少子高齢化による労働力人口の減少が予想される現在、女性の活躍への期待が高まっています。国も、女性活躍推進法や育児・介護休業法、男女雇用機会均等法などを整備し、女性の活躍を後押ししています。
また、経済や企業活動の分野だけでなく、地域活動やボランティア活動、PTAの活動などの非営利・公共的な活動分野においては、(これはもうかなり以前から)女性の活躍抜きには活動が成り立たない状況にあるのは事実でしょう。
しかしその一方で、例えば町内会の会長やPTAの会長、身近なところではマンションの理事長などもそうかもしれませんが、活動のトップに立って全体を仕切ることについては躊躇する女性が多いのも事実のようです。
その理由は様々あるのでしょうが、「家の(夫や子供の)面倒を見る必要がある」「親の介護をしなければならない」「これまでそういう経験がない」等々、(これはといった)優秀な女性の口からそうした言葉を聞くのは男性としてもつらいものです。
特に、中高年の女性ほど「そうした立場は男性が担うもの」という意識が強く、(「男性を立てる」と言えば聞こえはよいのですが)ある意味「都合よく」責任を回避しているような印象すら持たされるのは残念なことです。
しかし、すっかり高齢化した現実社会を顧みれば、元気のない疲れた(そのくせこだわりの強い)おじさんやお爺さんよりも、おばちゃんやお婆ちゃん方がずっと元気で活動的なのは誰もが認めるところです。
こうした近年の中高年女性の能力の高さに関し、7月28日の総合情報サイト「幻冬舎ゴールドオンライン」にNPO法人「老いの工学研究所」理事長の川口雅裕氏が『「男は会社、女は家庭」の価値観が負わせた、日本の高齢男性の「圧倒的なハンデ」』と題する論考を寄せているので、参考までにここで紹介しておきたいと思います。
一般に「生活力」と言われているものには(実は)2つある。ひとつはお金を稼ぐ力。そしてもうひとつは、自分の身の回りのことがちゃんとできる能力だと川口氏はこの論考の冒頭で話しています。
どちらも大事なのに、「生活力」と聞いただけで日本人は「稼ぐこと」だと思ってしまう。しかし、特に高齢者に必要なのは2つ目の「生活力」だというのは間違いない。仕事をやめて稼ぐ必要がなくなったら、次に必要なのは「自力で生活する力」だというのが氏の指摘するところです。
日本の男性は(妻に)依存し過ぎだし、依存しているという自覚さえない場合も多い。昔から言われるように、「男やもめにウジが湧き」夫が亡くなったあとは「女やもめに花が咲く」となるのは当然の流れだということです。
「男は会社、女は家庭」と言って生活の場所とずっと離れていた男性の中には、定年後、能力や時間を持て余し、(かといって)地域との付き合いも難しく、家に閉じこもりがちになる人が多くいると氏はしています。
少し田舎にいけば、消防団や自治会などの地域活動や年中行事などで男性の活躍の場があったりするが、都市部ではなかなかそうはいかない。男女の役割の固定化は、男性から「2つ目の生活力」を奪ったこと、「地域の共同体を持てなかったこと」の2つの点で、男性高齢者の暮らしを厳しくしてしまったというのが氏の見解です。
一方、多くの高齢男性がサラリーマンとして勤めていた会社という組織では、その規模が大きくなればなるほど、自分で思考する場面や自分で決断する機会が少なくなっていくのが現実だと、川口氏はこの論考で指摘しています。
検討事項は機能分化したそれぞれの専門部署が考え、それを会議などで調整し、最後は「皆」で何となく決めたようにして物事が進んでいく。日本の会社は、自分で考えたり、自分で決断したりしなくてもよいような仕組みになっていて、入社してから定年まで、思考も決断もほとんどしなかったという人がいても不思議ではないと氏は言います。
そうした中では、自身の確固たる意志やこだわりなどを主張するよりも、今はどういった意見が多数派か、どのような結論に落ち着きそうか、この場で影響力のある人はどのように考えているか、といったことを察する能力のほうが重要となる。自分の感情を騙し、抑えてでも、その場の空気にふさわしい言動を選ぶ処世術、演技力が求められるということです。
多くの高齢男性が、好むと好まざるとにかかわらず、このような生き方をずっと続けてきた。しかし、定年して地域や家庭での生活が始まると、(会社にいた時のように)決めてくれる人や相談する相手はもういない。何もしなければ放っておかれるだけの状況に、戸惑うお父さんたちは多いと氏は話しています。
実は男性は、(こうして)家事や家のことを妻に依存してきただけでなく、会社でも組織や上司、部下に依存してきたわけで、個人で物事を判断し、決め、実行してきた経験に乏しいというのが川口氏の見解です。
結果として、会社という共同体の中で、磨かれることがなかった思考と決断力が残された。これが、男性高齢者には高齢期の暮らしにおいて大きなハンデになっているということです。
一方、その間女性は常に自分の頭で考え、判断し、決めることを続けてきた。日々の食事の献立を決め、家計を預かってその中でやり繰りし、子どもの進路を一緒に決めたりする。面倒で難しい近所付き合いや親戚付き合いも、長年にわたって一手に引き受けてきたと氏は言います。
彼女たちには、仕事に打ち込む主人に相談せずに(聞く耳を持ってもらえないので)、一人で考えて決断してきた実績がある。そして今、このような「能力差」が、男女の高齢期の暮らしぶりの大きな差となって現れているということです。
令和の高齢社会において、男性と女性の間に生まれている「圧倒的」な能力差。これは、長年にわたって培われ、積み上げられてきたものだけに、その差は一朝一夕に埋まるようなものではないでしょう。
「自力で生きる力」で言えば、組織の中でのほほんと暮らしてきた世のオジサンたちと、地域社会の中でもまれてきたおばさま方の能力差は大きく開いている。
昔にあったムラ社会の変化と会社共同体への吸収。地域共同体における高齢男性の置かれた状況からは、(そうした歪みに端を発する)様々な問題が見えてくるとこの論考を結ぶ川口氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます