話題の宮崎アニメ「風立ちぬ」を観ました。
封切り後すぐに映画館に足を運んだのですが、ぼんやりとした印象の中で上手く感想がまとまらなかったので「もうちょっと時間をおこうか」と、まとめるのもそのままにしていました。…何と言ったらよいか、そういった「さわさわっとした」いろんな感情がわき立つ「いい映画」でした。
印象的なファンタジックなカットのそれぞれは、極めて主観的な世界観の中に置かれています。しかし実はそこには、時代を生きる人たちのどうしようもない「リアル」な現実や感情が存在している…。
「風立ちぬ」は「秋」の季語です。風が強く吹いてきた。これからどうなるんだろう。でも生きていかなければならない…。いろいろな見方ができるとは思いましたが、スクリーンに溢れる美しい映像を、私は大正から昭和に生きた人々へ「鎮魂歌(レクイエム)」としてのそのように受け止めました。
制作に携わった人たちのメイキング映像をテレビで見る機会がありました。絵コンテの一つ一つに、効果音の端々に、作り手たちの思いがしっかり入っている。丁寧に、大切に作られたシーンの積み重ねのみが人々の心を打つという、映画づくりを知りぬいている作り手たちの「苦しみ」のようなものを、そこに感じることができました。
大正から昭和にかけての日本の田園の美しい風景。ゆったりとした時間の流れと登場人物の語り口。戦後の高度成長の中で失われてしまった「戦前の日本」と「日本人の記憶」について、当時生きていた人々の思いとともに記録しておく最後のチャンスだと、宮崎監督は(団塊の世代の代表として)このアニメーション作品を世に送り出したのではないかと感じました。
作品の中には様々なエピソードの断片がちりばめられています。それぞれの独立したエピソードが持つシチュエーションや空気感が連続しているようで、していないようで、それでも時代は動いていきます。 ある日風が立って動きが起こり、季節が移り変わるようにつながっていく。こうした季節の流れ、時代の流れを淡々と受け入れる登場人物の姿。そこには、自らの夢と、未来への希望と、現実を生きるものとしての少しの諦念が錯綜しています。
「風立ちぬ」は、これまでの宮崎アニメとは一線を画す基本的に大人向けのストーリーであることに加え、あえてわかりやすい説明を廃し、様々な受け取り方を許容する構成となっています。
宮崎監督自身、「子供の観客がおいて行かれるのではないかと心配した」と新聞のインタビューにありました。一方で監督は「子供の頃、小津や成瀬の映画を見て『なんでこんな暗い映画を見なきゃいかんのか』と思っていた。でもこうした作品が今も自分の中に残っている。分かりにくいものに接する体験には意味がある。」とその思いを語っています。
子供向けにしつらえられた「お子様ランチ」だけを食べさせることは子供の成長を妨げる、というわけでしょうか。どきどきしたり、わくわくしたり、悲しい気持ちになったり、人はその時代の矛盾を抱え込んだりする。そういうことをきちんと感じる機会が必要だということでした。
戦前の人達が生きた時代は、決して悲しいものでも苦しいばかりのものでもありませんでした。そこには伝統や文化を愛する理性的な人々が住み、豊かな自然があり、若者の前には未来や希望も広がっていた。ともすれば忘れ去られ、誤解されがちな先人たちの暮らしを思い出す、そんな稀有な機会を持つことができたことに感謝したいと思います。
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