10月23日(日)
今日も幸村ゆかりの地めぐり。冬の陣が始まる前に行っとかんとな。
大阪城からスタートする。いつものように外国人観光客でごった返してる状況。それに今日は日曜日で幸村めぐりをしてる人も多い。入場待ちの行列どころか、入場券を買うための行列まで出来てる。今日はここから真田丸があった真田山に行き、天王寺の茶臼山まで歩く予定。
大阪城の中は博物館になっていて特別展を開催中。今日は入らないよ。入場までにどのくらい時間がかかるかわからないし、ここに入ると時間がかかる。平日に行った方がいいだろう。おそらく平日でも混んでるんだけどね。
本丸桜門の正面、二の丸にある豊国(ほうこく)神社。豊臣秀吉、秀頼、秀長を祀る。
境内鳥居前にある秀吉像。天守のほうを向いている。
大手門を出てすぐ。大阪放送会館。手前が大阪歴史博物館で、奥の大きいのがNHK大阪である。はいだしょうこさんも何度も収録で来てるね。
博物館では特別展を開催中。時間がかかるので、今日は入らない。
NHKのBKプラザは寄っておこう。ガラピコ。
はにゃ?
今日も早く帰って見るけど、次回からだよね。
大阪城公園の南側の難波宮跡公園を横に見ながら進む。645年の乙巳の変に伴い難波宮遷都。ここが日本の首都だったってことだよ。難波には外国との窓口である港(難波津や住吉津)があったから便利なところだったんだ。
越中井。細川越中守の屋敷の台所にあった井戸と伝わっている。細川忠興は徳川方だよね。こういのが残ってるのも非業の最期を遂げたガラシャがいたからだろう。
そのまま南へ下っていくと、聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)がある。聖堂の前の両側にはガラシャと高山右近の像があった。
玉造稲荷神社。大坂城の鎮守社とされていた。玉造はお伊勢参りの伊勢街道の起点であり、ここに参拝してから旅立つというのが一般的だったそうである。私も奈良までは歩いたよね。
境内には秀頼像がある。6尺5寸余と大柄だったという記録があるそうだ。
秀頼が奉納した鳥居。阪神大震災で損傷したため境内に移動されている。脚が埋まっているのは壊れてしまったからだろうか。
秀頼の胞衣を埋めた塚が胞衣塚大明神としてまつられている。桐のかたちをしたものがある。淀と秀頼を結んでいた胞衣塚だから縁結びの願掛けだろう。真田紐がたくさん結んであった。
長堀通に出た。ここは地下鉄玉造駅の上になる。このあたりが大坂城の一番外側の防御ラインである惣構堀があったところになる。南側の惣構は天然の谷を利用した空堀となっていたため、鉄壁の大坂城の唯一の弱点とされていた。幸村はこの空堀の外側の丘に防御陣地として真田丸を築くことで大坂城の弱点を克服しようとしたわけだ。
今回使用したマップ。弱点とされた南側の空堀もマップに図示されている。しかし、この弱点とは、突破される可能性がわずかでもあるという意味での弱点である。空堀は幅30m、深さ10mあったと推定されている(マップを見ると、幹線道路より広い)。当然、城側では射撃態勢に入ってるわけであり、どんなに力で攻め込まれても、簡単には突破されることはなかったであろう。冬の陣で徳川方は真田丸の守備範囲以外でも惣構を越えることはできなかった。
玉造駅から南へすぐ。真田丸があったとされるエリア(真田山)に入る。正面が三光神社である。ここは堀で囲われた真田丸本体の東側になり、柵で囲われた東郭があったとされている。上の写真の公園は宰相山公園となっていた。どうやら、真田丸本体があったところを真田山、東側を宰相山と呼んでいるようである。ところで、宰相とは普通に考えれば前田利常(徳川方)のことだと思うのだが?なぜ、真田丸の範囲に宰相と名の付く山があるのだろう?わからん。
三光神社。日、月、星で三光だと思うが、由緒書には天照大神(日)、月讀尊(月)、素戔嗚尊(星?)をまつると書いてあった。
境内にある真田幸村像。
幸村像の横に「真田の抜け穴」がある。大坂城まで通じていたという言い伝えがあるそうだ。実のところ、これは徳川方が掘った塹壕という説が有力のようである。とするとだな。ここは真田丸の東郭ということになるが、徳川方が占拠したということになるわけか。
神社と一体化してる公園(宰相山公園)を抜けると。
ここはなんだ?
説明しながら歩いてるグループがいて、なんなのかわからないまま、誘われたので付いて行くことにした。なるほど。ここは帝国陸軍の墓地だったらしい。「真田山陸軍墓地」。現地案内をしているのは、ここの管理をしているNPOの人たちであった。陸軍墓地は全国に何か所もあったそうだが、ここは日本で最初に設置され、最大の規模の墓地なんだそうだ。古くは西南戦争から日清、日露、一次大戦、そして二次大戦までの兵士の墓碑がある。戦死者だけでなく平時の病死者のもある。残っている墓碑は5300くらい確認していると言ってた。最初の頃は墓碑は一人ずつだったが、日露あたりからは一人ずつでは間に合わなくなったため、まとめた墓碑にするようになったそうである。墓なんか見たって、あまり面白いもんじゃない。今日は天王寺まで歩かなあかんし、もうここがなんなのかわかったから抜けたいんだがな。
もう抜けると言いにくい状況なので、最後までついて行くことにした。上の写真、「独逸□兵卒」「独逸□軍曹」とある。第一次大戦時の捕虜の墓碑である。削られたところには「俘虜」の文字があった。昭和になると日本軍では捕虜になることは不名誉であるとされてたからね。同盟の頃に削られたんだろう。
戦前に建てられた納骨堂に入る。ここらへんも空襲にはあってるだろうが残っている。米軍機の機銃掃射は受けたそうではある。中は天井まである棚が並んでいて、棚には小さな骨壺がぎっしり並んでいる。ここには4万数千の遺骨が納められている。南洋方面での戦死者は帰ってこれずに、空のものや「英霊」と書かれた紙片だけ入っているものなどが多かったそうである。この墓地案内で1時間半ほど掛かってしまった。次、行こう。
冬の陣後、真田丸は完全に破壊されたので遺構はまったく残っていない。今の心眼寺坂より西側に真田丸の本体があったと推定されている。写真は心眼寺坂の入り口にある「どんどろ大師」である。歌舞伎にも出てくる有名な寺なんだそうだが、なにが「どんどろ」なのか、そもそも「どんどろ」ってなんなのかまったくわからない。摂津八十八箇所11番、本尊は弘法大師像。今日は巡礼じゃないので素通り。
心眼寺。昌幸と大助の父子を弔うために建てた寺である。
真田丸の範囲にはいろいろな説がある。今回使用したマップでは、今の心眼寺坂を境として西側に真田丸本体があったとする説をとっている。
幸村の墓碑。これは最近のもので新しい。「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」となっている。幸村ではないのね。案内板には、「生前に幸村と名乗ったことはなかったと考えられる」とあった。江戸中期には軍記物や講談などによって幸村の名は広く流布されていた。つまり、「幸村」の名前は創作ってこと?
心眼寺坂の中ほどにある「真田丸顕彰碑」。主郭推定地のほとんどが高校の敷地(フェンスの向こう)になっている。
高校の校舎が建ってるところが主郭の南辺。道の下は堀となっていたのだろう。
主郭の西端の鎌八幡。幸村が戦勝祈願をしたといわれるエノキの神木(鎌八幡)が残る。無数の鎌が神木につき立ててあった。いわゆるパワースポットだよ。摂津八十八箇所15番。これで、真田山周辺の探索は終了。もう、茶臼山までは時間的に行けそうもないな。
真田山公園。各種スポーツ施設がある都市公園。名前だけで、大坂の陣とは特に関係なさそう。
産湯稲荷神社。ここは戦記にある篠山になるのではないかと思う。
神社の名前となった井戸がある。この井戸も「真田の抜け穴」と伝わってるそうだ。
千日前通に出た。鶴橋あたり。もう5時前になったので、今日の探索は終了にしよう。続きは来週だな。