イソップ寓話「アリとキリギリス」は、寒い冬に備えず夏を遊び暮らしたキリギリスが、食べ物がなくなってアリを訪ねるも「自業自得」と追い返される厳しい物語です。子供たちはこのエピソードから地道な努力の大切さを学ぶ…というか、「努力しないとひどい目に合うよ」と脅かされるわけですが、一方で、人一倍の努力をしたからといって成功が約束されるわけではないのが現実でしょう。
かつて日本のプロ野球界を引っ張ったホームラン王王貞治さんは、「努力は必ず報われる。 もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」と話したと伝わっていますが、過酷な令和の時代を生きる若者たちには「それは将来に夢を持てた昭和の話だろ?」と一蹴されてしまうかもしれません。
とはいえ、何の努力もしないまま大人になって、結果「闇バイト」などに走ってうえで、「自分の人生が望み通りにいかなくなったのは親や家庭環境のせい」などと裁判でうそぶいても誰も許してはくれません。
なので、多くの大人は子供たちに努力を求め、「頑張れ」などと(無責任に)口にするのですが、苦しくても頑張れるのは「努力すれば報われる」という期待(というか確信)があってこそ。誰だってコスパの悪い無駄な汗はかきたくないし、いくら「根性」があっても(結果を残さなければ)昨今のデジタル社会では評価の対象にもなりません。
さてそこで、格差の拡大が進むとされるこれからの社会において、私たちは働く意欲やモチベーションをどのように維持していったら良いのか?という話。東京理科大学准教授の松本朋子氏は、12月25日の日本経済新聞のコラム「やさしい経済学」に、『「親ガチャ」が強まる日本社会』と題する一文を寄せています。
努力の多寡が所得に反映されたり成功に繋がったりしないのであれば、努力すること自体にインセンティブは湧かないもの。それでは人は、努力をすれば運命に打ち勝つことができるのか?
歴史の教科書には、親の地位や職業に関係なく個人の能力が評価され、努力が報われる「実力主義社会」が誕生したのは近代だと書かれている。日本でも、明治維新によって職業の選択が自由になったとされるが、ここ数十年の実証研究は、この「近代化が実力主義社会をもたらした」とする考えに疑問符を投げかけていると松本氏はコラムで指摘しています。
英国では、封建領主だった郷紳(ジェントリー)たちが産業革命期に金融業に進出し、子孫の多くが現在も富裕層として名を連ねている。また、富裕層の名字を多国調査した結果を見ても、同じ名字が時代を経ても富裕層リストに残り続けているということです。
そしてこの日本でも、明治維新後の最上層のエリート層の入れ替わりは限定的だったことがわかっていると氏は話しています。(いわゆる)「クラス」は脈々と次代に受け継がれている。近代化は私たちが思ったほど、社会に流動性をもたらしたわけではないというのが氏の認識です。
親の所得や職業が、どの程度子どもに引き継がれていくかを調べる社会階層論の研究によると、日本では21世紀に入ってから社会的な流動性、つまり階層間の移動がさらに少なくなっていると氏は言います。ホワイトカラー上層で非流動的な傾向があるほか、非熟練ブルーカラー層や自営業層でも閉鎖性が高まっている。その結果に、日本で世襲議員が多いことを想起した人も多いだろうということです。
2021年の「新語・流行語大賞」で「親ガチャ」がトップ10に入ったのも、努力より、生まれ持った初期条件(運)が所得を決定する比重が(思ったより)大きいことに、人々が気づき始めたからかもしれないと氏は話しています。
親子間の継承性が高いという現実は、所得再分配の必要性を裏付けるだけでなく、社会福祉のあり方を見直す必要性も示唆している。格差が大きく流動性が低い社会で福祉を市場や家族に任せることは、格差の固定化を助長することにつながりかねないということです。
さて、一方で「親ガチャ」の影響で発射台は多少低くても、地道に誠実に努力すればいつかきっと報われるという考え方をする人も、(そうはいっても)少なくはないでしょう。それでも人の世は捨てたものではない。社会は公正で、神は見ているに違いないと考える人は多いはずです。
因みに、このような世界観を、社会心理学では「公正世界仮説」と呼ぶそうです。公正世界仮説の持ち主は、「世の中というのは、頑張っている人は報われるしそうでない人は罰せられる」と考える由。こうした世界観に従えば(努力への中長期的なモチベーションが喚起されるので)世の中的にはありがたい話ですが、実社会ではそうした理想も裏切られることが多く、結果、自暴自棄になるといった弊害も生まれてきます。
また、この仮説でさらに問題なのが、「頑張れば報われる」→「報われていないのは頑張らなかったから」という論理に陥りがちなこと。「強者総取り」は当然として、弱者が切り捨てられるのは「自業自得」だというのが、この(仮説の)世界の住人にありがちな考え方だということでしょう。
得てして人の世は、自分ではどうしようもないことに縛られがち。世の中を長く生きていると、人々が平等に価値を置く「努力」すら、健康や環境、経験などに大きく左右されていることがわかります
キリギリスだって、隙でキリギリスに生まれてきたわけではない。運がすべてでもないし努力が全てもない。うまくいったら「運がよかった」、上手くいかないのは「努力が足りない」くらいに考えるのが丁度よいのかもしれないと、改めて感じる所以です。
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