『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

18 横蔵寺

2023-08-06 | 岐阜県

第三十七番 横蔵寺

 

最澄と山の民ゆかりの「美濃の正倉院」

 

 

美濃の正倉院 重要文化財を保有しているためそのように呼ばれている。紅葉の名所でもあり、秋の行楽シーズンには、特に多くの参拝者が訪れる。17頁に掲載した「谷汲山華厳寺」西方約5kmの地にあり、さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。谷汲山から横蔵までの数少ない定期バスに乗り、約15分ほどで到着する。バスは、その間誰一人乗ることもなく吾輩一人の完全なる貸し切りバスとなっていた。

横蔵寺は、平安時代から鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を所有する古寺であるが、寺の草創や沿革について資料が乏しく、平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った。最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅したが、延暦22年(803)に横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。   元亀2年(1571年)に織田信長の兵火で焼失し、現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である。織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」という由緒ある像だということで延暦寺に移された。その代わりに、洛北の御菩薩池(現・京都市北区の深泥池)から移されたのが、横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。

 

 

参拝日     平成29年(2017)9月27日(木) 天候晴れ

 

所在地     岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原1160                    山 号     両界山                                   宗 派     天台宗                                   本 尊     薬師如来(国重要文化財)                                  創建年     延暦20年(801)または連暦24年(805)                   開 基     伝・三和次郎太夫藤原助基                          別 称     美濃の正倉院                                札所等     西美濃三十三霊場一番                            文化財     木造薬師如来坐像、木造大日如来坐像、木造四天王立像、木造十二神将立像ほか

 

谷汲山から横蔵まで定期バス。乗車したのは吾輩只一人でした。

 

 

横蔵にむかう途中の車窓風景。

 

 

横蔵寺境内。

 

 

バス停から寺への入り口。

 

 

飛鳥川にかかる朱塗の医王橋。

 

 

医王橋の正面は城を思わせる立派な石垣。武家屋敷にも見える。

 

 

苔むした石垣と石畳の参道。

 

 

石垣から

 

 

こちらは庫裡の門となる。

 

 

仁王門【岐阜県指定重要文化財】石畳を上っていき突き当りの門。門の階段の手前には石像の瑠璃橋。ここから見る奥行きのある趣きがいい感じである。

 

 

仁王門 桁行6.34m、梁間3.50mの3間1戸楼門、入母屋造、檜皮葺[ひわだぶき]。仁王象は収蔵庫に安置。

 

 

柱は円柱で貫を固め、

 

 

通路上部には虹梁が入り、その上には牡丹や菊の彫刻による派手な笈形を付けた大瓶束が立つ。天井は力強い格天井。

 

 

奉納された大わらじ。

 

 

門をくぐりその先の石段を上れば本堂。

上層に鐘を吊る。仁王門は大規模な修理がなされ、下層の柱の大部分が取り替えられ、組物の多くも新材によって補われている。文政年間に編まれた「歴世恩高録」には寛政7年(1795)から9年(1797)の修理のことが記されており、柱の取替はこの時と考えられる。全体の形態は江戸初期の姿をよくとどめており、笈形など華麗な彫刻も当初のものと認められる。

上層縁の腰組は三手先で中備は間斗束となる。上層柵正面(西)及び背面の中の間は開放となり、両脇の間には連子が入る。側面は上下層とも板壁となる。軒の組物は三手先で中備に蓑束を置き、小天井、支輪を設け、軒は二軒繁垂木である。

 

 

 

 

屋根の妻飾は虹梁大瓶束となっている。

 

 

 

 

三重塔【岐阜県指定重要文化財】  建立年は墨書などにより寛文3年(1663)とみられる。この塔は塔の一般形式に従い、和様三手先で造られているが、背後の花頭窓などに僅かな唐様の導入があり、また尾垂木にも彫刻が施されている。上層の逓減率が少ないのも特徴で、ここでは見上げる形になり、形態的に安定して見える。

 

 

三間三重塔婆、檜皮葺。各層に勾欄付きの縁がめぐらされている。

 

 

 

 

 

正面および側面は中の間に板扉が入り、脇の間には連子窓が付くが、内側に無双が入っている。背面は中の間に花頭窓が入り、脇の間は板壁になる。

 

 

組物は三手先であるが、初重と隅部の尾垂木には彫刻が施され、中備には蟇股を置き、小天井と支輪を設け、軒は二軒繁垂木となっている。

 

 

香堂

 

 

香堂から本堂を見る

本堂【岐阜県指定重要文化財】 延暦22年(803)、伝教大師最澄によって創建されたと伝えられる。
桁行5間、梁間5間、一重入母屋造、檜皮葺、勾欄付きの縁を巡らし、正面1間に向拝が付く。
本堂は密教系建築としての五間堂という本格的な規模を持ち、中世以来の密教系本堂の伝統的な形態を保っている。彫刻と彩色による装飾が多く、建築的にも優れている。

 

 

 

 

 

向拝を見る。

 

 

 

 

 

内陣および須弥壇を見る。

 

 

本堂から境内および仁王門方向を見る。

 

 

堂の周りは勾欄付きの縁。

 

 

境内の参拝道。先に観音堂。

 

 

観音堂

 

 

観音堂から本堂方向を見る。

 

 

舎利殿や瑠璃殿のある場所は、少々離れている。

 

 

舎利殿 「ミイラのある寺」として知られている。舎利堂に安置される「舎利仏」すなわちミイラは、妙心法師という人物の遺体である。

 

妙心法師は横蔵寺の地元の村の出身で、俗名を古野小市郎と言った。天明元年(1781年)に生まれ、諸国を巡って仏道修行をし、文化14年(1817)、断食修行の後、満36歳で入定、即身仏となったという。遺体は何らの加工もなく自然にミイラ化したとされる。京都の博覧会などに展示されるなどしたが、明治7年(1874年)山梨県の病院で医学資料として保管されていた。

 

 

明治23年(1890年)、妙心法師の親族から即身仏の下付の嘆願があった。山梨県はこれを許可し、即身仏は妙心法師の出身地である横蔵村の横蔵寺に移された。長らく本堂に安置されていたが、現在は平成に入って建設された舎利堂に移されている。

 

 

 

参拝を終えて帰りの仁王門の前。

 

 

朱塗りの医王橋を渡り、横蔵寺に別れを告げる。

 

 

 

 

 

定期バスの乗って揖斐駅まで。

 

 

平成29年の揖斐川町コミュニティバス 横蔵バス停の時刻表 14時25分のバスで帰る。

 

 

横蔵寺のある横倉の集落。

 

 

バスの沿線からみた風景。

 

 

約40分のバスの旅で揖斐駅に到着。

 

 

 

電車が来た! 養老鉄道揖斐駅から大垣駅まで約25分。

 

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーここにきたもう一つの目的が、「ミイラ」である。この瑠璃殿の横にある舎利堂には、非常に珍しい舎利仏、いわゆるミイラが祀られているのだ。横蔵寺の「呼びもの」といっては失礼だが、近代以降、この寺を有名にしたのがミイラだったことは否定できない。ふつうミイラというとエジプトのファラオのミイラを思い出すくらいで、お寺のミイラと聞いてもピンとこないだろう。しかし、日本にもわずかにミイラが存在しているという。そのひとつがこの横蔵寺にある。そう言われると、興味を惹かれずにはいられない。近くで拝見すると、ずいぶん小さな身体だな、という感じがした。けれども間近かで眺めると、組んでいる足の長さなどはそれほど短くない。手足は枯れ木のようになっているのだが、皮膚の質感まではっきりわかって生々しい。(中略)なんといっても印象的なのは、やはりその顔だろう。前の方に顔をぐっと突き出して、口が開いている。このすがたは、たしかにどこかで見たことがある。どこだったのだろうか。すぐ思い出した。ノルウェーのムンク美術館で見た有名な「叫び」あれにそっくりなのだ。即身成仏の瞬間に、はたして妙心上人がどのような声なき「叫び」をあげたのか。それは想像もつかないが、好奇心をそそられずにはいられない。

 

                      (注:文中の妙心上人はミイラになった本人)

 

 

御朱印

 

横蔵寺 終了

 


17 華厳寺

2023-08-04 | 岐阜県

第三十八番 華厳寺

人びとが生まれ変われる満願の寺

 

華厳寺は「谷汲さん」の愛称で親しまれている。桓武天皇が延暦17年(798)に草創し、開祖は法然上人。本願は奥州会津出身の大口大領。大口は十一面観世音の尊像を建立したいと願って、奥州の文殊堂に参篭して有縁の霊本が得られるようにと請願をたて、七日間の苦行をする。七日目の満願の明け方に十四、五の童子(文殊大士と呼ばれる)のお告げにより、霊木を手に入れることができた。霊木を手に入れた大口は、都に上りやっとの思いで観音像を完成させた。その像を京から奥州に運んでいこうとすると、観音像は近くのあった藤蔓を杖にし、笠をかぶり、草鞋をはいて自ら歩き出してしまった。途中美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)に差し掛かったとき、観音像は立ち止まり「遠い奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と述べられ、奥州とは異なる北の方角に歩き出した。しばらくして谷汲後にたどり着いたとき、観音像は歩くのをやめ突然重くなって一歩も歩かなくなったしまった。大口はこの地こそ結縁の地だろうと思い、この地に庵を結ぶこととした。この地に、三衣一鉢、誠に持戒堅固な法然上人という聖が住んでいたので、大口は上人と力を合わせ山谷を開き、堂宇を建てて観音像を安置することとした。するとお堂の近くの岩穴から油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより先は燈明に困ることがなかったという。華厳寺という寺号はのちについたもので、それ以前は谷汲寺と呼ばれていたようだ。華厳の名は、本尊の十一面観世音菩薩像に華厳経が書き込まれていることによる。

 

 

参拝日    平成29年(2017)9月27日(木) 天候晴れ

 

所在地    岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23

山 号    谷汲山                                   宗 派    天台宗                                    本 尊    十一面観音(秘仏)                              創建年    延暦17年(798)                              開 山    法然上人                                  開 基    大口大領                                   正式名    谷汲山華厳寺                                札 所    西国三十三所第33番                             文化財    木造毘沙門天立像(国重要文化財) ほか

 

 

公共交通機関を利用して寺参りをしている吾輩にとっては、かなり工夫の要る。名古屋から東海道線大垣駅まで40分。大垣から樽見鉄道線に乗り37分。谷汲口駅で下車し前から揖斐川町コミュニティバスで10分。それぞれ便数が少ないので、よほど行程を詰めておかないと大変なことになる。

    

9時50分に樽見線谷汲口駅に到着。単線で上下共用のホームは風情があり、なんとも遠くに来た感じがする。

 

 

 

 

 

総門  総門のある所でバスを降りる。

 

総門から約1000mの真っ直ぐな参道。両側にソメイヨシノの桜並木。そしておみやげ屋や食堂、旅館などが並ぶ。 

 

 

 

 

 

境内図

 

 

 

仁王門 宝暦年間(1751~1764)に再建。入母屋の3間の二重門。

 

 

西国三十三所の最後の33番目の寺で「西国三十三番満願霊場」の石碑。

 

 

複雑な木組みを見せる仁王門。

 

 

仁王門の金剛力士像

 

 

 

 

 

仁王門に飾られた満願を記念して奉納された大わらじは2mほどの大きさ。

 

 

仁王門を潜ってからもまだ参道は続く。

 

 

 

 

 

春は桜、秋は紅葉の景勝地でもある。

 

仁王門を入ると聖句が掲げられていた。弘法大師と道元禅師のことばが掲げられている。聖句は神聖な言葉ということで聖書にある語と思ったが仏語にもあるようだ。

 

 

百鹿石  

 

 

お焼香場

 

 

手水場

 

 

長い参道をとおり境内の奥の石段を上り本堂に向かう。

 

 

 

石段を登り始めた右手に唐屋根の三十三所堂がある。

 

 

正面の軒下の彫刻が見事。元々は色彩が施されていたのだろう。

 

 

本堂への階段をこれから上る。

 

 

西国巡礼の皆さんが、おそろいの法被を着てお参り中。

 

 

 

 

 

本堂正面の向拝廻り。

本堂 明治12年(1879)に豪泰法印によって再建。入り母屋造り、正面5間、側面4間の外陣部の奥に、棟を直行させて内陣部が接続する。

本堂の向拝から広縁まわり。 

 

向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」と称する、銅製の鯉が打ち付けられている。西国札所巡りをこの寺で満願したものは、その記念にこの鯉に触れる習わしがある。

 

 

本堂外陣を見る。

 

 

 

 

 

谷汲山の扁額。

 

 

お焼香場。

 

本堂の内陣。本尊は十一面観音、脇侍として不動明王像と毘沙門天像(国重要文化財)を安置するが、いずれも非公開。

 

 

本堂の外陣。堂内右手に納経所、地下に戒壇巡りがある。

 

 

広縁から向拝を逆に見る。

 

 

9月の緑は、これから紅葉になり、春は桜の名所と四季折々を楽しめる。

 

 

山の傾斜地に建てられたこともあって本堂の全景を見ることは容易ではない。

 

 

鐘楼堂。

 

 

 

笈摺堂  本堂の背後にある小さなお堂。第65代天皇だった花山法王が禅衣(笈摺)、杖、および三種の御詠歌を奉納した。この堂にはいまでも、西国三十三所巡礼を終えた人々が奉納した笈摺、朱印帳とともに、多数の千羽鶴が置かれている。千羽鶴は折鶴(おりつる)で、笈摺(おいづる)にちなむことからのようだ。

 

 

 

 

 

苔の水地蔵尊  花山法王の御詠歌に由来する地蔵尊。自分の痛いところと同じ場所に札を張り水をかけて願う。

 

 

満願堂  本堂の裏手、笈摺堂を過ぎて階段三十三段を上がったところに建つお堂。周囲には満願の字が刻まれた狸の石像が並ぶ。巡礼者はここで納め札を治める。

 

 

笈摺堂から本堂を見る

 

 

本堂屋根の切り妻部分。

 

 

参拝を終えての帰りの石段の景色。秋は紅葉で真っ赤になるという。

 

 

西国三十三所巡りの巡礼者たち。

 

 

庫裡や内仏客殿の堂宇群がある

 

 

正面は庫裡の玄関、右手が内仏客殿。

 

 

塔頭の明王院

 

 

法堂

 

 

帰りの参道景色

 

 

帰りの仁王門。

 

 

 

 

 

仁王門前の参道景色。

 

 

満願蕎麦、満願うどんが名物。帰えりの旅を祈願し食べるとよい。

 

 

 

 

 

この辺りは東海道自然歩道が整備されているようだ。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりー

 インドでは、人間の一生というものを四つに分けている。最初は学んで勉強する。それを「学生期」という。次に社会人となって結婚をして大いに社会に貢献する。その時代を「家住期」という。さらに、非常に早く現役をリタイアして、山林などに隠遁し、人生とはいうふうに振り返る。その施策の時期を「林住期」という。あの鴨長明なども、五十歳の半場ごろには京都郊外の日野の自然のなかに住んで方丈記を書いた。そして「林住期」をすぎると、四つ目の「遊行期」に入る。「遊行期」には、自分の最後の死に場所のようなものを求めて、あてもなく旅にでる。インドにおいては、たとえばガンジス川の河畔をめざすとか、そういう旅にでたいのだろう。この「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」が人生の四つの大きなプログラムになっていた、というのである。そう考えると、「遊行期」のあてどない死への旅というのが、そもそも巡礼だったのではないかと考える。そうして西国三十三所巡礼では、一度、死への旅を体験することによって、ふたたび現生に生まれ変わる。生まれ変わって、新しい人間として元気よく生きていくのである。

 

 

 

御朱印

 

 

華厳寺 終了