MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

#2411 徳川家康と習近平主席

2023年05月17日 | 国際・政治

 今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で脚光を浴びる天下人の徳川家康。アイドルグループ嵐のメンバー松本潤さん演じる(何となく頼りない感じの)新しい家康像が、女性を中心に(意外な?)人気を博していると聞きます。

 物語は武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いを経て、遠江(とおとうみ)を領地とした家康が、いよいよ天下人に向け戦国の大大名に名を連ねてく急成長のくだりに差し掛かります。

 その家康が拠点を置いたのが、ドラマの舞台にもなっている遠州浜松城。プライベートな話をすれば、私の母親の実家が浜松城下の中心部にあったことで、市立動物園なども併設されていた浜松城公園は幼い頃から何度も足を運んだ懐かしい場所です。

 家康やその後の歴代城主にあやかって「出世城」などとも呼ばれ、家康自身、29歳から45歳までの17年間を過ごしたこの城が今後のドラマの舞台になって来ると聞くと、それなりに親しみもわいてくるところです。

 実はこの徳川家康、十数年前から中国の企業家やビジネスマンの間で大人気とのいう話も聞こえてきます。実際、中国国内では山岡荘八が著した長編歴史小説『徳川家康』(中国語版)全13巻が200万部以上も売れており、2008年度には「最優秀外国書籍」にも選出されているということです。

 聞けば中国の家康人気はいまだ衰えておらず、中国で「最も有名な日本人」といえば必ず上位に名前が上がるBIGNAMEのひとりとのこと。大河ドラマによって日中で家康ブームが沸き上がる中、5月14日の日本経済新聞(コラム「風見鶏」)に、同紙編集委員の高橋哲史氏が「習氏と家康の分かれ道」と題する一文を寄せていたので、小欄にその概要を残しておきたいと思います。

 大河ドラマで脚光を浴びる徳川家康が築いた浜松城が、日本を観光する多くの中国人の人気スポットとなっていると高橋氏はこのコラムに綴っています。2007年に出た山岡荘八の小説「徳川家康」の中国語版が人気に火をつけ、今では家康が中国で最も有名な日本人のひとりとなっているということです。

 小国のあるじにすぎなかった家康が戦乱の世を生き抜き、ついには天下を取る。何度もくじけながら耐え忍ぶその生きざまが、立身出世の物語を好む中国人の心を捉えて放さないのだろうと氏は言います。

 中国の習近平国家主席も「徳川家康」を読んだのだろうか。言われてみればふたりには、どこか似たところがあるような気がするというのが、このコラムで氏の指摘するところです。

 類似点はまず生い立ちにある。家康は岡崎城主の嫡男として生まれ、習氏は元副首相の習仲勲氏を父に持つ。ともに名門の出で、農村からはい上がった豊臣秀吉や毛沢東とは明らかに出自が違うと氏は説明しています。

 若い頃に苦労したのも同じところ。家康は6歳で人質に出され異郷の地で育ったが、一方の習氏も文化大革命のさなか、15歳で黄土高原の谷あいにある小さな村に送り込まれ、およそ7年間を洞穴式の住居で過ごした(とされている)ということです。

 そうしたこともあってか、権力を握ったあとのふるまいにも似るところがあると氏はしています。

 家康は1614~15年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼした。たとえ天下を取っても、自らの支配を脅かすおそれがある勢力は徹底的にたたく。そうした姿勢は2022年の中国共産党大会で、当時の李克強首相や胡春華副首相らを指導部から締め出した習氏にも通じるというのが氏の見解です。

 徳川の世が永遠に続くようにするにはどうすればいいか。家康はそこに知略のかぎりを尽くした。一方の習氏も、中国共産党の指導を貫徹するには何が必要か、それに心血を注いでいるということです。

 ふたりの人物像は、やはり多くの点で重なるのではないか。そう考え、日本総合研究所の呉軍華・上席理事に意見を求めると、(意外なことに)「家康と習氏には決定的な違いがある」との答えが返ってきたと高橋氏はこの論考に記しています。

 「家康が基礎を築いた徳川家の統治は、独立した藩を幕府が束ねる封建制(幕藩体制)のうえに成り立っていたということ。一方、習氏はあらゆる権限を自らに集めようとしていると呉氏は話している。家臣の進言をよく聞き、細事にはこだわらなかった家康と、党の指導を絶対と考え社会の隅々にまで自身の意向を行き渡らせようとする習氏は、(呉氏の目には)異なるタイプの指導者に映るのだろうというのが高橋氏の見解です。

 一方、国際日本文化研究センターの磯田道史教授は、著書で家康を「織田信長のように『力の原理主義者』にはならなかった」と評していると高橋氏はここで指摘しています。

 引き締めすぎず、緩めすぎず。力に頼るばかりでなかった家康流の統治がしみ渡っていたからこそ、江戸幕府は265年の長きにわたって続いた。苦しい状況に「どうする?」と決断を迫られ続け、命を賭したやり取りを重ねた家康が学んだのが、手綱に緩急をつけたうえでの「任せる政治」だったということでしょうか。

 そういえば、岸田文雄首相も「徳川家康」の愛読者だと聞くと、コラムの最後に高橋氏は綴っています。岸田氏と習氏のどちらが家康により近いか。その答えは日本と中国だけでなく、混迷する世界の行方をも占うカギになるだろうとこの一文を結ぶ氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿