文部科学省は、対人関係のトラブルなどで1年間に30日以上欠席することを「不登校」と定義しているそうです。
2021年度に全国の小学校で不登校となった児童は、全体の1.3%に当たる8万1498人。中学校では5%の16万3442人が不登校に当たるとされ、いずれも過去最多を記録しています。因みに高校では全生徒の1.7%に当たる5万985人が不登校状態にあるとされ、こちらも過去最多を更新しているということです。
文部科学省はこうした状況を生徒指導上の喫緊の課題と捉え、教師による家庭訪問などによる指導や親との面談に加え、(不登校児童生徒の教育機会の確保に向け)不登校特例校の設置やICTを活用した学習支援、フリースクールや夜間中学での受入れなどを進めるほか、(不登校を生まないために)学校へのスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの導入などに力を入れるとしています。
さて、こうして学校現場では先生方の苦労の種となっている不登校問題ですが、この際、不登校の何が問題なのかについてはよく考えてみる必要はあるような気もします。果たして、学校は本当に行かなくてはいけないところなのか。「不登校」は、矯正すべき、好ましくない「問題行動」なのか。
私などは、子どもが 「学校に行きたくない」と言うのであれば、(正直)無理して行かせる必要がどこにあるのかよくわかりません。もしも全体の5%(1クラスに2人くらい)もの不登校生徒が本当にいるのであれば、学校はそうした状況を受け止め(それに)淡々と対応すればよいだけのこと。「あ、そうですか。じゃ、自宅でこれとこれをお願いします。」と所定のテキストを渡せば済むだけのこととも思います。
不登校をそのまま放っておくと「引きこもり」につながる…といった意見もあるようですが、学校に行けば引きこもりにならないというワケでもないでしょう。もとより、ひとりの大人になれば自宅から出ないのは勝手だし、「ひきこもり」として誹りを受けるいわれもないというものです。
結局のところ、不登校も引きこもりも、どうしてよいやら困って声を上げているのは(本人ではなく)親や家族だということなのでしょう。しかし、馬を水場に連れていくことはできても水を飲ませることはできません。一人でいるのは悪いことではないのですから、集団行動ができない(したくない)というのであれば、まずはそこからスタートしてはどうかと考えるのはいけないことなのでしょうか。
さて、そんなことを漠と感じていた折、12月20日の総合情報サイト「幻冬舎GOLD ONLINE」に、ジャーナリストの岡田 豊(おかだ・ゆたか)氏が『人を疎外する「引きこもり」「ニート」「不登校」という分類』と題する論考を寄せているのを見つけたので、参考までに一部を小欄に残しておきたいと思います。
そもそもこの「ひきこもり」という言葉には、一方的な「宣告」のような冷たさがある。わざわざそうしたジャンルを設け、そこに人を押し込んでいるかのように感じると岡田氏は話しています。
「ひきこもりからの社会復帰」「ひきこもり脱出法」など、社会現象(問題)としてあえて取り立て、狭い概念で人々を「隔離」しようとしているように見える。「ニート」や「不登校」という言葉もそうだが、管理する人間の側から、人の居場所を否定的に捉える貧しい価値観が反映されているようだというのが氏の感覚です。
内閣府によると、「ひきこもり」の定義は「自室や家からほとんど出ない状態に加え、趣味の用事や近所のコンビニなどに出かける以外に外出しない状態が6カ月以上続く」というもの。2019年3月に公表された推計では、こうした「ひきこもり」は、15歳~39歳で54万1000人、40歳~64歳で61万3000人いると推計されており、7割以上が男性で、「ひきこもり」の期間は7年以上が半数近くを占めていると氏は説明しています。
厚生労働省は2009年度に「ひきこもり対策推進事業」をスタートさせたが、何より「ひきこもり」をやめたいと考え支援を求める人たちにとって、確かに公的な支援は欠かせないものだと氏は話しています。
しかし、気になるのは彼らへの評価や価値観、概念の部分にある。「ひきこもり」「ニート」「不登校」という、どこか失礼で、人と人との間に線を引いて区切ろうとするような(これらの)言葉には、まるで「こちらは正しいが、そちらは正しくない」と一方的に追い詰めようとしている冷たさがあるというのが氏の見解です。
さて、人にはそれぞれ持って生まれた個性や境遇など、様々事情があるものであり、もとより物事を判断する尺度は、多くて、広くて、弾力的であっていいはずです。確かに「不登校」や「ひきこもり」の状態は、効率が悪かったり生産性が低かったりするかもしれません。しかしその一方で、人の生活態度を「正常」と「異常」に区別し、生産ラインの中で不良品を排除するかのような(行政やメディアの)態度にうすら寒さを感じるのは氏ばかりではないでしょう。
他者への「不寛容」さが顕著になりつつあるこの時代、もっと人間に優しい言葉(や対応)があるのではないか。例えば、「ひきこもり」の現状がその人にとって心地いい状態であり、もしもその環境が許されるならば、私たちはただ見守るだけでいいのではないかと考える岡田氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。
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