『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

7 薬師寺

2023-04-04 | 奈良県

第3番 薬師寺

時をスイングする二つの塔

 

 

 

百寺巡礼の7番目は、唐招提寺から直ぐ近くの薬師寺である。 唐招提寺からの道は狭い道で車が通る際には避けなければならないが、ゆっくり歩いても10分ぐらである。この通りは、華やかさは無くほどよい雰囲気。先ずは、玄奘三蔵院伽藍と白鳳伽藍の間にあるお写経道場の前に着く。
この薬師寺は境内は広く、2つの塔と金堂を配した式であり、東西の塔は回廊の内側に建つ独特の伽藍スタイルから「薬師寺式伽藍」と呼ばれている。すぐ近くにある唐招提寺と比べると一見華やかな寺である。かなり広い境内で、西ノ京側の入り口から入お写経道場から境内を巡るとなると訳のわからない巡り方になってしまう。                                                        

薬師寺は「法相宗」の大本山で、寺名は薬師寺。 平成10年ユネスコ文化遺産登録された。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成をみた。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移された(718)。

 

 

参拝日  平成28年(2016) 6月24日(木) 天候曇り時々小雨

 

所在   奈良県奈良市西の京457                                                         山号   なし                                                                  宗派   法相宗                                                           寺格   大本山                                                             本尊   薬師三尊像(国宝)                                                     創建年  天武天皇9年(680)                                                    開基   天武天皇(勅願)    

文化財  (国宝)東塔、東院堂、銅造観音菩薩立像、ほか                                                                                                                                      

     (重要文化財)南門、木造十一面観音立像、木造伝大津皇子座像、ほか

 

 

 

境内図

 

 

 

中門  昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興された門である。平成3年(1991)には二天王像も復元された。 回廊は、藤原京薬師寺では単廊であったとされているが、平城京薬師寺では複廊と呼ばれる2重構造になっているのが特徴。これも門と繋がる復元で第三期までが復興工事を完了している。 門の右手の仮囲いは東塔で、改修工事の真っ最中。

 

 

 

 

二天像  平成3年(1991)に復元復興された。原像は享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失。その後約400年復興をみることがなかったが、昭和59年(1984)お写経勧進により中門が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の仁王像ではなく武装した二天王像ということが判明した。二天王像の形式は、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考にした。

 

 

 

 

 

 

 

金堂    享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまった。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈だったが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態だった。金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願で、昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂を北側から見る。仮設の中は東棟の改修工事。

 

 

 

本尊 薬師三尊像  薬師如来【国宝】 薬師如来の左右に日光菩薩【国宝】月光菩薩【国宝】 いずれも白鳳時代の作で、 薬師如来のまたの名を医王如来ともいい、医薬兼備の仏様である。金堂内の白大理石須弥檀上に、 中央に薬師瑠璃光如来、 向かって右に日光菩薩 向かって左に月光菩薩が配されている

 

 

 

 

薬師如来台座【国宝】 薬師如来が座る宣字型台座で類例を見ない意匠を凝らしたもので有名。

 

 

 

 

吉祥天女画像【国宝】 天平時代の作 この吉祥天像のお姿は光明皇后を写したと伝えられ、麻布に描かれた独立画像としては、日本最古の彩色画。正月三が日だけ拝観できる。

 

 

 

大講堂  昭和51年に金堂、同56年に西塔が落慶し、以後中門・回廊の再建工事と平行して大講堂の復元設計に着手。基本設計は西岡常一棟梁で金堂以来一貫した裳階付の薬師寺独自の様式だ。大講堂は正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建造物。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弥勒三尊像【重要文化財】 中央に弥勒如来、左に法苑林菩薩、右に大妙相菩薩。弥勒菩薩は釈尊滅後5億7千6百年の後に悟りを開かれた姿だそうだ。

 

 

 

 

仏足石【国宝】お釈迦さまがお亡くなりになって、約3~400年間はインドには仏像がなかった。これは仏さまを形に現わすのは勿体ないことであるとの考えからで、そのかわりに、仏さまの足跡を石に彫ったり、菩提樹や法輪に祈りを捧げてきた。
この仏足石は側面に記される銘文により、インドの鹿野苑(お釈迦さまが初めて法を説かれた所)の仏足石をもとに、天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石。

 

 

西棟    西塔 西塔は昭和56年(1981)に復興された。その鮮やかな色に目を奪われるが、それは奈良を表わす色使いでもあると言える。万葉集の一節に「あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり」と歌われている事からも、当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われる。「青丹良し」とは奈良の枕ことばでおなじみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東塔【国宝】    参拝した平成28年(2016)は解体修理中で見られない。五木寛之著の百寺巡礼に、西塔は目にも鮮やかな朱色と緑と白。塔の上の相輪が、明るい日差しを浴び金色に輝いていた。一方、東塔は創建当初のすがたで古色蒼然としている。私の目はクラシックな東塔のほうに親しみを感じる。と書いてある。事前調べ無しで来たので東塔が工事中とは知らず見れなくて残念である。(写真は薬師寺HPより)

 

 

 

食堂  僧侶が食事をとるためのお堂。 天平2年(730)に創建されたが焼失し、その後再建されたが焼失し、約1千年後の平成29年(2017)に三度目の再建がされた。堂内は文化功労者である田渕俊夫画伯により描かれた食堂のご本尊「阿弥陀三尊浄土図」を中心に「仏教伝来と薬師寺」の壁画が祀られている。

 

 

 

 

田渕俊夫画伯作による「阿弥陀三尊浄土図」と天井画は文化功労者の伊東豊雄氏のデザインによる雲の模様。

 

 

薬師寺参拝の後、暫くしてNHKEテレで「薬師寺巨大仏画誕生 日本画家田淵俊夫 3年間の記録」という60分番組をやっていたのですかさず見てしまった。 薬師寺では、16世紀までに焼失した伽藍の復興が50年に渡り進められてきた。今その事業が大き な節目を迎えている。伽藍最大の建築物である食堂に収める本尊となる6m四方の超巨大な仏画が姿を現したのだ。手がけたのは田渕俊夫(当時74歳)。平山郁夫の遺志を引き継ぐ現代日本画界最高の巨匠である。 「仏画とは何か」という根源的な問いに向き合い、生命の危機にさらされながらも挑んだ3年の記録である
(NHK番組HPより)

巨大仏画 6メートル×6メートルの大きさで、2017年5月に落慶した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玄奘三蔵院には、平山郁夫画伯が描いたシルクロードを歩む玄奘三蔵の姿を描いた大壁画がある。  田淵俊夫画伯は平山の弟子であり、師の遺志を引き継いだ日本画壇の巨匠である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東院堂【国宝】鎌倉時代の建立。養老年間(717~724)に建立されたが、現在の建物は弘安8年(1285)に建てられた鎌倉時代後期の和様仏堂の好例。

 

 

 

 

観世音菩薩像【国宝】 白鳳時代の作。 右手を静かに下げ、やわらかく上げた左手。胸を張り足を揃えて凛と立つ姿は白鳳の貴公子という。

 

 

 

 

四天王立像【重要文化財】 四天王は古代インドの神が仏教に守護神として取り入れたもの。西応2年(1289)に像が造られ永仁4年(1296)に彩色が完成。躍動感のある造詣が素晴らしく、色彩の保存状態が良好。

 

 

 

 

玄奘三蔵伽藍  玄奘三蔵(600または602~664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶。その教えの流れを継承している宗派が法相宗である。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成3年(1991)に玄奘三蔵院伽藍を建立。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休ヶ岡八幡宮【重要文化財】 薬師寺の南側に設けられた薬師寺を守護する社。

 

 

 

 

八幡三神像【国宝】  寛平年間(889~898)に栄紹別当によって勧請された祭神像。

 

 

 

 

近鉄西ノ京駅側の冠木門。

 

 

 

 

唐招提寺から薬師寺に向かう小道。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百時巡礼」からーー病気や死などに対する人間の恐怖や不安。そこから救い、安心させてくれるのが薬師如来である。一方で両脇の菩薩は、早く元気になって、一緒に楽しく生きましょう、と誘っているようだ。こうして見つめていると当時の仏教の信仰が、現実性と観念性のはざまにあったということを痛感する。日本に仏教が伝来した初期のころは、現世利益というものがやはり大きかったのだろう。「生老病死」という人間の悩みを聞いてくれるものとして、当時の仏教は人々に信仰されてきた。そのなかで黄金に輝く子の薬師三尊は、人々の心を強くとらえたのに違いない。そして官能的に感じるほど、生々しいエネルギーを発していたのだろう。それが、こうして千三百年以上の歴史を経て、人々に安らぎを感じさせる、この落ち着いた黒い姿に化身なさったのだ。そんな気がしてくる。

 

 

御朱印

 

 

                薬師寺 終了


6 唐招提寺

2023-03-26 | 奈良県

第4番 唐招提寺

鑑真の精神が未来に受け継がれていく

 

 

 

 

参拝日  平成28年(2016) 6月24日(木) 天候曇り時々小雨

 

所在   奈良県奈良市五条町13-46                                                         山号   なし                                                                  寺名   唐招提寺                                                          宗派   律宗                                                            寺格   総本山                                                           本尊   廬舎那仏                                                          創業年  天平宝字3年(759)                                                      開基   鑑真                                                                                             

奈良駅前からバスに乗って15分ぐらいで唐招提寺に着く。百寺巡礼を始めて6番目のお寺だ。この唐招提寺は、さすが低学年の修学旅行は少なく、また団体の観光客も少ない。ほかの寺のように華やかさ(?)は無いので、団体の観光ルートからは外されているようだ。その分ゆっくり参拝し、落ち着いて鑑賞できる。このお寺の伽藍は緑に囲まれとても静かである。国宝や重要文化財を多数所蔵しているのも特徴である。

鑑真は、日本への渡航を決意してから五度にわたる挫折。それでもあきらめなかった彼が、ついに奈良の平城京に着いたのは天平勝宝6年(754)だった。その鑑真が開いたのがこの唐招提寺である。

唐招提寺は、南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律)の一つである律宗の総本山である。多くの苦難の末、来日を果たした鑑真大和上は、東大寺で5年ほど過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開いた。「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけだった。金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の1人であった如法の尽力により、完成したといわれる。現在では、奈良時代に建立した金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっている。

 

 

 

門前の通り  いわゆる門前町や門前の通りらしきものはなく見た通りの質素。この先を左に曲がれば、徒歩10分ほどで薬師寺である。

 

 

 


境内図

 

 

 

 

南大門  天平様式で昭和35年(1960)に再建した。 5間の中央に3扉で、切妻屋根の造り。 

 

 

 

 

中央に掲げられた扁額は複製したもので、実物は講堂に収蔵されている。孝謙天皇(718~770)の御筆と伝えられている。148㎝×117㎝の檜の一枚板は、もともと飾り縁が取り付けてあった。奈良時代のもので現存する扁額は、この寺と東大寺西大門の二つだけ。

 

 

 

 

南大門を潜るとすぐに世界遺産登録の記念碑

 

 

 

 

南大門から境内をみる。 正面が金堂。

 

 

 

 

金堂の前から南大門をみる。緑が気持ちの良い境内。「唐招提寺は、私が大好きな寺の一つだ」と百寺巡礼で五木寛之が言っている。

 

 

 

 

金堂【国宝】  南大門を潜った真正面に金堂。 8世紀後半に建てられた荘厳な姿を今に遺す代表的な建築物。 外観は正面間口7間(中央の間口は4.7mで両端へは次第に狭くなり両端は3.3m)奥行き4間の寄棟造。

 

 

 

全面1間通りが吹き放ち。軒を支える組物は三手先と呼ばれる形で、その創建時代を表す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堂内は、連子窓から取り入れられた軟らかな光に満たされ、中央に本尊・廬舎那仏座像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いづれも国宝)が並ぶ姿は天平時代を沸騰させる厳かな雰囲気につつまれている。

中 廬舎那仏座像【国宝】 右 薬師如来立像【国宝】 左 千手観音立像【国宝

 

 

 

 

 

四天王立像  左上 持国天立像【国宝】  右上 増長天立像【国宝】  左下 広目天立像【国宝】  右下 多聞天立像【国宝】 いずれも奈良時代(8世紀)の作で木造・乾漆併用。 彩色。

 

 

 

 

梵天・帝釈立像【国宝】 

 

 

 

 

講堂【国宝】 奈良時代(8世紀後半)入母屋造・本瓦葺 平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、開放的な空間となっている。外観は平屋の入母屋造で、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれている。天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な存在。内部は、本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されている。

 

 

 

 

礼堂【重要文化財

 

 

 

 

 

弥勒如来坐像【重要文化財】 

 

 

 

左 持国天立像【国宝】  右 増長天立像【国宝】  いずれも奈良時代(8世紀)の作で木造。

 

 

 

 

鼓楼【国宝】 鎌倉時代 仁治元年(1240) 楼造・入母屋造・本瓦葺  金堂・講堂の中間の東側に建つ、2階建ての建築物。名称は「鼓楼」だが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれている。外観は、上下階とも扉と連子窓で構成され、縁と高欄が取り付けられている。堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔が安置されている。

 

 

 

 

 

舎利容器   鑑真和上請来の「如来舎利三千粒」を収める「白瑠璃舎利壺」とそれを包む「方円彩糸花網」、さらにそれを収める「金亀舎利塔)」で構成された唐招提寺の創建にかかわる重要な宝物。

左 金亀舎利塔【国宝】 右上 白瑠璃舎利壺【国宝】 右下 方円彩糸花網【国宝】 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鐘楼

 

 

 

 

経蔵【国宝】 もう1棟同じ造りの宝蔵【国宝】がある。奈良時代(8世紀)校倉・寄棟造・本瓦葺  礼堂の東側に宝蔵とともに並んで建つ高床式の校倉で、小さいほうが経蔵。唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉。

 

 

 

 

木々に囲まれた新宝蔵から御影堂への通路。

 

 

 

 

 

土塀の中は御影堂や中興堂のある北エリア

 

 

 

 

 

鑑真和上御廟の入り口

 

 

 

 

 

御廟のエリア  林の中の苔が美しい。

 

 

 

 

 

鑑真和上御廟  境内の北東の奥まった静かな場所に位置する鑑真和上の墓所。同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えない。現在は御廟前に和上の故郷・揚州から贈られた瓊花が植えられ、初夏にその可憐な花を咲かせる。

 

 

 

 

御影堂は土塀の奥にあり中には立ち入れない。

 

 

 

 

 

鑑真和上座像【国宝】   奈良時代(8世紀) 高さ80.1㎝ 日本最古の肖像彫刻であり天平時代を代表する彫刻。

 

 

 

 

 

御影堂【重要文化財】 重要文化財 江戸時代  境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物。元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964)移築復元したもの。現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。(写真は唐招提寺HPより)

 

 

 

 

 

御影堂の内部は東山魁夷の障壁画が特に有名。(写真はネットより) 日本を代表する画家、東山魁夷画伯が、10年を超える歳月をかけ、鑑真和上に捧げた大作。日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲」「濤声」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風」「黄山暁雲」「桂林月宵」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光」も画伯の作。

 

 

 

 

開山堂 礼堂の北側に位置し、鑑真和上身代わり像が安置されている。 

 

 

 

 

境内北西に位置する本坊付近。

 

 

 

 

なぜか北原白秋の句碑。 「水樽の柔き嫩葉はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ」

 

 

 

 

 

なぜか芭蕉の句碑  「若葉して御目の雫払ばや」  俳人松尾芭蕉が貞享5年(1688)陰暦4月8日に当寺に詣で鑑真和上像を拝しての句。

 

 

 

 

 

戒壇 金堂の西側に位置し、僧となるための授戒が行われる場所。創建時に築かれたとされているが再興されたもの。火災により建物は失われた。現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1978)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれた。

 

 

 

 

 

蓮の花  階段の前の蓮池に割く蓮の花

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内を見る

 

 

 

 

 

唐招提寺から薬師寺に向かう途中の風景

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」から   古来宗教というのは、宗教であると同時に一大総合文化だったと言えるだろう。医学も、建築も、音楽も、文芸も、思想哲学も、ファッションも、碁や、書や、尺八も、仏教と一体となって渡来したと言っていい。もちろん、料理や食材もである。

鑑真は五度の渡航に失敗して挫折を繰り返すが、それでもあきらめなかった。五度目の渡航の時には海南島へ漂流し、潮風のため目を傷めてしまう。その後、失明しながらも日本を目指した。そして六度目の航海でようやく九州の薩摩に漂着する。志をたててから実に12年の年月がすぎていた。六十六歳という年齢、しかも失明した身で、なぜ日本行きを途中で断念しなかったのだろうか。おそらく、彼にとって日本に就くことが、命を投げ出しても遂行すべきミッションだったからだろう。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

 

御朱印

 


5 東大寺

2023-02-12 | 奈良県

第10番 東大寺

日本が日本となるための大仏

 

 

 

 

参拝日    平成28年(2016)6月23日(水) 天候曇り時々小雨                                                  

所在      奈良県奈良市雑司町406-1                                               山号      なし                                                           寺名      東大寺                                                          宗派      華厳宗                                                          寺格      大本山                                                          別称      金光明四天王護国之寺                                                   本尊      廬舎那仏                                                         創建年     8世紀前半                                                        開基      聖武天皇

  
     

 

 

 

東大寺は、華厳宗の総本山で、聖武天皇と光明皇后の皇子の慰霊のために建立された金鐘山寺を前身とする。天平13年(741)に大和金光寺と改称して総国分寺となり、天平19年(747)ごろから東大寺の寺号が用いられるようになった。参拝の中心は「奈良の大仏」として知られる本尊の廬舎那仏座像。像の高さは14.7mで金銅仏像としては世界最大級を誇る。ほかにも二月堂や法華堂、南大門など多くの国宝、重要文化財の宝庫となっている。

 

 

境内案内図

 

 

 

 

奈良県庁の屋上から東大寺~若草山を見る

 

 

 

 

依水園からみた東大寺と若草山   南大門の屋根が見える

 

 

 

 

南大門の前の通り

 

 

 

 

南大門【国宝】  高さ25mにも及ぶ国内最大規模の門である。近くに立てば圧倒的な存在感で、鎌倉時代の大仏様式と呼ばれる建築様式を反映させた繊細さを感じさせる。天平時の創建であるが、平安中期の応和元年(962)の台風で倒壊し、その後鎌倉時代の正治元年(1199)に、東大寺中興の祖と言われた重源上人が指揮をする中で復興された。 多くの円柱や貫と言われる柱を巡らし、内部は天井がない吹き抜けのようにすっきりとした構造。見た目はシンプルであるが、実用的な観点からは地震にに強い構造で現在まで立派な姿を残している。

 

 

 

 

扁額は「大華厳寺」

 

 

 

 

円柱は長さ24mで縦に3本ずつ計18本で大き建造物を支えてる。

 

 

 

 

金剛力士像【国宝】 左に阿形像。右に吽形像。 8.4mの巨大像で鎌倉時代の建仁3年(1203)運慶や快慶などの仏師によってつくられた。

 

 

 

 

吽形像

 

 

 

 

南大門から中門にかけては幅の広い参道である。この広い道を修学旅行の生徒たちが埋め尽くす。

 

 

 

 

エサが欲しい鹿の群れが観光客にじゃれつく。

 

 

 

 

鏡池

 

 

 

 

中門【重要文化財】 享保元年(1716)頃の建立とされる。朱色の門で東大寺にしては目立つ外観。大仏殿を取り囲む回廊の中心で、大仏殿の正面に位置しており大仏殿に参拝の正式な参入門として用いられてきたが現在は閉められている。参拝には左側の専用の入り口を使用する。

 

 

 

 

大仏殿【国宝】 中門左端の拝観入口から大仏殿を参拝する。

 

 

 

大仏殿は東大寺の金堂である。奈良時代に創建されてから二度の火災に遭い、現在の建物は江戸時代の広慶上人によって再建された。消失前の天平、鎌倉時代の大仏殿は間口11間ほどあった。現在の建物は7間に縮小されたが、それでも世界最大の木造建築物。

 

 

 

 

八角灯籠【国宝】   東大寺創建当初のもの。再度にわたる兵火にも難をまぬがれた。宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなり、火袋の大きいのが特色。火袋の四面には音声菩薩が、扉の四面には雲中を走る四頭の獅子が、それぞれ菱格子の透し地に浮彫りされている。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柱は欅材で檜板で周りを囲い銅輪と鉄釘で締めている。木造工法では世界最大の建物である。大仏殿には屋根が二層になっている、下の屋根は裳階で雨風除けのため装飾である。

 

 

 

 

外側正面にある唐破風という曲線のある飾り屋根があり、その下の「観相窓」を開くと、外から大仏の顔が見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堂内の内陣 6月の奈良は修学旅行生のオンパレード

 

 

 

 

広々とした堂内。「少し空いたかな・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廬舎那仏座像【国宝】 正面に奈良の大仏は、東大寺のご本尊となる。 

 

 

 

 

大仏の一番美しいポジションは、この角度だと言われる。

 

 

 

 

大仏の右手は「畏れることはない」という意味。左手は「人々の願いを叶えよう」という意味を表している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創建当時の東大寺の模型  二つの大きな七重の塔があった。

 

 

 

 

径1.2mの柱に空いた穴は、大仏の鼻の穴と同じ大きさで縦37㎝、横30㎝。潜り抜けると無病息災などの御利益を得られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鐘楼  ひときわ天空にそびえる鐘楼。 承元年間(1207~1211)に再建されたもの。重さ26.3トンを支える構造は太くて頑丈。

 

 

 

 

梵鐘【国宝】  高さ3.86m。径2.71m。 東大寺創建時の鐘。毎日夜8時に突かれ、日本三大名鐘の一つ。

 

 

 

 

三月堂への階段

 

 

 

 

三月堂 法華堂【国宝】  東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺の遺構とされる。旧暦3月に法華会が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。礼堂は入母屋造りで、正堂は天平初期の建築だが時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。

 

 

 

二月堂【国宝】   この堂で修二会(しゅにえ)が旧暦の2月に行なわれることから名が付けられた。寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火、焼失し、現在の建物はその2年後に再建。修二会の行事で、毎年3月1日~14日まで行われるお水取りは、長い伝統行事で1270回以上を誇り、多くの参拝者が訪れる。回廊を赤々と燃える松明が駆け巡り、終盤は数本の松明から滝のように火の粉が落ちる模様は壮観。参拝者は火の粉を浴びて無病息災を祈るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二月堂は24時間いつでも訪れられる貴重な場所で、ここからの眺めは素晴らしい。

 

 

 

二月堂から奈良市街を見渡す

 

 

 

 

二月堂の階段を下る

 

 

 

 

校倉造りで知られた正倉院宝物殿  大仏殿の北側に位置する。

 

 

 

 

正倉院  奈良時代や平安時代の官庁や大寺には、重要なものを納める正倉が設けられていた。この正倉が集まっている一画を正倉院と呼ばれた。あちらこちらに置かれ焦燥は、歳月の経過と共にいつした滅んで、わずか東大寺内の正倉が1棟当時のままで残り、これが正倉院宝庫である。 管轄は宮内庁。

 

 

 

 

正倉院からの帰り道から大仏殿付近を見る。 さすがこの辺りに観光客は見当たらない。

 

 

 

 

若草山のすぐ近くを通り春日大社に向かう

 

 

 

 

案内地図

 

 

 

ー百寺巡礼からー

千二百年以上の前の日本人が、燃え上がるようなエネルギーを持っていたからこそ、東大寺造営というとてつもないプロジェクトが実現した。国家創成期の日本人が持っていたエネルギー。それを思うと熱いものがこみあげてくる。これほど巨大なものを創った奈良時代の人びと、いにしえの日本人のすがたから勇気を与えられたような気がする。

 

 

御朱印

 

 

(参考文献)   東大寺HP  Wikipedia  百寺巡礼第1巻奈良(講談社文庫)

 

 

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