「メンタリスト」(心理的なテクニックなどを使い人の行動を予見しコントロールする人)を自称するタレントのDaiGo氏が、動画共有サイトYoutubeの動画で生活保護利用者やホームレスの人に対するヘイト発言を繰り返した問題が「炎上」しています。同氏は8月7日に配信した動画で「生活保護の人が生きてても僕は別に得しない」「自分にとって必要のない命は軽い。だからホームレスの命はどうでもいい」などと発言したうえで、ホームレスは「いない方がよくない?」「正直、邪魔」などと述べ、社会から排除すべきと主張したということです。
この動画に対しネット上では批判が殺到し、厚生労働省の公式ツイッターアカウントも「生活保護の申請は国民の権利です」とツイート。DaiGo氏は8月13日に謝罪する動画をアップし、問題となった動画を削除したとされています。
生活保護費の受給に関して、幾度となく繰り返されてきたこうした問題。インターネットやSNSを使い誰もが自由に意見表明をすることが可能となった今の時代だからこそ、社会を支える大人たちにはベースとなるしっかりとした人権への理解が必要だと改めて感じるところです。
この「DaiGo炎上問題」に関連し、8月15日の「Newsweek日本版」に、埼玉工業大学非常勤講師でコラムニストの藤崎剛人(ふじさき・まさと)氏が、「問題提起だろうと個人の感想だろうと許されない意見はある」と題する論考を寄せているので、備忘の意味でその内容を小欄に残しておきたいと思います。
タレントで「メンタリスト」のDaiGoが、生活保護受給者や、いわゆる「ホームレス」の生の価値を軽んじる趣旨の動画をYouTubeに投稿し、大問題になった。若年層に影響力があるとされるチャンネル登録者数200万以上の配信者が優生思想的・差別的なメッセージを発することは、ヘイトクライムなどを誘発する危険性も考えられ看過できないと、藤崎氏はこの論考の冒頭に綴っています。
確かに、「自助努力」で生きることができない「生活保護受給者」や、「汚くて怖いホームレス」を排除したいという思考は、「素朴な感情」として世間に存在していると氏は言います。そしてだからこそ、社会の側は、そうした思考は間違っているというメッセージを常に発信し続ける必要があるというのが、この論考における氏の見解です。
世の中の「素朴な感情」の延長線上には、これまでも多くの悲惨な事件が連なっていると氏はしています。2020年には1月に東京の上野公園で、3月に岐阜県で、11月には東京の渋谷で「ホームレス」が襲撃され、死亡するに至っている。支援団体がDaiGo発言を問題視する背景には、こうした事件を繰り返したくないという思いがあるということです。
藤崎氏によれば、批判が集まった当初、DaiGo氏は動画の削除を行いつつも発言自体は撤回せず、逆に自分を非難する者はホームレス支援のために増税されてもいいのか、などの挑発的な発言を続けたということです。のちに「言い過ぎた」ことについては謝罪したが、あくまで「個人の感想」として述べたものにすぎないとして、「問題提起をした」という立場をとったDaiGo氏。しかし、社会的弱者の生存権を否定する思想を全世界に向けて開陳するのは、(成熟した現代社会では)「個人の感想」ではすまされない。そこに社会の批判が集中するのは正常な反応だろうというのが藤崎氏の認識です。
近年のインターネット社会で、若者層を惹きつけている能力のひとつに「ディベート力」というものがあるそうです。キーワードは「論破」。(たとえ極端な主張であっても)ディベートにおいて相手をやり込める論者がメディアに大きく取り上げられ、評価されることも多くなったということです。しかし、そうした彼らには共通する問題がある。それは人権問題を含むあらゆるトピックを「ディベート」の俎上にあげ、全てフラットにコンテンツ化してしまうということだと藤崎氏はこの論考に記しています。
人権はコンテンツではない。ある人間に生存権があるということが「論破」されたら、その人間の生存権を奪ってよくなるわけではないというのが氏の指摘するところです。今回のDaiGoの発言に対し、人権の社会的効用(例えば、弱者を救済することは社会の安定に繋がる、「本当に働けなくなった人」のセーフティネットは必要など)を理由に彼を非難している人も、(そういう意味で言えば)「筋はよろしくない」というのが藤崎氏の見解です。
それは結局、生存権を主題にした「ディベート」に参加してしまっているから。そもそも生存権は、社会的効用とは無関係に存在するのであり、たとえ「問題提起」だったとしても否定されてはならないと藤崎氏は言います。人は、社会的効用がなければ生きている価値がないのか。人権には、(そうした意味で)妥協できない大前提があるというのが氏の主張するところです。
現代の日本社会は、ある「譲れない価値」に基づいて何かを評価することを極端に嫌うと氏は話しています。全ての価値が「相対化」されている。若い世代は特にその傾向が強いということです。しかし、世の中には(同じ価値観の下で)議論してはいけない種類の問題もある。差別思想を持つ者の「問題提起」に乗ってはいけないと氏は繰り返し指摘しています。
特定の価値を前提にした議論を嫌う人たちにとっては、DaiGo的な語り口は魅力的に映るだろう。しかし、「特別な価値を認めない世界」において力を振るうのは、「経済力」や「発言力」といった直接的なパワーだけだと藤崎氏は言います。社会的な成功者やディベート技術に長けた者がインフルエンサーとして幅を利かせる社会では、その価値観を体現した者だけが勝者となる。これは一種のディストピアではないだろうかというのが、現代社会に対する氏の基本的な思いです。
一方、今回、当初は強気だったDaiGoを「謝罪」に追い込むほど強い批判がSNS等で起こったのは、差別思想・優生思想は「ひとつの意見」としても尊重されないということを示すメッセージとなったと、藤崎氏は話しています。近代国家の基盤は、人が生きることは「唯一無二の権利」であるという価値観の共有にある。そして、それを揺るがす態度や動きについては、その都度、厳しく否定していく必要があるということでしょう。
そうした視点に立ち、この事件が、価値を相対化し何でも「ディベート」の俎上にあげる最近の風潮を見直すきっかけになればと語る藤崎氏の指摘を、今回の一連の騒動から私も重く受け止めたところです。
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