこで、栄西は最初に九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で寿福寺を開くことができた。その2年後の建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。

寛元4年(1246)から100年の間に3回の火災に遭い寺の勢いは衰えていった。しかし正嘉元年(1258)に東福寺を開山した円爾(聖一国師)が寺に入り仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として寺に入り、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となる。暦応3年(1340)には佐々木道誉による妙法院焼き討ちの際に輪蔵、開山堂、塔頭の瑞法庵などが類焼している。康永元年(1340)に寺名を建仁寺に戻す。康安元年(1361)の南北朝の戦乱に巻き込まれた幼少期の足利義満の避難先となった。応永4年(1397)の応仁の乱、文明13年(1481)にも火災に遭っている。したがって創建当時の建物は残っていない。

天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも継続して修理がおこなわれた。明治元年(1868)廃仏毀釈により34院あった塔頭は14院となった。昭和9年(1934)の室戸台風で庫裡が倒壊した。

 

参拝日    令和6年(2024) 3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584               山 号    東山                                       宗 派    臨済宗建仁寺派                                  寺 格    大本山 京都五山三位                               本 尊    釈迦如来                                     創建年    建仁2年(1202)  開山 栄西                          開 基    源頼家                                      正式名    東山建仁禅寺                                   文化財    風神雷神図(国宝) 方丈、勅使門(国重要文化財)ほか   

 

 

建仁寺位置図

 

 

 

 

 

 

勅使門【国重要文化財】   建仁寺伽藍の南側に位置し、銅板葺き切妻屋根の四脚門。元は六波羅にあった平教盛の館門で、応仁の乱の後に移築したと伝えられている。様式的には鎌倉時代末期の建物。柱や扉に戦乱の屋の痕があることから矢の根門または矢立門と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

三門を見る。

 

 

洗鉢池。 参道の右手の茶碑と「平成の茶苑」のある区画の南隣に位置する。茶碑の近くにあるせいか、抹茶色をした神秘的な池。

 

 

三門。   空門・無相門・無作門の三解脱門で、江戸時代末期の建築物といわれている。大正12年(1923)に静岡県浜松市の安寧寺から移築されたもの。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が安置されている。

 

 


「望闕楼」(ぼうげつろう)とも呼ばれ「御所を望む楼閣」という意味があるという。

 

 

 

門から正面に法堂を見る。

 

 

境内の参道。

 

 

 

本坊。 参拝者はこちらの入り口から入る。

 

 

 

 

 

本坊玄関。   「大哉心乎」は、建久9年(1198)に栄西禅師が書かれた、興禅護国論の序文の最初の4文字。「自分も、他人も、心なくしては生きていけない事の大切さを思うもの」という意味。

 

 

 

本坊の玄関は吹き抜けで、梁や桁など小屋組みが見える。材を見るとそんなに古いものではなさそうだ。

 

 

 

玄関から上がる。

 

 

 

ここで拝観手続きを踏んで中に進む。

 

 

 

本坊の廊下にはお札やおみやげなどを売る店。

 

 

 

本坊の奥の部屋に展示されてる「風神雷神図屏風」(国宝)は俵屋宗達の筆。そのレプリカ。

 

金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神。たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせる。印も落款も無いが、俵屋宗達の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができる。元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された。

 

 

 

方丈から渡り廊下を進み法堂へ。

 

 

小鐘楼【京都府指定文化財】  法堂に繋がる渡り廊下の右手に位置する。大鐘楼(陀羅尼の鐘)よりやや遅れ、江戸時代の寛文12年(1672)に建立された。桁行一間、梁行一間、一重、切妻造、本瓦葺。

 

 

法堂【京都府指定有形文化財】     仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねている当寺の本堂。明和2年(1765)に再建。

 

 

法堂正面。 一重の構造であるが、裳腰が付いているため二重に見える堂々とした禅宗様仏殿建築で、禅語に拈華微笑からとった拈華堂とも呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

法堂内部。

 

 

 

 

正面須弥壇には、本尊の釈迦如来坐像と脇侍に迦葉尊者と阿難尊者が祀られている

 

双竜図。    平成14年(2002)に創建800年を記念して天井に、日本画家、陶芸家で特定の美術団体に属さず画壇とも距離を置いたことから「孤高の画家」と呼ばれている小泉順作により「双龍図」が描かれた。天井画の大きさは畳108枚ほどあるという。小泉順作は、ほかに鎌倉建長寺の天井図、東大寺の襖絵なども手掛けた。

 

 

花頭窓。

 

 

 

方丈大玄関。  方丈と本坊の間にあり本坊にもつながる。一般への開放はなく出入りは出来ない。

 

 

向唐門。   方丈の前庭に位置する。寛文年間(1661~73)に造営されたと伝えられる。造営当初は柿)葺きであったが、瓦葺きとしたため重力で劣化、腐朽破損等が進んでいたため、平成21年(2009)に木部修理及び屋根を銅板に葺き替えた。

 

 

方丈と前庭の大雄苑。

 

 

 

 

大雄苑。  方丈の前に広がる枯山水の庭園。 庭園は、作庭家・加藤熊吉により昭和15年(1940)に造られた。中国の百丈山の眺めを模して造られたといわれ、方丈の広い外縁に座ってみると大きな広がりを感じる。

 

 

庭に向かって左端に一番大きな石が主石になっている。この主石に雨が降って水滴になり、川になり、そして海になり、最後は渦になる様子が白砂で描かれているという。

 

 

 

方丈と法堂が繋がる渡り廊下。

 

 

方丈の外縁から向唐門越しに法堂。

 

 

 

方丈の大きな外縁には、参拝者が腰をおろし目の前の庭園と向き合っている。

 

 

外縁の右手方向に描かれた白砂による波紋。

 

 

 

 

 

 

方丈【国重要文化財】   長享元年(1847)の建立。 もと、安芸国の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599)に建仁寺に移築したもの。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。創建当初は杮葺であったが元文元年(1736)に瓦葺きに改装。建物の外周すべてに建具が入り壁が少ない構造のためか、昭和9年(1934)に倒壊し、昭和15年(1940)に創建当初の杮葺で復旧された。その後昭和37年(1962)に銅板葺きに改められていたが、平成25年(2013)に、また杮葺に復した。各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』の計60面が、昭和15年(1940)に設置された

 

 

 

方丈の正面に「方丈」の扁額。

 

 

室中。   方丈の正面中央にある44畳敷きの大きな部屋で、住職がお勤めをする部屋。部屋の真中に本尊の十一面観音菩薩坐像を安置。この像は、徳川第二代将軍・秀忠の娘で後水尾天皇の皇后になった東福門院和子により寄進されたもの。

 

 

方丈の他の部屋より格式が高い部屋として天井は折上格天井としている。16面ある襖には、海北友松の筆による「竹林七賢図」が描かれている。安土桃山時代の作。

 

 

 

 

 

下間ニの間(礼の間)。  方丈の室中の右側の部屋で、24畳の広さがあり、一般の方の応接間となる。

 

 

8面の襖絵は海北友松の筆による雲竜図で、安土桃山時代に描かれた。

 

 

上間ニの間(檀那の間)。  室中の西側の24畳の部屋で、檀家用の応接の間になる。 8枚の襖絵は山水図で安土桃山時代の海北友松によって描かれた。

 

 

 

 

 

 

方丈妻側(西側)全景。  

 

 

大雄苑の庭は白砂の波紋で方丈の三方を取り囲む。白砂に浮かぶ2つの石の島と1つの石の島。 何を表しているのか理解せぬまま・・・に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈の背面側。

 

 

 

 

 

上間ニの間(衣鉢の間)。   背面側の西端の24畳の部屋で、師匠から弟子の法を説く部屋にあたる。 障壁画と6枚の襖絵は琴棋書画図で、これも安土桃山時代の海北友松の作である。

 

 

 

 

 

 

裏の間(西)。  方丈の背面にあり17.5畳に建仁寺の写真や書画が展示されている。

 

 

裏の間(東)  背面にあり10畳の広さ。「対馬行列輿」が展示されている。この輿は、江戸幕府の命によって対馬国(対馬藩)の以酊庵に派遣された禅僧が嘉永12年(1635)~慶応2年(1866)まで実際に使用したもの。

 

 

下間一の間(書院)。  方丈の背面東端の部屋で、住職が日常の生活の場として使用した。

 

 

障壁画および襖絵8面は、安土桃山時代に活躍した絵師海北友松の筆による花鳥図である。

 

 

 

 

 

納骨堂。 方丈の背面に対面し位置している。 白砂の波模様の庭を横切るように、踏み石を雁行させながら配置。

 

 

方丈の西北側には茶室への路地が続く。

 

 

三尺の大硯。 建仁寺に襖絵を残している田村宗立(1846-1918)の遺愛の硯。

 

茶室「東陽坊」。   天正15年(1587)に行われた北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。明治25年(1892)に当寺境内に移され、大正年間(1912~1926)に現在地に移築。

 

 

 

 

茶室・清涼軒。

 

 

安国寺恵瓊の首塚。 安国寺恵瓊は、建仁寺の方丈移築や東福寺庫裏の再建などの功績を残している。関ケ原の合戦では西軍で参戦したが、敗退し、恵瓊は毛利家西軍荷担の罪で京都六条河原で斬首された。首塚は、恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、ゆかりのある方丈裏に葬ったものである。

 

 

 

本坊から小書院に進む。

 

 

丸窓。 潮音庭に向かう廊下の途中に設けられている。 アングルがよろしくない(怒り)。

 

 

 

小書院の外縁。 右手小書院・船出の間、左手潮音庭。 

 

 

小書院・船出の間。 襖絵は平成26年(2014)に、「開山栄西禅師八百年大遠諱慶讃事業」として、染色画家の鳥羽美花氏によって描かれたもので、「舟出」という作品。鮮やかな色彩に目を奪われる。

 

 

 

ダイナミックな青の世界を表現した襖絵は、絹織物の白山紬を染め上げ襖に仕立てた。

 

 

船出の間から見た潮音庭。

 

 

小書院・凪の間。  船出の間の背面に位置した部屋で、襖絵は船出と同じ染色画家の鳥羽美花氏。

 

 

 

墨絵のようなモノトーンで月が山の端に沈む寸前の静けさを表現したという。

 

 

 

凪の間の床の間。禅宗の思想〇△▢の軸。 〇は水、△は火、▢は地を表した。

 

〇△▢の庭。  凪の間から見る中庭。 方丈と小書院の間に作られた坪庭。平成18年(2006)に、現在の日本を代表する作庭家・北山康夫氏が手掛けた庭。「〇△▢」という図形は、宇宙の根源的な形態を示し、全周の四大思想(地水火風)を、地(▢)水(〇)火(△)で象徴したものといわれる。〇は中央の苔山と砂紋、▢は井戸、△は白砂のエッジ部分で表現されている。

 

 

小書院・唐子の間。   廊下を挟み、小書院の西側に位置する10畳間。明治~大正時代に活躍した画僧・田村月樵(げっしょう)による『唐子遊戯図』が見られる。

 

 

襖絵に描かれた、湖上に浮かぶ小舟や月が描かれた床の間や、無邪気に遊ぶ子どもたちの楽しそうな表情が特に見どころ。

 

 

 

小書院から渡り廊下を進み大書院に。

 

 

潮音庭。 小書院と大書院の建物の間に作られた中庭。作庭家・北山康夫氏の監修のもとに、小堀泰嚴住職により作庭されたもの。

 

 

庭の中央に石が組まれ、その周りを紅葉の木が囲む。地表は苔で覆われている。中庭となっているため四方のどこから見ても正面になる。この中庭の中央に三尊石(3つの立石)、東に坐禅石があ配置されている。三尊石は、仏陀と2人の禅僧を象徴しているという。

 

 

 

大書院。 南側の潮音庭に面し畳敷きの廊下と外廊下が並ぶ。

 

 

大書院に掲げられている扁額。

 

 

 

書院造りの床の間を備えた部屋。

 

 

 

床の間に掲げられた軸。 達磨大師と不識の文字は細川護熙氏が描いたようだ。

 

建仁寺と縁の深い芸術家・細川護熙氏(第79代内閣総理大臣)による24面におよぶ襖絵が見られる。中国湖南省の景勝地である洞庭湖一帯の風景を描いた『瀟湘(しょうしょう)八景図』を水墨画で表現された。令和3年(2021)に、御開山御誕生880年を記念し手がけた襖二十四面が奉納された。

 

 

 

 

陀羅尼の鐘。    東鐘楼に吊るされている。修行僧が寝につく亥の刻(午後10時)過ぎ、観音慈救陀羅尼を一万返唱しながらつくことから、この名がある。 陀羅尼鐘は建仁寺開山・栄西禅師が在世の時に鴨川の七条の下流、釜ヶ淵に沈んでいたものを「えいさい」「ようさい」と栄西禅師の名を呼びながら引き上げたとの言われがある。

 

 

北門。

 

 

 

花見小路。 北門を出ると正面の通りは花見小路。 

 

 

花見小路には、紅殻格子に犬矢来という祇園情緒のあるお茶屋の家並みが続く。この建仁寺北門からの一帯がもっとも美しく、地面の石畳が周りの建物を引き立てて、風情あふれる景観になっている。

 

 

 

 

 

京都の本物の舞子さん。 建仁寺の帰り道、河原町駅のコンコースで京都府警のキャンペーンで舞子さんがキャンペーンガールを務めていたので、了解をもらい撮った写真。

 

 

 

案内図。

 

 

御朱印。

 

 

建仁寺 終了

 

(参考文献) 建仁寺HP フリー百科事典Wikipedia  ほか

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80 詩仙堂

2024-04-30 | 京都府

古寺巡り 詩仙堂

日本の心を映す情緒あふれる山荘跡

 

 

詩仙堂は、徳川将軍家の家臣であった石川丈山が寛永18年(1641)に隠居のため、59歳の時に造営した山荘。丈山は寛文12年(1672)に90歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。後に寺院化されると、丈山にちなんで寺名は丈山寺とされた。

詩仙堂の中心となる建物は凹凸窠(おうとつか)と呼ばれる。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。丈山は建物や庭にある10個の要素を「凹凸窠十境」と見立てた。現在では凹凸窠の中にある36詩仙(大陸の詩家36人)の肖像を掲げた詩仙の間にちなんで詩仙堂と呼ばれている。

詩仙は日本の三十歌仙にならい、丈山は林羅山と意見を交わしながら漢、晋、唐、宗の各時代から選出した。肖像は狩野探幽によって描かれ、詩仙の間の四方の壁に掲げられている。

詩仙堂は、お寺という感じは、ほとんど見ることはなく武家や武将などの邸として見学した方がわかりやすい。もともと石川丈山の山荘だからなおさらのことである。それでも正式な仏間があり、寺としての形態も保っている。

 

参拝日   令和6年(2024)3月1日(金) 天候曇り

 

所在地   京都府京都市左京区一乗寺門口町27                         山 号   六六山                                       宗 派   曹洞宗                                       本 尊   馬朗婦観音(めろうふかんのん)                           創建年   寛永18年(1641)                                 開 基   石川丈山                                      正式名   六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠                              文化財   詩仙堂(国指定史跡)   

 

 

境内案内図                           (詩仙堂説明書より)

 

 

石川丈山肖像画                       (詩仙堂説明書より)

 

 

 

山門。 小有洞と名付けられ杉皮葺きの屋根の門は、詩仙堂の入り口。

 

 

 

 

 

扁額の小有洞の字は石川丈山の直筆。 字は薄くて読めないかもしれない。

 

 

 

門を潜り竹垣に囲まれた参道を進む。

 

 

老梅関という中門。 かっては老梅の樹が会ったことから名づけられた。撮った写真を見てみると門の中に人の顔が入っている。正面の窓が目で、踏み石が唇、手前の平井氏は首に見え、なんとも滑稽な場面である。

 

 

 

 

 

 

門から入り正面の建物は、玄関から右手になり仏間と六畳間、八畳間がある。

 

 

玄関。 蜂要と名がついているらしい。通常は出入りができない。玄関は3階建とし「嘯月楼(しょうげつろう)」という。その右手 (西側) には瓦敷の本堂と庭見の間の六畳、八畳の書院がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老梅関を後ろから見る。

 

 

間取り。   参拝時に間取りをスケッチしたもの。

 

 

 

 

参拝者の入り口。

 

 

詩仙の間の前室から拝観入り口方向を見る。

 

 

玄関口を見る。

 

 

 

詩仙の間の前室で4畳の広さ。

 

右の額は「六勿銘(ろっこつめい)」として六つのことを厳守するよう自分に言い聞かせていたという。意は、右から火の用心、戸締り用心、早起き、粗食、倹約、清掃・・・を怠るなということのようだ。

 

本堂。  正面の内陣に本尊の馬朗婦観音が安置されている。中国の説話に登場する三十三観音の一つ。中国の唐の時代の伝説で観音菩薩が美女に変化して法華経をよく読誦する者に嫁するといい、馬氏の息子が目的を達したという故事による。外陣には賽銭箱。 

 

 

詩仙の間の廊下側に掲げられた扁額 詩仙堂の字は石川丈山の筆。

 

 

詩仙の間。 凹凸窠(おうとつか)とも呼ばれていた4.5畳の部屋。小壁には狩野探幽の筆の36詩仙の肖像画が掲げられている。現在掲げられている肖像画は複製である。

 

 

 

 

 

 

 

正面の壁に掲げられた扇のかたちは、伏見桃山城の欄間彫刻の一部で左甚五郎の作と言われる。天井材はアンぺらという太い葦のような材を編んだもので、簾などにも使用される。

 

 

 

詩仙の間から見た庭園。

 

 

詩仙の間から至楽巣側の廊下の透かし彫り欄間。

 

 

至楽巣は読書の間とも呼ばれ、6畳二間で構成。

 

 

 

 

至楽巣の扁額は、石川丈山の筆による。

 

 

至楽巣の方向を見る。

 

 

 

 

 

 

詩仙の間から書院方向を見る。

 

 

 

書院。  詩仙堂といえばこの部屋から庭の眺め。 奥に8畳間と手前に6畳間の二間続きの部屋。 

 

 

 

奥の8畳間には床の間。 福、録、寿 の掛け軸は石川丈山の筆。

 

 

 

そして庭園を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

百花塢(ひゃっかのう)の庭園。  庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された唐様庭園は、は四季折々に楽しむことができ、特に春(5月下旬)のサツキと秋(11月下旬)の紅葉が有名。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつで、百の花が愛でるられると名が付けられた。

 

 

大きく刈り込んだ皐月と白砂が特徴。

 

 

 

 

 

年代を感じさせる柱は杉柱。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書院前の庭園の隅にひっそりと穴あき石の手水鉢。

 

 

 

 

 

 

建物から出て庭園に向かう途中の木の根の張りを見る。

 

 

 

茅葺屋根は、詩仙の間と至楽巣の建物。 軒先は瓦葺。

 

 

 

至楽巣の正面。

 

 

詩仙堂の建物は、瓦葺部分と萱葺き部分で構成されている。玄関から西半分は瓦葺。詩仙の間など東側は萱葺きとなっているが庇側は瓦葺きである。

 

嘯月楼(しょうげつろう)。 本堂の上層階部分で、3階建てとなる。2階は14畳の畳敷き部屋、3階は5畳敷きの部屋で、四方に窓が設けられている。東側は丸窓で雨戸の開放は跳ね上げ式。この嘯月楼と詩仙の間は石川丈山が建てたもので、書院や至楽巣はその後に増築された。   

 

 

三階部分。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘯月楼と書院の外観。    軒先の雨樋は竹を使用。

 

 

回遊式庭園。書院の前の枯山水の庭園の先の少し下がったところに位置し、戦後に詩仙堂の住職等によって整備されたそうである。

 

 

 

中心に池があり、初夏には菖蒲や紫陽花が花をつけ、秋には紅葉が彩る。

 

 

 

 

 

残月軒。 茶室で昭和初期に建てられた。

 

 

境内の石垣。

 

 

帰り際に見た、参道の石畳。

 

 

参道の竹林。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

詩仙堂 完了

 

(参考文献) 詩仙堂HP フリー百科事典Wikipedia 京都社寺案内HP ほか

 

 

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79 曼珠院

2024-04-28 | 京都府

古寺巡り 曼珠院

皇室の一門が住職であった京都・洛北屈指の名刹で、小さな桂離宮とも呼ばれている。

 

 

曼珠院

 

曼珠院 延暦年間(728~806)、宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまり。その後、天暦年間(947~957)是算国師のときに北野天満宮が造営されると、是算国師が菅原家の出生であったことから、曼珠院の初代別当職に就き、それから以後の明治維新まで900年間を北野別当職を歴任した。

天仁年間(1108~1110)に、北野天満宮の管理のため北山に別院を建立。その後、御所内公家町に移転し、明暦二年(1656)になり桂離宮が建設されて、八条宮智仁親王の第二皇子良尚法親王が入寺されて、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院である。良尚法親王は後陽成天皇の甥、後水尾天皇は従兄弟にあたる。

曼殊院造営については、桂離宮を完成させたといわれる兄智忠親王のアドバイスを受けて建設され、桂離宮同様当時ヨーロッパで大流行した黄金分割が採用されている。曼殊院の瀟洒で、軽快な大書院・小書院は「桂離宮の新御殿」や「西本願寺の黒書院」と並んで数奇屋風書院の代表的な遺構とされている。
良尚法親王はここ曼殊院で、「侘びの美・さびの美」の世界に生きられた文化人でした。

また書院の釘隠しや引き手、欄間などが桂離宮と共通した意匠がみられ、同じ系列の工房で作られた物で、これらにより曼殊院は「小さな桂離宮」といわれている。

書院庭園は武家の庭とは違い、また寺院の庭とも違う、いわゆる公家好みの庭となっている。司馬遼太郎先生は「街道をゆく」のなかで、「公家文化は豊臣期・桃山期に育成され、江戸初期に開花した。桂離宮と曼殊院は桃山の美意識の成熟と終焉を示している」と書いている。

 

参拝日    令和6年(2024)3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内45                        山 号    なし                                       宗 派    天台宗                                      寺 格    京都五ヶ室門跡                                  本 尊    阿弥陀如来                                    開 山    是算                                       創建年    天暦年間(947~957)                              別 称    竹内門跡                                     札場等    近畿三十六不動尊第17番                             文化財    大書院、小書院、木造慈恵大師座像(国重要文化財) 庭園(国の名勝)

 

 

叡山電鉄修学院駅から歩いて約20分。スマホに道案内をされ住宅街の横道を縫って緩やかな坂道を上る。やっと参道に到着。

 

勅使門。  正門となるが天皇・皇族の門として通常は出入りができない。 勅使門の両側に設けられた築地塀には定規筋という五本の線が入っている。定規筋の線の数が寺格の高さを表し、曼珠院の線は最高位の五本となる。

 

 

 

 

 

勅使門の前の築地塀と通路の間には紅葉が植えられ、最盛期には紅葉の名所になる。

 

 

勅使門の前の道から右手に曲がり北通用門から中に入る。

 

 

境内図。  宸殿が建つ以前の境内図で梅林の処が宸殿位置となる  (曼珠院HPより)

 

 

北側通用門。

 

 

北側通用門から潜り、庫裡の玄関を入る。

 

 

庫裡の玄関に掲げられ扁額は「媚竈(びそう)」と書かれ、良尚法親王の筆による。意味は「奥にいる権力者に媚びるのではなく、実際に竈(かまど)を預かっている者に感謝せよ」と意味し論語からの言葉。

 

 

 

庫裡の玄関。   一般参拝者はこちらの庫裡の玄関口から内部に入る。

 

 

 

庫裡の内部から玄関口を見る。

 

 

庫裡の入り口から廊下を渡り小書院に向かう。 途中、庫裡の左手に上之台所がある。高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房。丸炉の間、一乗の間、花の間、宿直の間、御寝の間があり、棚には、食器類も展示されている。ただいま修繕工事中で拝観はできなかった。

 

小書院【国重要文化財】    大書院の東北方に建つ。間取りは東南側に八畳の「富士の間」、その北に主要室である「黄昏の間」がある。建物西側は二畳の茶立所を含むいくつかの小部屋に分かれている。二畳室は板床があり、炉が切ってあって、茶室としても使用できるようになっている

 

 

富士の間。

 

 

 

 

 

黄昏の間。  七畳に台目畳二畳の上段を備え、床・棚・付書院をもつ。「富士の間」「黄昏の間」境の欄間には菊の御紋の透かし彫り。                      (写真は曼珠院HPより)

 

 

床脇の棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。(曼珠院HPより)

 

 

 

 

 

「富士の間」から南側庭園を額縁にして見る。

 

 

「富士の間」側の外廊下。   扁額は「閑酔亭」と書いてあるという。

 

 

 

 

 

小書院外廊下の欄干笠木の釘隠し。この金物も元々は七宝仕上げだったのでは?

 

 

「富士の間」から見た南側庭園。小書院側の庭園は静かに水面をさかのぼる屋形船を表現しているというが、よくわからない。

 

 

 

「富士の間」から見た東側庭園。

 

 

 

小書院の廊下から大書院側を見る。

 

 

 

七宝製の釘隠し(富士山をかたどる)もこの建物の特色である

 

 

 

 

 

庭園【国指定名勝】   枯山水の庭園は小堀遠州の作といわれるが、遠州は曼殊院の当地移転以前の正保4年(1647)に没しており、実際の作庭者は不明

 

 

大書院と同時期の建築で寄棟造、杮葺きである。

 

 

屋根の重なりの美しさを・・・。                  (曼珠院HPより)

 

 

 

 

 

 

 

 

大書院側を見る。

 

 

 

 

 

小書院と大書院の間の廊下

 

 

大書院の廊下へ。

 

 

 

大書院と廊下を見る。

 

大書院【国重要文化財】    本堂として、明暦2年(1656)に建立された。仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから重要文化財指定名称は「曼殊院本堂」となっているが、当の曼殊院ではこの建物を「大書院」と呼んでいる。また、解体修理の際に発見された墨書等から、この建物は建設当時から「大書院」と称されていたことが分かる

 

 

正面東側に「十雪の間」、西側に「滝の間」があり、「十雪の間」背後には「仏間」、「滝の間」背後には「控えの間」がある。

 

 

 

 

 

十雪の間。 床の間には木造慈恵大師(良源)坐像(重要文化財)を安置し、仏間には本尊を中心とする諸仏を安置する。

 

 

滝の間。

 

桂離宮・新御殿の欄間と同じ卍崩しの欄間は月を表現しているとのこと。建物内の杉戸の引手金具には瓢箪、扇子などの具象的な形がデザインされ、桂離宮の御殿と共通した意匠を用いたというが、写真は撮っていなかった。

 

 

全体の外観を見ることはできないが、建物は寄棟造の杮葺きで、一見して寺院というより住宅風の建物である。

 

扁額は「塵慮儘(じんりょじん)」。  辞書を見ると、「塵慮」とは俗世間の名利を欲する心とあり、「儘」は思い通りになることとある。

 

 

釘隠し。

 

 

 

 

 

正面に鶴島と名をつけた植え込みには樹齢400年の五葉松。 五葉松は鶴を表現しているという。その根元には曼殊院型のキリシタン灯篭がある。公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向を反映している。

 

 

 

 

大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、ほかのつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は美女に例えられる。赤じゅうたんのように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して殊のほか美しい。

 

 

 

庭園の鶴島を見る。

 

大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、ほかのつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は美女に例えられる。赤じゅうたんのように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して美しいというが、冬の終わりのころ彩は少ないが見事な庭だ。

 

 

大書院と宸殿を結ぶ渡り廊下に設けられている仕切り戸は、杉の一枚板。

 

 

大書院の廊下から宸殿に向かう。

 

 

宸殿。   令和4年(2022)に新築されたばかり。

 

宸殿の全景。   皇族関係が住職を務める門跡寺院にとって宸殿は本堂にあたる重要な建物。このには曼珠院が所有する国宝不動明王が安置されている。 一度公開されたが、今後直接のに拝めない秘仏になる。(写真は曼珠院HPより)

 

盲亀浮木(もうきふぼく)の庭。  宸殿の再建に合わせて作庭された。100年に一度、息継ぎをするため水面に表れる盲目の亀の頭が、ちょうど流れてきた木の穴に偶然すっぽりと埋まった、という光景が表現されている。つまり、仏教に出会うことや、人に生まれることの難しさを語りかけている庭だそうだ。

 

 

盲亀浮木の庭に面して、唐門が見える。

 

 

護摩堂。 宸殿の横に建つ。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

曼珠院 終了

 

(参考文献) 曼珠院HP フリー百科事典Wikipedia ほか

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78 三千院

2024-04-13 | 京都府

百寺巡礼第81番 三千院

声明が響く隠れ里

 

「京都 大原  三千院  恋に疲れた女が一人・・・・」の歌でもおなじみの三千院は、全国に広く名を知られている。三千院は、京都市街の北東に位置する山中にあり、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。大原の里には京都駅前からバスでほぼ1時間で着く。先ず、は寂光院(当ブロブ掲載NO77)をお参りし、その後三千院を詣でた。五木寛之著「百寺巡礼」三千院の巻には、紅葉の季節で大変な混雑ぶりが書かれてれていたが、拙者が訪問した大原は冬の終わりで人影はまばら、ひっそりとしていた。もともと、この大原の里は、当時の社会からこぼれ落ちた人びとを、黙って受け入れてくれる隠里で、避難所ともいうべき場所だったのである。と百寺巡礼に描かれていたのを思い出した。なるほど、そのような風情を感じる。  

青蓮院(当ブログNO58)、妙法院とともに、天台宗山門派の三門跡寺院の一つ。

 三千院は延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まりる。その後、慈覚大師円仁に引き継がれ、最雲法親王入室により、平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となる。寺地は時代の流れの中で、比叡山内から近江坂本、そして洛中を火災や応仁の乱などにより幾度か移転し、その都度、寺名も円融房、梨本坊、梨本門跡、梶井宮と呼称されてきた。       明治4年(1871)、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称された。明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史を紡いでいる。

 

参拝日    令和6年(2023) 3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区大原来迎院町540                       山 号    魚山                                       宗 派    天台宗                                      寺 格    京都五ヶ室門跡                                  本 尊    薬師如来                                     創建年    延暦年間(782~806)                              開 山    最澄                                       別 称    三千院門跡  梶井門跡   梨本門跡                                     札所等    西国薬師四十九霊場第45番 ほか                          文化財    阿弥陀三尊像(国宝)  往生極楽院阿弥陀堂(国重要文化財)

 

大原のバス停から三千院まで約550mの参道は細い小道である。その参道の入り口付近、民家の前に「女ひとり」の歌詞石碑。

 

 

参道。

 

 

 

 

 

 

境内図                            (三千院HPより)

 

 

 

三千院に到着。 右手に「梶井三千院門跡」と石標。三千院はかって梶井門跡と呼ばれていたため石標に梶井の字。

 

 

 

桜の馬場。 三千院へ参道で入り口の通り。みやげ屋、飲食店が並び、春には桜が咲き誇る。

 

城壁を思わせる苔むした石垣と白壁土塀。 秋には手前の紅葉が素晴らしい彩を添え石垣と白壁に映えるのだろう。石垣の石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもので、自然石を使った石組みは頑強でかつ美しく、時を経ても崩れないといわれている。

 

 

 

何かの石碑かよくわからない。

 

 

 

桜の馬場のとおりには店が並ぶ。

 

 

御殿門。  三千院の玄関口にあたる。高い石垣に囲まれ、門跡寺院にふさわしい風格をそなえた政所としての城廓、城門を思わせる構え。

 

 

 

 

 

 

 

門から境内を見る。

 

 

 

御殿門を入ると鍵型の通路を進み、拝観の入り口まで進む。

 

 

 

 

 

 

庫裡。 拝観受付の場所で、こちらの玄関から内部に入る。

 

 

 

客殿の勅使玄関側。

 

 

 

勅使玄関。   客殿用の玄関で唐破風の屋根の造り。

 

 

 

 

 

   

中書院の玄関。 一般の参拝客は出入りできない。

 

 

 

客殿の前のある石碑。

 

 

客殿。 西側の勅使玄関から続く書院で、大正元年(1912)に修補された。 前庭は、聚碧園で池泉観賞式庭園。

 

 

 

 

 

 

客殿から円融坊を見る。

 

 

聚碧園。  客殿前に広がる池泉観賞式庭園。東部は山畔を利用した上下二段式とし、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんだ池庭を形成している。江戸時代の茶人・金森宗和による修築と伝えられている。

 

 

聚碧園の隅にある老木「涙の桜」は室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ一首に由来し、その桜は西行法師のお手植えとも、頓阿上人の友、陵阿(りょうあ)上人のお手植えとも伝えられている。
見るたびに袖こそ濡るれ桜花涙の種を植えや置きけん (頓阿上人)

 

 

 

 

 

宸殿。  三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を執り行うため、御所の紫宸殿を模して、大正15年(1926)に建てられた。本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来で、秘仏となっている。

 

 

本殿向かって左、西の間には歴代住職法親王の尊牌がお祀りされており、向かって右の東の間には天皇陛下をお迎えする玉座を設えている。その玉座の間には下村観山の襖絵があり、大きな虹が描かれていることから「虹の間」とも呼ばれている。

 

 

 

向拝を見る。  全面に有清園の庭園が広がる。

 

 

 

寝殿の回廊。

 

 

有清園。  宸殿より往生極楽院を眺める池泉回遊式庭園で、中国の六朝時代を代表する詩人・謝霊運(しゃれいうん )の「山水清音有(山水に清音有り」より命名された。

 

 

青苔に杉や檜などの立木が並び、山畔を利用して上部に三段式となった滝を配し、渓谷式に水を流して池泉に注ぐようになっている。春には山桜と石楠花が庭園を淡く染め、夏の新緑、秋の紅葉、そして雪景色と季節毎にその色を美しく変える。

 

 

 

弁天池。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有清園から宸殿を見る。

 

 

 

寝殿の前の有清園をはさみ往生極楽院がある。屋根側面が三角形に見える側が正面になる。

 

 

 

 

 

往生極楽院【国重要文化財】。 単層入母屋造、柿葺、妻入の建物で間口3間、奥行き4間の小さなお堂は三千院の歴史の源とも言える。 煌びやかさ豪華さはなく隠れ里の大原の景色にマッチした堂宇といえる。 

 

阿弥陀三尊像。   往生極楽院に祀られている阿弥陀三尊像はお堂に比べるとかなり大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げていることが特徴。その天井には現在は肉眼ではわかり難いものの、極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれており、あたかも極楽浄土そのままを表している。 この目で確かめたが、何が描かれているのかよくわからない。                                  (写真は三千院HPより)

 

阿弥陀三尊像【国宝】       久安4年(1148)に造られた本尊は、高さ2.3mの阿弥陀三尊坐像は、船底天井の堂内一杯に鎮座する。阿弥陀如来は来迎印を結び、向かって右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左側の勢至菩薩は合掌し、両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」で、慈悲に満ちた姿を見せる。                                (写真は三千院HPより)

 

往生極楽院は、平安時代末期から、大原の地にあったもので、三千院とは別の寺院だった。寛和2年(986) 恵心僧都 源信が、父母のために、姉 安養尼とともに往生極楽院を創建したといわれる。久安4年(1148)に阿弥陀堂は、高松中納言実衝の妻 真如房尼が29歳の若さで夫を亡くし、供養のために建てた常行三昧堂に、90日間休まず念仏を唱えながら、ひたすら仏の周りを回る不眠不臥の業を約30年間も続けたと伝えられる。 

 

 

 

 

 

 

内部は撮影禁止。ぎりぎりこのへんの距離で・・・・向拝を撮る。  

 

 

 

質素な向拝。  向拝桁に支えられその下に向拝紅梁をつけ、海老紅梁はなく繋ぎ梁とし組物も簡素化。

 

 

 

向拝の様子。 窓には蔀戸がかかる。

 

 

 

向拝から正面を見る。 正面の先には朱色の朱雀門。

 

 

 

 

 

欄干のある外縁が四方を巡る。

 

 

 

 

 

 

堂の右脇には弁天池が広がる。

 

 

 

往生極楽院の背面側。

 

 

 

朱雀門。

 

 

 

 

 

 

三千院の代名詞にもなっている苔に覆われた杉木立。

 

 

 

 

 

 

有清園の存在感のある石灯籠。

 

わらべ地蔵。   往生極楽院南側、弁天池の脇にたたずむ小さな地蔵たち。有清園の苔と一体となってきれいに苔むしており、もう何年も前からずっとたたずんでいるよう。わらべ地蔵は、石彫刻家の杉村孝氏の手によるもので数体置かれている。

 

 

朱雀門。      往生極楽院の南側にある朱塗りの小さな門で、その昔、極楽院を本堂としていた頃の正門にあたる。その様式は藤原期の様式とも言われているが、江戸時代に再建されたもの。現在扉は閉めたまま。

 

 

境内は大きく二つに分かれ、下の平地に建つ客殿や宸殿、往生極楽院などの創建時のゾーンと、そこから少し上がったところに近代に造られた金色不動堂や観音堂などの奥の院がある。

 

 

金色不動堂。  護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989)に建立された。本尊は、智証大師作と伝えられる秘仏金色不動明王で、毎年4月に行われる不動大祭期間中は、秘仏のその扉はご開扉され、約1ヶ月間お姿を拝するこができる。

 

 

観音堂。   平成10年(1998)に建立された。堂内には金色の観音像が祀られており、御堂両側の小観音堂には三千院と縁を結ばれた方々の小観音像が安置されている。

 

 

茶室?ではなさそう・・・。

 

 

 

 

 

 

津川にかかる朱塗りの橋。

阿弥陀石物(売炭翁石物)。     金色不動堂の北、律川にかかる橋を渡ったところに、鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が安置されている。石仏は高さ2.25mの単弁の蓮華座上に結跏跌座(けっかふざ)する。定印阿弥陀如来で、おそらく「欣求浄土(ごんぐじょうど)」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られたもので、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物となっている。またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、この阿弥陀さまをここ大原では親しみをこめて、売炭翁石仏と呼ぶようになったと伝わっている。

 

 

津川。 三千院の境内を挟むように境内の北側を流れる川を「律川」、南側を流れる川を「呂川」と呼ぶ。
これは声明音律(しょうみょうおんりつ)の「呂律(りょりつ)」にちなんで名づけられたといわれている。

 

 

 

あじさい苑の遊歩道。

 

 

 

あじさい苑からみた往生極楽院の全景。

 

 

 

西方門。  朱雀門の西側に建つ、拝観の出口になる。

 

 

 

円融蔵。平成18年(2006)開館した展示室を備えている重要文化財収蔵施設。三千院開創以来の仏教・国文・国史、門跡寺院特有の皇室の記録や史伝等、中古・中世・近世にわたって書写され蒐集された、典籍文書を多数所蔵。展示室には現存最古と言われる往生極楽院の「舟底天井」と原寸大の天井画が創建当時の顔料のままに極彩色に復元され展示されている。(下の写真左の建物)

円融坊。 境内を巡り出口の西方門を出たところに建つ。 

 

 

 

未明橋。 三千院の参道桜の馬場を東に向かうと津川にかかる朱塗りの橋。

 

 

 

 

 

 

三千院の門前の通・桜の馬場の突き当りに勝林寺。右手が後鳥羽天皇大原陵。

 

 

 

後鳥羽天皇、順徳天皇の大原陵。三千院の御殿門を出て右奥の朱塗りの未明橋を渡り直ぐの右手にある。

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーつまり、半僧半俗の聖や、世捨て人や、ドロップアウトした人というのは、ある意味で世間からへだてられる人びとででもあった。女性もまた、当時の仏教のなかでは、往生できない存在としてあつかわれていた。<中略>少なくとも大原別所が念仏の里であり、隠里であり、女人の里でもあったということは間違いない。大原は都からはみ出した人びとのアジールであり、聖と俗、聖と賤とが混沌として存在する場所だったのだと思う。いずれにしても、大原はいつの時代にも、行き場のない人びとを暖かく迎える土地だった。その念仏の里、隠れ里、女人の里に、三千院という寺がある。現在の三千院は観光寺院のイメージが強い。だが、この大原の文化のなかで、じつは三千院こそが、おおきな“かなめ”として存在しているのだろう。そして、大原の地は、歴史の陰の部分のつややかさを帯びて感じられのではないか。

 

 

御朱印

 

 

 

三千院 終了

 
 
(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 三千院HP  フリー百科事典Wikipedia ほか     

 

 

 

 

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77 寂光院

2024-04-08 | 京都府

古寺めぐり 寂光院

 

今でもひっそりと佇む平家物語の舞台となった寺

 

 

寂光院と三千院への参拝で京都・大原の里へ。京都駅前7時40分の大原行きのバスに乗る。3月の初めの日、京都市内を抜けて鯖街道と呼ばれた大原街道に入ると、バスはほぼ貸し切りになり8時42分に終点の大原停留所に到着。乗客は吾輩1人であった。停留所から大原女の小道を歩き、15分ぐらいで寂光院に着いた。このお寺には二十代のころ参拝したことがあるが、よく覚えていない。歩いた小道が舗装されて歩きやすくなっていた。

 寂光院は天台宗の尼寺である。寺の草創については、寺伝によると推古天皇2年(594)、聖徳太子が父の用明天皇の菩提のため開創したとされる。当初の名称は玉泉寺で太子の乳母であった玉照姫(恵善尼)が初代住職であるというが、ほかの説もあり明確なことは分かっていない。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、「平家物語」に登場する建礼門院が隠棲したゆかりの地として知られている。当院では史料がなく詳細が分からないため、建礼門院に仕えて後に出家し、当院の住持をしていた阿波内侍を第2代の住職としている。阿波内侍は、大原女のモデルとされる。

平清盛の娘・建礼門院徳子は、文治元年(1185)に壇之浦で平家一族が滅亡後、生き残った高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。徳子は阿波内侍を頼って入寺し、出家して真如覚比丘尼と称した。後に第3代住持となって当院で余生を送った。また平重衡の妻・藤原輔子も出家し当院で徳子に仕えた。

 寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186)の事で、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。

本堂は淀殿・豊臣秀頼の命で片桐且元が奉行として、慶長年間(1596~1615)に再興したものであったが、平成12年(2000)に放火に遭い焼失してしまった。この際、本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼損し、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。本堂は、平成17年(2005)に古式通りに忠実に復元された。同時に新しく作られた本尊や徳子と阿波内侍の像も安置されている。

境内の外、東側には建礼門院徳子を祀る大原西陵がある。陵墓はもともと境内にあったが、明治以降は宮内省の管理下に移り、境内から切り離された。また、境内の外、西側には阿波内侍らの墓がある。

 

 

参拝日    令和6年(2024) 3月1日(金) 天候晴れ

所在地    京都府左京区大原草生町676                            山 号    清香山                                       院 号    寂光院                                       宗 派    天台宗                                       本 尊    地蔵菩薩                                      創建年    伝・推古天皇2年(594)                              開 基    伝・聖徳太子                                    札所等    神仏零場巡拝の道第105番                              文化財    地蔵菩薩立像(国重要文化財)  

 

 

大原の里。 右手方向にしばらく歩いたところ寂光院。

 

 

大原女の小道をひたすら歩く。

 

 

大原女の小道の案内標。

 

 

 

大原女の小道にひっそりと朧の清水。 建礼門院がこの泉に姿を写したと伝わる。

 

「柴葉漬と大原女の発祥の地」の石碑。 寂光院の入り口の少し手前に建っている。寂しく隠棲した建礼門院は、地元の住民が慰めのために持ち寄った漬物を大変気に入り、紫蘇の入った漬物という意味で「柴葉漬」と名付けたと伝えられる。

 

 

寂光院の入り口。

 

 

 

寂光院境内図。

 

 

拝観の受付、ほかに朱印の授与、数珠玉(数珠巡礼)の授与、写経やお抹茶の申込受付などが行われている。

 

 

写真映えのする石階段を上る。

 

 

 

 

 

もみじの季節は最高に美しいと思う。春が近い冬の山門。

 

 

山門。

 

 

山門から上がってきた石段を振り返る。

 

 

山門から本堂を見る。

 

本堂。 桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた本堂は、平成12(2000)年の火災で焼失した。ヒノキ材で屋根は木柿葺(こけらぶき)。

 

小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17(2005)年6月2日に落慶した。正面3間奥行3間で正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の蔀戸で内側障子戸。

 

 

 

 

 

本堂の扁額「寂光院御再興黄門秀頼郷 為御母儀浅井備前守 息女 二世安楽也」だそうだ・・・・。

 

 

向拝から書院方向を見る。

 

 

本堂西側を見る。

 

 

本堂・向拝から境内および山門を見る。

 

 

書院。  山門を潜り境内の東側に建つ。

境内の庭園。 本堂前西側の風情ある庭園は『平家物語』にも描かれるもので、心字池を中心に千年の姫小松や汀の桜、苔むした石のたたずまいが好ましい風情をかもしだしている。
文治2年(1186)の春、建礼門院が翠黛山(本堂正面に対座する山)の花摘みから帰って来て、訪ねてきた後白河法皇と対面するところにも登場する。

 

汀の池。   後白河法皇が訪ねた時、徳子は山に出かけ留守だった。法王はこの池を見て「池水に汀の桜散りしきて 浪の花こそ 盛りなりけり」と詠んだといわれる。

 

 

汀の桜。

 

 

苔むした石塔の佇まいが千年の風情を醸し出す。

 

 

 

 

姫小松の切株。 平成12年(2000)に火災に遭い枯れ死してしまった。『平家物語』灌頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる  中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わる松である。

 

 

書院から本堂に繋がる渡り廊下。 右手の東側に四方正面の池を見ることができる。

 

四方正面の池。  本堂の東側にある池で、北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設ける。池の四方は回遊出来るように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されている。

 

 

三段に分かれた小さな滝。 三段がわかれている情景が写真では判りずらい。

雪見灯篭。  夲堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠で、豊臣秀吉が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝える。宝珠、笠、火袋、脚からなる。笠は円形で降り棟をもうけず、軒先は花先形とする。火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間(ごうざま)の煙出とし、1面を片開きの火口扉とする。円形台下に猫足三脚を付けている。銘文等はないが、制作も優れ保存も完好で重厚な鉄灯籠である。

 

諸行無常の鐘楼。  本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっている。鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683-1753)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶であった。鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次である。

 

 

茶室庭の中門。  山門へ上る階段の途中にある。

茶室「弧雲」。  京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材を下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年(1931)に千宗室宗匠をたのみ献茶式を催し、茶室開きを行った。
「孤雲」のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなむ。

建礼門院徳子の御庵室跡。 本堂の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡。現在は石碑が立つのみだが、御庵室跡の右手奥に女院が使用したという井戸が残る。壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあと、建礼門院はひとり助けられ、都を遠く離れた洛北の地に閑居した。翌年、後白河法皇が訪れたときの庵室の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」であった。女院は平家一門の菩提を弔いながら終生を過ごした。

 

 

山門付近の苔の景色。

 

 

寂光院の門前の手前に草生を見渡すことのできる高台がる。一直線の石畳を上ると建礼門院の墓所と伝えられる大原西陵がある。

 

 

秋には沿道の紅葉が美しい。

 

 

建礼門院徳子大原西陵。

 

 

寂光院入り口を降りたところの様子。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

 

寂光院 終了

 

(参考文献) 寂光院HP フリー百科事典Wikipedia ほか

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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76 西本願寺 飛雲閣

2024-04-05 | 京都府

古寺巡り 西本願寺飛雲閣

 

 

 西本願寺の西南に滴翠園と名の付いた塀で囲まれた一画がある。そこに国宝・飛雲閣が建つ。

 飛雲閣は、三層柿葺の楼閣建築で、普段は非公開である。今回、「京都冬の旅」として敵翠園の特別公開が催されている。庭園と一体となった、日本を代表する建築の一であり、鹿苑寺舎利殿の金閣、慈照寺観音殿の銀閣、そして飛雲閣と京都の三閣の一つともいわれる。

 飛雲閣の歴史には定かな定説がなく、寺に遺る江戸時代初期の文書『紫雲殿由縁記』に豊臣秀吉の遺構だと記されていることから、聚楽第の遺構との説も広がったが確証はない。そのほかに本願寺により建てられたのではないかとする説や、豊臣秀吉の京都新城、後の高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇の仙洞御所造営に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説もあるが、建築時期や建築理由など十分な説得性にも乏しい。この建物は、かなり謎の多い建物のようである。

 

 

参拝日    令和6年(2024)2月29日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市下京区堀川通花屋町下る門前町60
寺概略    省略 当ブログNO39 西本願寺参照。 

 

 

西本願寺に到着し、御影堂の前の門・御影堂門から境内に入る。御影堂の前に銀杏の大木。

 

 

西本願寺境内。 御影堂門方向を見る。

 

 

京都冬の旅・特別拝観の看板。

 

 

滴翠園案内図。               (京都埋蔵文化財研究所・本願寺と庭園より)

 

 

飛雲閣は、滴翠園という庭園に建つ建物でこの白壁塀に囲われている。拝観はこの門を潜ることになる。

 

 

門を潜るとすぐに目の前に滄浪池がありその奥に飛雲閣が凛とした姿を見せる。金閣も銀閣も入り口を入ってもなかなか姿を見せてくれないが、ここは直ぐにみられる。

 

 

滄浪池に写る逆さ飛雲閣も見どころ。

 

 

飛雲閣【国宝】。   初層は入母屋造りに唐破風と千鳥破風を左右に、二層は寄棟造りに三方には小さな軒唐破風を配し、三層は寄棟造りと実に複雑であるが変化に富んだ屋根になっている。

 

 

 

正面から見る。

 

二層、三層と建物は小さくなり、その中心も東に移るという左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られている。全体的に柱が細く障子の多いことから、空に浮かぶ雲のようだということで、飛雲閣と名づけたといわれる。

 

 

一層は主室の招賢殿(しょうけんでん)と八景の間、舟入の間、さらに後に増築された茶室・憶昔(いくじゃく)からなる。二層は三十六歌仙が描かれた歌仙の間、三層は摘星楼(てきせいろう)と呼ばれている。

 

 

 

 

 

一層には、主室の招賢殿、八景の間、舟入の間と三室が配されている。

 

1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室・憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。正面の床下に船着き場と思われる階段が設けられている。正面の唐破風屋根の部屋は舟入の間となり、階段のところに船が横付けされ直接部屋にあがることができる。

 

 

 

 

 

1層に配された主室・招賢殿の内部。                  (西本願寺HPより)

 

 

一層の部屋・舟入の間。

 

 

一層の端には後の増築された茶室。

 

 

茶室・憶昔(いくじゃく)。  外壁が弁柄色で調和があるようなないような・・・・。

 

 

躙口のある南側の全景。                        (写真は西本願寺HPより)

 

 

茶室・憶昔の内部。  天井は網代仕上げ。                 (写真は西本願寺HP)

 

 

二層は、三方に小さな唐破風をつけた寄棟屋根。

 

二層の部屋は、歌仙の間と呼ばれ杉戸に三十六歌仙の肖像が描かれている。外面の杉戸にも三十六歌仙の肖像が描かれている。

 

 

 

 

 

二層の内部・歌仙の間。 華奢で繊細な外観と比べると豪華絢爛差がうかがえる。(写真は西本願寺HP)

 

 

三層は摘星楼と呼ばれ展望室のようだ。窓の蔀戸を開けると円障子が嵌めらている。円障子によって景観を際立たせて品格ある雰囲気が味わえるとのこと。

 

 

黄鶴台【国重要文化財】   飛雲閣から西にのびる渡り廊下で結ばれている、柿葺寄棟造りの床の高い建物。黄鶴台を降りれば別棟の浴室があり、西南隅に唐破風をもつ蒸風呂と鉄釜などがある。

 

 

横鶴台には浴室が設けられている。

 

 

黄鶴台の前に、むくり屋根の木橋・擲盃橋(てきはいきょう)。

 

 

西本願寺の西隣地は興正寺。飛雲閣・黄鶴台の撮影には少し邪魔だが外せない。

 

 

 

 

茶室露地門。左手に腰掛待合。

 

 

(左)木橋は茶室へ。(右)「龍脊橋」と名が付いた石橋を渡り招賢殿へ。 石橋は滄浪池が造られたときは無く江戸中に架橋された。

 

 

舟乗り場。小船で舟入の間に行く。

 

 

飛雲閣の姿が滄浪池に逆さに写る姿が良い。

 

 

滄浪池を巡る道は茶室へ。

 

 

滄浪池の西北側に広がる枯山水の庭と茶室「澆花亭(ぎょうかてい)」。左手前に文如による毫塚の「乾亨主人毫塚」がある。

 

 

西本願寺の境内から築地塀で一画をつくる。園路の右一帯は「艶雪林」と呼ばれ、七重石塔「俗風塔」があり、文覚上人の塔ともいわれ、江戸時代前期の寛永年間(1624-1643)に移された。

 

 

燈籠のようだが・・・・艶雪林に置かれている。

 

 

茶室・澆花亭。  外壁の弁柄色が鮮やか。  本願寺第十八代門主の文如が明和五年(1768)に飛雲閣の庭園整備の際に作った茶室。「青蓮樹」と名の付くもう一つ茶室が並んで建つ。

 

 

滴翠園入口の東側に小高い丘があり四阿が見える。

 

 

四阿に向かう途中にあった三輪石塔。

 

 

 

四阿の胡蝶亭。

 

 

円形の屋根に中心に皮付きの松丸太が使用され、そこから小丸太の垂木が扇状に広がる。小舞は竹で綺麗な円を作っている。

 

 

滴翠園の中の東南の角地に鐘楼が建つ。

 

鐘楼は、高さ約3mの石垣の上に建つ。西本願寺の梵鐘は、音が門前に響き渡るように築地塀に近く、より高いところに釣られた。建築年代の不明であるが、記録では江戸時代前期の慶長16年(1611)の親鸞聖人350回大遠忌に先立って改修し、その後2度にわたる移転があり現在の場所に移ったとあり、西本願寺では最も古い建物のようだ。平成10年(1998)に修復された。

 

 

 

 

 

西本願寺を訪ねたのは二月末、梅の花が目を楽しませてくれた。

 

 

虎之間の玄関。

 

 

北小路通り側の書院が建つ境内。

 

 

書院の玄関。

 

 

大玄関門。 北小路通に面して建つ。

西本願寺唐門【国宝】  平成30年(2018)10月4日(土)に参拝した時は、工事中で見られなかったので今回の飛雲閣の参拝時に、併せて拝観することができ充分堪能できた。黒漆、飾り金具、彫刻で飾られた絢爛豪華な門は、西本願寺の南端、北小路通りに面して構えられている。数多の彫刻で飾られた、荘厳華麗な桃山建築の門である。門としての様式は、二本の本柱の前後に二本ずつ、計四本の控え柱が立てられている四脚門。 こちらは境内側。

 

 

桃山時代の豪華絢爛な意匠。彫刻は唐獅子、麒麟、鳳凰、孔雀、松に牡丹といった縁起物の他、中国の故事などがモチーフとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

境内側の門の右袖壁の透かし彫刻。古代中国の三皇五帝時代の故事を現わした。堯帝が許由の高潔な人柄を聞き、位を譲ろうとすると当の許由は箕山に隠れてしまった。許由をさらに高い地位で処遇しようとすると、許由は潁水のほとりで「汚らわしいことを聞いた」と川の流れで自分の耳をすすいだ故事に基づく。

 

 

境内側の左袖壁の透かし彫り。右壁の故事に続き、それを見聞きしていた伝説の隠者、単父が許由のエピソードを知り、汚れた水を牛に飲ませることはできないといって立ち去る故事を透かし彫りにしてた。

 

北小路通に面して建つ唐門を見る。日の暮れるのも忘れて見とれてしまうことから「日暮門」とも称される。日光東照宮陽明門も技巧的かつ重厚な装飾から日暮門と呼ばれるが、西本願寺唐門の装飾は力強く躍動的な彫刻に明るく華やかな彩色が魅力。平成30年(2018)に2年半をかけて、修理を行った。

 

檜皮で葺かれた入母屋屋根の前後に唐破風が付く向唐門。書院の正門として設けられたものだが、元は御影堂の前にあった御影門を、元和4年(1618)に現在位置へ移築したと伝えられている。なお、移築前は現在のような装飾が施されておらず、今に見られる姿となったのは、書院の改修が行われた寛永10年(1633)頃と考えられている。また、伏見城の遺構であったとも言われているが定かではなく、建立年代ははっきりしない。

 

 

 

 

 

大徳寺本坊の唐門、豊国神社の唐門と、こちらの唐門をを含めた三棟は、桃山様式の国宝三唐門として知られている。

 

本願寺伝道院【国重要文化財】  西本願寺境内の外の門前町の洋館。内部は通常非公開。日本の近代建築をリードしてきた、近代を代表する建築家・伊東忠太の設計による。イギリスの建物をイメージした赤レンガ風タイル張りの外観に、インド・サラセン風のドームを載せ、千鳥破風を石造りした日本建築の意匠など、さまざまな建築様式を取り入れた建物。明治45年(1912)本願寺第22代 鏡如上人 [1876~1948年]の依頼で、真宗信徒生命保険株式会社の社屋として竣工。現在は僧侶の教育施設として使われている。

 

西本願寺飛雲閣 終了。

(参考文献) 西本願寺HP フリー百科事典Wikipedia  閑古鳥旅行社HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻京都(講談社)

 

 

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75 本法寺

2024-03-27 | 京都府

百寺巡礼第87番 本法寺

なべかむり日親の伝説を支える力

 

 

 

本法寺は、妙顕寺や妙覚寺など多くの寺が建ち並ぶ寺之内の一画にある日蓮宗寺院で、十六箇本山の一つに数えられる。門前は小川通が東西に通り、向かいに裏千家と表千家が南北に居を構えており、京都の中でも特に落ち着いた独特の雰囲気を持った地域である。室町時代に活躍した日蓮宗僧侶の久遠成院日親上人によって日蓮宗の本山である。

当時の建立は、日親が永享年間(1429~40)に日親が四条高倉に設けた弘道所に遡る。その後天文法華の乱などで寺地を遷し、天正18年(1580)に現在の地に移る。天明の大火で宝蔵と経堂を残しほとんどが焼き尽くされた。寛政2年(1790)から翌年に開山堂仮堂と客殿が建てられ、寛政末から文化年間(1904~17)にかけて、本堂、開山堂、多宝塔、仁王門、庫裡など主要な堂宇が復興された。小川通に面して仁王門を構え、そこより西北に延びる参道に主要な建造物群を配置する。中央の広場を囲むように西側に本堂、北側に開山堂、東側に多宝塔、南側に鐘楼と経蔵を建て、本堂に北側に客殿や庫裡、書院、方丈を配する。近世日蓮宗系諸宗本山のもっとも整った伽藍景観を伝える。

現在地に移転したときの管首である日通上人は、権力者であり財力もある本阿弥光二と光悦の親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備することができた。それからの本法寺は京都の町に、一大栄華を誇るまでとなった。しかし天明8年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍を呑み込み、経堂と宝蔵を残すだけの壊滅状態となってしまったのである。それでも、檀信徒たちの堂塔再建に対する願いは着々と実を結び、本堂をはじめ開山堂、多宝塔、書院、仁王門などが整備されて、現在の本法寺となった。

さらに当寺では、庫裡や書院など僧侶が生活を営んど近世の建物を残しており、近年建て替えられた客殿を除き、江戸時代の伽藍形態がそのまま伝えられている。このような例は本山格寺院では稀有であり全国的に見ても貴重な伽藍群と言える。

 

 

参拝日    令和6年(2024)2月29日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617                 山 号    叡昌山                                      宗 派    日蓮宗                                      寺 格    本山                                       本 尊    三宝尊                                      創建年    永享8年(1436)                                 開 山    日親                                       開 基    本阿弥本光                                    正式名    叡昌山本法寺                                   札所等    洛中法華21ヶ寺                                  文化財    長谷川等伯関係資料(国重要文化財)

 

 

京都市営地下鉄烏丸線「今出川」駅を降りて、東西に走る今出川通から西の方向に約5~6分程歩くと小川通という南北の通り。その辺りは表千家と裏千家、武者小路千家の茶道の本部があり、世界に誇る茶道文化の中心地。その物々しいというか凛とした空間の左先に本法寺の入り口がある。存在感のある茶道の施設が並んでいるのが本法寺の門前である。

 

 

 

裏千家本部の正面の門の正面に仁王門。

 

 

仁王門(京都府指定有形文化財)。  三間一戸の楼門。 寄棟桟瓦葺きの屋根。 寛政9年(1797)に建立された。  写真では少々見ずらいが、扁額は「叡昌山」。

 

 

 

木部は朱塗りであるが経年変化が著しい。壁は白漆喰。

 

 

 

欄干廻り。 持ち送り風の組物や紅梁型の正面飛貫など、時代の雰囲気をよく示している。

 

 

門の左右に仁王像。

 

 

多宝塔。  仁王門を潜り直ぐに右手に建つ。 寛政年間(1789~1804)の建立された。高さは15mで洛中における多宝塔はここに建つだけ。塔内には、釈迦如来、多宝如来を祀る。

 

 

 

 

 

多宝塔は初層が方形、上層が円形で屋根が四角錐形の宝形造。

 

 

 

 

 

摩利支天堂。    大摩利支尊天を祀った堂宇。

 

 

開山堂。     寛政8年(1796)に建立された。

 

 

鐘楼。

 

 

本堂の前。大きな桜の木を中心に奥の朱塗りの宝物館と右手に開山堂。

 

 

本堂。   規模の大きな7間堂で寛政9年(1797)に再建された。

 

 

正面に3間の向拝殿を設ける。

 

 

扁額「本法寺」は本阿弥光悦の筆による。

 

 

入母屋造りの屋根の千鳥破風は反りがあり、軒先は跳ね上がる寺建築に見られる造り。 軒下廻りの組物は、このクラスの大きさの堂宇としては簡略されている。

 

 

周囲の縁先には庇柱を建て、深い庇を支える。柱は四天柱以外は角柱である。大型の堂宇での角柱は珍しい。

 

 

春を待つように梅の花が咲き誇る。

 

 

元阿弥光悦が植えたとされる松の木と安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の銅像は本堂の前。

 

 

説法石。  上洛した日親は一条戻り橋のたもとでこの石に腰を掛けて辻説法を行ったと言われる。石は陰陽士・安倍晴明の邸にあった晴明石とみいわれ江戸時代の元禄15年(1702)にこの地に移された。

 

 

唐門。開山堂の左手にあり、その向うの朱塗り建物は宝物館となり長谷川等伯作の「釈迦大涅槃図」(重文)が1,2階吹き抜けの講堂内に掲げられている。

 

 

唐門。

 

 

 

 

 

 

 

本堂(右手)と庫裡(左手)を渡り廊下で繋ぐ。

 

 

庫裡。 本堂の奥に建てられた切妻妻入の建物。僧侶の生活の場になる堂宇で、現在は参拝者の入り口。

 

 

庫裡の東側に建てられた客殿の玄関は唐破風仕様の屋根の造り。

 

 

参拝、拝観入り口。

 

 

庫裡の玄関土間の構造。

 

 

 

 

 

庫裡にある入口から入り、受け付けを済ませ右手客殿を通り宝物館にすすむ。

 

 

宝物館。      宝物館の南側にこじんまりとした枯山水の庭・十(つなし)の庭が広がり、唐門が設けられている。

 

十(つなし)の庭。  ひとつ、ふたつ・・・九つ、そして十。十は「とう」と読むか「じゅう」とよむか、いずれも「つ」が付かないので「つなし」だという。この庭には10個の石が置かれている。が・・・九個しか見当たらない。もう一つは、心の中に石があるのだそうだ。昭和時代に作られたので新しい庭。

 

 

内側から見る唐門。

 

 

宝物館から開山堂を見る。

 

 

宝物館には、長谷川等伯による仏釈迦大涅槃図が掲げられている。 

 

 

講堂に掲げられた扁額。

佛涅槃図【国重要文化財】    京都三大涅槃図のひとつ。縦約10m横約6mの大きさで、2階吹き抜け部屋に掲げられている。作者は安土桃山時代から江戸初期を代表する絵師・長谷川等伯(1539~1610)で、自身の家族や心を寄せた日蓮宗僧侶らの供養を目的に、61歳のときにこの絵を描き本法寺に奉献した。能登国七尾に生まれた等伯は、染物を生業とする長谷川家の養子となり、故郷で絵師として活動した。その後、養父母の死をきっかけに京都へ移り住み、菩提寺の本山であった本法寺を拠点に活躍し、数多くのすばらしい作品を遺した。                         (写真はネットから)

 

 

宝物館の北側は庭園。

 

 

宝物館から書院の庭園へ。 本阿弥光悦が生み出したという光悦垣。

 

 

庫裡の北側に方丈、書院があり渡り廊下でつながる。

 

 

 

 

 

三巴の庭。渡り廊下から見る中庭の庭園。 蹲は光悦の作とされる「光悦の蹲」。

 

 

渡り廊下の先にある書院。18畳の部屋が3室並ぶ。

 

 

中の部屋。

 

 

 

 

 

上段の間。 奥の部屋で、2間の床の間に違い棚のある床脇と付け書院が付いた。

 

 

 

 

 

書院には庭に面し広縁が付く。

 

 

 

 

三巴の庭。  本阿弥光悦によってつくられたとされる庭で、書院の南側から東側にかけて鈎型に広がる。室町期の書院風枯山水の影響を名庭で、広さはおよそ200坪。三か所の築山で巴の紋を表すことから三巴の庭と呼ぶ。木が育つなどの経年により巴のかたちは分かりづらい。・・・わからない。

 

 

縁側の前には、半円の石を二つ組み合わせた円形石(左)と、切り石による十角形の蓮池(右)で、「日」「蓮」を表現している。

 

 

南東の隅には枯滝が配され、手前に置かれた縦縞模様の青石によって流れ落ちる水を表現している。

 

 

庭の中央に位置する日輪を通して東南方向に宝物間の朱塗りの建物を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

三巴の庭の現在の様子。                        (本法寺案内書より)

 

 

江戸時代の様子。江戸時代末に刊行された「都林泉名勝図会」の京都名園案内書より。(本法寺案内書より)

 

 

 

 

 

仁王門と反対側で西側の入り口。 右の建物は茶道総合資料館。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

御朱印についてきた小さな気遣い。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーー本阿弥光悦や長谷川等伯本法寺の関係を知ると、この寺が京都のなかに存在していることの意味が、あらためて浮かびあがってくるようだ。山里ではなく、田園地帯でもなく、町の人びととの生活と密着した中にある寺ー本法寺はまさに、町衆に支えられてきた寺である。<中略>封建社会の身分制度のなかで、ものをつらない商人は、農民より一段下に見られていたが、実際には経済を支配して、社会を動かす力を持ちはじめていた。さまざまなかたちで抑圧された新興階級の町衆たちは、次第に権利意識にめざめてくる。同時に自由への欲求もめば矢えてくる。彼らのそういう意識と一緒になって日蓮宗はひろまった、といえるかもしれない。日蓮宗は商人たち、町衆といわれる人々とのあいだに、広く深く支持者を集めていった。町衆は、人間は平等でなければいけない、という根本精神をもっていたのだろう。

 

本法寺 終了

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 本法寺HP  フリー百科事典Wikipedia      京都の文化財第13集 本法寺・京都市教育委員会   (ブログ)京都を歩くアルバム  ほか

 

 

 

付録)本法寺の門前には茶道のご本本家家元の名庵が並ぶ。

 

小川通に面して本法寺の仁王門の前に佇む。裏千家の家元「今日庵」の入り口。

 

 

 

 

 

今日庵の南となりに位置する裏千家家元「不審庵」の入り口。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日庵の対面にある茶道具店の清昌堂やました。弘化4年(1847)創業だという。

 

 

表千家・不審庵の土塀と小川通。この奥の左手に本法寺山門がある。

 

 

古川通りを出た寺之内通りとのT字路にある俵屋吉富小川店は、茶菓子に特化した和菓子の店という。

 

 

俵屋吉富のとなりに茶道具の「小西康」。

 

                                             以上。

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