6月4日に、元陸上選手でスポーツコメンテーターの爲末大さんがTwitterに寄せた「私たちの国は『なにかあったらどうすんだ症候群』にかかっている」とするツィートが、にわかに話題に上っているようです。
「この症候群は社会に安定と秩序をもたらしますが、その副作用として社会の停滞と個人の可能性を抑制します。この症候群には『未来は予測できるものであり、物事はコントロールできるものである』という前提があります。」と、氏はこのツィートにコメントを加えています。
「(「どうすんだ…」と)批判している人をよく観察すると、『私も諦めたのだから君も諦めるべきだ』を言い換えているだけだったというのはよくあります。そして、批判しているその人も、人生のどこかで否定され続けた経験を持っていたりします」…と氏は続けてツィートしています。
為末氏がここで指摘しているのは、「リスクの回避」に重きを置く昨今の風潮の成長リスクと、「失敗」を前提に議論をすることの発展性のなさということでしょう。氏も、「否定のスパイラルに自分自身がはまっていると客観的に自覚することは、人生を主体的に生きる上でとても大切です」とリツィートしています。
「(少しでも問題があれば)解決策よりも犯人捜し」「失敗したら自己責任」の世の中で、「何かあったら責任取れるのか?」と聞かれれば、委縮してしまうのは人の常というもの。私自身、そうした社会全体の風潮が、(特に若い世代の)挑戦する心を萎えさせていることを心配している者の一人でもあります。
そんな折、6月8日の日本経済新聞に、同紙編集員の北川和徳氏が「何かあったらどうすんだ症候群」と題する論考記事を掲載しているのを目にしたので、参考までに(その一部を)紹介しておきたいと思います。
元陸上選手の為末大氏が先日、SNSで発信した「なにかあったらどうすんだ症候群」。この症候群は、未来を「予測してコントロールできるもの」と考えるため、その逆算でしか物事を判断できない。しかし、現実社会では(得てして)予想だにしていなかったことが起きるものだと北川氏はこの論考に綴っています。
世界にはそれを「イノベーション」の機会と歓迎する国もあるが、この国では(それが)「危ない」や「予想外」という意味になる。日本が今の状況から抜け出るためには、「やってみよう、やってみなけりゃわからない」を社会の合言葉にしなければならないというのが氏がこの論考で指摘するところです。
日本がこの30年間で陥った停滞の理由。それは、変化を恐れ、安定と現状維持を無意識に優先する雰囲気が、社会の意思を決定しているということだと北川氏は話しています。
その結果、世界の変化に追いつけず社会の劣化が進んでいる。デジタル技術でイノベーションとか生産性の向上とか力んでも、これでは絵空事で終わるしかないということです。
為末氏が指摘するこの症候群の中心は、実際、(自分自身も属する)50歳以上の人たちだろうと北川氏は言います。
日本には1980年代まで世界がうらやむ経済的な成功を収めた時代があった。それを守ろうとする世代の意識が、その子供や孫の代にまで浸透しつつあるとしたら極めて深刻な事態と言える。終戦後のどん底から、「失うものはなにもない」と果敢なチャレンジを続けてこの国を再生した先人たちの存在を、今こそ思い起こすべきだというのがこの論考における氏の認識です。
もちろん、無謀な試みを奨励しているわけではない。未来は予測もコントロールもできないと覚悟する。その上で、リスクを正しく認識して最小限に抑える備えを怠らず、物事の優先順位を考えて行動することが重要だと氏は指摘しています。
「やってみよう」「やってみなけりゃわからない」が当たり前になる会社に変わらなければ、日本企業はイノベーションを生み出すことができなくなる…そうした強い危機感を(我々年長の世代こそが)共有する必要があるということです。
国民一人当たりのGDPや経済成長率において、先進国の中でも下位に甘んじることが多くなったこの日本が、(20年ほど前から)既にチャレンジャーの立場に置かれていることは多くの人がよく知る現実です。
何を守り、何に挑戦するのか。時には「もしも何かあったとしたら、その時はその時。あった時に考える」と腹を括ることも必要なのではないかと考える北川氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。
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