MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2704 自分が死んだ後は別にどうなってもかまわない…

2025年01月06日 | 社会・経済

 バブル経済が崩壊したとされる1991年から2020年代までの期間を指して、「失われた30年」などとする呼び方が定着して久しいものがあります。そして、そこに生み出されたのが、時代の中で「氷河期世代」と名付けられた人々です。

 「氷河期世代」とは、1990年代~2000年代前半にかけて就職期を迎えた世代で、1970年から1982年に生まれた人々のこと。2024年現在、彼らも既に40代中盤から50代のシニア一歩手前、働き盛りの中年期を迎えています。

「就職氷河期」と騒がれた厳しい経済環境の下で世に出た彼らの、現在の就労状況を(2023年の労働力調査で)確認すると、総雇用者692万人に対し、非正規就労者が204万(雇用者の29.5%)にも及んでいることがわかります。実は、この非正規就業者の男女比は、男性30万人に対し女性は175万人ほど。非正規の実に9割近く(85.7%)が女性で、30年ほど前の就職氷河期の影響が特に女性の間に強く残っている状況が見て取れます。

 因みに、1995年に25歳だった(これらの世代の)若者が、50歳を迎えたのは2020年のこと。実はこの年の国勢調査で、50歳時未婚率、いわゆる「生涯未婚率」が男女とも過去最高記録(男28.3%、女17.8%)を打ち立てています。厳しい経済環境の中で結婚できなかった(しなかった)人は男性で約3割を数えることから、(こちらについては)特に結婚に当たって「経済力」を求められる男性に大きな爪痕を残しているようです。

 そして、ここからが「これから」の話。彼ら「氷河期世代」は、この国の社会にどのような歴史を刻んでいくことになるのか。10月16日の経済情報サイト「PRESIDENT ONLINE」に作家でラジオパーソナリティーの御田寺 圭(みたでら・けい)氏が『「自分の死後はどうでもいい世代」を生み出した日本の末路』と題する一文を寄せていたので、参考までに小欄に概要を残しておきたいと思います。

 ロスジェネ世代(いわゆる「氷河期世代」)の先頭が50代に入り、十数年後には立派に高齢者層の仲間入りを果たす。現在の高齢者層は基本的に皆婚時代を生きた人びとであるが、ロスジェネ世代はそうではない。彼らはこの国において「生涯未婚・子無し単身高齢者」が多く含まれる初めての世代だと、御田寺氏はこの論考で位置づけています。

 子どもを持たない高齢者の急激な増加は、すなわち「資産(≒遺産)を増やして次世代に残さなければならない」という時間的な連続性の意識を持たない人びとの増加を意味する。彼ら単身高齢者層は独り身であるがゆえに次世代に継承する資産形成の動機も持たず、(≒リタイアに必要な資金的ハードルも低くなり)労働市場からの離脱も早くなるというのが氏の認識です。

 彼らは、結婚せず子どもを持たないから将来の消費者(購買層)や社会保障の担い手をつくらない。また、自身の生活コストが低いからそこまで貯金や資産形成をする必要にも迫られず、結果、労働市場のメインストリームから早々に撤退する者が増加するだろうと氏は見ています。そしてこの状況は、社会経済にとってある意味大きなリスクになるというのが、この論考において氏の指摘するところです。

 例えば、自分ひとりが生きていくには困らない程度のストック資産を形成して早期に職から離れた者は、現在の社会制度上は所得が乏しい「経済的弱者」としてカウントされ、公的支援の対象者として捕捉される。冗談のような話だが、現在の社会支援の対象として引退世代(高齢者)を想定しているから生じる(これは)一種のバグだということです。

 言ってしまえば彼らにとっての早期退職とは、若いうちから自分を老人に擬態して税や社会保障の負担から逃れつつ、あわよくば給付を受けることさえ可能にしてしまう一種の「裏技」的な手法だと氏は指摘しています。

 これからバリバリと世のため人のために汗を流してもらうことが期待されている働き盛り世代の大量引退は、人手不足をさらに加速させる。そんな彼らが早々と「隠居し」て給与所得者を辞めてしまえば、名実ともに住民税非課税世帯となって、社会保障や生活インフラに実質的にフリーライドする側へと回るということです。

 ロスジェネ世代は経済的に厳しい状況に置かれている人が多いが、かといって統計的に見れば「ひとりで暮らしていく分」の余裕資金を持てないほどではないと氏は説明しています。しかし、彼らには「老人になるまで頑張って働いて財産を増やす」という「動機」そのものがない。ほどほどに仕事をしながらスローライフを続けていく動機のほうがずっと大きいというのが(同世代に対する)氏の見解です。

 ライフイベントを根こそぎ奪われてきたロスジェネ世代は、「自分のコンパクトな暮らしを死ぬまで続けられればあとのことはどうでもいい」という、現世利益主義的なライフスタイルを内面化。皮肉にもそれは、彼らが世間から散々に言われてきた「自己責任」にアジャストした結果となったということです。

 彼らからすれば、「この国の行く末」とか「将来世代の暮らし」とか、そういう「未来の課題」のことなどどうでもよいこと。なぜならそこに自分が「関与」できなかったからだと氏は話しています。「結婚できたり子どもを持てたりしているということはイコール恵まれている側なのだから、そんな人たちが単身世帯の社会保障やインフラのために余分に稼ぐのは“公平性”の観点から見ても妥当だろう」という主張には、一定の説得力すら出てきてしまっているということです。

 さて、「自分の老後どころか、死んだその先の未来のことを考える」というのが、その国に生きる者として呼吸するのと同じくらい当たり前の営みでなくなり、ある種の“贅沢な思想”になってしまったら、その国はきっと滅びると、御田寺氏はこの論考の最後に綴っています。

 だれもかれもが、顔も名前も知らない未来の人びとのためではなく、いま自分が生きている間の繁栄や快適を望むなら、未来のために残すべき貯えも、いまの快適さを守るために必要なら残さず食べつくしてしまうだろう。これは、決して責めているわけではない。私たちの社会が選んで「歴史的連続性」から切断された人を増やしてしまったからそうなったのだとこの論考を結ぶ御田寺氏の指摘を、私も(「なるほどあり得る話だな」と)興味深く受け止めたところです。

 



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