『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

71 歓喜院

2023-12-26 | 埼玉県

古寺巡り 歓喜院

 

 

歓喜院は2年前に参拝したことがあるが、当時コロナ禍の真っ最中で聖天堂の拝観は中止されていて、見れなかった苦い思い出がある。そこで雲一つない快晴の日を狙い再び参拝することにした。当日は日曜日でもお目当ての堂宇は参拝客が少なく、眼がくらむような色彩と彫刻に施された建物をゆっくり拝観することができた。

歓喜院は日本三大聖天の一つで、埼玉日光とも称され、特に素晴らしい彫刻で装飾された堂宇が有名である。

寺の歴史ーー寺伝では治承3年(1179)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将・斎藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。

初鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が参拝したほかにも、中世には忍城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。

平成15年(2003)から平成23年(2011)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012)に聖天堂(本殿)は、埼玉県内における建築物としては初めての国宝指定を受けた。

 

参拝日     令和3年(2021)3月3日(水) 天候晴れ                         

       (再訪)令和5年(2023)12月22日(金)天候晴れ

 

所在地     埼玉県熊谷市妻沼1627                          山 号     聖天山                                  院 号     歓喜院                                  宗 旨     高野山真言宗                               寺 格     準別格本山                                本 尊     歓喜天御正体錫杖頭(重要文化財)                     創建年     治承3年(1179)                             開 基     斎藤別当実盛                               正式名     聖天山歓喜院長楽寺                            別 称     妻沼聖天山                                札所等     関東八十八箇所第88番                               文化財     聖天堂(国宝) 御正体錫杖頭、貴惣門(重要文化財)

 

 

 

 

駐車場から境内への参道。

 

 

境内図。                             (図面は歓喜院HPより)

 

 

 

 

貴惣門【国重要文化財】    境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。

 

 

屋梁間5.2m、桁行9.2m、棟高13.3m。二階は床組がなく屋根のみを二重とした重層門である。

 

初重妻側は左右対称の招屋根形式として、それぞれ独立した破風を付ける。それらを傘下に納めるように上層の破風が掲げられ、妻側に三つの破風飾りが付く、奇抜で意匠的な形式の門である。  (写真は熊谷市Web博物館HPより)

 

 

持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855)頃の完成。

 

 

彫刻は上州花輪村の石原常人主利が担当した。柱頭廻りを賑やかに飾る彫刻群は素木のケヤキ材で、彩色に代わって細やかな彫刻が施される。

 

 

門から境内を見る。

 

 

門を振り返ってみる。

 

 

貴惣門を潜り境内の参道。

斎藤別当実盛公の銅像。 平成8年(1996)に建立された。 平安時代末期に活躍した武士で治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いた。久寿2年(1155)、源義平が叔父源義賢を討った大蔵館(嵐山町)の戦いでは、義賢の子で2歳の駒王(後の木曽義仲)を保護し、木曽に送り届けた有名な話が残る。また、保元の乱、平治の乱では、源義朝につき活躍をしたことが伝わっている。その後は、平家との結びつきを強くし、平家領である長井荘の荘官となった。源平の合戦(治承・寿永の乱)では、一貫して平家方につく。水鳥の音で知られる、治承4年(1180)の富士川の戦いでは、「東国の案内者」として、東国武士について進言したといわれる。寿永2年(1183)、木曽義仲と平家の篠原の戦いで、味方が落ちていく中ただ一騎踏みとどまり、幼い頃に助けた木曽義仲軍に討たれた。実盛は悲劇の主人公としても知られ、吉川英治の「平家物語」のほかに「源平盛衰記」や歌舞伎、謡曲に取り上げられ、日本人として共鳴を呼ぶ武将として知られる。

 

中門。  参道の途中たつ門。妻沼の大火で焼け残ったとされる建物である。一間一戸切妻造の四脚門で、屋根は近年の修理により茅茸型銅板茸となっているが、古くは本瓦茸であった。境内において唯一江戸前期の様式を残している建物。

 

 

 

 

仁王門。  明治27年(1894)再建。参道の終点、本殿への入り口建つ、五間三戸の十二脚門で、屋根は入母屋造、瓦棒銅板茸。現在の建物は、明治24年に前身の仁王門が台風によるイチョウの倒木の下敷きとなり倒壊し、再建されたもの。

 

 

「聖天山」の扁額。

 

 

 

仁王門から本堂(聖天堂)を見る。

 

 

石舞台。本堂の前にある石造りの舞台。 境内で行われる様々な行事や奉納の催しが行われる、いわゆるイベント会場の舞台。

 

 

相撲の土俵。毎年10月の秋季大縁日大祭法要に行われる奉納相撲の場となる。

 

 

 

閼伽井堂。 仁王門を入ってすぐ左の堂。閼伽(仏用の御水)を汲む処であるが、今は使われていない。

 

聖天堂【国宝】    歓喜院聖天堂は、享保20年(1735)から宝暦10年(1760)にかけて建立された。彫刻技術の高さに加え、漆の使い分けなどの高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物である。またそのような建物の建設が民衆の力によって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されている。

 

 

聖天堂の造営資金は、聖天宮を信仰する庶民の寄付により賄われた。装飾には庶民の期待と憧憬が反映されたとみられ、結果として建築と装飾が訴和した、庶民信仰の象徴ともいえる建物が実現している。

 

 

 

向拝は正面に軒唐破風、その上に千鳥破風を飾る。 屋根は江戸時代より瓦棒銅板葺き。

 

向拝の正面。その正面には「琴棋書画」と呼ばれた彫刻がはめ込まれている。この琴棋書画とは、中国古来の文人における必須の教養や風流事を意味する、「琴」、「囲碁」、「書」、「絵」の四芸のことであり、日本では室町時代以降における屏風絵や工芸品の図柄などのモチーフとして多く見ることがでる。

 

 

 

向拝を横から見る。

 

 

 

向拝から仁王門方向の境内を見る。

 

聖天堂の立面図。 建物は正面から拝殿・中殿・奥殿の三棟の建物が順につながる。拝殿は桁行五間、梁間三間、入母屋造、中段は街行三間、梁間一間、両下造(屋根を両側にふきおろしたもの)、奥殿が桁行三間、梁間三間、入母屋造である。上から見ると棟の形が工の字型をした、権現造りと呼ばれる建築様式をもつ。桃山時代以降に神社建築に広く用いられた形式の一つで、代表的なものに日光の東照宮があり、聖天堂が位置する北関東周辺に多く現存する杜殿形式である。(図面は熊谷市WEB博物館から)

 

 

聖天堂の向拝のある正面だけは無料で拝観できるが、全体を見るためには正面の横からは拝観料を払って観ることになる。横の姿(南側)。

 

聖天堂の南西北側は塀で囲まれた、南側全景。中殿の屋根は奥殿・拝殿それぞれに接続し、両側に葺き降ろす。奥殿、拝殿の異なる高さの軒先を、中殿軒廻りの端部をねじ上げて連続させており、巧妙な納めを見せる。日光東照宮は、本殿の屋根の下に石の間の屋根が入り込り込むのに対して、若干時代の降る日光の大猷院霊廟は、相の間と本殿裳階を連続させており、聖天堂はこれと似ている。

 

 

拝観の入り口。

 

 

奥殿の妻側。

 

 

聖天堂は、平成15年(2003)から7年の歳月をかけ大規模菜保存修理を行った。聖天堂の西側から見る。中にはボランティアガイドがいて説明してくれる。奥殿の外壁面は華麗な色彩の彫刻で装飾されており、まさに豪華絢爛。

 

 

この堂の大きな特徴は、足元から軒先に至る建物全体を彫刻で飾り、さらに極彩色・漆塗・金箔押し・飾金物を施す壮麗な意匠にある。その意匠には、大工棟梁の統率のもと、彫刻師・絵師・塗師達の高い技量が発揮されている。

 

 

 

拝殿と中殿の接続部。

 

 

 

中殿の花頭窓の外の装飾は金色で鮮やか。

 

 

中殿と奥殿の間にある階段の装飾。

 

 

階段の下の小羽目彫刻。 左から牡丹(?)の蕾、中央にその花は開き蜜を吸う蜂が飛び、それを猫が見ている図柄。

 

 

 

内法部には大羽目彫刻を施した。

 

 

 

金箔に施された扉。南の陽を浴びてまばゆいばかり。

 

 

 

内法の大羽目彫刻。

 

 

鷹と猿の図。 川に落ちた猿を鷲が助けている図柄。猿は人間に、鷲は神様に例えて大聖歓喜天の慈悲深さを泡らしている。かの左甚五郎作ともいわれているが、上州の左甚五郎と言われた彫刻師・関口文次郎の作で、そのように伝わってしまったようだ。

 

 

 

彫刻の絵柄は七福神のうちの寿老人が鹿を従え、子供たちと、鶴・亀に餌を与える図。 南側は日当たりと影の部分があり、素人カメラマンの小生の腕でははっきりとした画像にならないのが残念であり、もったいない。

 

 

縁下には腰羽目彫刻をはめる。  

 

 

斗栱の上に載った猿は、縁下で建物を支えているように見える。堂には13匹の猿がいるという。

 

 

 

縁下の部分を見る。 角の龍の頭は、北側の龍と対になり、阿吽の龍の「阿龍」となる。

 

 

 

奥殿(縁下腰羽目の彫刻は「こまどり遊び」の図。

 

 

 

南側と西側(背面)の全景。

 

 

西の妻側(奥拝殿の背面)。 茅負(垂木の鼻:木口)から上軒付にいたる五重の軒付が見せる造形は、曲線が重なり合あって非常に装飾的である。

 

 

 

西側(背面)の軒下から大羽目部分。

 

 

唐破風下の彫刻「司馬温公の瓶割り」。 水瓶に落ちた友達を救うために高価な水瓶を割っている図柄は、いくら高価な物よりも人の命が大切との諌めを表したもの。

 

南面大羽目彫刻は、中央は七福神が酒を飲みながら囲碁に興じている絵柄。布袋が恵比寿の一手を見守り、その横で大黒天が見守っている。右手の絵柄は、大黒の俵で遊ぶ子供達。そして左側は、布袋ぶくろで遊ぶ子供達が描かれている。

 

 

大羽目から縁下を見る。

 

 

縁下の彫刻。すなどり七人に水・桃の図柄。

 

 

縁下の彫刻。夏祭りを様子の図柄。

 

 

北面と西面(背面)から全景。

 

 

縁下および軒下の組物の先に施されているのは、龍の頭でその数は70以上、その全てが、姿形・色が異なっているという。こちらの龍は「吽龍」で南側と対になっている。

 

 

 

北面。

 

 

毘沙門天が吉祥天と弁財天の双六を毘沙門天が見ているのだが、それに熱中し過ぎ天邪気を始末するのを忘れ、天邪気はのびのびとしている、という絵柄に彫刻。

 

彫刻は、上州花輪村(現在の群馬県みどり市)の彫刻師であった石原吟八郎を中心に制作されたもの。吟八郎は、日光東照宮の修復に参加したほか、北関東を中心とした多くの社寺建築に彫刻を残している。その最になるものが、吟八郎の弟子たちの『鳳凰』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北側の全景。

 

 

北側からの全景                        (写真はJTBのHPより引用)

 

 

夫婦の木。 欅の木と榎の木が、個々に互いに寄り添い絡み合い、助け合い、力強く古今を生きる神秘な縁結びの神木。恋愛成就のパワーを放つ夫婦の木だそうだ。

 

 

 

太鼓橋。  赤い橋で多宝塔の平和の塔への参拝道に賭けられた橋。

 

平和の塔。 昭和33年(1958)に建立の多宝塔。総檜造りで、聖天山北部の盛土上に建造されており、境内の各所からその偉容を確認することができる。塔は、昭和26年に締結されたサンフランシスコ平和条約を記念し、戦没英霊の供養と世界恒久平和を祈願して建立されたもの。本尊には十一面観音菩薩が祀られている。

 

 

 

鐘楼。  宝暦11年(1761)に建立。大正期および昭和26年(1951)に改修された。木造2階 瓦葺 建築面積35.24㎡ 屋根は二層形式の木造入母屋造平入桟瓦葺。角柱の四方転とし、中央に鋳鐘を吊る。軸部は赤色塗装され、支輪板には彩色の痕跡が残り、。現在は石積基壇の上にさらに基壇が築かれている。周囲に高欄を廻らせ、四方には錺金具を用いた柱が辺部より高く置かれている。

 

 

 

平和の塔の付近は鬱蒼とした木々が茂り、朱色の太鼓橋が鮮やかに写る。

 

 

太鼓橋の周辺は、鬱蒼とした林が広がる

 

 

本坊本殿。 本堂のある境内から少し離れた駐車場側に位置する。斎藤別当実盛公の次男、実長(出家して良応僧都)により、聖天堂の別当坊寺院として開創。同時に御本尊として十一面観世音が寄進された。

 

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

 

歓喜院 終了

 

(参考文献)歓喜院HP フリー百科事典Wikipedia 熊谷市WEB博物館HP          

      4travel.jp  (HP)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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