古寺巡り 鑁阿寺
快晴で風が少し吹いている師走の日曜日。北関東の寺巡りで、熊谷の歓喜院と足利の鑁阿寺を参拝することにした。
鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197)に、足利義兼によって建立された。足利氏の守り本尊である大日如来を祀る。約4万㎡に及ぶ敷地は、元々は足利氏の館であり、平安時代後期の武士の館の面影が残されている本堂とともに、四方に巡らされた堀と土塁、四方の門が残されている。
寺院としては、鎌倉時代初期、建久7年(1196)源姓足利氏2代目の足利義兼が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。義兼死後、その子義氏が建立した本堂は、寛喜元年(1229)に落雷により、焼失したが、足利尊氏の異母兄で、足利宗家7代目の足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。日本としては禅宗様式への転換期の最初期にあたる。
鎌倉時代から室町時代にかけて寺院として次第に整備され、室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護された。
境内には、歴史的な建造物が多数あり、彫刻や文書、美術工芸品など、中世来の貴重な宝物類も多数残され、今に伝わっている。
なお、鑁阿寺の名称は、開基の足利義兼が、晩年に出家した際に「法華坊鑁阿」と号したことによる。
参拝日 令和5年(2013)12月17日(日) 天候晴れ
所在地 栃木県足利市家富町2220 山 号 金剛山 院 号 仁王院 宗 旨 新義真言宗 宗 派 真言宗豊山派ー真言宗大日派 寺 格 本山 本 尊 大日如来 創建年 建久7年(1196) 開 基 鑁阿(足利義兼) 正式名 金剛山仁王院法華坊鑁阿寺 別 称 大日様 札所等 関東八十八箇所第16番 文化財 本堂(国宝) 鐘楼、経堂ほか(国重要文化財)
境内図。
四方の巡らされた堀と土塁。お寺というより館。こちらは東側。
南側の堀。
山門の前にある屋根付けの太鼓橋。
太鼓橋と山門。
山門。 三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の造り。 建てられたのは本堂と同じ時期だが、現在の建物は永禄7年(1564)に13代将軍 足利義輝の再建となる。唐様という建築様式の楼門。鎌倉時代に建てられた本堂や鐘楼と比べると、彫刻や屋根の形態が異なり、後の年代に建てられた特徴がある。
太鼓橋。 桁行 780.0cm 梁間 339.0cm。 唐破風桟瓦葺。 江戸時代の創建。鑁阿寺正面入り口の堀に掛けられた反り橋。内部の天井は格天井に仕上げ。堀の縁石には切石の橋脚が利用されている。江戸時代後期の建造物で、背面の楼門とのつり合いもよくとれている。
礎盤の上に柱を建て、上層には高欄という手すりを廻した。三ツ斗組とした楼門造。両脇には仁王像(鎌倉時代に運慶により彫り込んだと伝えられている。阿形、吽形像)が安置されている。
金剛山の扁額。
太鼓橋の上屋の唐破風。 鬼瓦、互にはそれぞれに足利家の家紋。
三ツ斗組とした楼門造り。
太鼓橋から門前の市街まちなみを見る。
山門から市街を見る。
山門を振り返り見る。
門を潜ろ境内を見る。
手水舎。
本堂【国宝】 入母屋造、本瓦葺き。桁行5間、梁間5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す)。正安元年(1229)の建立だが、応永14年(1407)から永享4年(1432)の間に大規模な改造が行われ、この時に柱をすべて入れ替え、正面に向拝を付した。
平面構成は前方2間分を外陣、後方3間分を内陣及び脇陣とする密教仏堂の形式だが、建築様式は禅宗様を基調とする。禅宗建築の特徴の一つに屋根先の反りがるが、残念ながら写真から切れてしまった。
乗せられた鬼瓦。
組物を詰組とし、柱に粽(ちまき)を設け、扉を桟唐戸、壁を竪板壁とする点などは禅宗様の要素だが、組入天井、板敷の床など和様の要素もある。向拝の水引虹梁に下がる明和年間(1764~1772)鋳造の鰐口がある。
向拝は応永14年(1407)から永享4年(1432)の間に大規模な改造が行われ、紅梁や組み物などはその際に新増設されたもの。
外陣に向かって正面には、障子が建て込まれその外に唐桟戸が建て込まれている。
向拝の正面。
外陣を見る。
向拝から境内を見る。
密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重である。
雨受け甕。
本堂の側面を見る。
本堂の背面を見る。
背面から本堂と不動堂を見る。
本堂の足利家の家紋「足利二つ引両」の入った鬼板。懸魚は三つ花懸魚。
不動堂の鯱。鬼板は獅子?だろうか?
不動堂【足利市指定重要文化財】 鎌倉時代初期の建久7年(1196)に足利義兼が建立したのがはじまりとされ、安土桃山時代の文禄元年(1592)に生実御所国朝が再建。本尊は平安時代作の不動明王像で、興教大師が彫り込んだ像を成田山から勧請してきたとされる。
向拝の屋根の造りを見る。
大酉堂。 足利尊氏を祀るために建立された堂で、明治中期からは、大酉大権現を本尊とした。
大黒堂。 本堂の北側に位置し、宝暦2年(1752)に再修されたれた校倉風の建物。寺の宝物が収蔵されていた。
一切経堂【国重要文化財】 経典を納めた堂。元は足利義兼の創建だが、現存の建物は足利満兼により応永14年(1407)に再建されたもの。堂内部の中央には一切経2千巻余りを収めた、高さ15m程の八角型の輪蔵(経棚)がある。その取っ手を押して1回転させると、経典をすべて読んだのと同じ御利益があるといわれる。
瓦屋根の軒先。
多宝塔【栃木県指定文化財】 金剛界大日如来本尊前と勢至菩薩(二十三夜尊)が祀られている。現在の建物は徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院により、元祿5年(1692)に再建されたもの。しかし、調査時に寛永6年(1629)銘のものが発見され、築年代は更にさかのぼることが判明した。ちなみに徳川家は上野国新田の一族徳川氏を遠祖としており、近隣の徳川郷(現、群馬県太田市)をその祖先の地としている。塔内には足利家の大位牌と、徳川歴代将軍の位牌も祀られている。
大銀杏の木と多宝塔。
大銀杏。 多宝塔の前に位置する、県指定の天然記念物。樹齢550年前後といわれいる。
大銀杏と多法塔の前にある焼香場。
鐘楼。 鎌倉時代に建立。四方吹き放ちの桁行3間、梁間2間、袴腰附、入母屋造、本瓦葺。本堂と同じ建久7年(1196)に建てられたが、後に、再建されてやが、その時期は不明。中央に、江戸時代の天明鋳物の鐘が吊り下げられている。木鼻や斗栱(ときょう)をはじめ、建物の形状やそのつくり方など、全体に鎌倉時代の禅宗様建築の特色がよく現われている大変珍しく貴重な建物。
御霊屋。 境内の北西に位置し、校倉の宝庫及び蛭子堂と並んで建っ。本殿は桁行 200.0cm、 梁間 130.0cm。 拝殿が桁行570.0cm、梁間 388.0cmと二つの棟からなり、長 28.47mの塀に囲まれている。江戸時代後期に11代将軍 徳川家斉の寄進により再建されたと言われる。
正門に棟門を設けて瑞垣という板塀で囲み、その中に拝殿を建て、その後方に本殿を配している。
庭園。 池泉式回遊庭園は、境内の木々の間に鐘楼が建ちその奥に、心字池を中心とした庭園が広がっている。 心字池は大小の石を組み合わせ、太鼓のように湾曲した石橋と平の石橋の二の橋がかけられている。池の両端にそれぞれ雪見燈籠が設けられ、地面は苔に覆われ池と石と橋と燈籠で風情のある庭園となっている。写真ではその風情を表せなく残念ではある。
東門側に竹林。
東門。 中央の山門の他に、東北西にそれぞれ門がある。
案内図
御朱印
鑁阿寺 終了
(参考文献) 鑁阿寺HP フリー百科事典Wikipedia (ブログ)何気ない風景とひとり言