MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2051 新聞が生き残るためには

2021年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム


 テレビの一般化により始まった活字離れもいよいよ正念場。インターネット、さらにはスマートホンなどの身近なデバイスの普及によって、紙媒体を利用した情報メディアの運営も非常に厳しい局面を迎えているようです。

 12月13日のYahoo news(「新聞は実際にどれほど読まれているのか(2021年度版)」不破雷蔵氏)に掲載されていた新聞通信調査会が今年11月に発表した「メディアに関する世論調査」によれば、家庭や職場を含め何らかの形で新聞を毎日読んでいる(眺める機会がある)人の割合は全体の約4割。そこに、定期的に週1回以上読んでいる人(55.2%)、週一未満の人まで合計してようやく6割といったところです。

 これを多いとみるか、少ないとみるかは、世代によってもずいぶん違うようです。毎日読む人の割合は女性よりは男性、若年層よりは高齢層の方が値は高く、特に30代以下の新聞購読者は非常に少なく(30代9.0%、20代3.0%)、18~19歳ではほぼ皆無だとされています。他方、60代は58.4%と6割近く、70歳以上では3/4強(76.0%)が毎日閲読しているということです。

 さらにここ数年の傾向を見ると、70歳以上は横ばいのままだったものの、2020年度から2021年度にかけて中年層以降の複数の階層で大きく値が落ちる傾向が見られます。新型コロナによる自粛生活や働き方改革で職場に出社しない日々が続く中、テレビやネットから情報を得る人がさらに増えたということでしょうか。

 こうした「ジリ貧」ともいえる状況に対応するには、経営陣には「新聞は他のメディアとは違うんだぞ」という差別化戦略が強く求められているような気がするのですが、(毎日目を通しているからでしょうか)私自身は新聞の紙面からそうした動きをあまり感じた記憶がありません。

 ムードや世論の動向に惑わされない分析力や政治的な中立性、人権や社会的弱者への配慮、歴史認識などを踏まえた論理的で落ち着いた報道姿勢こそ、新聞の(総合力としての)優位性だと考えるのですが、その辺りについて新聞社の皆さんは(実際)どのように考えているのでしょうか。

 総合経済誌「週刊東洋経済」の12月11日号(コラム「少数意見」)に、「結婚騒動を注意しない新聞の堕落」と題する一文が掲載されていたので、参考までに紹介しておきたいと思います。

 リベラルな論調を誇りとする全国紙の優秀な編集者に、「あなたのようなバランス感覚に富んだ人間が編集に携わりながら、時に極端な立場に立った記事や社説が載るのはなぜか」という質問をしたことがある。その時は「新聞も商売だから購読者の嗜好に合わせないと仕方ない」というのがその答えだったと筆者はこのコラムに記しています。

 しかし、果たして読者の「読みたい記事」を掲載していくのが本当に新聞の役割なのか。昭和の戦争を招いたのは、軍部の暴走だけではなく、国民の熱狂が後押ししたことは広く知られているが、熱狂に押された報道機関が「赫赫(かっかく)たる戦果」を競って報道しさらに国民をあおるという悪循環が生まれていたというのが筆者の認識です。

 当時の主たる報道機関であった新聞には、「商売」を優先させた結果、報道の自由を失ったという反省があったはず。しかし、戦後が長くなるに従いその反省は薄れているのではないか。今回の「やんごとなき方」の結婚にまつわる(新聞の)報道ぶりを見てその思いを深くしたというのがこの記事において筆者の指摘するところです。

 日本国憲法は「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する(第24条)」とうたう。そこには、婚姻には家長の同意を必要とした旧民法からの決別の意志が込められていると筆者は説明しています。

 しかし、本件に関する「世論」を見ていると、このような最も基本的な人権が、憲法施行後75年が経過した現在も、かなりの数の国民に理解も支持もされていないことがわかり慄然とする。家長どころか、このカップルに会ったこともない赤の他人でも、二人の合意に介入する権利があると考える国民が少なくないということです。

 そこには、関連費用に税金が使われる可能性があることがあるようだが、しかしそれが「婚姻」という基本的な人権を制限する根拠になるはずもない。にもかかわらず、日ごろから護憲や人権尊重を主張してやまない全国紙までが、基本的な人権を土足で踏みにじるような世論や報道に立ち向かう姿勢をほとんど見せなかったと筆者は言います。

 それどころか、全国紙の系列週刊誌も世論に迎合し、進んでプライバシーの侵害や根拠の薄弱な人格攻撃を競い合うという構図が生まれた。「売れるから仕方がない」と言って則を曲げているうちに、気が付くと自分たちも自由を失っていたという「戦前の記憶」を完全になくしているようだというのが筆者の見解です。

 さすがに婚姻が成立する直前の頃から全腰は中立的な報道に回帰し、系列週刊誌も論調を改めた。ただ、メディア全体としては今も激しいプライバシーの侵害と人格攻撃が続いており、それに対して新聞が多くを語ることはないのが現実だということです。

 「社会の木鐸」を自任するのであれば、自己反省をするとともにこのような世論と報道を注意するのが新聞の務めであるはずだと、筆者はこの論考の最後に記しています。

 朝一番に新聞をめくることで、今日一日への、そして世界への扉が開かれる。どんなにびっくりするような出来事がそこに書かれてあっても、紙面の論調が落ち着いたものであれば、「さあて落ち着いて考えてみるか」という気持ちになるものです。少なくとも新聞というメディアに求められているもののひとつに、世の中の空気に媚びない「良識」の基準を示すことがあるのではないかと私自身も感じています。

 さらに言えば、(例えば今回の皇室に関する一連の報道に関しては)未来あるお二人のためにも、新聞のようなマスメディアだけでなく、普段から人権の尊重を主張する政党や言論界、法曹界、教育界などの各セクターが連携協力し、行き過ぎた報道姿勢を批判すべきではなかったかと、記事を読んで改めて考えたところです。


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