2月8日にノミネート作品が発表された第94回米アカデミー賞。3月28日の授賞式を前に、多くの日本人が、作品賞、監督賞、国際長編映画賞などにノミネートされた濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』に注目しています。既にカンヌ国際映画祭脚本賞をはじめとした世界的な映画賞を席巻している観のあるこの作品は、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ロサンゼルスなどの映画批評家協会賞を総なめにするなど、特に米国の映画関係者の評価が高いようです。
アメリカ映画と言えばハリウッド。エンターテイメント性を有する娯楽大作が人気を集めるこの国で、なぜここまで人々の心をとらえたのか。アカデミー賞と言えば、2020年に非英語作品として初めて作品賞、国際長編映画賞、脚本賞、監督賞を受賞した韓国のポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』が思い出されますが、今回、話題の『ドライブ・マイ・カー』はそれとはずいぶん印象の異なる(まさに)「純文学」の肌触りです。
透明感のある映像と必要最小限の台詞。主人公が過去の記憶と現在との間を行ったり来たりする中で、時間だけが淡々と刻まれていく。語られていくのは(まさに)彼の心の内側の世界であって、依るべきものを見失ってしまった彼が最終的にどこにたどり着くのかは、見る者の感性に委ねられていると言ってもいいでしょう。だからこそ、この作品の主題は一つではなく、上演が終わり灯りがついた映画館で観客一人一人の心の中に残されたものの「それぞれ」だということなのかもしれません。
実際、ネット上の評価やコメントなどを眺めても、様々な立場の人が様々にこの映画を読み解き、それぞれ興味深い感想を述べています。そうした中、2月18日の「現代ビジネス(on line)」に文芸批評家の杉田俊介氏が「『ドライブ・マイ・カー』が「自分の傷つきに気づきにくい男性」に与えてくれる大切なヒント」と題する論評を寄せているのを目にしました。失った妻への様々な思いを引きずりながら生きていく主人公。その息苦しさのおおもとについて触れている部分があったので、備忘の意味で小欄に内容を残しておきたいと思います。
「僕は、正しく傷つくべきだった」…主人公の中年男性が作品の終盤に口にする言葉がある。そしてそこには、新しい男性性や男の生き方を摸索していくためのヒントが残されていると、氏はこの論評で指摘しています。
多くの男性には、自分の心身を蔑ろにしがちな傾向がある。身嗜みや化粧をつねに過剰なほど要求され常に重圧を受けている女性たちに比べ、男たちは、身体をネグレクトすることを特権的に許されてきたと氏はこの論考に綴っています。心身の傷や痛みに配慮せず、黙ったまま耐えられるという「無痛」こそが男らしい…そういった(ある意味)人に無理を強いる「男性性」の規範(縛り)が、そこにはあったということです。
しかし、男たちにとっても身体や精神の日々の手入れや手当て、メンテナンスが必要な時はある。たとえば、「男らしい理性によって女性的な感情を抑圧し、管理し、コントロールしなければならない」「他人様の前で感情を発露してはいけない」そうした思い込みは危ういものではないかと氏は話しています。
社会的なタテマエとして要請され、偽装された「男らしさという鎧」の中に、しばしば、傷付いた心が隠されている。そこに必要な手当てを欠いたままにすれば、男たちはそうした「男の傷」を周囲の「女」(妻だったり母だったりする)に癒してもらうことを期待し、あるいは無意識のうちに強要してしまうというのが氏の指摘するところです。
日々の適切なセルフケアの訓練や練習をしておかないと、セルフネグレクト状態に陥ったり、溜め込まれた感情を暴発させたりして、他者や自分への暴力的な攻撃に転じてしまうこともある。日頃から我慢して我慢して、溜めて溜めて一気に暴力に転嫁する状況を、ある種の「美学」としてとらえる向きもある。しかしこうした爆発が、(時に)本人ばかりでなく周囲をも大きく傷つけるという現実を理解できていない男性は多いということです。
そうしたときに大切になるのは、日頃の関係の中で、感情や不安を小出しにしたり、部分的にガス抜きできたりするような、浅くも深くもない、そのような他者との関係性なのではないかと、氏はここで指摘しています。男性性を、日常的にこまめにメンテナンスしていく。全てを一気に告白して全面的に受け入れてもらうのではなく、傷の部分的=小出し的なシェアリングが痛みの一部を引き受けていくことが、問題の解決を促す場合も多いということです。
人前で涙を見せられること。自分の弱さを受け入れられること。「男らしく」我慢なんかせずに、嫌なものは嫌だ、つらいものはつらい、はっきり他者の前で口にできること。自分より弱い立場の人間に感情をぶつけるより前に、自分自身の傷ついた声、内なる感情に繊細に耳をすませられることこそが、柔軟な自分を取り戻すカギになるということでしょう。
そういう意味で言えば、映画『ドライブ・マイ・カー』」は、傷ついた男たちに(ひとつの)「癒し」を与える作品として、正しく成立していると言えるかもしれません。「マッチョ」であることを強いられ、競争に傷つき疲れたアメリカの男性たちにとって、美しい日本の風景と寄せては引く波のような穏やかな会話が与えるやさしさは、琴線に響くものがあったのでしょう。
自由に振る舞うことの難しさは人それぞれに違うかもしれません。しかし、時には時間に身を任せカッコ悪く涙を流すことも、(自分を取り戻すためには)避けては通れない道なの(だったの)ではないかと、私も我が身を振り返り改めて感じたところです。
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