<4月19日の日記>
お兄ちゃんち最寄りのレンタカー屋さんで車を借りて、首都高乗って一路東北へ。最初のドライバーは高速の合流が苦手なお母さん。かわいそうに3人中2人が二日酔いでごめん。
東京、埼玉、栃木、茨城、次々と県境を越えて、常磐自動車道福島方面に入るとこんなサインが↓
放射線量のお知らせ。その数値がどんなもんなのかもよくわからないけど、なんだか物々しくて恐怖心をあおられる感じ。福島が近付いているんだなと思った。
未だ帰還困難区域ではあるけれど、3月に通行再開されたばかりの福島県浜通り(国道6号)を通ってみることにした。常磐富岡ICを下りる前に目にしたものは・・・↓
黒い袋の正体は除染された土。畑いっぱいどこもかしこもものすごい量。知ってたはずなのに圧倒されてしまった。この作業きりがなくない?目に見えない敵と戦っている感じ。これは大変なことになっとるばい。
富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市と海沿いを北上しました。
とにかく誰もいない。自動車の通行はできるようになったけど、二輪車や歩行者は通行できません。路地や各家に入れないようにバリケードがしてあります。
通行のためのチェックなんかはないけれど、治安を守るための警察が要所に構えていて、なんとも異様な雰囲気。とにかく人がいない。人の住んでた気配は生々しいほどするのに。
双葉町に入っても福島第一原発の位置を示すようなサインは全く見えず、どの辺にあるのかいまいちよくわからなかった。元々そうなのかな。
人や車を見かけても除染作業関係ばかり。そこに日常生活は全くありませんでした。
走っても走ってもそこに人がいた気配はあるのにとにかく人がいなくて、いつか見た映画かドラマみたいだった。
富岡から南相馬に入るまで約1時間半、とにかく人がいなかった。乗り捨てられたバイク、車、商品が残ったままのホームセンター。人がいるとすれば除染作業員。このような帰還困難区域は内陸部にも広範囲に広がっています。南相馬で営業しているセブンイレブンを見つけた時のあのなんとも言えない安堵感。
津波の後、そのままの場所はまだまだいっぱい。
南相馬市の観光案内で当時のお話を少し聞いて、南相馬の「かしまの奇跡の一本松」へ。
かつてはここに3kmにも及ぶ松並木があったんだとか。1本だけになっちゃった。この1本も実はもう枯れているんだそう。
上の写真は津波が襲ってきたときのもの。津波が防波堤に当たってものすごい高さにしぶきが上がっています。偶然この一本松のところで「かしまの一本松を守る会」の会長さんに会うことができました。そこから900m離れた所に住んでいた会長さんもこの高波を見てさらに内陸へと避難し、助かったんだとか。この集落には70世帯あったけれど、50名の方が亡くなったんだそうです。
4年経ってやっとやっと動き出した復興計画。ここは防潮堤・防災林を再建しようとしていました。
さらに北上して相馬市へ。相馬市千客万来館(相馬観光復興ご案内処)で情報をもらって伝承鎮魂祈念館へ。
鎮魂祈念館に刻まれた相馬市で亡くなった484名の名前を見ながら、とてもとても身近なことに思えて胸がつまった。亡くなった方々も私と同じように普通の毎日を送っていたんだろうなと思って。
相馬市に入って、やっと、きれいに整えられた災害公営住宅を見かけたり、防災備蓄倉庫を見かけたり、祈念館を見かけたり、前に進んでるなという印象を受けた。
それでもまだまだ地震・津波の爪跡は至る所で残されていました。
仙台空港の様子も気になったので見に行きました。
東京からの大移動。ちょうど日が暮れるころ仙台に到着。今日の宿は仙台市内のスーパービジネスホテル(じゃらんのクチコミNo.1)。アメニティプレゼントなど女性向けサービスも大充実でした。ダブルベッド+ロフトに3人でぎゅうぎゅうになりながら泊まりました。
行かなければ本当のことは分からないと聞いていたし思っていたけど、ここまでとは。福島の現状に大きなショックを受けています。どうなっていくんだろう。未来が見えんぞ。
今日はここまで。
<オマケ>
せっかく仙台に来たので牛タンを食べた。食べ物をめぐって罵り睨み合う両親。お願いだから仲良くしてほしい。
お兄ちゃんち最寄りのレンタカー屋さんで車を借りて、首都高乗って一路東北へ。最初のドライバーは高速の合流が苦手なお母さん。かわいそうに3人中2人が二日酔いでごめん。
東京、埼玉、栃木、茨城、次々と県境を越えて、常磐自動車道福島方面に入るとこんなサインが↓
放射線量のお知らせ。その数値がどんなもんなのかもよくわからないけど、なんだか物々しくて恐怖心をあおられる感じ。福島が近付いているんだなと思った。
未だ帰還困難区域ではあるけれど、3月に通行再開されたばかりの福島県浜通り(国道6号)を通ってみることにした。常磐富岡ICを下りる前に目にしたものは・・・↓
黒い袋の正体は除染された土。畑いっぱいどこもかしこもものすごい量。知ってたはずなのに圧倒されてしまった。この作業きりがなくない?目に見えない敵と戦っている感じ。これは大変なことになっとるばい。
富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市と海沿いを北上しました。
とにかく誰もいない。自動車の通行はできるようになったけど、二輪車や歩行者は通行できません。路地や各家に入れないようにバリケードがしてあります。
通行のためのチェックなんかはないけれど、治安を守るための警察が要所に構えていて、なんとも異様な雰囲気。とにかく人がいない。人の住んでた気配は生々しいほどするのに。
双葉町に入っても福島第一原発の位置を示すようなサインは全く見えず、どの辺にあるのかいまいちよくわからなかった。元々そうなのかな。
人や車を見かけても除染作業関係ばかり。そこに日常生活は全くありませんでした。
走っても走ってもそこに人がいた気配はあるのにとにかく人がいなくて、いつか見た映画かドラマみたいだった。
富岡から南相馬に入るまで約1時間半、とにかく人がいなかった。乗り捨てられたバイク、車、商品が残ったままのホームセンター。人がいるとすれば除染作業員。このような帰還困難区域は内陸部にも広範囲に広がっています。南相馬で営業しているセブンイレブンを見つけた時のあのなんとも言えない安堵感。
津波の後、そのままの場所はまだまだいっぱい。
南相馬市の観光案内で当時のお話を少し聞いて、南相馬の「かしまの奇跡の一本松」へ。
かつてはここに3kmにも及ぶ松並木があったんだとか。1本だけになっちゃった。この1本も実はもう枯れているんだそう。
上の写真は津波が襲ってきたときのもの。津波が防波堤に当たってものすごい高さにしぶきが上がっています。偶然この一本松のところで「かしまの一本松を守る会」の会長さんに会うことができました。そこから900m離れた所に住んでいた会長さんもこの高波を見てさらに内陸へと避難し、助かったんだとか。この集落には70世帯あったけれど、50名の方が亡くなったんだそうです。
4年経ってやっとやっと動き出した復興計画。ここは防潮堤・防災林を再建しようとしていました。
さらに北上して相馬市へ。相馬市千客万来館(相馬観光復興ご案内処)で情報をもらって伝承鎮魂祈念館へ。
鎮魂祈念館に刻まれた相馬市で亡くなった484名の名前を見ながら、とてもとても身近なことに思えて胸がつまった。亡くなった方々も私と同じように普通の毎日を送っていたんだろうなと思って。
相馬市に入って、やっと、きれいに整えられた災害公営住宅を見かけたり、防災備蓄倉庫を見かけたり、祈念館を見かけたり、前に進んでるなという印象を受けた。
それでもまだまだ地震・津波の爪跡は至る所で残されていました。
仙台空港の様子も気になったので見に行きました。
東京からの大移動。ちょうど日が暮れるころ仙台に到着。今日の宿は仙台市内のスーパービジネスホテル(じゃらんのクチコミNo.1)。アメニティプレゼントなど女性向けサービスも大充実でした。ダブルベッド+ロフトに3人でぎゅうぎゅうになりながら泊まりました。
行かなければ本当のことは分からないと聞いていたし思っていたけど、ここまでとは。福島の現状に大きなショックを受けています。どうなっていくんだろう。未来が見えんぞ。
今日はここまで。
<オマケ>
せっかく仙台に来たので牛タンを食べた。食べ物をめぐって罵り睨み合う両親。お願いだから仲良くしてほしい。
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