MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2088 ドライブ・マイ・カー

2022年02月14日 | 映画


 遅まきながら1月の最終土曜日に、海外でも評価の高い濱口竜介監督がメガホンをとった話題の邦画、「ドライブ・マイ・カー」を映画館のレイトショーで見てきました。原作となった小説は随分前に読んでいたのですが、映画が海外の映画祭などで高く評価されていると聞き、(話題についていくためにも)この機会に見ておいた方がいいかなと(ミーハー心から)重い腰を上げた次第です。

 とはいえ、村上春樹の短編集として2013年に世に出た「女のいない男たち」の中でも、原作となった「ドライブ・マイ・カー」は印象に残る作品だったのは事実です。

 ある日、ひょんなきっかけから主人公である俳優の専属運転手となる若い女性。そして、彼女と過ごす淡々とした時間を触媒のようにして、死んだ妻との精神的な結びつきを取り戻していく主人公。極めて短い作品ではありますが、静かな時間の流れ中で、周囲の人間との触れ合いによって主人公の喪失感が次第に埋められていく様子が、(いわゆる)村上ワールドを愛するファンにはたまらなく感じられることでしょう。

 しかし、そうはいっても50ページにも満たないようなこの短編小説が、約3時間(179分)もの長尺映画になっているというのですから、そのシナリオには様々なオリジナルストーリーが加えられ、原作とは程遠いものになってしまっているのではないか。特に原作には、ストーリー上、大きな盛り上がりを見せる場面などが少ないこともあって、原作の雰囲気がどの程度受け継がれているかについては(原作が気に入っていただけに)少し不安な気持ちも覚えていたところでした。

 さて、そうした中、スクリーンに映し出される3時間の映像を見た後の結論としては、(エンターテイメントというよりも)まずは一つの映像作品としてなかなか良い出来栄えだなと感じました。冬の日本を自動車で移動しながら、過去の様々な時間を静かに振り返る二人。出演者が語る選び抜かれた台詞と丁寧で落ち着いたカメラワークが描き出す登場人物の心の動きや情景は、まさに私たちが大好きな(村上春樹独特の)世界観といえるかもしれません。

 それにしても、これほど静かで(ある意味)派手さのない作品が、世界で評価されているというのは何となく不思議な気もします。すでにカンヌ映画祭での脚本賞や国際映画批評家連盟賞、そしてゴールデングローブ賞の非英語作品賞を受賞し、3月に受賞作品が決まるアカデミー賞では、外国語映画賞、監督賞だけでなく、作品賞、脚色賞の合計4部門にノミネートされているというのですから驚くほかはありません。

 「全米が泣いた!」というような超大作では決してなく、極めて「日本的」に(こじんまりと)まとめられたこの「ドライブ・マイ・カー」が、なぜ世界(特に米国)でこれほどまでに評価されているのか。ワシントン在住のジャーナリストである冷泉彰彦氏は、2月11日の総合情報サイト「Newsweek日本版」に寄せた「『ドライブ・マイ・カー』に惚れ込むアメリカの映画界」と題するコラムにおいて、その理由を大きく3つ挙げています。

 1つは、丸2年にわたるコロナ禍で、全てのアメリカ人は傷つき、疲れているという現実です。生活の不便や健康への不安、そして親族や知人の罹患や闘病の知らせなどに人々は神経をすり減らしてきた。孤立と分断の狭間で消耗してきた米国人は、日本人が想像するよりもずっと多いと氏はしています。

 そうした中、この『ドライブ・マイ・カー』は、コロナの傷を静かに癒やしてくれる作品となったはず。氏によれば、米国の映画館でも(同じトーンが続く長い作品にも関わらず)途中でギブアップする人はなく、観客たちは本当に静かにスクリーンに見入っていたということです。

 濱口監督の独特のテンポ、時間と空間の心地よい感覚がまず癒しとなった。人物の内面を静かに掘り下げていく描写もまた、忘れてかけていた人間性の回復のように思われたのではないかというのが冷泉氏の指摘するところです。

 理由の2つ目は、トランプ時代に疲れたアメリカ人への癒しとなっているという点です。本作は、「字幕付きの外国語映画」なので、そのファンは知的な階層に限定される。その多くはリベラルの立場に立っている(と思われる)ことから、彼らはトランプ現象に驚き、怒り、そしてトランプ的なるものがアメリカを振り回すことへの絶望と疲労を感じてきたはずだと氏は言います。

 これに対して、この作品は「他者への赦し」「罪障感からの救済」「圧倒的な多文化主義など多様性への讃歌」、そして「演技が国境と言語を超える」という希望のメッセージとして素直に伝わった。よくできた「セラピー」のように、観る者を瞑想の中に包み込んだということです。

 そして、氏が指摘する3つ目は、やっぱりアメリカ人は日本が大好きということだと冷泉氏は話しています。(日本人の自画自賛のように聞こえるかもしれないが)ワシントンに暮らしていてわかるのは、パンデミックで国境が閉鎖されている間にも、ラーメン人気は加速する一方だし、「あつ森」現象に加えて「鬼滅の刃」ブームと、日本文化への「片思い」はそれこそ弾けそうになっているということ。なので、作品に現れる日本の美しい自然や街並みなどは、もうそれだけで「手の届かない憧れの世界」になっているというのが氏の認識です。

 同じアジアでも、どんどんと異なった価値観の方向に進む中国や、「パラサイト」「イカゲーム」など少し息苦しい韓国カルチャーと比較して、この濱口ワールドが見せてくれる「日本の文化における圧倒的な成熟」というのは、やはり「自分達にとって最も親しい異文化」として感じられるはずだということです。

 さて、(因みにですが)この「ドライブ・マイ・カー」というタイトルは、村上ファンなら誰でも気づいているように、往年のビートルズの楽曲に由来するものです。長編小説として有名な「ノルウェーの森」が収録されている1965年のアルバム『ラバー・ソウル』の、最初を飾る曲として知られています。

Baby you can drive my car(ねえ坊や、私の車を運転していいわよ)
Yes I'm gonna be a star(そうよ、私はスターになるの)
Baby you can drive my car(坊やはそんな私の車を運転できるのよ)
And maybe I love you(そしたらあなたのことを好きになるかもしれないし)
…こんな感じでしょうか。

 もちろん「drive my car」はスラングで、性交渉を持つということ。字面を追う限りでは、「ノルウェーの森」とは随分トーンの異なる(少し足りない)お気楽でとぼけた歌詞としか捉えようがありません。しかし、その一言一言を小説や映像として表現された村上作品と重ね合わせてみると、そうした中にも(何とも言えない)深みや哀しみが浮かび上がってくるのが、不思議と言えば不思議な感覚です。


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