今年6月に文部科学省が国立大学に向けて通知した、法学部や経済学部などの人文社会科学系と教員養成系の学部・大学院の廃止や他分野への転換を求める方針が、「文系学部廃止論」としてメディアなどで波紋を広げています。
通知は、関係する国立大学に対し「各大学の強み、特色、社会的役割を踏まえた速やかな組織改革を」進めるよう求めており、特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院においては、「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」こととしています。
8月24日の読売新聞によれば、今回の通知を受け、文系学部のある全国の国立大60校のうちの半数近い26校が既に、2016年度以降の文系学部の改廃を計画しているということです。
一方、日本学術会議(幹事会)は、こうした文部科学省の方針に対し「大きな疑問がある」と強く批判する声明を発表しています(7月23日)。
声明は、「人文社会科学には独自の役割に加え、自然科学との連携によって世界の課題解決に向かうという役割が託されている」と指摘したうえで、人文社会科学が短期的なイノベーションや直接的な利益に結び付かないことを理由に、「組織の廃止や社会的要請への高い分野への転換」を求めることへの疑問を投げかけています。
さらに、文部科学省が示した「社会的要請の高い分野」の定義について、「具体的な目標を設けて成果を測定することになじみやすい要請もあれば、長期的な視野に立って知を継承し、創造性の基盤を養う役割を果たすという社会的要請もある」とし、「前者のみに偏り後者を見落せば、社会の知的豊かさを支え、より広く社会を担う人材を送り出すという大学の基本的な役割を失いかねない」と指摘しています。
さて、以前にも触れましたが(←♯366 「文学部不要論について」2015.6.27)、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏はこの問題に関し、そもそも文部科学省は近代社会における「教育」の意味について十分に理解していないのではないかとの認識を示しています。(「PRESIDENT Online」2015.5.30)
教育はもともと(個人のための)営利目的の制度などではなく、共同体を支える基盤として歴史的に形成されてきたものだと内田氏はここで述べています。まっとうな「公共的感覚」を持った市民が一定数いないと共同体は維持できない。つまり、教育(少なくとも公教育)の第一の目的は、「次世代を担う成熟した市民の育成」にあることは論を待たないという指摘です。
明治以降の日本が(財政がどんなに厳しい中にあっても)帝国大学や国立大学を全国に設置し維持してきたのも、また奨学金制度により優秀な学生を税金で学ばせてきたもの、勝ち残った者が立身出世して自己資産を増やすためなどではない。彼らが日本の未来を託すことのできるリーダーとして、「市民的な成熟」を果たせるよう支援するためであったと内田氏はしています。
次世代を担う成熟した市民は、自らの属する共同体に対する強い愛情や帰属意識を持ち、国の制度や文化を支え続ける責任感の持ち主でなければならない。旧帝大をはじめとする国立大学は、そうした「国家須要(しゅよう)の人材」、(社会の行く末を託すことのできる)「エリート」を育てることを目的につくられたものだと内田氏は捉えています。
内田氏は、そうしたエリートには、(近代社会のベースを形成している)文化芸術から政治経済まで幅広い人文系の教養が求められることは自明だと考えています。国公立大学からそうした教養系の学部をなくすという今回の文部科学省の方針は、「国内の大学ではエリートをつくらない」ということを含意している。そして、「次世代を担う成熟した市民の育成を放棄した国に未来がないことは誰の目にも明らか」だと、氏はこの論評を結論付けています。
社会を安定して発展させていくためには、人類の持つ過去の英知を未来に結び付けていくことのできる多様な価値観を持った、バランスのとれた人材を供給していく必要があると考えられます。少なくとも国民の公共財を投入する国立大学においては、その目的として優秀な人材を社会の未来や発展のために活かしていくという基本的な視点(目的意識)が必要なのは言うまでもありません。
さて、文部科学省が今回の通知に示した「社会的要請の高い分野」とは、それでは一体どういうものを指しているのでしょうか。
国立大学が、「産業界の要請」や「競争社会の要請」に応えるための人材育成の場になってしまうのではないか…そうした懸念を感じる人々の不安を払拭するためにも、文部科学省は国民に対し、大学教育の基本的な目的について改めて丁寧に説明していく必要があるでしょう。
国や社会そのものが「目先」の利益や有用性だけに価値を置く息苦しい場にならないためにも、長期的な視点から今一度十分な議論を重ねていく必要があると感じた次第です。
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