熊野街道
2020-05-07 | 日記
5月某日。ミスタースノウの「街道をゆく」シリーズ。

数日前に自分用のママチャリを買い替えた。電動アシスト車も考えたのだが、私の普段の行動範囲からすると、あんまり必要ではないかなと思ってね。電動は安いのでもママチャリ数台分の値段もするしね。電動で遊びたければ、またレンタサイクルでもええかなと。

今日は新車の試し乗りを兼ねて、熊野街道コースを走ることにした。「街道をゆく」シリーズは徒歩でないといけないのだが、たまには自転車で楽をしても構わんだろう。熊野街道も起点は北浜からになるんだけど、今日のスタートはうちの近くの住吉大社からにした。画像は住吉大社の裏門。あれの影響で終日閉門している。このように閉めきっているのは、千年を越える歴史がある住吉大社でも初めてなのではあるまいか。

熊野街道の昔の住吉村。街道の左には南海の住吉東駅、右に行くと住吉大社がある。住吉大社の正面鳥居前には紀州街道が熊野街道と平行する形で通っている。熊野詣が衰退してからは紀州街道が紀州方面へのメインルートになった。

昔の遠里小野(おりおの)村あたり。

大和川を渡ると堺である。大阪側は住吉区遠里小野、川向こうは堺市遠里小野である。江戸時代の大和川の付け替えによって遠里小野村は分断されてしまった。そのなごりで両方に地名が残っている。

境王子社跡。熊野詣が盛んであった平安時代には王子社という熊野権現の末社が街道沿いに点々と設置され、熊野九十九王子と呼ばれた。熊野詣の人々はそれを辿りながら旅をした。ここもそのひとつである。境は国境という意味で、境=堺になる。このあたりは河内、和泉、摂津の国境であった。

方違神社の横を通り、仁徳天皇陵に。街道は御陵の東側に沿う形で通っている。三重壕の外側なので御陵の本体は見えない。
(途中省略)

和泉国一の宮の大鳥神社。日本武尊命をまつる大きな神社である。ここは開けていた。

JR阪和線の鳳駅。今日はここまでとする。自転車で来たということは自転車で帰らなければならないということである。ここまで2時間ほどかかったから、あまり遠くまでは行けないのよ。

数日前に自分用のママチャリを買い替えた。電動アシスト車も考えたのだが、私の普段の行動範囲からすると、あんまり必要ではないかなと思ってね。電動は安いのでもママチャリ数台分の値段もするしね。電動で遊びたければ、またレンタサイクルでもええかなと。

今日は新車の試し乗りを兼ねて、熊野街道コースを走ることにした。「街道をゆく」シリーズは徒歩でないといけないのだが、たまには自転車で楽をしても構わんだろう。熊野街道も起点は北浜からになるんだけど、今日のスタートはうちの近くの住吉大社からにした。画像は住吉大社の裏門。あれの影響で終日閉門している。このように閉めきっているのは、千年を越える歴史がある住吉大社でも初めてなのではあるまいか。

熊野街道の昔の住吉村。街道の左には南海の住吉東駅、右に行くと住吉大社がある。住吉大社の正面鳥居前には紀州街道が熊野街道と平行する形で通っている。熊野詣が衰退してからは紀州街道が紀州方面へのメインルートになった。

昔の遠里小野(おりおの)村あたり。

大和川を渡ると堺である。大阪側は住吉区遠里小野、川向こうは堺市遠里小野である。江戸時代の大和川の付け替えによって遠里小野村は分断されてしまった。そのなごりで両方に地名が残っている。

境王子社跡。熊野詣が盛んであった平安時代には王子社という熊野権現の末社が街道沿いに点々と設置され、熊野九十九王子と呼ばれた。熊野詣の人々はそれを辿りながら旅をした。ここもそのひとつである。境は国境という意味で、境=堺になる。このあたりは河内、和泉、摂津の国境であった。

方違神社の横を通り、仁徳天皇陵に。街道は御陵の東側に沿う形で通っている。三重壕の外側なので御陵の本体は見えない。
(途中省略)

和泉国一の宮の大鳥神社。日本武尊命をまつる大きな神社である。ここは開けていた。

JR阪和線の鳳駅。今日はここまでとする。自転車で来たということは自転車で帰らなければならないということである。ここまで2時間ほどかかったから、あまり遠くまでは行けないのよ。
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