『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

71 歓喜院

2023-12-26 | 埼玉県

古寺巡り 歓喜院

 

 

歓喜院は2年前に参拝したことがあるが、当時コロナ禍の真っ最中で聖天堂の拝観は中止されていて、見れなかった苦い思い出がある。そこで雲一つない快晴の日を狙い再び参拝することにした。当日は日曜日でもお目当ての堂宇は参拝客が少なく、眼がくらむような色彩と彫刻に施された建物をゆっくり拝観することができた。

歓喜院は日本三大聖天の一つで、埼玉日光とも称され、特に素晴らしい彫刻で装飾された堂宇が有名である。

寺の歴史ーー寺伝では治承3年(1179)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将・斎藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。

初鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が参拝したほかにも、中世には忍城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。

平成15年(2003)から平成23年(2011)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012)に聖天堂(本殿)は、埼玉県内における建築物としては初めての国宝指定を受けた。

 

参拝日     令和3年(2021)3月3日(水) 天候晴れ                         

       (再訪)令和5年(2023)12月22日(金)天候晴れ

 

所在地     埼玉県熊谷市妻沼1627                          山 号     聖天山                                  院 号     歓喜院                                  宗 旨     高野山真言宗                               寺 格     準別格本山                                本 尊     歓喜天御正体錫杖頭(重要文化財)                     創建年     治承3年(1179)                             開 基     斎藤別当実盛                               正式名     聖天山歓喜院長楽寺                            別 称     妻沼聖天山                                札所等     関東八十八箇所第88番                               文化財     聖天堂(国宝) 御正体錫杖頭、貴惣門(重要文化財)

 

 

 

 

駐車場から境内への参道。

 

 

境内図。                             (図面は歓喜院HPより)

 

 

 

 

貴惣門【国重要文化財】    境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。

 

 

屋梁間5.2m、桁行9.2m、棟高13.3m。二階は床組がなく屋根のみを二重とした重層門である。

 

初重妻側は左右対称の招屋根形式として、それぞれ独立した破風を付ける。それらを傘下に納めるように上層の破風が掲げられ、妻側に三つの破風飾りが付く、奇抜で意匠的な形式の門である。  (写真は熊谷市Web博物館HPより)

 

 

持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855)頃の完成。

 

 

彫刻は上州花輪村の石原常人主利が担当した。柱頭廻りを賑やかに飾る彫刻群は素木のケヤキ材で、彩色に代わって細やかな彫刻が施される。

 

 

門から境内を見る。

 

 

門を振り返ってみる。

 

 

貴惣門を潜り境内の参道。

斎藤別当実盛公の銅像。 平成8年(1996)に建立された。 平安時代末期に活躍した武士で治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いた。久寿2年(1155)、源義平が叔父源義賢を討った大蔵館(嵐山町)の戦いでは、義賢の子で2歳の駒王(後の木曽義仲)を保護し、木曽に送り届けた有名な話が残る。また、保元の乱、平治の乱では、源義朝につき活躍をしたことが伝わっている。その後は、平家との結びつきを強くし、平家領である長井荘の荘官となった。源平の合戦(治承・寿永の乱)では、一貫して平家方につく。水鳥の音で知られる、治承4年(1180)の富士川の戦いでは、「東国の案内者」として、東国武士について進言したといわれる。寿永2年(1183)、木曽義仲と平家の篠原の戦いで、味方が落ちていく中ただ一騎踏みとどまり、幼い頃に助けた木曽義仲軍に討たれた。実盛は悲劇の主人公としても知られ、吉川英治の「平家物語」のほかに「源平盛衰記」や歌舞伎、謡曲に取り上げられ、日本人として共鳴を呼ぶ武将として知られる。

 

中門。  参道の途中たつ門。妻沼の大火で焼け残ったとされる建物である。一間一戸切妻造の四脚門で、屋根は近年の修理により茅茸型銅板茸となっているが、古くは本瓦茸であった。境内において唯一江戸前期の様式を残している建物。

 

 

 

 

仁王門。  明治27年(1894)再建。参道の終点、本殿への入り口建つ、五間三戸の十二脚門で、屋根は入母屋造、瓦棒銅板茸。現在の建物は、明治24年に前身の仁王門が台風によるイチョウの倒木の下敷きとなり倒壊し、再建されたもの。

 

 

「聖天山」の扁額。

 

 

 

仁王門から本堂(聖天堂)を見る。

 

 

石舞台。本堂の前にある石造りの舞台。 境内で行われる様々な行事や奉納の催しが行われる、いわゆるイベント会場の舞台。

 

 

相撲の土俵。毎年10月の秋季大縁日大祭法要に行われる奉納相撲の場となる。

 

 

 

閼伽井堂。 仁王門を入ってすぐ左の堂。閼伽(仏用の御水)を汲む処であるが、今は使われていない。

 

聖天堂【国宝】    歓喜院聖天堂は、享保20年(1735)から宝暦10年(1760)にかけて建立された。彫刻技術の高さに加え、漆の使い分けなどの高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物である。またそのような建物の建設が民衆の力によって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されている。

 

 

聖天堂の造営資金は、聖天宮を信仰する庶民の寄付により賄われた。装飾には庶民の期待と憧憬が反映されたとみられ、結果として建築と装飾が訴和した、庶民信仰の象徴ともいえる建物が実現している。

 

 

 

向拝は正面に軒唐破風、その上に千鳥破風を飾る。 屋根は江戸時代より瓦棒銅板葺き。

 

向拝の正面。その正面には「琴棋書画」と呼ばれた彫刻がはめ込まれている。この琴棋書画とは、中国古来の文人における必須の教養や風流事を意味する、「琴」、「囲碁」、「書」、「絵」の四芸のことであり、日本では室町時代以降における屏風絵や工芸品の図柄などのモチーフとして多く見ることがでる。

 

 

 

向拝を横から見る。

 

 

 

向拝から仁王門方向の境内を見る。

 

聖天堂の立面図。 建物は正面から拝殿・中殿・奥殿の三棟の建物が順につながる。拝殿は桁行五間、梁間三間、入母屋造、中段は街行三間、梁間一間、両下造(屋根を両側にふきおろしたもの)、奥殿が桁行三間、梁間三間、入母屋造である。上から見ると棟の形が工の字型をした、権現造りと呼ばれる建築様式をもつ。桃山時代以降に神社建築に広く用いられた形式の一つで、代表的なものに日光の東照宮があり、聖天堂が位置する北関東周辺に多く現存する杜殿形式である。(図面は熊谷市WEB博物館から)

 

 

聖天堂の向拝のある正面だけは無料で拝観できるが、全体を見るためには正面の横からは拝観料を払って観ることになる。横の姿(南側)。

 

聖天堂の南西北側は塀で囲まれた、南側全景。中殿の屋根は奥殿・拝殿それぞれに接続し、両側に葺き降ろす。奥殿、拝殿の異なる高さの軒先を、中殿軒廻りの端部をねじ上げて連続させており、巧妙な納めを見せる。日光東照宮は、本殿の屋根の下に石の間の屋根が入り込り込むのに対して、若干時代の降る日光の大猷院霊廟は、相の間と本殿裳階を連続させており、聖天堂はこれと似ている。

 

 

拝観の入り口。

 

 

奥殿の妻側。

 

 

聖天堂は、平成15年(2003)から7年の歳月をかけ大規模菜保存修理を行った。聖天堂の西側から見る。中にはボランティアガイドがいて説明してくれる。奥殿の外壁面は華麗な色彩の彫刻で装飾されており、まさに豪華絢爛。

 

 

この堂の大きな特徴は、足元から軒先に至る建物全体を彫刻で飾り、さらに極彩色・漆塗・金箔押し・飾金物を施す壮麗な意匠にある。その意匠には、大工棟梁の統率のもと、彫刻師・絵師・塗師達の高い技量が発揮されている。

 

 

 

拝殿と中殿の接続部。

 

 

 

中殿の花頭窓の外の装飾は金色で鮮やか。

 

 

中殿と奥殿の間にある階段の装飾。

 

 

階段の下の小羽目彫刻。 左から牡丹(?)の蕾、中央にその花は開き蜜を吸う蜂が飛び、それを猫が見ている図柄。

 

 

 

内法部には大羽目彫刻を施した。

 

 

 

金箔に施された扉。南の陽を浴びてまばゆいばかり。

 

 

 

内法の大羽目彫刻。

 

 

鷹と猿の図。 川に落ちた猿を鷲が助けている図柄。猿は人間に、鷲は神様に例えて大聖歓喜天の慈悲深さを泡らしている。かの左甚五郎作ともいわれているが、上州の左甚五郎と言われた彫刻師・関口文次郎の作で、そのように伝わってしまったようだ。

 

 

 

彫刻の絵柄は七福神のうちの寿老人が鹿を従え、子供たちと、鶴・亀に餌を与える図。 南側は日当たりと影の部分があり、素人カメラマンの小生の腕でははっきりとした画像にならないのが残念であり、もったいない。

 

 

縁下には腰羽目彫刻をはめる。  

 

 

斗栱の上に載った猿は、縁下で建物を支えているように見える。堂には13匹の猿がいるという。

 

 

 

縁下の部分を見る。 角の龍の頭は、北側の龍と対になり、阿吽の龍の「阿龍」となる。

 

 

 

奥殿(縁下腰羽目の彫刻は「こまどり遊び」の図。

 

 

 

南側と西側(背面)の全景。

 

 

西の妻側(奥拝殿の背面)。 茅負(垂木の鼻:木口)から上軒付にいたる五重の軒付が見せる造形は、曲線が重なり合あって非常に装飾的である。

 

 

 

西側(背面)の軒下から大羽目部分。

 

 

唐破風下の彫刻「司馬温公の瓶割り」。 水瓶に落ちた友達を救うために高価な水瓶を割っている図柄は、いくら高価な物よりも人の命が大切との諌めを表したもの。

 

南面大羽目彫刻は、中央は七福神が酒を飲みながら囲碁に興じている絵柄。布袋が恵比寿の一手を見守り、その横で大黒天が見守っている。右手の絵柄は、大黒の俵で遊ぶ子供達。そして左側は、布袋ぶくろで遊ぶ子供達が描かれている。

 

 

大羽目から縁下を見る。

 

 

縁下の彫刻。すなどり七人に水・桃の図柄。

 

 

縁下の彫刻。夏祭りを様子の図柄。

 

 

北面と西面(背面)から全景。

 

 

縁下および軒下の組物の先に施されているのは、龍の頭でその数は70以上、その全てが、姿形・色が異なっているという。こちらの龍は「吽龍」で南側と対になっている。

 

 

 

北面。

 

 

毘沙門天が吉祥天と弁財天の双六を毘沙門天が見ているのだが、それに熱中し過ぎ天邪気を始末するのを忘れ、天邪気はのびのびとしている、という絵柄に彫刻。

 

彫刻は、上州花輪村(現在の群馬県みどり市)の彫刻師であった石原吟八郎を中心に制作されたもの。吟八郎は、日光東照宮の修復に参加したほか、北関東を中心とした多くの社寺建築に彫刻を残している。その最になるものが、吟八郎の弟子たちの『鳳凰』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北側の全景。

 

 

北側からの全景                        (写真はJTBのHPより引用)

 

 

夫婦の木。 欅の木と榎の木が、個々に互いに寄り添い絡み合い、助け合い、力強く古今を生きる神秘な縁結びの神木。恋愛成就のパワーを放つ夫婦の木だそうだ。

 

 

 

太鼓橋。  赤い橋で多宝塔の平和の塔への参拝道に賭けられた橋。

 

平和の塔。 昭和33年(1958)に建立の多宝塔。総檜造りで、聖天山北部の盛土上に建造されており、境内の各所からその偉容を確認することができる。塔は、昭和26年に締結されたサンフランシスコ平和条約を記念し、戦没英霊の供養と世界恒久平和を祈願して建立されたもの。本尊には十一面観音菩薩が祀られている。

 

 

 

鐘楼。  宝暦11年(1761)に建立。大正期および昭和26年(1951)に改修された。木造2階 瓦葺 建築面積35.24㎡ 屋根は二層形式の木造入母屋造平入桟瓦葺。角柱の四方転とし、中央に鋳鐘を吊る。軸部は赤色塗装され、支輪板には彩色の痕跡が残り、。現在は石積基壇の上にさらに基壇が築かれている。周囲に高欄を廻らせ、四方には錺金具を用いた柱が辺部より高く置かれている。

 

 

 

平和の塔の付近は鬱蒼とした木々が茂り、朱色の太鼓橋が鮮やかに写る。

 

 

太鼓橋の周辺は、鬱蒼とした林が広がる

 

 

本坊本殿。 本堂のある境内から少し離れた駐車場側に位置する。斎藤別当実盛公の次男、実長(出家して良応僧都)により、聖天堂の別当坊寺院として開創。同時に御本尊として十一面観世音が寄進された。

 

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

 

歓喜院 終了

 

(参考文献)歓喜院HP フリー百科事典Wikipedia 熊谷市WEB博物館HP          

      4travel.jp  (HP)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


70 築地本願寺

2023-12-23 | 東京都

百寺巡礼第43番 築地本願寺

 

埋立地に立つエキゾチックな寺院

 

 

東京都内における代表的な寺院の一つで、京都の西本願寺の直轄寺院となっている。

築地本願寺は江戸時代の元和3年(1617)に、西本願寺の別院として現在の日本橋横山町に建立され、「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし明暦3年(1657)の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、延宝7年(1679)年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。なお、このときの本堂は西南を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。大正12年(1923)の関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。また、58か寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転。

現在の本堂は、昭和9年(1934)に当時の宗教建築としては珍しい鉄筋コンクリート造で建てられたもの。

浄土真宗本願寺派の新体制移行(2012年4月1日付)に伴い、正式名が従前の「本願寺築地別院」から「築地本願寺」になった。これにより、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となる。

 

参拝日    平成29年(2017)4月5日(水) 天候晴れ (令和5年(2023)12月22日再訪)

 

所在地    東京都中央区築地3-15-1                        宗 派    浄土真宗本願寺派                              本 尊    阿弥陀如来                                  創 建    元和3年(1617)                              開 基    准如                                    正式名    浄土真宗本願寺派 築地本願寺                        文化財    本堂(国重要文化財)

 

 

 

境内地図

 

 

 

築地本願寺から新大橋通から東銀座方角を見た。

 

 

 

築地本願寺正面入り口。

 

 

 

築地本願寺イコール本堂で、本堂全景を見る。

 

 

本堂の前から境内を見る。

 

 

本堂から門の方向に境内を見る。

 

 

本堂【国重要文化財】     古代インド様式をモチーフとした建物。 関東大震災で失われた旧本堂の復旧事業として昭和6年(1931)に起工し、昭和9年(1934)に竣工。当時、本願寺派法主・太谷光端と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授の伊東忠太による設計である。大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔である。

 

宗教建築として、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造。2階建(一部に地下階を設ける)とし、建築面積は3,149.4㎡。本尊を安置する中央部と北翼部(向かって左)、南翼部(同右)からなる。この本堂はインド、西洋、イスラム、日本などの異なるモチーフを融合させた独自の様式を示すとともに、礼拝、説教、会議、事務など、仏教寺院のさまざまな機能を1棟で果たせるような合理的な設計になっており、伊東忠太の代表作の一つである

 

 

屋根は陸屋根で、屋上中央に半筒形のヴォールト屋根を上げ、その正面は蓮華をモチーフとしたインドの石窟寺院風のデザインになる。中央部正面には4本の列柱を有する向拝と大階段を設ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外観は1階が石張り、2階はモルタルに目地を刻んで石張り風に見せ、柱形を造りだす。陸屋根の周囲にはパラペットを設ける。柱頭やパラペットのデザインはインド風である。

 

 

北翼と南翼の屋上にはそれぞれインドの仏塔(ストゥーパ)風の塔屋があり、北翼は鐘楼、南翼は鼓楼である。

 

 

外観にはインド風の意匠が目立つが、1階を基壇風に扱って、列柱のある2階を基準階とする点、パラペットを含めて3層構成にする点など、全体の構成には西洋建築の影響もみられる。

 

 

2階の窓は日本の仏教寺院にみられる花頭窓をモチーフにしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

本尊を安置する内陣や参拝者のための空間である外陣は大階段を上った2階に位置し、1階は基壇風の扱いになっている。

 

 

 

 

 

大階段の手摺は独特の曲線を描き、左右に2体ずつの獅子像を置く。

 

 

階段の昇り口の両面の配された翼の生えた獅子像。仁王像と同じように右と左に獅子像を拝し、それも阿吽獅子像としている。こちらは左側で口を閉じた阿形獅子。後には鬣(たてがみ)があり、尾が細く先だけフサフサしていてる。入り口の柱にも獅子。

 

 

入口に設けられた柱。

 

 

入口から境内、そして東銀座の街並みを見る。

 

 

入口床のモザイク。

 

 

 

 

 

 

外陣手前の広間(前室)の、欄間はステンドグラスで装飾。 内側から撮影しお線香の煙がかすかに映る。

 

 

大階段を上がると「広間」と称する横長の前室を経て外陣がある。

 

 

外陣の入り口の様子。仏教賛歌(明治以降に西洋音楽を取り入れた仏教音楽)の伴奏用として入口入った左右にパイプオルガンを備え、キリスト教の教会堂のナルテックス(正面の玄関)を思わせる。

 

 

パイプオルガンは、仏教音楽の普及のために昭和45年(1970)に寄進された。毎月最終金曜日の12:20〜12:50に無料コンサートを行っているという。パイプオルガンは、大小2000本のパイプで構成されている。

 

 

外陣には約800席の椅子が並べられている。

 

 

外陣の端の通路は、寺というより教会に雰囲気を感じる。

 

 

外陣から内陣を見る。

 

 

その奥が本尊を安置する内陣である。外陣は畳ではなく椅子席とし、多くの椅子が背ってされている。

 

 

内部の柱や梁はコンクリート製だが、組物、蟇股、格天井などは木製で、和風仏堂の要素も加味している。

 

 

天井は折り上げ格天井で和風の趣き。

 

内陣須弥壇を見る。 築地本願寺は内部まで撮影が可能である。ほかの寺も開放してほしい。平成27年(2015)に銀行員・経営コンサルタント出身の安永雄玄氏が宗務長に就任し、他宗派信徒や訪日外国人などにも「開かれた寺を目指す寺」のプロジェクトが進められているので、その結果だと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平面構成は内陣の両脇に「余間」を設ける点、外陣を広く取る点などは伝統的な真宗本堂の形式を踏襲している。

 

 

 

 

 

組物と折り上げ格天井で構成。

 

 

 

 

 

外陣の腰壁の彫刻模様。

 

 

インド風窓を内側から。

 

 

花頭窓を内側から。

 

 

 

境内には全部で13種類の動物の彫刻が置かれている。これらの動物を探すのも築地本願寺の楽しみ。

 

 

動物の彫刻。 左上、鳳凰。 右上、馬と獅子。左下、牛。右下、馬と獅子。

 

 

像の彫刻。象は仏教と所縁の深い動物。釈迦の生母・摩耶夫人は象が体内に入る夢をみて釈迦を懐妊したと伝わっている。

 

 

手水舎。  石造りの豪華なもの。浄土真宗では、参拝の際に身を清める必要はないが、参拝者が遠くから歩いてきた時代、堂を汚さないように足を洗うためのもの。

 

 

大灯籠。 正門から右手方向に位置する。石柱に「威神無極」(その神々しいお姿は何よりも美しいという意味)と字が刻まれているが、写ってない。人の背丈と比べると大きさが比較できる。

 

 

親鸞聖人像。 境内の北西(築地場外市場寄り)の一画にたつ。

 

 

上左:眼科医・土生玄硯の墓  上右:江戸の画家・酒井抱一の墓。 下左:佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔。 下右:3本の石塔はなんだろう?・・・未調査。

 

 

築地本願寺(本堂)全景。

 

 

 

築地本願寺の隣は、築地場外市場。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー冒険家であった稀有な宗主と、独創的な建築を生みだしてきた異端ともいえる建築家が出会った。その出会いが無ければ、現在の築地本願寺は生まれなかっただろう。伊東と大谷が知り合ったのは、大谷探検隊がきっかけだったと聞く。築地本願寺とは、伊東忠太と大谷光端という型破りな二人が生みだした、奇跡の建築ともいえるだろう。はじめ門徒たちは、前例のない発想に驚き、伊東の設計に強く反対したそうだ。伊東は何度も挫折に味わった。そしてようやく手掛けた本願寺という大寺院の建築は、伊東にとって一生一代の大仕事だったと言える。ついに長年の計画が実現したとき、彼は深い感慨にひたったことだろう。そして、異色の建築家を起用した大谷宗主と、喜びを分かちあったにちがいない。二人のエピソードを思い描きつつ、改めて本堂や社務所を見てまわった。この異色の建築には、伊東忠太が自分の目でとらえたオリエンタルリズムが色濃く映しだされているような気がする。アラブ・イスラム社会、その起源である中央アジア、あるいはチベット、インドといったオリエンタル文明である。<中略> だが、この建築の特徴として見落とせないのは、建物のいたるところに彫刻された妖怪とも思える動物だ。猿がいる。像がいる。鳥がいる。寺務所の階段には、ペロリと舌を伸ばす獅子のような顔が彫られ、その舌が手すりになっていた。なんでも伊東忠太という人は、異常なほど妖怪が好きだったらしい。彫刻されたそれぞれの動物にも意味があり、仏教寺院としての願いがこめられていると聞いた。こうした動物をひとつずつ探してみるのも面白い。

 

 

御朱印   なし

 

 

築地本願寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第五巻関東・信州(講談社刊) 築地本願寺HP フリー百科事典Wikipedia

 

 

(百寺巡礼の参拝経過)

 五木寛之著「百寺巡礼」10巻に掲載の寺院100寺を参拝しようと、平成27年(2015)9月に三重県の専修寺から始め、令和5年(2023)末までに56寺を巡ることができた。途中コロナ禍の影響により3年ほど出かけられない時期があったが、足掛け9年間ほど続けた。残りの寺院は、あと6年ほどかけて訪れたいと思っている。

参拝ができた寺数

百寺巡礼 第1巻奈良       10寺参拝

百寺巡礼 第2巻北陸       1寺

百寺巡礼 第3巻京都Ⅰ      9寺

百寺巡礼 第4巻滋賀・東海    9寺

百寺巡礼 第5巻関東・信州    9寺

百寺巡礼 第6巻関西       4寺

百寺巡礼 第7巻東北       5寺

百寺巡礼 第8巻山陰・山陽     0寺

百寺巡礼 第9巻京都Ⅱ      5寺

百寺巡礼 第10巻四国・九州    4寺

 

 


69 石山寺

2023-12-19 | 滋賀県

百寺巡礼第32番  石山寺

母の思いと物語に救われる寺

 

 

 

石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(石山寺珪灰石)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている。

「蜻蛉日記」「更級日記」「枕草子」などの文学作品に登場し、「源氏物語」の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。

石山寺の歴史   「石山寺縁起」によれば、聖武天皇の初願により、天平19年(747)に、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王が現われ、こう告げた。「金峯山の金は、弥勒菩薩がこの世に現われた時に、地を黄金で覆うために用いるものである。現在の琵琶湖の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがってその地、石山の地を訪れた良弁は、比良明の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。そもそも正倉院文書によれば、この石山の地は、東大寺を建立するために近江国の各所から伐採してきた木材を集めておく場所であったのが知れる。この地が東大寺や良弁と強い繋がりがあったのが分かる。その後、天平宝字5年(761)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。石山寺の造営は国家的事業として進められていた。石山寺の中興の祖は、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐内供である。内供とは、天皇の傍にいて常に玉体を加持する僧の称号である。「石山内供」・「普賢院内供」とも呼ばれている。

東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされる。この頃には、だいたい現在見るような寺観が整ったと思われる。戦国時代の元亀4年(1573)に三井寺光浄院の暹慶が室町幕府第15代将軍足利義昭の味方をし織田信長に背き、石山寺の南にあった石山城に立て籠もったが、柴田勝家の攻撃を受けて降伏。この合戦によって石山寺のいくつかの堂舎が被害を受けている。信長によって寺領5,000石が没収され、信長の死後には豊臣秀吉によって文禄5年(1596)にいくつかの寺領が返還されている。慶長年間(1596~1615)淀君によって石山寺の復興が行われ、慶長7年(1602)には本堂の合の間と礼堂が改築された。

石山寺は全山炎上するような兵火には遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している

 

参拝日    令和5年(2023)6月23日(金) 天候曇り

 

所在地    滋賀県大津市石山寺1-1-1                        山 号    石光山                                   宗 派    東寺真言宗                                 寺 格    大本山                                   本 尊    如意輪観音                                 創建年    天平19年(747)                              開 山    良弁                                    開 基    聖武天皇(勅願)                              正式名    石光山石山寺                                札所等    西国三十三所観音霊場第13番ほか                       文化財    本堂、多宝塔ほか8件(国宝)東大門、鐘楼ほか(国重要文化財)  

 

 

 

境内地図

 

 

 

東大門(仁王門)【国重要文化財】     伝では源頼朝によって建久元年(1190)に建立されたとされる。細部の様式などから本堂の礼堂が建立されたのと同時期の慶長年間(1596~- 1615)に、淀殿によって新築に近い大幅な修理がなされたと考えられる。

 

 

三間一戸(桁行三間で、中央の一間が開口)の八脚門(本柱の前後に4本ずつ控え柱が建つ)で、両脇に仁王像を置く。屋根は入母屋造で瓦葺き

 

 

 

 

 

 

金剛力士像・吽形像。  門の両脇の仁王像で、鎌倉時代の仏師運慶、湛慶の作と伝えられている。

 

 

金剛力士像・阿形像。

 

 

門から参道を見る。

 

 

 

門を潜ると真っ直ぐな参道が続く。 両側には桜の並木が続く。

 

 

石の灯籠。

 

 

潜り岩。   参道の右手にある横穴と小さな池。 穴を潜ると願いが叶うというパワースポット。

 

 

手水舎の龍の口。

 

 

参道が続き、神木となる杉の大木の脇の石段を上ると本堂はじめ堂宇が建っている。

 

 

石段を上る。

 

 

 

石段は幾つあったか? 上り切ると正面に多宝塔。

 

 

 

階段を上りきれば、平坦な境内で正面に、凹凸のある奇怪な形状をした巨岩に驚く。正面に多宝塔が見え、左手に本堂が建つ。

 

 

石山寺硅灰石(国の天然記念物)        石山寺の名の由来となった岩。石灰岩が変成してできた珪灰石。日本の地質百選に選ばれている。

 

 

 

小高い境内にでて思わず息をのんだ。目の前にそびえる巨岩怪石。まるで頭上にのしかかってくるようだ。これが「石山」という寺の名前の由来となった岩である。(五木寛之著「百寺巡礼」より)

 

 

 

 

 

毘沙門堂【滋賀県指定有形文化財】    安永2年(1773)の建立。屋根は宝形で瓦葺。右の建物が観音堂。

 

 

建物は方三間であるが、外部からは桁行三間、梁間二間に見え、内部に入ると堂奥より4分の1ほどに柱が4本建つ特異な平面である。堂奥側が須弥壇になっているが、手前の柱に渡された虹梁や組物に特徴がある。

 

 

御影堂【国重要文化財】       石山寺開創の祖師、弘法大使、良弁僧正、淳祐内供を祀。元は三昧堂もしくは法華堂と呼ばれ法華三昧の道場であったが、淳祐の住居であった普賢院が倒壊した際に御影を移し、御影堂としたもの。

 

 

屋根は宝形の檜皮葺きで頂部に宝珠が載る

 

蓮如堂【国重要文化財】       三十八所権現社本殿の南側に位置する懸造の蓮如像などを祀る堂。現存するものは慶長7年(1602)に淀殿により再建されたものと考えられる。平面は桁行五間、梁間四間で、北面一間が広縁となっており三十八所権現社本殿と向かいあっている。堂の入口は東面の妻入であり、東側一間が吹さらしとなっている。屋根は入母屋造で文化8年(1811)に桟瓦葺になっている。

 

 

 

硅灰岩の前から本堂に進む。

 

 

 

本堂の前の境内を見る。

 

 

 

本堂へ。

 

本堂【国宝】    正堂と礼堂を合の間で繋いだ複合建築である。。現存する本堂は三代目で、奈良時代の草創期に建てられたものは桁行五丈、梁間二丈であったが、天平宝字5年(761)から翌天平宝字6年に、桁行七丈、梁間四丈に改築された。この建物が承暦2年(1078)で焼失し、永長元年(1096)に再建され、慶長7年(1602)に淀殿の寄進で合の間と礼堂が改築され、現在の形式となる。正堂は永長元年(1096年)の再建の姿を良く残し滋賀県下最古の建築である。

 

本堂の全体像が撮れないためわかりにくいが、本堂の構造は桁行五間、梁間二間の身舎(もや)に一間の庇を廻し、全体で正面七間、奥行四間である。身舎が内陣となっており、慶長年間(1596~1615)に新設された宮殿が設けられている。宮殿内部に如意輪観音を祀るが、隆起した硅灰石が本尊の台座となっている。

 

 

 

入り口側広縁。

 

 

本堂の正面は南面であるが、南面は懸造となっているため参拝者は東面の階段を登り礼堂の縁を回って礼堂に入るようになる。  奈良の長谷寺と同じ造り。

 

 

 

礼堂を見る。

 

合の間として、正堂と礼堂を繋ぐ部屋で天皇や貴族、高僧の参詣時の接待のための部屋があった。その部屋で紫式部が源氏物語を起筆したことにちなむ「源氏の間」とした。本堂の建物は戦国時代末期の再建のため、当時のものではないが、朝廷御用の御所人形司・伊藤久重作の紫式部の人形が置かれ、往時を偲ぶことができる。優美な火灯窓は「源氏窓」と呼ばれている。(写真はネットより)

 

 

本堂には外側に欄干のある広縁を廻す。

 

 

堂内から広縁を通し外の景色を見る。 うっそうと茂る樹木に囲まれている。

 

 

本堂は南側の傾斜地に南向きに建てられており、礼堂部分が懸造となっている。

 

 

 

懸造の寺は、京都の清水寺、奈良の長谷寺など観音菩薩を祀る寺に見られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

三十八所権現社【国重要文化財】      本堂のすぐ東側にある鎮守社。現存する文献などから慶長7年(1602)に淀殿により再建されたものと考えられる。

 

 

建物は大きな一間社流造で全体的に装飾の少ない意匠である。全体に彩色が施されていたが、現在はほぼ剥落してしまっている。屋根は檜皮葺き

 

経蔵【国重要文化財】           本堂北東にある小規模な校倉造で、石山寺一切経や校倉聖教などの文化財を収容してきた建物。建立時期は伝わっていないが、意匠などから16世紀後期と考えられる。校木を桁行と梁行で高さをずらさずに組み上げている。屋根は瓦葺で、校倉造では珍しい切妻造となっている

 

 

 

階段を上がると見えた多宝塔。

 

 

多宝塔【国宝】         寺伝では源頼朝が、平治の乱の後に石山寺が兄の源義平を平清盛から匿ってくれたことへのお礼で寄進したと伝わる。墨書より建久5年(1194)の建立とわかる。年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。

 

 

下層は方三間で、内部の四天柱内に須弥壇を据え、快慶作の大日如来像(重要文化財)を安置する。また、柱や長押に仏画や彩色が施されている。

 

 

上層は12本の円柱に四手先組物が載り、深い軒を受ける。屋根は檜皮葺き

 

 

 

 

 

鐘楼【国重要文化財】         寺伝では源頼朝の寄進と伝わるが、細部様式などから鎌倉時代後期と考えられる。

 

二階建てで平面は上下層とも桁行三間、梁間二間で、上層には縁がまわされる。下層は白漆喰塗りの袴腰、上層は東西中央に扉があり、それ以外は連子窓である。内部には銘が無いが、平安時代のものとみられる梵鐘(重要文化財)が吊られている。下層から撞木を引いて撞く珍しい作りである。屋根は入母屋造で檜皮葺き

 

 

 

 

 

 

境内は山の斜面にあり、硅灰石を上部から見る。石山寺の名のとおり大きな石がゴロゴロしている。

 

 

 

 

 

芭蕉亭。  茶室。

 

 

月見亭      石山寺の尾根の東の突端部にある亭。瀬田川や琵琶湖を望む景勝地にあり、ここから見る月は「近江八景 石山の秋月」の図で有名である。

 

寺伝では保元年間(1156~1158)に後白河天皇が行幸した際に建立されたのがそもそもの始まりと伝わる。現存するものは貞享4年(1687)の再建。建物は桁行一間、梁間一間であるが、東西方向にやや長い平面である。東寄りの正方形の方一間部分は床を上げて舞台状にしている。建具などは無く吹さらし。懸造となっているが、袴腰があるため明確ではない。屋根は寄棟造で、上部は茅葺、下部は杮葺きであったが、平成29年(2017)に茅葺は板葺に葺き替えられた。

 

 

 

月見亭付近から見た瀬田川の風景。

 

 

 

心経堂。    平成2年(1990)に建立。花山法王西国三十三所復興一千年記念で建てられた。

 

 

 

光堂。     平成20年(2008)に石山を発祥の地とする東レ株式会社によって寄進された。。

 

 

懸造が特徴の堂宇。

 



無憂園。  境内の西側の平地に広がる庭園。

 

 

 

 

 

東大門の前の様子。

 

 

案内図。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー前述したように、平安時代から現在に至るまで、文学者や作家や歌人などたくさんの物書きが石山寺を訪れている。穿ちすぎかもしれないが、その背景には、ものを書く人間が抱えている罪の意識があるような気がする。文章を書くとか物語をつくる仕事は、いわゆる実業ではない。田畑を耕して農作物をつくる、あるいは職人としていろいろなものをつくる、といった生産的な仕事とは違う。非生産的な仕事であり、虚業なのだ。鎌倉時代になると「源氏物語」のように人間の愛欲を描いた小説は罪悪だ、ということになる。そして、紫式部の伝説は、フィクションを書いて人びとを惑わせた罪で地獄に堕ちた式部を石山寺の観音が救済した、という物語に発展していった。小説、フィクションを書くということは、ある意味で非常に業の深い、罪深い事である。そうした畏れのようなものが、ものを書く人間のこころの奥底にひそんでいる。私自身にも、やはりそれはある。自分のようにフィクションを書いて人を惑わす者でも、石山寺の観音はきっと救済してくれる。そんな思いが、かってここを訪れた文人たちの胸にあったのではあるまいか。美しい風景、すべてをあたたかく包んでくれる観音への信仰、蓮如の生母への思い、紫式部にまつわる伝説。こうしたものがすべて重なり合って、石山寺の魅力になっているのであろう。

 

 

 

御朱印。

 

 

石山寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 石山寺HP フリー百科事典Wikipedia

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


68 三井寺

2023-12-14 | 滋賀県

百寺巡礼第31番 三井寺

戦いの果てに鐘は鳴り響く

 

 

 

6月の下旬、近江八幡、湖東三山、大津と安土、五個荘をそれぞれ一日掛け、3泊4日の琵琶湖の旅。近江八幡に泊り、朝一番で三井寺に参る。4日間琵琶湖に滞在したが、まざまざと琵琶湖を眺めることも無い4日間だった。

滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地に寺。正式には園城寺(おんじょうじ)である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。一般には三井寺(みいでら)として知られる。この寺には多くの文化財が残されている。 それはただ単に量的に多いというわけではなく、 国宝10件(64点) ・重要文化財42件(720点) の国指定文化財が示すように、質の高さはり全国でも屈指のもの。

平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。

寺の歴史   当寺は7世紀の近江の氏族大友氏の氏寺として草創された。9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、 正暦4年(993)には、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入る。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分された。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。

 

参拝日    令和5年(2023)3月23日(金) 天候曇り

 

所在地    滋賀県大津市園城寺町246                          山 号    長等山                                   宗 派    天台寺門宗                                   寺 格    総本山                                   本 尊    弥勒菩薩                                  創建年    7世紀                                   開 基    大友与多王                                 中興年    貞観元年(859)                              中 興    智証大師円珍                                正式名    長等山園城寺                                別 称    三井寺                                   札所等    西国三十三箇所第14番ほか                          文化財    本堂、勧学院など11件(国宝)    (国重要文化財)    

 

 

 

境内案内図。

 

 

 

 

門前からの風景。

 

 

 

 

 

大門(仁王門)【国重要文化財】    室町時代の宝徳4年(1452)に建立。 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺き。張間2間、八脚楼門形式。

 

もともとは近江の国、天台宗の古刹常楽寺(現在の滋賀県湖南市)に室町時代の宝徳4年(1452)に建てられた仁王門である。それを、豊臣秀吉によって伏見城に移築されていた。慶長6年(1601)に、それを徳川家康が当寺に寄進したもの。外壁は真壁造り板張り着色、上層部高欄付き、下層部左右仁王像安置。

 

 

 

 

 

金剛力士像(吽形像)。   大門の両脇には運慶作と伝えられる仁王像が安置されている。 文化財に指定のない運慶作の像ってあったっけ? 製作は康正3年(1457)といわれる。

 

 

金剛力士像(阿形像)。

 

 

組物などに群青、緑などの彩色があり、蟇股や木鼻などの彫刻文様、枓栱など組物には室町中期の特色がある。

 

 

 

蟇股。

 

 

 

 

 

 

 

仁王門から参道を見る。

 

 

 

境内側から仁王門を見る。



釈迦堂(食堂)【国重要文化財】     大門を入って金堂に至る道の右側にある。桁行七間、梁間四間、入母屋造、桧皮葺の簡素な構造である。天正年間(1573~1593)に造営した京都御所の清涼殿を下賜されて、元和7年(1621)に移築したものと伝えられる。

 

 

 

 

文政年間(1818~1831)に唐破風の向拝が増築されている。随所に古い手法を残す室町時代の建築で、中世の食堂の形式をよく伝えている。

 

 

とにかく境内が広く、緑が多い。

 

 

手水舎。     本堂に上がる階段の手前左手に位置。

 

 

本堂を階段の下から見上げた。

 

 

本堂【国宝】    現在の金堂は、園城寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599)に寄進したものである。

 

 

七間四方、入母屋造、檜皮葺の和様仏堂。建物全体は和様で統一され、木割太く、全体に低めで軒の出深く、重厚さの中に柔らかさを持つ、典型的な桃山形式の仏堂である。

 

この寺全体の、そして中院の中心となる堂宇。三井寺(園城寺)は文禄4年(1595)に豊臣秀吉によって闕所(けっしょ:追放・財産没収などに本来の所有者・権利者を欠く状態)とされ、堂塔が破却された。金堂は織田信長の焼き討ちで壊滅した比叡山延暦寺の復興の一助として延暦寺西塔に移築され、釈迦堂(転法輪堂)とされた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の西側に閼伽井堂の小さな堂宇。

 

 

 

向拝から境内を見る。遥か前方まで当寺の境内となる。

 

 

向拝を横から見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内陣を見る。     本尊は弥勒菩薩。用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり、園城寺草創の際に天武天皇が本尊として安置したと伝えられているものである。

 

 

堂内は外陣、内陣、後陣に区切られ、内陣の中央五間は床を外陣より一段下げて四半瓦敷きにした天台宗本堂の古式を伝えている。

 

 

 

本堂の前の境内。

 

 

鐘楼【国重要文化財】      金堂の左手前にあり、慶長7年(1602)に再建されたもの。近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる梵鐘(滋賀県指定有形文化財)を吊る。

 

 

日本の音風景100選に選ばれNo.58「三井の晩鐘」として登録されている。また、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘の一つとなっている。

 

 

慶長7年(1602)に長吏准三宮道澄が弁慶の引摺鐘の跡継ぎとして鋳造したもの、乳(鐘上部に付けられる突起)が合計百八個あり、近世以降多く造られる百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘として在銘最古とされる。実際に鐘楼を目の前にしてみると、予想以上に大きい。音色は荘厳で美しいといわれる。

 

閼伽井屋【国重要文化財】       閼伽(あか:仏前に供える水)を汲むための井戸を「閼伽井」、その上屋を「閼伽井屋」という。金堂の西に接して建つ小堂。格子戸の奥にある岩組からは霊泉が湧出している。この泉は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたことから御井や三井と呼ばれ、それがもととなって当寺は御井寺、次いで三井寺と呼ばれるようになった。現在の建物は、この霊泉の履屋として慶長5年(1600)、金堂と同じく高台院によって建立された。桧皮葺で、三間二間の向唐破風造。

 

 

随所に桃山風の装飾を施した優美な建造物である。また、正面上部の蟇股には左甚五郎作の龍の彫刻があり、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れていたので甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説がある。

 

 

左甚五郎作、龍の彫刻。

 

 

斜め格子の欄間。

 

 

境内の芭蕉の句碑。  奥の細道の長旅を終えた松尾芭蕉は、元禄2年(1689)12月からの2年間を、ここ大津で暮らした。『三井寺の門たたかばやけふの月』。

 

 

 

境内はかなり広い。堂宇は石垣や竹塀に囲まれ雰囲気がある。

 

 

 

階段を上って一切経堂へ。

 

 

一切経蔵【国重要文化財】     室町初期の禅宗様経堂。毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602)に、現在の山口県山口市の国清寺(現・洞春寺)の経蔵を移築したもの。

 

 

一間四方だが裳腰付きのため三間四方二層に見える宝形造、桧皮葺。

 

 

 

内部中央には、高麗版の一切経を納める八角形の輪蔵があり、中心軸で回転するようになっている。

 

 

内部の装飾は、色が褪せている者の極彩色だったと思われる。

 

 

三井寺で一般の参拝客が拝観ができるのは大きく三つのゾーンがある。本堂がある中院、大きな塀に囲まれ参道より一段高い唐院、そして大津の市街が見渡せる北院である。

 

参道より一段高く塀に囲まれた一郭が唐院であり、東を正面として一直線上に四脚門、灌頂堂、唐門、大師堂、長日護摩堂などが立ち並ぶ。豊臣秀吉による破却後の再興に当たり、慶長3年(1598年)と最も早く再建された。唐院という名称は、智証大師円珍が唐より帰国後の天安2年(858)に持ち帰った経典や法具類を納めるために、清和天皇より仁寿殿を下賜され、伝法灌頂の道場堂としたのに由来する。現在は、円珍の尊像を祀った大師堂を御廟とし、園城寺で最も神聖な浄域とされている。

 

 

四脚門【国重要文化財】        唐院の正門。寛永元年(1624)に再建されたもの。唐院は長らく現在護法善神堂がある場所にあったが、慶長の再興期に現在地に移設された。     

 

 

四脚門を内側から見る。

 

灌頂堂【国重要文化財】      仁寿殿を下賜されたものと伝えられており、五間四方、入母屋造、桧皮葺の住宅風建築で、大師堂の拝殿としての役割を備えている。内部は前後二室に分かれ、伝法灌頂などの密教の儀式が執り行われる。

 

 

手前が灌頂堂で左側に長日護摩堂。

 

長日護摩堂【滋賀県指定有形文化財】   寛文6年(1666)に後水尾上皇の寄進で再建された。三間四方、一重、宝形造、本瓦葺。本尊は不動明王で、長日護摩供を行う道場である。

 

三重塔【国重要文化財】      鎌倉時代から室町時代初期の建築。奈良県の比蘇寺(現・世尊寺)にあった東塔を慶長2年(1597)に豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601)に、徳川家康が当寺に寄進したもの。1層目の須弥壇には、木造釈迦三尊像が安置されている。軒深く、三重の釣合いよく、相輪の水煙など中世仏塔の特徴をよく表している。

 

 

 

 

 

中院と唐院ゾーンの参拝をすませ、北院ゾーンぬ向かう境内の道。

 

 

 

衆宝観音像。  途中にはこのような石仏も。

 

 

途中の案内板。

 

 

 

微妙寺。  正暦5年(994)に創建。現在は、三井寺の別院。

 

 

毘沙門堂【国重要文化財】    江戸時代の元和2年(1616)に建立。正面一間 側面二間 一重 宝形造 桧皮葺。 

 

もともと三井寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和2年(1616) に建立され、明治以降に三尾社の下に移築、戦後の修理に際して現在地に再移設。内部には文様などが彩色で描かれており、桃山建築の系譜を受け継いでいる。

 

 

 

 

昭和62年(1987)に建てられた柳田暹暎の歌碑。『限りなく刻へし如くたまゆらのことのごとしもいま定を出づ』

 

 

観音堂【滋賀県指定文化財】      寺域の南側、琵琶湖を望む高台に位置する南院の一区画である札所伽藍の中心堂宇。正堂、合の間、礼堂からなっている。 江戸時代の貞享3年(1686)に火災にあい、元禄2年(1689)に再建された。 礼堂:正面九間 側面五間 二重 入母屋造 本瓦葺、正堂:正面三間 側面二間 一重 入母屋造 桧皮葺。桁行9間、梁間5間の重層入母屋造、本瓦葺。

 

西国三十三所観音霊場第14番札所として知られる。後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に西方の山上、華ノ谷に創建された。当初は聖願寺や正法寺という名前であったが、文明13年(1481)に現在地に移された。貞享3年(1686)に焼失する。現在の観音堂は元禄2年(1689)に再建されたもの。。

 

 

本尊は智証大師作と伝えられる如意輪観音(国重要文化財)で、33年に一度しか開帳されない秘仏である。内部には多くの絵馬が奉納されている。 その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されている。

 

 

 

堂内には本尊の脇侍である愛染明王像(国重要文化財)、毘沙門天像が安置されている。

 

 

手水舎。

 

百体堂【滋賀県県指定有形文化財】 江戸時代の宝暦3年(1753)の建立。正面三間 側面二間 宝形造。堂内には、正面中央に本尊の如意輪観音像を安置し、左右には西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所のそれぞれの札所の本尊を模した計百体の観音像を祀る。入口の横には大津絵「鬼の寒念仏」が掛けられている。

 

 

 

鐘楼【滋賀県指定有形文化財】      文化11年(1814)に再建。

 

 

元々は「童子因縁の鐘」が下がっていたが、太平洋戦争中の金属類改修令によって供出された。現在は重要文化財の朝鮮鐘を模した鐘が吊るされている。

 

 

観月舞台【滋賀県指定有形文化財】     嘉永2年(1849)に建立された。琵琶湖疏水、大津市街、琵琶湖の景観を眺望できる。

 

 

脚下に足代を組んだ懸造の舞台。

 

 

懸造。

 

 

この札所伽藍区域は、三井寺の中で一番の高台にあり、大津の市街がよく見渡せる。創建当時は、木々も低く、ビルも当然ないので琵琶湖がよく見渡せたのだろう。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー三井寺の歴史をたどっていくとき、延暦寺との複雑な関係と抗争、興亡を無視するわけにはいかない。聞くところでは、三井寺は繰り返し延暦寺に焼き討ちされ、あるいは戦国武将の抗争にも巻き込まれて、これまで大小五十数回もの火災に遭っているという。堂宇を幾度も失っては、そのたびに再建されて甦ってきた三井寺。あたかも不死鳥のようなそのエネルギーは、いったいどこから来ているのだろうか。大門(仁王門)をくぐって、私は金堂の前に立った。ずっと以前から三井寺の名前はよく知っていた。しかし、これだけ威風堂々たる寺だとは、うかつにも想像さえしていなかった。大門、金堂、三重塔、諸堂それぞれが壮大な美しさを見せてたたずんでいる。

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

三井寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 三井寺HP フリー百科事典Wikipedia

 


67 金剛輪寺

2023-12-13 | 滋賀県

古寺巡り 金剛輪寺

 

湖東三寺のひとつ。「血染めのもみじ」と呼ばれる有名な紅葉の名所。

 

朝は雨だったが間もなく止み、外歩きには暑からず寒からず梅雨の合間の丁度良い日。朝から石塔寺、百濟寺、西明寺、そして金剛輪寺。実は、石塔寺の次に、日野町の近江商人のお屋敷2軒を見学したので、本日は6件目の訪問である。特に、この湖東三山は鈴鹿山脈の中腹に位置するため、それぞれの寺は境内が広く、高低差もかなりあり階段や坂道を上り下りする。さすがにこの金剛輪寺では疲れがたまり、参拝も端折ってしまった。

寺の歴史。  琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。奈良時代の中頃、天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山された。言い伝えによると、行基菩薩が一刀三礼で観音さまを彫り進められたところ、木肌から一筋の血が流れ落ちたため、その時点で魂が宿ったとして、粗彫りのまま本尊として祀ったとされる。後の世に「生身の観音」と呼ばれるようになった。

安時代の初めには、比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場とされて以来、延暦寺の末寺、天台宗の大寺院となりました。鎌倉時代末期には天台密教の一流派である西山流の本拠地となっている。

天正元年(1573)、織田信長の兵火で湖東三山の百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。江戸時代以降はは次第に衰微し、楼門の2階部分が崩壊したり、三重塔の三重目部分が倒壊したりしている。

幕末の慶応4年(1968)に薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を受けて、この寺で赤報隊が結成された。

 

参拝日     令和5年(2023)6月22日(木) 天候雨のち曇り

 

所在地     滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874                       山 号     松峯山                                  宗 旨     天台宗                                  本 尊     聖観世音菩薩(生身の観音)(秘仏)                    創建年     伝・天平13年(741)                           開 山     伝・行基                                 開 基     聖武天皇(勅願)                             中興年     嘉承年間(848~851)                          中 興     伝・円仁                                 札所等     近江西国三十三観音霊場第15番                       文化財     本堂(国宝) 二天門、三重塔、木造阿弥陀如来坐像ほか(国重要文化財)


 

 

 

案内図

 

 

 

総門。  総門と呼ばれる江戸時代の建立。門に吊るされている赤いちょうちんは「聖観音」。一間一戸、高麗門、切妻、桟瓦葺。

 

総門を入ったところに受け付けがあり、ここで拝観手続きをする。総門の前に駐車場があるが、総門からの本堂までの参道はかなりの距離がある。少々疲れもあり、参道はショートカットし、直接本堂に向かうため、本堂側の駐車場に止めることとした。

 

 

 

境内には紫陽花が咲き乱れていた。

 

 

 

本堂付近の境内の様子。

 

 

 

本堂の前の境内の様子。

 

 

本堂(大悲閣)【国宝】      元寇の戦勝記念として、近江守護の佐々木頼綱(六角頼綱)によって建立されたとされる。本堂の須弥壇金具には、弘安11年(1288)の銘が残っている。しかし、現存する本堂は南北朝時代に再興されたものとみられる

 

 

 

 

 

本堂の前に香炉。

 

 

 

 

 

 

正面の七間は総て蔀戸。縁は礼堂の三方のみに設けられている。

 

 

大悲閣の扁額。

 

 

堂宇の規模は、総檜造り、桁行7間・梁間7間、入母屋、桧皮葺。 向拝がない純粋な入母屋で、反りの美しい軒先が特徴。

 

 

金剛輪寺本堂と西明寺本堂は、ほぼ同じ時期に建立された七間堂である。金剛輪寺本堂には向拝がない点を除けば、造りもほぼ西明寺とほぼ同じ。

 

 

側面は、礼堂部分の前三間が妻戸。後四間が白壁。中央二間が内陣。後二間が後戸。

 

 

柱の上の組物は出組(一手先)、組物間の中備は間斗束。出組は、三斗組の大斗から肘木を一つ飛び出させ、この肘木の先端の上に三斗組を乗せたもので、一手先組ともいう。

 

 

 

 

 

 

 

 

鐘楼。  梵鐘は、鎌倉時代の乾元2年(1303) に河内の鋳物師助安によってつくられたもの。その梵鐘は、愛荘町立文化歴史博物館に展示されている。

 

 

二天門【国重要文化財】    屋根の腐朽が激しいため、令和5年度から屋根檜皮葺の全面葺き替えおよび木部部分の修理が行われていた。三間一戸、八脚門、入母屋、檜皮葺。

 

 

 

 

 

 

二天門から参道の石段を見下ろす。

 

 

 

本堂の脇の小道を上り三重塔に行く。

 

 

 

しばらくすると木々の間の三重塔が見えてくる。

 

三重塔【国重要文化財】    本堂の左(北)の一段高い場所に建つ。鎌倉時代 寛元4年(1246)の創建。桧皮葺、高さ 22.15m。。鎌倉時代の建立というが、様式的には南北朝時代の建築とみられる。織田信長の焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃し、塔の初層と二重目の軸部(柱、梁などの根幹材)と組物がかろうじて残るだけで、三重目はなくなっていた。

 

撮影の足場が悪く、素人写真では相輪までよく撮れない。現状の塔は、昭和50年(1975)から(昭和53年(1978)にかけて修理復元されたもの。欠失箇所は同じ滋賀県内の西明寺三重塔などを参考に復元したものである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一層の組子。

 

 

 

塔は高欄のない広い縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束。

 

 

 

 

 

案内図。

 

 

御朱印。

 

 

金剛輪寺 終了

 

 

(参考文献)
  
金剛輪寺HP フリー百科事典Wikipedia   滋賀県の塔(ブログ)  国宝建造物HP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


66 西明寺

2023-12-12 | 滋賀県

百寺巡礼第34番 西明寺

焼き討ちから伽藍を守った信仰の力

 

 

 

 

湖東三山二寺目の西明寺である。百済寺から東に約10kmほどの場所に寺はある。紅葉の名所だというので、その時期には大勢の人が押し寄せるのだろう。初夏の平日の境内にほとんど参拝者はなく、ほかに1組だけがだった。総門は西に面し、そこから名神高速道路を越えて多くの僧坊があった跡地を左右に見ながら、長い参道を歩いた先に二天門が建つ。二天門を入ると、正面に本堂、右手に三重塔が建つ。そのような堂宇の配置であるが、今回は車利用のため駐車した関係から、参道の途中の左側の本坊から参拝することとした。

寺の歴史は、寺伝によれば平安時代初期に三修上人が創建したいう。三修上人は、修験道の霊山として知られ、伊吹山の開山上人と伝えられている伝説化した行者である。伝承によれば、承和元年(834)に琵琶湖の西岸にいた三修は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思った。そこで神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。三修がその池に祈念すると、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が出現したという。三修に帰依していた仁明天皇はこの話を聞くと、その地に勅願寺として寺を建立するように命じた。そして三修はそれらの像の姿を刻んで祀ったのが、当寺のはじまりであるという。当寺のある場所の地名と当寺の別称を「池寺」というのは、この伝説に基づいている。承和3年(836)には仁明天皇により寺領が寄進され、諸堂が建築されたという。「西明寺」の寺号は前述の紫の光が西の方へさしていたことによる。

上述の承和3年(836年)建立を立証する史料はない。しかし、現存する本堂、三重塔は鎌倉時代のの本格的な建築であり、この頃には天台宗の寺院となり、かなりの規模であった思われる。やがて寺領は2千石、17の諸堂に僧坊3百を有する大寺院になっていた西明寺だが、元亀2年(1571)、延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、西明寺にたいしても信長の家臣である丹羽長秀や河尻秀隆によって焼き討ちの運命にあった。しかし、寺僧の機知により、山門近くの房舎を激しく燃やして、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたという。

この兵火の後は荒廃していたが江戸時代に入り、天海大僧正によって12石が供物代として与えられ、公海や望月友閑により再興された。さらに三代将軍徳川家光によって30石が朱印地として認められるなどの庇護を受けて徐々に復興し、近代に至っている。

 

参拝日    令和5年(2023) 6月22日(木) 天候雨のち曇り

 

所在地    滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26                       山 名    龍応山                                   宗 派    天台宗                                   本 尊    薬師如来(秘仏)(国重要文化財)                      創建年    伝・承和元年(834)                            開 山    伝・三修上人                                開 基    伝・仁明天皇(勅願)                            正式名    龍応山西明寺                                別 称    池寺                                    霊場等    西国薬師四十九霊場第32番ほか                        文化財    本堂、三重塔(国宝)、二天門、木造釈迦如来立像、木造不動明王ほか(国重要文化財)

 

 

 

境内案内図。

 

 

 

駐車場から直ぐの本坊の入り口。

 

 

 

本坊の前から本堂への参道を見る。 参拝の順路に従い、本坊を拝観し本堂に向かうことにする。

 

 

本坊入り口門。 門には大きな紅葉の木が青々と茂っている。秋に色付けば見事な景色を見せてくれるのだろう。

 

 

 

 

 

春には桜が花をつけるようだ。

 

 

 

 

 

門を潜るとよく手入れされた本坊庭園が出迎えてくれる。

 

 

6月下旬、紫陽花の季節でもある。

 

 

不断桜【天然記念物】    秋冬春に開花する珍しい桜。高山性の彼岸桜の一種の冬桜。

 

 

 

 

 

 

名勝庭園「蓬莱庭」へ。

 

 

蓬莱庭。   江戸時代、延宝元年(1673)、望月越中守友閑(甲賀望月家の武家から出家した人物?)が、当山復興の記念として築造した池泉回遊式庭園である。池は心字池となっている。  

 

 

 

 

 

 

 

 

築山の立石群は、本堂の本尊薬師如来と日光・月光菩薩及び十二神将等 を表している。植木の刈り込みは雲を表し、薬師の浄瑠璃浄土の世界を形にしたもの。

 

 

池の中央は折り鶴を形どった鶴島と亀島と名が付く二つの石島がある。

 

 

この庭園は小堀遠州の作庭を参考にした造りで、鎌倉時代に作られた八角石灯籠は、平家の侍であった石屋弥陀六の作。連珠模様の室町時代を偲ぶ石灯籠がある。

 

 

庭園から苔に覆われた境内の中を本堂に進む。

 

 

 

 

 

 

 

表参道から二天門を見る。

 

 

 

 

 

二天門【国重要文化財】      桁行3間、梁間2間。 入母屋造、杮葺きの八脚門。応永14年(1407)の建立とみられる

 

 

門には扉が無い。昔、門が建った頃、入口を守る二王が『おれがいるのに戸がいるか!』と怒鳴って扉を足で蹴飛ばし、その扉は遠く湖西地方まで飛んだ。そのような伝説がある。

 

 

 

門から表参道を振り返る。

 

 

増長天。    二天門には、二体の木像が寺を守っている。西明寺が、元亀2年(1571)に織田信長の兵火にかかって焼失したが、幸いにも本堂と三重塔、二天門、二天王立像は難を逃れた。 

 

持国天。      仏像はいくつもの木材をつなぎ合わせた寄木造で造られた。二体ともに像の高さは1.95mで、仁王像と同じように、持国天は口を開き、増長天は口を閉じている。二体は 正長2年(1429)、印尋(いんじん)によって造られた。

 

 

境内側から門を見る。

 

 

 

 

 

 

二天門、本堂、三重塔の境内を見る。

 

 

手水舎。

 

 

本堂【国宝】       母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。

 

 

現状は桁行、梁間ともに7間とする「七間堂」であるが、解体修理時の調査の結果、建立当初は桁行、梁間ともに5間の「五間堂」であり、南北朝時代に規模を拡張したとみられる。

内部は奥行7間のうち手前の3間分を外陣、その奥の2間分を内陣、もっとも奥の2間分を後陣および脇室とする。

 

内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(秘仏)(国重要文化財)を安置し、左右に日光・月光菩薩像、十二神将像、二天王像(国重要文化財)などを安置する。

 

 

 

妻側。

 

 

 

 

 

 

正面は7間の柱間すべてを蔀戸(しとみど)となっている。

 

 

向拝を見る。

 

組物間の蟇股には建立当初のものと南北朝時代の拡張期のものとがあり、後者の方がデザインが複雑になっている。建立当初の柱はその多くが位置を移動して再用されている。

 

 

組物は出三斗。正面には3間の向拝としている。

 

 

 

頭貫以外の貫を用いず、軸部は内法長押と切目長押で固めるなど、典型的な和様建築の手法。

 

 

本堂の前から三重塔をみる。

 

三重塔【国宝】        本堂の右(南)の一段高い位置に建つ、檜皮葺きの和様の三重塔。様式的に鎌倉時代後期の建築とされる。総高は20.1m。二重目、三重目の逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色である。

 

 

 

 

 

初重(一階)の戸口や窓の周りや、各層の屋根の下に見える手の込んだ組物「斗拱」にも鎌倉時代の特徴がよく表れている。

 

 

二層、三層に高欄を巡らす。中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束。組物は三手先組物、軒は二軒繁垂木。

 

 

相輪は日本の他の木造塔では銅製とすることが多いが、本塔の相輪は鉄製である。

 

 

初層、組物は三手先。初層の軒(二軒繁垂木)が流れるように美ししく、またの軒反りが美しい。

初層内部には、大日如来像を安置。初層内部は須弥壇と床面を除く全面に極彩色の絵画が描かれているが、現状ではかなり剥落している。絵画の主題は、内部の4本の柱に両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会(じょうじんね)の三十二菩薩(四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩)を表し、四方の扉脇の壁面には計8面に法華経曼荼羅図を表している。このほか、扉には八方天、須弥壇周りの長押には宝相華、牡丹、鳳凰などが描かれている。このうち柱4本と壁8枚は国宝建造物の一部であるとともに、「絵画」としても別途重要文化財に指定されている。(写真は西明寺HPより)

 

 

 

 

鐘楼。

 

 

 

十一面観音像。 光背の後ろの三千体の十一面小観音像には、奉納者の氏名が並ぶ。

 

 

 

地面は大部分が苔で覆われている。

 

 

 

 

 

青紅葉が美しい。緑の苔に紅葉が色づく季節に拝観できれば最高。

 

 

案内図。

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー寺の堂伽藍ののなかでも、空高くそびえる塔のすがたを見るのは、ことに楽しい。私はこれまでに、ずいぶんたくさんの塔を見てきた。そのなかでも、この三重塔はベストスリーにはいるどころか、一、二を争うほどすばらしいと思う。何がいいかというと、まず安定感があることだ。塔というのは、細くて突っ立っている。そのため、見上げると不安定な感じがすることがある。しかし、この塔はどっしりとした安定感があり、均整がとれていてじつにこころが落ちつくのだ。初層の屋根は大きく、二層はやや小さめで、三層目はさらに小さくなっている。また、屋根のそりを見ていると、いちばん下は大きくそり返り、真ん中は中くらいで、いちばん上はわりとフラットである。それによって建物のデザイン的な感覚が強調されていて、見ていて気持ちがいい。屋根のそりを描く曲線には、鎌倉武士の刀の切っ先を連想させるような鋭さがある。檜皮葺きの屋根、柱や組物、垂木なども、この塔の建築にあたった匠たちの技術の高さをうかがわせる。この塔と本堂は、鎌倉時代を代表する建造物として国宝に指定されている。日本建築の粋といってもいいこうした名建築は、いくら見ていてみ見飽きない。この塔や本堂を兵火から守ってくれた農民たちに、改めて感謝したいような気持になった。

 

 

 

御朱印。

 

 

西明寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 西明寺HP フリー百科事典Wikipedia 

滋賀県の塔(ブログ)


65 百済寺

2023-12-09 | 滋賀県

百寺巡礼第35番 百済寺

生きものの命が輝く古刹

 

 

 

朝から降っていた雨は止み石塔寺の次は、琵琶湖の東、鈴鹿山脈の中腹に建つ、百済寺、西明寺、金剛輪寺の湖東三山への参拝である。先ずは、百済寺へ。

寺伝によれば、推古天皇14年(606)に、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりである。百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。

平安時代から中世にかけて、北谷・東谷・西谷・南谷に1,000近い坊を持つなどかなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498)の火災で本堂とその近辺が焼け、その数年後には、近江守護・六角氏と守護代・伊庭氏との争いに巻き込まれてほとんど焼失した。これらの火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。それでも寺勢はやがて回復したといわれる。元亀4年(1573)に信長による焼き討ちに遭い、またも全焼した。ただ、本尊の植木観音は約8㎞離れた場所にある奥の院に避難させて無事であった。

天正12年(1584)に戦国大名・堀秀政によって仮本堂が建立される。慶長7年(1602)には寺領146石5斗を安堵され、次いで元和3年(1617)には徳川二代将軍秀忠より寺領100石を安堵される。寛永11年(1634)に、天海大僧正の弟子・亮算が入山して塔頭の千手坊の名を喜見院に変更し、当地は彦根藩の飛び地でもあったために彦根藩からの支援も得て復興が行われ、慶安3年(1650)に本堂・仁王門・赤門が完成した。よって本堂をはじめ現在の建物はすべて近世以降の再建である。

喜見院は今とは別の場所にあったが、元文元年(1736)に焼失し、翌年に仁王門下の左方に移転し、昭和15年(1940)に現在地に移転して本坊となった。参道両側には石垣で出来た僧坊跡である百坊跡・二百坊跡・七百坊跡がある。

 

参拝日     令和5年(2023) 6月22日(木) 天候雨のち雲り

 

所在地     滋賀県東近江市百濟町323                          山 号     釈迦山                                  宗 派     天台宗                                  本 尊     十一面観音(植木観音 秘仏)(国重要文化財)               創建年     伝・推古天皇14年(606)                         開 基     伝・聖徳太子                               札所等     近江西国三十三観音霊場第16番 ほか                    文化財     本堂、絹本著色日吉山王曼荼羅図、黒漆蒔絵箱1合ほか(国重要文化財)

 

 

 

境内図

 

 

百済寺の案内板。  駐車場の通用門側に。

 

赤門(総門)。    朱塗りのために通称「赤門」と呼ぶ、本堂と同じ慶安3年(1650)に建立された。過去、江戸後期・幕末明治初期・昭和三十年代の修理があり、平成30年(2018)に「平成の改修」として4回目の改修を行った。

 

 

<小野道風>おののみちかぜ/とうふう筆と伝えられる下乘石。

 

表参道。 赤門から本堂まで石段の長い道を進む。 湖東三山の寺では最も長い参道。参道の両側には老杉が林立し、支院跡の名残を残す苔むした石垣が続く。参道の途中には、極楽橋や矢杉、阿弥陀堂などがあるが、写真を撮っていなかったので画像、説明はなし。

 

 

 

 

 

林の中の石段をしばらく上ると仁王門が見える。

 

仁王門。   長い参道を上りきり本堂近くに立つ門。本堂と同じ年代に建立され、三間二間で一対の阿形像、吽形像の金剛力士像が向きあっている。二つの像は、日中に仕事を終え夜間は草鞋を仁王門脇に脱いで立ちながら休むという。

 

正面につり下げられた一対の大草鞋。昔は仁王像の大きさに応じて50cm程度だったが、江戸時代中頃から仁王門を通過する参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになり、触れると、身体健康・無病長寿のご利益があると言い伝えられ、草鞋が大きいほどに利益も大きいと、今では3mほどになった。
地元の方々が、約10年毎に新調する。

 

 

金剛力士像。 吽形像。

 

 

 

仁王門を振り返る。

 

 

観音杉。樹齢430年と推定される境内最大の樹木。 

 

本堂【国重要文化財】  室町時代の明応7年(1498)に火災にあい、文亀3年(1503)に兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573)全山焼失など幾度も火災に遭う。その後天正12年(1584)に、堀秀政により仮本堂が建立された。のち天海大僧正の高弟亮算が入寺し、堂舎再興の勅許を得て、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工。かつての本堂は現在より少し山手の広大な台地に、金堂と五重の塔があった。

 

本堂は、一重、五間六間、入母屋造。正面中央に軒唐破風が付せられている。湖東三山の金剛輪寺・西明寺の本堂よりもひとまわり小さい堂であるが、天台形式の構造をもった均整のとれた建造物となっている。なお、外部の総高欄の擬宝珠に「百済寺本堂 慶安5年壬辰3月吉日」の刻銘があり、そのときにすべて完成したことが分かる。

 

 

正面の入り口。 当時、右半分が改修工事中で仮設物で覆われていた。

 

 

正面の軒唐破風の天井の様子。 頭貫と敷桁の間に本蟇股。 軒唐破風の骨垂木の様子がよくわかる。

 

 

内部の外陣と内陣との間に引違格子戸があり、内陣の厨子には、秘仏本尊の2.6mもある巨像の十一面観音立像(奈良時代)を安置。

 

 

屋根の入母屋の様子。

 

 

妻飾りを見る。

 

 

 

 

 

本堂の脇に、三所権現社。  一間社流造で、本堂と同時期の建立で熊野三社の主祭神を祀る。

 

千年菩提樹。     樹齢は推定約千年。この菩提樹は山号にちなんで古来より「仏陀の聖樹」として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えてあったが、信長の焼き討ちに遇う。幸いにも熱が根まで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っている。中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当している。 

 

 

鐘楼。    現在の梵鐘は3代目で昭和30年(1955)の鋳造。初代は信長焼討ちの際に持ち帰られ、2代目(江戸時代に鋳造)は先の大戦で供出した。

 

 

本堂から石段の無いなだらかな坂を戻る。

 

 

坂の途中に展望台があり、湖東平野を一望できる。

 

 

この山の名は判らないが、展望台から望遠に写った山。

 

 

少し下ると弥勒菩薩半跏石像に遇う。

 

弥勒菩薩半石像。  境内に建つ「弥勒菩薩半跏思惟像」。座高1.75m・全高3.3mの石像で、当山寺宝、金銅製弥勒像(像高27cm)は秘仏であり、平素のお参りとして拡大したもの。2000年(平成12年)のミレニアムを記念して建立した最近の仏。

 

 

石段を下る。

 

本坊まで降りてくる。 この寺は山の中腹に建てられ、境内はかなり広く、赤門から本堂まではかなりの高低差があり、この本坊は下の平らなところに作られている。

 

 

表門。   本坊の入り口の門。

 

 

本坊・喜見院の堂宇。

 

 

本坊の玄関。  本坊は喜見院という堂宇で、阿弥陀如来を祀る。昭和15年(1940)に仁王門南側から現在の位置に移築された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の脇にある千年菩提樹の子孫の菩提樹。

 

 

ここから入園料を払い庭園の見学。

 

 

不動堂。    庭園入口にある堂宇。百済寺奥の院(大萩西ヶ峯)の不動堂を明治時代に本坊隣に移築したもの。木造不動明王二童子像を祀る。

 

 

 

 

 

 

不動堂の右側が庭園の入り口。

 

 

 

 

 

本坊・喜見院に池を挟み正面に作務所を見る。この庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した池泉廻遊式庭園となっている。

 

 

 

 

 

聖徳太子の願文に「一宿を経るの輩は必ず一浄土に生る」とあり、これにちなんでこの庭も東の山には弥陀観音勢至の三尊をはじめ各菩薩に見たてて石を配している。

 

 

喜見院の書院【国重要文化財】。 

 

 

 

 

 

 

 

観賞式の庭園であり、純穴(どんけつ)流の造園作法で作庭されている。鈍穴流の作庭は、幕末にころ、この寺からほど近い近江・五個荘で、遠州流の茶人。勝元宗益が創業した同園会社の作庭手法。なお同園会社は「花文」といい、近江商人のお屋敷を幾つも作庭している。

 

 

 

 

 

 

 

本坊庭園は別名「天下遠望の名園」と称され、西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で、広大なパノラマ展望を望めたという。



 

 

 

これらの巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川から集められたものを組み合せて作庭された。また、庭内には中世の石造品の残欠も多く見らる。

 

 

 

 

 

 

 

南庭。    通用門から表門にかけて広がる庭。 

 

 

 

通用門。  こちらが駐車場となるため、車での参拝は、この門から入る。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー私も静に湖東平野を一望して見た。すると、近江という土地の重要性が実感できる。日本最大の湖である琵琶湖が中心にあるため、滋賀県の平地は湖の周囲にわずかにあるだけの印象がある。しかし実際には琵琶湖は県全体の面積の六分の一しか占めていない。しかもその琵琶湖をとりまく土地はたいへん肥沃で、住民の暮らしは豊かだったのである。さらに、地理的に見てもここは非常に重要な場所だとわかる。西日本と東日本の接点に位置しているため、近江は古くから交通の要衝だった。主要な道としては東海道、東山道、北陸道の三つがここを通っている。かっての都、奈良や京都からも近い。北陸と畿内とを結ぶ琵琶湖の水上交通も、重要な役割を果たしていた。いわば近江は東西および南北の物流の鍵をにぎる場所だったのである。歴史のうえでは常に「近江を制するものは天下を制する」と言われてきた。天下統一をめざした信長は、近江の重要性を十分すぎるほど知っていたのだろう。そのため、叡山焼き討ちという荒っぽいやりかたで、近江の支配権をにぎろうとしたわけだ。その結果、近江は戦乱の舞台となり、多くの寺や仏像が兵火に失われた。日本でもっとも人口当たりの寺院数が多いのが滋賀県だ。その「仏の国」であった近江が、地理的な重要性から戦国時代に修羅の巷になったというのは、何とも皮肉である。

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

百済寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 百済寺HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


64 石塔寺

2023-12-07 | 滋賀県

百寺巡礼第36番 石塔寺

”石の海”でぬくもりを感じる寺

 

 

 

琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西側の山裾の地域には、古刹がいくつか点在している。公共交通では、廻り難いこともあり、今回はレンタカーで回ることにした。朝8時30分に近江八幡駅近くのレンタカー店からスタートし、4つの寺とお邸を2邸ほど訪問し、夕方5時まで戻ることにした。

まず最初は、石塔寺である。近江鉄道桜川駅の北東約2.2kmの地区にあり、前方に布引山が横たわっている。石塔寺は、聖徳太子が創建したと伝えられる寺院である。伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという。聖徳太子創建との伝承をそのまま史実と受け取ることはできない。しかし、石塔寺がある滋賀県湖東地区には他に長命寺や、このあと参拝する百済寺も、聖徳太子創建伝承をもつ寺院である。

境内にある数万基の石塔群の中で、ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承がある。平安時代の長保3年(1003)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、ある僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山の土中にある」と聞いた。寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。3年後の寛弘3年(1006)に、今の明石市の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。野谷光盛と天皇の勅氏平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。

以上の伝承は、後世の仮託であり、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみる。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区は渡来人700名余を、今の滋賀県蒲生郡あたりへ移住させた旨の記述書があることから、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。

鎌倉時代のには、三重石塔の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納され、安土桃山時代には織田信長の焼き討ちに遭い、七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した。その後江戸時代初期、天海大僧正が弟子の行賢に指示し、一部復興されている。

 

参拝日    令和5年(2023)6月22日(木) 天候雨のち曇り

 

所在地    滋賀県東近江市石塔町860                          山 号    阿育王山(あしょかおうざん)                        宗 派    天台宗                                   本 尊    聖観音(秘仏)                               創建年    伝・推古天皇在位年間(592~628)                     開 基    伝・聖徳太子                                札所等    近江西国三十三か所第22番ほか                        文化財    石造三重塔(伝・阿育王塔)、石造宝塔、石造五輪塔2基(国重要文化財)

 

 

境内図。

 

 

石塔寺入口の駐車場から入り口を見る。

 

 

 

 

 

入口から石塔が迎えてくれる。

 

 

境内は上下に分かれており、石塔のある地区は158の石段を上りこの山の上にある。

 

 

 

 

 

階段の途中のも無数の石塔が並ぶ。

 

 

 

 

 

階段を上り切れば平坦地で、大きな三重石塔を中心に多数の石塔が取り囲む。 当日は雨で、少々足場の悪い場であり、観察力も鈍る日であった。

 

 

 

 

 

見渡す限り、石仏・石塔だらけ、その数は三万体といわれている。

 

 

石造三重塔(阿育王塔:あしょかおうとう)【国重要文化財】    奈良時代前期建立。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大。高さ7.6m。材は花崗岩。言い伝えについては、当編プロローグで記した通り。 「あしょかおう塔」は、インドのアショカ王にまつわる伝承がある。

 

 

 

 

 

三重塔(阿育王塔)の周りの五輪石塔は、鎌倉時代に奉納されたものだそうだ。

 

 

 

 

石造五輪塔【国重要文化財】(右側2基)それぞれ嘉元2年(1304)および貞和5年(1349)の建立。                                          石造宝塔 【国重要文化財】 (左側)正安4年(1302)の建立。「宝塔」は、円筒形の塔身に宝形造(四角錐形)の屋根を付した形式の塔を指す。

 

五輪石塔。   五輪塔は平安時代に誕生したといわれる墓石で、上段から「空輪」「風輪」「火輪」「水輪」「地輪」と呼ばれる墓石があり、それぞれ自然の五大元素を表している。五輪塔を建てると亡くなった人はみな、最高の位と最高の世界へゆけるとされ、今日もなお宗派を問わず「ありがたい最高のお墓」といわれている。

 

 

 

 

 

階段を昇り切った片隅に建つ鐘楼。

 

 

そして階段を下る。かなり急である。

 

 

山門。   本堂への入り口の門。 大森陣屋から移築された門。 大森陣屋とは、出羽の最上義光の孫の最上義俊は、徳川幕府より近江蒲生郡内他で1万石を与えられ、最上家の家名存続を許され、その新領地に陣屋を構えた。それが大森陣屋である。

 

 

山門には山号である「阿育王山」の扁額が掲げられている。

 

 

三門から本堂側を見る。

 

 

 

 

本堂。    かつての石塔寺は、七堂伽藍と八十余坊の末寺を有する隆盛した寺院だったといわれる。応仁の乱とその後の織田信長の焼き討ちにより伽藍を焼失。その後、江戸初期に復興されたが、現在の本堂は、明治17年(1884)に建立されたもの。

 

 

内部を見る。

 

 

 

 

 

内陣。

 

 

本堂には、御本尊である「聖観音菩薩」が秘仏として安置されており、お前立ちとして「十一面観音立像」が安置されている。                    (写真はネットから借用)

 

 

 

本堂から山門方向を見る。

 

 

駐車場から周りの景色を見る。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーー石塔寺は「知る人ぞ知る」寺なのだろう。ここにはずいぶん文学者や作家たちが足を運んでいる。この石塔について書かれた文章を読むと、やはり、いずれの著者にとっても最初の印象は衝撃だったようだ。以下、思い出すままあげてみよう。司馬遼太郎氏はこう断言していた「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、私は生涯わすれることはできないだろう」(歴史を紀行する) また、白洲正子さんの場合は、こんなふうに告白している「あの端正な白鳳の塔を見て、私ははじめて石の美しさを知った」(「かくれ里」)そして、瀬戸内寂聴さんはさらに情熱的だ。「思わず声をあげた自分に気がつき、雨が降りかかるのも忘れて、塔の方へ駆けよらずにはいられなかった」(「寂聴古寺巡礼」) 二人三様に、カルチャーショックというか、鮮烈な感動を受けたことが伝わってくる。また瀬戸内寂聴さんによれば、石塔寺のすばらしさを教えてくれたのは、あの評論家として高名な小林秀雄氏だったそうだ。小林氏は「寺なら石塔寺、これが最高だ。ぜひ行っておきなさい」と熱心に勧めたという。石塔寺は決して大きな寺ではない。華麗な堂塔伽藍が見られるわけでもない。いわゆる”観光寺院”でもない。あるのは、ただの石の巨塔と無数の石塔石仏にすぎない。だが、石塔寺は訪れた人びとに、一度見たら忘れられないほどの強い感動を与えてきた。右(先)にあげた先達たちの文章からも、そのことが伝わってくる。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

石塔寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 石塔寺HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 


63 弘川寺

2023-12-06 | 大阪府

百寺巡礼第56番 弘川寺

西行と役行者を結ぶ山

 

 

 

観心寺の河内長野から同じ路線の富田林で下車。富田林駅前からは、日に数本しかない金剛バス(路線バス)で終点の弘川寺前まで20分強で到着。乗客は2人で途中1人下車し、ほぼ貸し切り。ところが、帰りは3時間後にしか便がなく、約1キロ先の住宅地のバス停まで歩いて乗ることになる。この地区の路線バスの金剛自動車は、12月20日ですべての路線バスを廃止するという。

弘川寺は、西行法師の終焉の地になるという寺である。天智天皇4年(665)役小角によって創建されたと伝えられ、天武天皇5年(676)にはこの寺で祈雨法が修せられて天武天皇から山寺号が与えられたという。平安時代の弘仁3年(812)に空海によって中興され文治4年(1188)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願し、天皇は回復した。その功によって奥の院として善成寺を建て寺号の勅額を賜わった。翌、文治5年(1189)には空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。

寛正4年(1463)に、河内守護・畠山政長が当寺に本陣を置いて、畠山義就が立てこもる獄山城を攻めたところ、逆に本陣である当寺を攻撃されて善成寺もろとも伽藍は焼失した。その後復興し、江戸時代に入り寛延年間(1747~1750)に歌僧・似雲がこの寺を訪れ、西行堂を建立している。

 

参拝日     令和5年(2023)3月2日(木) 天候曇り

 

所在地     大阪府南河内郡河南町弘川43                       山 号     竜池山                                  宗 派     真言宗醍醐派                               寺 格     準別格本山                                本 尊     薬師如来                                 創建年     伝・天智天皇4年(665)                         開 山     伝・役小角                                中 興     弘仁3年(812)                             中 興     空海                                   札所等     西国薬師四十九霊場第13番ほか                       文化財     木造空寂上人坐像、木造弘法大師坐像、木造扁額(大阪府指定重要文化財)

 

 

 

 

境内図。

バスの終点河内から弘川の小さな集落を少し歩けば、弘川寺の入り口に差し掛かる。

 

 

3月の初め、梅の花が真っ盛り。

 

 

参道を上る。平成元年(1989)には、西行法師800年遠忌を記念して弘川寺境内から続く山に約1000本の桜が植樹され、桜の名所となっている。

 

 

バス停から200mくらいで広川寺となる。

 

 

 

 

 

庫裡の前から参道を振り返る。

 

 

 

庫裡門。  本坊の入り口にあたる。

 

 

 

庫裡門の裏側を見る

 

 

本坊の堂宇。 庫裡にあたり当日改修工事中。

 

 

 

 

 

本坊の入り口。

 

 

本坊の庭。   本坊には立派な庭園があるが改修中で中に入れないので、弘川寺庭園は無し。

 

 

 

 

 

 

本坊と本坊の庭園は改装工事中により立ち入りができない状況で、西行記念館の見学もなし。

 

 

 

もみじ谷への通路。   もみじの林が見られる紅葉谷へ、通常は閉鎖。   

 

 

本堂に向かう。

 

 

 

 

 

 

弘川寺の案内説明板。

 

 

 

 

 

正面から見る境内。

 

本堂。   本堂は畠山氏の兵戦で寛正4年(1463)に焼失。それから500年経った後に再建されたものだそうだが、いつ建てられたのかが資料が見つからない。

 

 

他の資料にこの本堂は、京都から移築とあった(?) 入母屋造で唐破風の付いた気品のある向拝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三鈷の松(さんこのまつ)。   鳥居の右側の松は、高野山にあることでも有名な、三つに分かれた葉が特徴の「三鈷の松」が見られる。 三鈷の松といえば、唐に仏教を学びに行った弘法大師が、修業を終え日本に帰国する際に真言密教の道場を開く場所はどこが良いのかを、占うために三鈷杵(さんこしょ)という密教法具の一つを日本に向けて投げ、それが高野山に生える松の木に引っかかっているのを見つけたことから高野山に道場を開くことにしたという。

 

隅屋桜(すやざくら)。    楼堂と護摩堂の前にある枝垂れ桜。「河内鑑名所記」や「河内名所図会」に「すや桜」や「規桜(ぶんまわしざくら)」という名称が登場し、南朝の忠臣で弘川城主であった隅屋与市正高が弘川寺にて奮戦し、規桜の下で討死したという記述があるという。規桜は絶えてしまったが「隅屋桜」は今もここに生きている。

 

 

 

御影堂の左側にたつ石造りの鳥居。その奥に小さな社、鎮守堂が建つ。

 

 

 

本堂から左に御影堂。右に護摩堂を見る。

 

 

護摩堂。  鐘楼の右に建つ堂宇。

 

 

 

御影堂。  弘法大師像を祀っている。

 

 

 

鐘楼。

 

 

西行堂。   延享元年(1744)に広島の歌僧似雲法師が建立した堂宇。当日は屋根が破損したらしく青いシートが屋根を覆っていた。

 

 

西行法師の墓のある境内には本堂の横の細い道を5分ほど登る。

 

 

西行法師の墓のある境内。 

 

西行法師の墓。   平安の末期、西行上人は私淑した座主の空寂上人を訪ねてこの寺に来られた。そしてこの寺に過ごし、文治6年(1190)2月16日に73歳をもって入寂(徳の高い僧侶が死ぬこと)された。  

 

 

 

 

似雲法師の墓。     江戸中期、享保17年(1732)広島の歌僧・似雲法師は、西行を慕い、その終焉の地を求めて、この地に西行の墓を尋ね当てた。その後、西行の墓の周りに1000本の桜を植え、そのなかに「花の庵」を建てて住み、西行堂を建て生涯を西行に捧げ、自らも81歳でここに没した。

 

西行法師の墳墓の傍に建つ歌碑。        金沢の歌人尾山篤二郎の揮毫による西行法師の『願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』が刻されている。 享保17年(1732)ここを訪れた似雲法師が、西行法師の墓を探し当て、西行を慰めるため、墓の周りに桜の木を1000本を植えたと伝えられる。

 

 

似雲法師の墓の近くにある安田章生の歌碑。『西行人のみたまつつむと春ごとに 花散りかゝる そのはかのうえ』

 

 

西行法師の墳墓の傍にある西行の歌碑で揮毫は佐々木信綱の筆。『仏には 桜の花を奉れ わが後の世を 人とぶらはば』 

 

 

 

弘川寺のある弘川地区集落を見る。

 

 

 

案内図。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーこうした物語やロマンが生まれてくるのも、西行という人がずっと日本人のあこがれの的だったからにほかならない。それはなぜか、ということを考えたときに、やはり西行の歌が思い浮かぶ。西行が詠んだのは、まず花である。それも、圧倒的に春の桜の歌が多い。桜の花をこよなく愛する愛する日本人が西行の歌を好むのは、当然ともいえる。それだけでなく、西行は月を愛で、旅を愛した。花、月、旅と並べてみると、それは日本人が愛するものにすべて重なっている。日本人が西行を愛するのはそのためだという意見もあるが、言われてみれば、たしかにその通りだという気もしないではない。それ以外に、西行の「自由人」としての側面にこころ惹かれる人も多いにちがいない。俗っぽい言いかたをすれば、彼は若いころに家庭を捨て、妻と子をおいて飄然と旅立ってしまった。そして、それから先の人生は、あちこちに庵を結んで、好きなように暮らし、自然を愛で、歌を詠んだ。そうした拘束や制約のない生活は、じつは、あらゆる人間にとってのあこがれかもしれない。西行が勝って気ままに生きた自由人だという点にも、たぶん日本人は共感を抱いたのではあるまいか。

 

 

御朱印。

 

 

 

弘川寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊) 弘川寺HP フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ)大阪再発見、ちょっと気になる大阪発史跡旅


62 観心寺

2023-12-04 | 大阪府

百寺巡礼第55番 観心寺

心惹かれる三人の足跡が残る寺

 

 

 

 

近鉄難波駅7時58分発の電車に乗り河内長野駅に8時31分。河内長野駅前から定期バスに乗って18分ほど観心寺の門前のバス停に到着。大阪の南東の端に位置する河内長野の山の中。9時10分に観心寺の門を潜る。今日も降雨の跡の曇り空。それでも3月初旬にしては寒くもなく、どことなく春をかんじる日。

観心寺は、文武天皇の大宝元年(701)、飛鳥時代の呪術者の役小角(えんのおずぬ)によって開かれた雲心寺という寺であった。その後、平安時代の初め大同三年(808)に弘法大師(空海)が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺とした。弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。

大楠公 楠木正成。 南北朝時代に活躍した武将。観心寺中院が菩提寺で8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学び、河内長野市加賀田の大江時親に兵法を学んだといわれている。後醍醐天皇 の鎌倉幕府の討伐に加わり、赤坂城、千早城で奮戦して後醍醐天皇の勝利に貢献した。後醍醐天皇の建武政権では記録所寄人、 河内、和泉両国の守護などをつとめた。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争うが、摂津の湊川の戦いで破れ戦死し、首級は京でさらされた後、菩提寺の観心寺に埋葬された。
楠木正成とその一族の、私利私欲よりも民や国を優先した生き方は、江戸時代に流行した太平記や日本外史に描かれて民衆に人気が広まった。江戸時代後期には日本で最も尊敬される人物となり、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛などに影響を与え、明治維新の原動力となる。明治期には各地で神社が建てられ、皇居外苑には銅像が建てられている。

後醍醐天皇は当寺を厚く信任し、建武新政後(1334頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、 現在の金堂ができた。正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願。延元元年(1336)、神戸の湊川で討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。

 その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。

 

参拝日    令和5年(2023)3月 2日(木) 天候曇り

 

所在地    大阪府河内長野市寺元475                         山 号    檜尾山                                   宗 派    高野山真言宗                                寺 格    遺跡本山                                  本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    天長2年(825)または天長4年(827)                    開 基    伝・役小角                                 正式名    檜尾山観心寺                                別 称    檜尾山  河内観心寺  檜尾寺                       札所等    西国三十三箇所客番ほか                            文化財    金堂、木造如意輪観音坐像、観心寺縁起資財帳(国宝)  

 

 

 

境内図。

 

 

 

門前の前の梅の花。  関西花の寺第25番がこの観心寺。

 

 

史跡観心寺境内の石柱。

 

 

 

 

 

山門(大門)【大阪府指定有形文化財】    万治2年(1659)に再建。一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺き。

 

 

遺跡本山の扁額。  虹梁中備えは出三斗。木鼻は拳鼻。軒裏は一重まばら垂木。

 

 

門を潜り、受付け所から本堂方向を見る。

 

 

山門を振り返り背面を見る。

 

 

梅林も花盛り。

 

 

鎮守堂拝殿【大阪府指定有形文化財】    延享元年(1744)に再建。参道の右手に位置する。

 

 

堂宇は桁行6間・梁間2間。入母屋、本瓦葺。

 

 

参道右手に手水舎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訶梨帝母天堂(鎮守堂) 【国重要文化財】   天文18年(1549)に再建された。訶梨帝母(かりていぼ)は鬼子母神の別名。

 

 

母屋柱は丸柱。虹梁中備えは板蟇股。 間柱と丸柱の間、まぐさの上に彫刻模様が取り付けられている。かなり褪せているが木部及び造作物には色彩されていたと思われる。

 

 

向拝柱は角面取り。柱上の組物は連三斗と出三斗を左右に連結したような形状のもの。柱の側面には象鼻。巻斗が上に載り、持ち送り組み物にしている。

 

 

本堂に向かう。

 

 

本堂の前の境内。

 

 

本堂から山門方向を見る。

 

 

 

 

金堂【国宝】         南北朝時代、正平年間(1346~1370)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓。

 

 

堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。

 

 

和様では頭貫(かしらぬき)以外の貫(柱を貫通する水平材)を用いず、長押(柱の外側から打ち付ける水平材)を多用するが、この堂では頭貫以外に飛貫(ひぬき)、足固貫を用いている。

 

 

正面の向拝は3間。

 

 

堂内は手前二間通りを外陣とする。その奥は中央の五間×四間を内陣、その両脇一間通りを脇陣、背後の梁間一間分を後陣とする。

 

 

 

 

 

内陣はその奥の三間×一間を内々陣として須弥壇を構え、厨子内に本尊如意輪観音像を安置する。須弥壇の手前左右には曼荼羅壁を設け、それぞれに両界曼荼羅を描く

 

 

 

 

建掛塔【国重要文化財】   文亀2年(1502)に再建。もともとあった堂は楠木正成が三重塔を建立しようと建築に着工したところ討死してしまい、一重目を造り終えたところで工事が中止され、仏堂に改築されたもの。焼失後、同じような形式で再建された。

 

 

 

 

たしかにここだけ見ると、三重塔のそのものの造りだ。木組みは、軸部は長押と頭貫で固定され、木鼻は使われてなく、純粋な和様の造りとなっている。組物は尾垂木三手先。中備えは間斗束。桁のあいだをふさぐ部材がないため、隙間から母屋の小屋組が見える。

 

 

 

 

星塚。     金堂をとりまく7つの星塚(北斗七星)があり、その一つの破軍星(午)。弘法大師が厄除けのために本尊と一緒に祀ったもの。この星塚を一巡することで、その年の厄払いになるといわれている。 ほかに、貪狼星(子)、巨門星(丑)、禄存星(寅亥)、文曲星(卯酉)、廉貞星(辰申)、武曲星(巳未)、があり、北斗七星如意輪曼荼羅となっている。

 

 

御影堂【大阪府指定有形文化財】 堂宇は江戸中期に再建されたもの。桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間、桟瓦葺。

 

 

開山堂(本願堂) 【大阪府指定有形文化財】  正保3年(1646)に再建された。

 

 

開山堂の隣に楠木正成の首塚があるが、撮り忘れたようだ。

 

 

正面は3間。中央は2つ折れの桟唐戸、ほかの柱間は舞良戸。

 

 

阿弥陀堂。 弁天堂に東側に位置する。 桁行3間・梁間3間、宝形、本瓦葺。

 

 

鐘堂。  台形の石積みの上に乗り、その形状に合わせ下層が袴腰になっている。

 

 

辨天堂。

 

 

恩賜講堂への参道には白梅、紅梅が今が盛りと咲いていた。

 

 

 

 

 

恩賜講堂【国重要文化財】   昭和5年(1030)に移築・改造。昭和天皇即位大典のために京都御苑内に建てられた大饗宴場の一部を移築・改造したもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊宝館。   金堂に向かって左手の恩賜講堂への参道の手前に位置する。本尊の如意輪観音像の「お前立ち」としてつくられたとされる如意輪観音坐像(国重要文化財)をはじめ、地蔵菩薩、聖観音、十一面観音など仏像(いずれも国重要文化財)を拝観できる。ほかに三筆の一人の嵯峨天皇筆の「観心寺」の額など、観心寺は所有する数々の文化財が見られる。

 

 

 

内部。

 

 

 

重要文化財に指定された数々の仏像。

 

 

 

楠木正成公の鎧。

 

 

 

 

後村上天皇御旧跡。    後醍醐天皇の第9皇子であった後村上天皇(1326~1368)は、1359年南朝2代目の天皇としてこの地に約10か月滞在し政務を見ていた。ということは、観心寺は皇居あったといえる。後村上天皇は、ゆかりの深いこの寺の東側の山中に埋葬されたため、観心寺の境内には宮内庁が管理する御陵(後村上天皇檜尾陵)があるのだが、見ていなかった。

 

 

帰りの風景、山門側を見る。 楠木正成、後村上天皇にゆかりの歴史ある寺であるが、その関係する施設をよく見ることも無く帰ることになってしまった。・・・・バスの時刻に追われての寺巡りの結果かな。

 

 

楠木正成銅像。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーこうして[建掛堂」の前に建って眺めていると、楠木正成が実在の人物だったということが、急に胸に迫って感じられてくる。この寺で十五歳まで学問をした正成は、湊川の合戦で亡くなったときは四十三歳だったという。もしも、彼がなにかのきっかけで仏道に進もうと考え、そのまま観心寺で出家して僧侶になっていたら、日本の歴史はどう変わっていただろうか。小説家として、ついそんなことを想像してしまった。ふり返ってみると、この楠木正成ほど歴史のなかで評価がくるくる変わった人物はいないような気もする。南北朝の争乱ののちに足利氏が天下を取ると、正成は逆賊とされた。江戸時代になって再評価がはじまり、明治維新のときには、正成の思想が志士たちの精神的支柱となる。さらに日中戦争、太平洋戦争とつづく昭和の時代は、「天皇陛下のため、国のために身を捧げた」理想的な日本人として顕彰されることになる。正成のことを思い出してこの苦しい戦争を戦い抜こう、というわけだ。そして、終戦後は、打って変わって忘れられたようになっている。楠木正成本人の意志とはまったく関係なく、時代がイメージをつくっていったのである。そう考えると、人間の人生というものも、一編の”物語”にすぎないのだという気がしないでもない。

 

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

観心寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊) 観心寺HP フリー百科事典Wikipedia 

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