MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2696 匿名世界は「甘え」の掃きだめ

2024年12月28日 | 社会・経済

 10月4日、東京都で、全国初となる(客からの迷惑行為などの)カスタマーハラスメント、いわゆる「カスハラ」を防ぐ条例が成立しました。

 この条例では、カスハラを「客から就業者に対しその業務に関して行われる著しい迷惑行為で、就業環境を害するもの」と定義。「何人もカスハラを行ってはならない」と規定しています。客や事業者などに対しては、カスハラを防ぐための対応を取るよう求めるとともに、運用にあたっては「客の権利を不当に侵害しない」ことを規定する内容で、来年4月1日から施行されるということです。

 小池百合子都知事の肝いりとされるこの条例。違反しても罰則などはなくあくまで「宣言条例」の域を出ませんが、(それ自体)こうした条例による線引きや規制が必要なくらいの問題行為が巷にあふれていることへの証左なのかもしれません。

 確かに、(例えば)駅員への暴力や店員への土下座の強要、さらにはそうした様子をSNSに晒すなど、常識の範囲を大きく超えた行為が目に付く時代となりました。ハラスメントやハードクレームなど、立場の弱いものに対する執拗な攻撃というのは確かに昔からあったのでしょうが、(反社勢力とかではない)ごく一般の人々の間に広がるこうした風潮には、どこかで歯止めをかける必要があるのでしょう。

 それにしても、なぜこの優しい日本人の間で、人を傷つける言動に対するハードルが(条例が必要なまでに)下がってしまったのか。10月15日の情報サイト「Newsweek日本版」に、立正大学教授で社会学者の小宮信夫氏が『日本に「パワハラ」や「クレイマー」がはびこる理由』と題する一文を寄せているので、参考までに小欄にその一部を残しておきたいと思います。

 学校教育では、社会には「法の支配」がありその基礎は「権利と義務」だと教える。しかし、日本の実社会は、「甘え(権利ではない)」と「義理(義務ではない)」に大きく影響されていると小宮氏はこの論考の冒頭に綴っています。

 この法文化の二重構造の源流を探るには、明治政府の近代化政策にまで遡らなければならないと氏は言います。明治政府は、欧米列強から日本を守るため、西洋に追い付くことを最優先事項とした。とりわけ、治外法権を撤廃し西洋と対等の立場で経済成長を図るには、西洋の法制度の早急な移植が不可欠だったということです。

 そこで、近代法が西洋の法を模して急遽制定されたが、伝統的な道徳や慣習については手付かずのまま残された。それは、さながら在来の道路の上に高速道路を建設するようなもので、一般の国民が利用・生活する道路はそのまま形で残されたと氏は話しています。

 要するに当時の明治政府には、日本の近代化を早急に実現するため、手間のかかる日常生活における行為規範の近代化に手を付ける余裕がなかったということ。加えて、各地の支配層が(自らの政治的正統性を脅かしかねない)自由主義、平等主義、民主主義といった西洋法の精神の受容を拒否したことで、伝統的な行為規範を残存させる結果につながったというのが小宮氏の認識です。

 このように、日本の近代的な法制度が、自発的エネルギーに基づく闘争の成果ではなく、西洋法の戦術的な模倣の産物であったため、法律と日常生活との間に乖離が生じた。つまり、法律が、政府から一方的に与えられた統治の道具として冷ややかに受け止められる一方で、日常生活については義理などの伝統的な規範によって従来通りに規律され続けたというのが氏の指摘するところです。

 結果、日本の文化は二重性を呈するようになった。つまり、知っている人間(自己の所属集団)に対する規範と、知らない人間(社会一般)に対する規範という、二つの異なった行為規範から成る規範意識が生成されたと氏はしています。

 そして現在に至るまで、二つの行為規範は、「うち」と「よそ」という言葉で表象される生活空間の区別に応じて使い分けられてきた。要するに、「うち」(本音)の世界では、相変わらず「甘えと義理」(タテ型・交換型ルール)がまかり通り、「よそ」(建前)の世界でのみ「権利と義務」(ヨコ型・調整型ルール)を扱っているということです。

 それでも社会秩序が保たれてきたのは、この「うち」の世界における、「甘え」と「義理」とが均衡していたから。言い換えれば、これまで社会秩序が保たれてきたのは、「義理」の力で「甘え」が暴発しなかったからだと氏は説明しています。

 なぜ暴発しなかったかと言えば、「うち」の世界は「同調圧力」が高いから。その正体は、聖徳太子の「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」から、日本企業のQCサークル(小集団改善)にいたる、日本人に脈々と受け継がれてきた「みんな一緒」という意識だというのが氏の見解です。

 ところが、バーチャルな世界(インターネットやSNS)が拡大するにつれ、(「義理」の世界を支えていた)同調圧力が弱まってきた。匿名性の高いバーチャルな世界では、他人から名指しで非難されるリスクを回避できるため、ネットやSNSのコメントが、「甘え」の掃きだめになったということです。

 バーチャルな世界を「実名制」にすれば同調圧力が効くだろうが、「匿名制」を撤廃するのはもはや現実的ではない。「甘え」の暴発がバーチャルな世界に限定されていれば問題はまだ小さいが、バーチャルな世界とリアルな世界の境界が曖昧になった現在では、「甘え」がリアルな世界に侵攻してくると氏は指摘しています。

 それは、リアルの世界での「甘え」と「義理」のバランスの崩壊なので、「甘え」だけが突出する結果になる。一方、「義理」についても、「古臭い」「人権侵害」「老害」「忖度」などと蔑視される傾向が強いので、「甘え」と「義理」のバランスは崩れる一方だということです。

 結論として、近年問題視されている「パワハラ」や「クレイマー」も、このバランスを崩した社会における「甘え」の突出に起因したものだと氏は説明しています。それ自体、他者(世間)の視線を失い抑えが効かなくなって、ダダ洩れするばかりの(ある種サディスティックな)個人の感情だということでしょうか。

 いずれにしても、「ストレスやフラストレーションを解消するためなら、他人を攻撃してもいい」という発想は、「甘え」以外の何物でもないということでしょう。偏った正義を振りかざす「甘え」を発現しないためには、(まずは)ストレスやフラストレーションを「正しく」解消する必要があると話す小宮氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。



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