詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

「最高の時」は演出できない、という恐れ 1

2024年07月06日 | 雑記

転職先の新しい職場はこれまでよりも朝がゆっくり。楽でいいと思ったけど、通勤電車の混雑がピークになってしまうので、結局、始業の一時間前に出勤するようになった。

職場の近くのファミマで淹れたてコーヒーを買っていくのは前職からの習慣。

私は朝が弱く、布団から身を引き剥がすのも大変だし、生まれたてのゾンビ……、じゃなかった、死にたてのゾンビみたいに世を儚んで、フラフラしながら通勤電車に乗っている。電車を降りたら、重い体を引きずって、ようやく職場に着く。

不要な荷物をロッカーに放り込んで、パソコンのスイッチを入れて席に座ると、買ってきたアイスコーヒーを手元に引き寄せる。慌てるのが苦手な、のんびりタイプのゾンビなので、始業時間に業務をスムーズに開始できるように、大量に届くメールを仕分けしたり、自分のフォルダを整理したり、といった気楽なことをして、溶けかかった体を朝に慣らす。冷たい闇(アイス・コーヒー)の力を借りながら。

カフェインを注入し、自分のペースで、静かに何かしらの作業をしていると、体がしっかりとし始め、ゾンビだった私も人として息を吹き返す。

ところで、数日前から、私の机の脇には、郵便局の夏ギフトのカタログが置いてあった。会社に届いたものだが、経理の方から「見るならどうぞ〜」と渡されたのだ。捨てることもできず、しばらくそのままになっていた。

また別の話だが、労働法規に厳しい同期入社の人から、「始業前に仕事をする必要なんてないですよ」と言われて(なのにその人は始業の三時間くらい前に来て、掃除機をかけたり、給茶機の水を替えたりしてくれている!)、それもそうかぁ、少し自分のことに有意義に時間を使おうかしら、と思った。

そんなこんなで、ふと、郵便局の夏ギフトから夫の両親に何か贈ろうか、と思いついた。明日は始業前の、このゾンビから人へと生まれ変わる変身タイムを使って、カタログをパラパラめくろっと、と思った。

翌日、フラフラゾンビはいつものように暑さと怠さを乗り越えて職場に辿り着き、ひと通りの机のセットを終えて、アイスコーヒーを片手に夏ギフトをパラパラし始めた。旬の果物の詰め合わせ。果物の入ったゼリー。水ようかん。ジュースなどなど。なんとも喉ごしさわやかな誌面。なんか、心地良い。いやなんだか、異様に気持ちいい。もしかしていま、最高の時間かも。

あまりに気持ちがいいので、この時間をもっと延長したい、と思って、仕事が終わったらカタログを持って喫茶店に行こうかな、などと考えた。

いやしかし。長さは充分あるけれど、豊かさは乏しい私の経験からでも容易に予想がついた。実際にそうしたとしても、この心地良さは再現できないのだと。意図してできるものではないのだと。そうしよう、と決めた時点で何か違うものになってしまう。意図には「気分の無視」が付きものだからだ。

「え?カタログを始業前にパラパラしようと、前日から意図してたじゃん」と、ここまで読んでくださった方は思うかもしれない。でもそこで意図したのは行為であって、心地良くなること、ではなかったのだ。

そうだ、最高の心地良さは偶然にしか出会えない。心地良さを目指した途端、体の感覚は無視されてしまう。さらには、何に心地良さを感じるか、その条件は自分の中で、刻々と変わっていく。気温、湿度、体調、気分、少し前の出来事への忸怩たる思い。これから起こるであろうことへの期待や不安。これらが様々組み合わさって、いま、私にとって一番心地良いものは変化していく。

そんなふうに考えていると、ふとまた別のこと、自分の精神構造が、見えてきた。なぜ計画を立てるのが苦手なのか。もっと正確に言うなら、なぜ、必然性のないところで計画を立てるのが苦手なのか。

ほんとどうでもいい話で恐縮ですが、次回に続く。

きれいな空を見ると、気分は上向く。

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春にそよぐ

2024年06月19日 | 

春の夕暮れ

久しぶりによく晴れていた

昏くなっていく青空には

淡いピンク色のゆるやかなリボン

 

神宮球場の横を歩いていたら

わっと届いた歓声に

なんだか疲れているのに

なんだかにぎやかでうれしくなった

人工の光

強くなっていく

周囲のビルの名前

盛り上がってくる

 

ヤクルトファンだった父

夕食どきによく野球を見ていた

テレビが点いていれば

私もなんとなく見て

なんとなくお気に入りの選手ができたりして

赤いグローブのブンブン丸とか

 

結婚して家を出て

そういうこともなくなった

スポーツ観戦には興味がない

大勢の人と興奮のもとに連帯することにも

だけどにぎやかだとうれしいのはなぜだろう

歳を重ねるにつれ親族は減り

さみしくなっていく身辺

街灯が静かに照らす夜道のように

ひっそりしている私の内面

 

自分では出せないエネルギーを

たくさんの誰かが放出して

大気を満たしている

そんな外からの波動でわずかに震える

わたしとはつまらないと言うには

あまりにもかさばりすぎる

発光体

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今日のお天気 2024/5/31

2024年06月09日 | 雑記

夜になると、「ああ今日もなんとか終わった。ようやく布団に入れる」などと、うれしく思って、一日が終わることを大喜びしている。

そうやって何気なく過ごす一日一日に、私は確実に歳を取り、感じて考えて過ごしていることを、惜しむことなく忘れてしまう。私の人生は、重さのない感じた考えたことの見えない山積でしかないのに。

5/26(日)に日本の南の海上で発生した台風一号は、今日、温帯低気圧に変わった。

傘を差して家を出る。台風ではなくなったとはいえ、今日も雨。

このところ、身体なのか、気持ちなのか、疲れが取れない感じがする。のんびりできる時間もあるのに、なんだか休んだ気がしない。重く感じる体で家を出ると、雨だけど、ベタベタせずに、ひんやりした空気が心地いい。

道路の横断歩道のあたりにできた水たまりが細長い銀色の川のように見えて、その水面にたくさんの小さな透明な王冠があちらこちらと跳ねまわっている。

紫陽花の色は鮮やかで、学校の裏側の、いまはまだ誰もいない部室の静けさ、翳っている窓とそこに差し掛かる青々とした木々の枝葉との遠近感が、思い出す自分の高校時代のように、近くて遠く、幼い頃からこの距離をずっと眺めてきたような気がする。

空気なのか気持ちなのか、いろんなものの輪郭がくっきりと見える。そのことに目が覚めるような気持ちになる。体に芯が通り、足取りがしっかりする。見るということに強い意思はなかったけれど。見ているということは生きているということなのだとふと思う。

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すぐれている、という名前

2024年04月28日 | 雑記

誰それが優秀、とか、優れている、というときの、「優秀」「優れている」というのは、様々にある特徴のうちのひとつの名前なのではないか、とふと思うことがある。

ピアノの技術が優れている、記憶力が優れている、といった言い方であれば、それはそうなのかもしれないけれど、ある人を指して「優れている」というのは、一体どういうことなのだろう、と思ったりする。

人がそのように誰かのことを評価することを違和感なく聞いてしまうし、自分自身ももしかして誰かのことをそんなふうに言ったりしているかもしれないのだけれど。

人が「優秀」「優れている」というのは、一体どういうことなのだろうか。何かの分野で名を成したり、目立った業績を残したり、物事をどんどん進めることができたり、など、成果を出している、ということなのだとは、私にも分かっているけれど。

でも、それは一つの特徴にすぎないのではないか、と思ったりする。成果を出せる行動ができる、ということには、きっといくつか、もしくはたくさんの要素があって、その人はたまたまそういう行動もしくは思考をすることのできる特徴を持った人だった。努力や訓練でそうなれた、という人もたくさんいるだろうけれど、そういう方向に向かえる努力や訓練を発見し、積み重ねられる要素を持てる、という特徴を備えた人だったのかもしれない。

結果的に人に見える形で、今の世の中で認められる形で、何かをした人は、「優れている」と呼ばれる。「優れた人」だから、そういう結果を残せたわけではない。

A「これこれこういうことをしたから、あの人は優れている」という文と、B「あの人は優れているから、これこれこういうことができたのだ」という文とは、イコールのようだけど、実は大きな違いがあるのではないか、と思う。私の感覚としては、Aは真になり得るかもしれないけれど、Bは真ではなく、下手をすると優生思想のような危険な考え方になり得るかもしれないと思う。

三角形の内角の和は必ず180度になる、というような数学的、化学的な原理、法則とは異なり、ある人が真理として「優れた人」だから、成果を出せるのではなく、成果を出した人のこと、人が認めることをした人のことを「優れている」と言おう、ということに、人間界ではなっているだけのこと。

ある人がそのようであるには、その人なりの必然があり、それに対して評価をするということは、自然界の真理的な側面から見れば、できないはずだと思う。「優れている人」というのは、都合のいい人、という意味で言われる「良い人」と同じように、人間界的に、ある意味では都合のいい人にすぎないのではと思う。

なぜかというと、生物としては、本来は、多様な個体がいてくれないと困る、群れとしては、女王がいれば、そこに、突出することのないたくさんの働き者や、2割の怠け者(力温存派)がいなくては困る。いろんな遺伝子を持った個体がいてくれないと、一つの災害や、パンデミックで全滅してしまう。そんな摂理の中では、あらゆる個性はなんらかの役割を演じる特徴にすぎず、そこに優劣はない。「優れている」は真理ではなく、誰かが名づける名前なのだと思う。

それなのに、時々、人は、というか、私は、AとBを混同して、Bの言い方をしてしまい、さらには思い込んでしまう。ある人が優れている=特別な存在である=特別に大切にすべき人である=(天とか、運命、といった人を超えた世界から)選ばれた人である。だから、逆の発想も働く。

人間界で生きる私たちだから、人間界的に都合が良く、価値があると感じさせる分かりやすい結果・特徴を持っている人を大事にしてしまうのは、当然のことかもしれないけれど、それは、人の思惑によるものであり、真理ではない、ということを忘れないようにしたい、と思う。「結局人間界で生きているのだから、真理がどうとか関係ない」と思うかもしれないけれど、そんな時は思い出したい。真理ではない、人の思惑だから、ひっくり返ることもままある、ということを。

言葉のすごいところは、「優れている」という言葉だって、何に使っても自由だということだ。「優れている」という言葉を硬直的に使ってしまうのは、言葉のせいではなく、使用する人のせいで、たとえば世間では「怠け者」と言われる人のことを「みんなが必死で働いている中でも、動じずに怠けていられるなんて、あの人は優れている」などと言うことだってできる。

人間界で幅を利かせる価値観にのっかって生活することは、人間界で生きる私たちにはとても重要なことだとは思うけれど、「それは本当の本当の真理ではない」と、時には距離を置いて見てみることも必要だな、と思う。

*つくば海浜公園 ネモフィラ*







 

 

 

 

 

 

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あどけない足音

2024年03月02日 | 

窓を閉めて風を閉め出すと

夜は静かな箱になる

玄関からリビングまでの廊下

四つの扉に囲まれた細長い空間を

部屋着で裸足で歩く

私の足音が浮き上がり

耳の道に入ってきた

 

あどけないあしおとだった

とがらない

アピールしない

クエスチョンマークの足形の見えそうな

ひっそりした音

 

影が自分から離れてしまう話を聞いたことがある

足音も自分から離れてしまうことがあるのだ

離れないと聞こえない

いつも離れているのにいつもは聞こえない

 

あんたがたどこさ

あたしはひとり

でもあんたがた

は複数だよ

リズミカル

にもなるよ

引きずるようにも

できる

もったいつけたり

連弾したり

いろんな色合いつけて

いろんな連れ合いあるはずなのだけど

わたしのはペタリペタリ

重くもなく軽くもなく無垢

のように

色が

なかった

 

外から見える家々は過去と未来を孕んで

その壁の向こうの棕櫚の葉の形

鮮明に染め抜く夕焼けの町を

永く歩いてきたはずなのに

不意に訪れたあ

し音

あ足音

にはまるで

言葉がなかった

まるでオクターブのように

ふるえながら

離れながら

わたしに連なっていた

この感覚を知っているのはわたしだけかもしれない

わたしも他の誰もそれを確かめることはできない

永遠に

永遠に錯覚しかできない

永遠を前に命は月て

カーテンをそっと開ける

足音は独特の切株を数えている

時計なのかもしれない

 

生まれてからわたしにしかなったことがない

ああ足音はとても弱い

フローリングのひんやりした感触は

サイズをよこしまに変えることもできない

不安という繁みに押されるように作られた道

をほんとうに(という言葉があるならば)

あとへあとへと追いやられて

 

言葉がない世界に

わたしはわたしの論理と年輪を繕って生きている

傷つくより前に樹皮を纏って

急襲に貫かれたことはない

だからまだこんなふうに

無防備な音が出る

だからきっと

本に纏わる埃の匂いを嗅いでいれば

生きられると思ったり

その脇で忙しく怠惰にアリバイ作りに精を出して

何十年を生きてしまいふと

とても静かな人間だった

絶滅危惧種のようだった

まるで、足音だった

(それは身体を追いかけていく影)

 

一瞬で消える

音のつらなりを

足音とわかるのは覚えているから

わたしにまつわる

世界にまつわる

水の流れのような記憶

ペタリペタリと鳴っている

わたしにしかきこえない不安が

ときどき風にはためいている

(不安をきくなんていまやしあわせものだ)

 

遠い電車の音が風に乗って聞こえる夜がある

わたしの中のどんな気象条件がその夜

わたしに足音を届けにきたの

 

まだ論理を踏み固めていない

この先の悲しみや

この先の喜びを

受けとめているのだ

やさしい腐葉土を信じて

いま選ぶ時なのかもしれない

論理ではなく感情を開拓する道を

(それがきっとほんとうに考えるということ)

いつまでもあどけない足音で

いつか耐え忍ぶ

次第におもくなっていく足音

そのときでさえあどけなく

 

 

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