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詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

留守番

2025年04月13日 | 

母のいない部屋でわずかに家守する

これまで地上に降った雨が何粒だったか
途方もない数だけれど真実はある
わたしがこの家のドアを開けた回数も
誰も知らないけれど真実はあるのだ
三歳になる頃に越してきた家
家族五人で暮らし
何年も、何十年もかけて
一人、また一人と他の住処へ移っていき
いまや母のみ暮らす家

いまや母は特養のショートステイというものを利用している
誰よりもいちばんロングステイしている家を空けて
わたしはその留守宅に忍び込み
窓を開け、ほとんど枯れたようなサボテンに水を遣り、ゴミを捨てたり、掃除機をかけたり、トイレ掃除をしたり、ピアノを弾いたりする

うまくなったところで
誰にとってもいたくもかゆくもありがたくもない
ピアノの練習
うまくなりもせず
みんなが留守をしている家で一人

家族五人で暮らす小さな家には
ピアノの音は大きく響き
気兼ねした
だからみんなが出かけている時に弾くのが好きだった
こうしていると
みんながいたあの頃と何も変わらない

子どもの頃
眠れない夜は早く朝が来ないかと
窓から外を眺めていた
すり鉢状の地形の
斜面の一部を背負うマンションのベランダからは
円形劇場の観客のように広がる家々と
街灯の明かりが見え
それらを抱くように包む黒い空が
やがて白んで色を帯び始めると
街灯は沈んで
家々は明るい表情になる
わたしもきっとそれを鏡のように顔に映していた

仕事があるいま
夜目覚めて
カーテンの隙間から入る光に
うっすら外が明るんでいるのがわかると
がっかりしてしまうけど
夜は深いほどうれしいけれど
そんな自分になっているけど
家が持つ透明な不在
その真実も大きく変わってしまったのだけれど

留守番しながらピアノを弾いている時の気持ち
留守番している時の部屋の静けさ
驚くほど変わってない

 

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してしまうこと

2025年03月19日 | 

階段を上りきった時
ただ四角く刳り抜いただけのような
開け放ってあった窓から
水の線とコンクリートの線
それは同時に空の線
三つを組み合わせた図形が目に入り
海がそこにあることを
波の音が小さく胸の中で砕けるように感じて
不意に思い出が生まれていたと知った

真摯な思いなど持ち合わせていないけど
感動などという言葉で呼ぶこともなく見ていた景色が
感覚の波を絶え間なく繰り寄せて
引いていったあとに現れる絵は
大抵時代遅れだから
もうどこだったかも思い出せないのだけど

わたしは思い出によっていまの景色を見ている
だから歳をとるほどに鏡の中のように
景色は深くなっていく
だから自分のつまらなさやくだらなさを超えて
自分のことを大切にしてしまう

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夜の純粋

2025年01月19日 | 

 夜の帷が降りてくる。それはわたしをすり抜けたことばがあったからで、ほんとうは体は夜を透明にすり抜けてしまう。だからあなたもわたしもいる。ねんねん夜が神秘的になり。

 夜に染められるものは実は何もない。暗さという光に包まれているようなのだ。ぬばたまということばのおもたげな感触を、体なのか心なのか意識は、無意識の中で、しっかりとはかっていて、ゆめのなかにはひとと、こんぜんいったいとなった夜がねがえりをうっている。ぬばたまは小さな黒い実なのだそうだ。ぬばたまは言葉として学び、髪のような黒いものの枕詞だと教わったので、枕もすっかり重たくなってしまった。

 駅から家までのまっすぐな道に、病院がアーチのようにまたがる。どういう経緯でそうなったのか歴史は知らないけれど、てんてんと道を挟んで棟が分かれ、棟と棟とを、2階部分にあたる渡り廊下がつなげている。時にまだそこが明るくて、振り返る人のその瞬間を切り取っている。

 誰と話しているのかな。患者さん?先生?見舞いに来た家族?わたしも何度か行き来したその廊下の下をくぐって帰る。そのことを思う夜もあるし思わない夜もある。右側の棟のいかにも裏口きどった扉から夜、お父さんは出てきたのだった。あんなにおしゃべりだった人が、もう話すこともなくなって。

 どうか夜が比喩ではありませんように。なわとびのように、すれ違う人と人、互いにタイミングをずらした視線を投げかけあって、この夜に収まっている。この(不思議な)じかんのかんじは現実で十分。ゆめのなかでじゅっぷん。わたしは歩く毎日。夜という透明な空気にかくまわれて。地下鉄の駅から階段をのぼり、人工的な光から地上に出ても夜。銀糸で縫ったような灯りの続く商店街の通りを、同じように銀糸をのぞかせる厚い空を見上げながら泳ぐように歩く。

 いつか地上に生きるすべてのひとが夜を毛布のように感じられるときがくる。と思ってみる。もはや人工的に見えてしまうほどに美しい月がある。

 でも闇のほうが自然で、明るいことが特別なのだとしたら?昼を住み処とする私たちだから、明るさを当然のように思ってしまう。けれど光は在ることによってあたえられる。在るものはいつか無くなる。無いことが自然なのだとすれば。闇が本来だとすれば。

 神秘的だと感じるわたしはどこから生まれてきたのか。わたしは何に包まれているのか。繰り返される夜は、ねんねんしんしんと深まっていく。ねんねんしんしんと風に吹かれ、いつか消えていく二十億光年の彼方へ。

 見えるものが少ないから見えてくるものもあって、昼間とはまた別の道も見えてくる。ほんとうの夜は軽く、明るい朝は重い。見えすぎてしまうからだ。見えすぎて見えなくなる。見えすぎない夜に映し出されるものは毛布にくるまれている。そう感じるのは、わたしが人工物の町の回路に埋め込まれているからだろうか。それとも、わたしの野生が月を見ているからだろうか。

おかえり。

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テーブル

2024年11月18日 | 

切手貼った
見飽きた顔で
もはや退化
手紙を書くということは

 

明日のお天気は
曇りから雨
ぽてとさらだからあげなっとう
ほとんどすべてが循環なのだと思うと不思議だ
誰かのかけらの寄せ集めが今日のわたしになっている
わたしは無数の過去の世界からできている
なのに何十年も変わらずに
手相の筋も薄いまま

 

喫茶店でつぶす時間ってなんだろう
コーヒーカップを前に
湿度や風が大事だったりもして
自分に対して居留守を使ってみるのも手だ
だまされるのは駆け出しのセールスマンくらいか
他の人にはうざいくらいなのに
わたしは居るところにしか居ない
なのにこの広く困ったことばかり起こる世界で
いつもここに居る
布団があったら入りたい

 

窓の向こうの枝葉が揺れている
そのまた向こうに雲の割れ目があって
そこだけにっこり笑顔のように明るい

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時空を超えた話

2024年10月31日 | 雑記

前職で、朝、日経新聞の読み合わせをしていた習慣が残り、いまも通勤電車では日経新聞に目を通すことにしている。座れたら寝るし、読みながらうつらうつらしていることも多いのだけれど。

「春秋」蘭で、9月に亡くなった写真家 細江英公について触れられていた。28歳の時に三島由紀夫の自宅へ撮影に行き、庭にあったホースをくわえさせたり、ぐるぐる巻きにしたりと無茶なことをした、とのエピソードに興味が湧いた。ネット検索してみると、ちょうどフジフイルムスクエアで企画写真展をやっているとのこと。

上野の東京都美術館で開催されている『田中一村展』に行った後、立ち寄ってみることにした。東京ミッドタウンに着いて、降り始めた雨を避けるようにフジフイルムスクエアに駆け込む。ところが、フロアを見てまわっても、それらしき展示がない。『鎌鼬(かまいたち)』とか『薔薇刑』とか、ネットで見て、モノクロゆえか、さらにどぎつく感じた作品が見当たらない。

ラッキーなことに、ロベール・ドアノー展が開かれている。あれれ?という気持ちをいったん置いて、これが『パリ郊外』かぁ、モノクロ写真は味わいがあるなぁ、など思いながら、ひと通り見た。それにしても細江英公展はどこなのか。ネットで再度調べるも、開催場所は写真歴史博物館と書いてある。ドアノー展の入り口を見直すと写真歴史博物館とある。

不思議な感覚。ここにいるのに、ここにあるはずのものが見えない。まるで同時に存在している別世界に来ている、もしくは別世界があるのに見えない、スライドした窓と窓の間、現実が二重映しになっているところに嵌まり込んでいるような感覚。

ところで、『スピード』でお馴染みだったコンビ、キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロック共演の『イルマーレ』という映画を観たことがある。

湖に建つガラス張りの家。家を囲む湖とそのほとりの景色の、時間や季節による変化の中に、部屋が浮かびあがっている。

その家に越してきた男性と、転居していった女性が、家のポストで手紙のやりとりをするようになる。やがて、二人は二年の時を隔てて文通をしていることがわかる。サンドラ・ブロック演じるケイトが手紙を投函したり、返事を受け取ったりするために訪れるこの家では、その手紙を受け取ったり、返事を書いたりしているはずのキアヌ・リーブス演じるアレックスはおらず、一方、転居していったはずのケイトから手紙を受け取るアレックスは、この家にはしばらく人は住んでいなかったはずなのに、と思うのだ。

以前、似たようなことがあった。あくまで自分の感覚的に、ということだけれど。新宿NSビルのタリーズで、夜、夫と待ち合わせをした。夫から着いたと連絡があり、私は少し遅れてタリーズに着いた。ひと通り席を見て回ったが、夫の姿が見えない。携帯で電話する。「タリーズに着いたけど、いる?」「いるよ」「姿が見えないんだけど」

すごく不思議な感覚だった。『イルマーレ』の映画の中のように、二人が違う時空にいるような感じがした。同じ場所にいるのに、透明なガラスを隔てたようにずれがあって、重ならない。実は、同じビルにタリーズが二つあっただけだったのだけれど(そのことにもびっくりしたけど)、その不思議な感触は、頭の中というより身体感覚として残っている。

フジフイルムスクエアでの不思議も、『細江英公特別展』のサイトをあらためて見直してみれば、一年前の開催だっただけなのだけれど、自分のおバカさ加減に苦笑しつつも、その一瞬、時空を飛び越えたような感じがした。新宿NSビルのタリーズでの感覚が蘇り、その向こうには、ガラス張りの湖畔の家があった。

映画を観た後にはそんな感覚が自分の中に残るとは思ってもいなかった。でも、いつのまにか自分の身体感覚を作る風景の一部になっている。ちょっとした体験が重なり、その体験を捉える際のイメージの源が映像の中にあったことに初めて気がついた。

あの映画(もとは韓国映画がオリジナルのようで、そちらはまだ観ていない)は、湖の中に建つガラス張りの家であることが重要だったのだということにも、こうして時を経て初めて気がついた。邦題は『イルマーレ』という劇中に出てくるレストランの名前だけれど、原題は『The Lake House』(韓国のオリジナルは『イルマーレ』がタイトルらしい。ちなみにイルマーレはイタリア語で海という意味だそう)。

ガラス、そして湖という水。どちらも周囲の景色を映す媒体で、だからこそ、現実を二重にしながら、それらを映したままで、揺れ動いたりする。

ある映画が自分の中に風景やイメージを作っていて、そのイメージが、窓を通して見る世界のように、思わぬタイミングの他愛ない出来事の重なりに、時間と空間という奥行きを映して揺れた。

心象風景は、はかない。骨は何万年も残るかもしれない。でも、心の中にある景色はすぐに他の印象や記憶に埋もれ溶けてなくなる。わずかに残った感覚のモザイクも、体ではないのに、死とともに消えてなくなる。体ではないから、かもしれない。波紋で像がいっとき壊れても、頑固に景色を戻そうとする水面とは異なり、そこにないものまでも映すがゆえに、隠れてしまった景色もまた、たくさんある。

 

周囲の世界をかたどる水の表情の豊かさ

立山 室堂のミクリガ池では、さざなみが生み出す細かな光と陰が、ゆっくりと、渡り鳥のように水面の空を渡っていった。

コメント (2)
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