<4月20日の日記>
ホテル自慢の「健康朝食」というしっかり朝ごはんを食べて出発。日本三景の一つ松島へ直行。
遊覧船でのんびりと。奇岩奇勝が続きますが、こういう場所だけにお天気がちょっと残念。
宮城は種牡蠣の産地。世界でもMiyagiというブランド牡蠣として有名。ここの種牡蠣が広島や北海道へも送られているそう。広島には種牡蠣が育つ環境がないなんてビックリ。産地による大きさの違いは単純に取る時期の違いなんだって。味とか身のしまりの違いは潮流や育て方によるとも言ってた。ワカメや昆布の漁も盛んに行われていました。春5cmの赤ちゃん昆布は秋には5mにもなるんだって!
↑牡蠣はぶら下げられて育てられる。震災後は大変やったろうなー。
観光案内所には震災時の写真が展示してあった。え?って思うような場所に車があったり、今じゃとても想像できない。着実に復興が進んでいて、お客さんもずいぶん戻ってきている。さすが観光地、強さを感じます。
続きまして女川町へ。
女川町は1万人の人口が7千人に減ってしまったんだって。そのほとんどが仮設住宅で暮らしているそう。津波の被害があまりに大きく、瓦礫の撤去がやっと進んで、復興計画がやっとまとまって、まずは地盤沈下した土地を上げる工事(山から土を運んで8~10m高くする)が行われていました。少しずつ災害公営住宅も建ってきているけど、まだまだ。ちなみに中村雅俊さんは女川の出身らしい。
↑女川町のみなさんが暮らす仮設住宅。高台の至る所に。
写真を見てわかる通り、町の中心部から谷沿いにかなり奥の方まで流されています。
↑この建物は震災遺構として保存されるらしい。
先ほどの「WE♡女川」の看板もそうだけど、女川町はポップに復興していました。ポスターコンクールとか、お店の感じとか観光パンフレットとか、オシャレ!
「なんじゃこりゃ!」と大興奮の女川丼@おかせい。これはたまらんかったー。鼻息荒くうなり声を上げながら一気に食べました。ここで生まれて初めて「ホヤ」を見ました。(←今回は勇気がなくて見るだけ)
いざ南三陸町へ。
↑ここでも海岸沿いはずっと土地を高くする工事が行われていました。
↑こいのぼり。なんだかちょっとほっとした。
↑セブンイレブンも仮設。
↑南三陸の仮設住宅。
何度もテレビで見たあの防災庁舎へ。
ここで最後まで町民に避難指示の放送を続けた人、迫りくる津波から逃げられず屋上へ避難して亡くなった人がいるという事実。まさかこの建物の屋上2mまで津波が来るなんて誰が予想できただろうか。町が津波に飲み込まれる中、屋上のポールにしがみつく人々の写真を見た。屋上に避難した約30名のうち生存者は11名。どんな気持ちでそこにいればいいのかわからなかったけど、ただただ冥福を祈った。保存するかしないかの議論もまだまとまってはいない。今後20年は県が管理することにして、その後は町で決めるように、その間にしっかり話し合っていこうということになったとか。遺族もたまらない気持ちでいるだろうと思うけど、少しでも早く日常が送れるように、少しでも笑える日が来るように、ただただ祈っています。
その後、「南三陸さんさん商店街」へ。
町の商店機能が一ヶ所に集められた感じ。てっきり観光客向けのお土産物街かと思ったら、住民の日常を支える魚屋肉やなどの食料品店、文房具屋、ブティックなどの商店街でした。時間が遅かったので閉まっているお店もあったけど、食後に食べようとケーキを買いました。長期保存用のパンを買ったお土産屋さんのお店のおばちゃんが当時のことを積極的に語ってくれてありがたかった。商店街の前にはきれいなBRTの駅があって、BRT待ちの学生さんがお店に寄ったりしてた。この辺りのJRは線路はもうないけれど、その代わりのBRT(バス高速輸送システム)が整備されてかっこよく走っていた。南三陸も着実に復興を進めていた。やっと方向性が決まって動き出して、「これから」って感じがした。
↑南三陸はチリと仲良し。チリから贈られた珍しい目入りのモアイ像。
さて、本日のお宿は南三陸ホテル観洋。いわゆる温泉リゾートホテルなんだけど、ホテル自体津波の被害に遭いながらも、町民の避難所ともなっていたホテルです。荷物を運んでくれた方も当時の話をしてくれました。明日の朝は「語り部バス」に参加します。詳しくはまた明日。
↑こんなに間近に海鳥が・・・
↑アワビ・カニ・刺身・・・豪華すぎて食べきれませんでした。朝の健康朝食、昼の女川丼、この日は贅沢すぎました。
このポスターの前で唸った。素晴らしい!その通り。一人でも多くのみんなに行ってほしい。
今日は仙台から南三陸まで移動して、津波の被害の大きさ、復興はまだまだこれからであるということを思い知った。震災から4年、これまでの日々は心身ともに本当に大変だったと思うけれど、それぞれの町に「希望の光」というか未来に向かっている明るさも感じることができた。それを昨日見た福島では感じることができなかった。
ホテル自慢の「健康朝食」というしっかり朝ごはんを食べて出発。日本三景の一つ松島へ直行。
遊覧船でのんびりと。奇岩奇勝が続きますが、こういう場所だけにお天気がちょっと残念。
宮城は種牡蠣の産地。世界でもMiyagiというブランド牡蠣として有名。ここの種牡蠣が広島や北海道へも送られているそう。広島には種牡蠣が育つ環境がないなんてビックリ。産地による大きさの違いは単純に取る時期の違いなんだって。味とか身のしまりの違いは潮流や育て方によるとも言ってた。ワカメや昆布の漁も盛んに行われていました。春5cmの赤ちゃん昆布は秋には5mにもなるんだって!
↑牡蠣はぶら下げられて育てられる。震災後は大変やったろうなー。
観光案内所には震災時の写真が展示してあった。え?って思うような場所に車があったり、今じゃとても想像できない。着実に復興が進んでいて、お客さんもずいぶん戻ってきている。さすが観光地、強さを感じます。
続きまして女川町へ。
女川町は1万人の人口が7千人に減ってしまったんだって。そのほとんどが仮設住宅で暮らしているそう。津波の被害があまりに大きく、瓦礫の撤去がやっと進んで、復興計画がやっとまとまって、まずは地盤沈下した土地を上げる工事(山から土を運んで8~10m高くする)が行われていました。少しずつ災害公営住宅も建ってきているけど、まだまだ。ちなみに中村雅俊さんは女川の出身らしい。
↑女川町のみなさんが暮らす仮設住宅。高台の至る所に。
写真を見てわかる通り、町の中心部から谷沿いにかなり奥の方まで流されています。
↑この建物は震災遺構として保存されるらしい。
先ほどの「WE♡女川」の看板もそうだけど、女川町はポップに復興していました。ポスターコンクールとか、お店の感じとか観光パンフレットとか、オシャレ!
「なんじゃこりゃ!」と大興奮の女川丼@おかせい。これはたまらんかったー。鼻息荒くうなり声を上げながら一気に食べました。ここで生まれて初めて「ホヤ」を見ました。(←今回は勇気がなくて見るだけ)
いざ南三陸町へ。
↑ここでも海岸沿いはずっと土地を高くする工事が行われていました。
↑こいのぼり。なんだかちょっとほっとした。
↑セブンイレブンも仮設。
↑南三陸の仮設住宅。
何度もテレビで見たあの防災庁舎へ。
ここで最後まで町民に避難指示の放送を続けた人、迫りくる津波から逃げられず屋上へ避難して亡くなった人がいるという事実。まさかこの建物の屋上2mまで津波が来るなんて誰が予想できただろうか。町が津波に飲み込まれる中、屋上のポールにしがみつく人々の写真を見た。屋上に避難した約30名のうち生存者は11名。どんな気持ちでそこにいればいいのかわからなかったけど、ただただ冥福を祈った。保存するかしないかの議論もまだまとまってはいない。今後20年は県が管理することにして、その後は町で決めるように、その間にしっかり話し合っていこうということになったとか。遺族もたまらない気持ちでいるだろうと思うけど、少しでも早く日常が送れるように、少しでも笑える日が来るように、ただただ祈っています。
その後、「南三陸さんさん商店街」へ。
町の商店機能が一ヶ所に集められた感じ。てっきり観光客向けのお土産物街かと思ったら、住民の日常を支える魚屋肉やなどの食料品店、文房具屋、ブティックなどの商店街でした。時間が遅かったので閉まっているお店もあったけど、食後に食べようとケーキを買いました。長期保存用のパンを買ったお土産屋さんのお店のおばちゃんが当時のことを積極的に語ってくれてありがたかった。商店街の前にはきれいなBRTの駅があって、BRT待ちの学生さんがお店に寄ったりしてた。この辺りのJRは線路はもうないけれど、その代わりのBRT(バス高速輸送システム)が整備されてかっこよく走っていた。南三陸も着実に復興を進めていた。やっと方向性が決まって動き出して、「これから」って感じがした。
↑南三陸はチリと仲良し。チリから贈られた珍しい目入りのモアイ像。
さて、本日のお宿は南三陸ホテル観洋。いわゆる温泉リゾートホテルなんだけど、ホテル自体津波の被害に遭いながらも、町民の避難所ともなっていたホテルです。荷物を運んでくれた方も当時の話をしてくれました。明日の朝は「語り部バス」に参加します。詳しくはまた明日。
↑こんなに間近に海鳥が・・・
↑アワビ・カニ・刺身・・・豪華すぎて食べきれませんでした。朝の健康朝食、昼の女川丼、この日は贅沢すぎました。
このポスターの前で唸った。素晴らしい!その通り。一人でも多くのみんなに行ってほしい。
今日は仙台から南三陸まで移動して、津波の被害の大きさ、復興はまだまだこれからであるということを思い知った。震災から4年、これまでの日々は心身ともに本当に大変だったと思うけれど、それぞれの町に「希望の光」というか未来に向かっている明るさも感じることができた。それを昨日見た福島では感じることができなかった。
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