昨年話題を呼んだ小説に、坪田信貴氏の『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』がありました。学年でビリ、偏差値30のギャルが1人の塾講師と出会って一念発起し、慶応大学への現役入学を果たすという(学園版)サクセス・ストーリーです。
さて、この小説が映画化され、有村架純の主演でこちらも人気となった『ビリギャル』(土井裕泰監督)の中に、「ウチの息子はやればできる子なんです…」と塾の講師に訴える母親が登場します。
息子は「やればできる子」なのに「やらない」だけ。なので、「やるように」先生何とか仕向けてください…というものです。
この母親に対し、講師役の伊藤淳史はきっぱりと告げます。(詳細は違っていたかもしれませんが)「息子さんの立場に立てば、そう言われてやってみて、もしもできなかったら自分自身の全部が否定されたことになる。それが判っているから、(そう言われている限り)彼が挑戦するはずがないことがお母さんにはわかりませんか?」
さて、先日、家人が自宅で観ていたDVDから流れるこのやりとりを聞いて、以前、精神科医の熊代亨氏のブログ「シロクマの屑籠」(2010.1.19)にあった、「全能感を維持するために何もしない人達」と題するひとつの記事を思い出しました。
ここ最近、「価値のあるボク」「価値のあるアタシ」といった肥大した自己イメージを抱え、全能感を捨てきれないまま成長した大人達が増えていると熊代氏はこの記事で指摘しています。そして氏は、そうした全能感を維持したい、いつまでもこのまま王様でいたいという人にありがちな処世術として、「全能感が傷つく可能性の高いところには手を出さない」という戦略を挙げています。
自分の値打ちを確かめ損ねてしまったら、「全能ではない自分自身」「たいして価値のないかもしれない自分自身」に気付いてしまうかもしれない。そのため、全能感が折られる可能性を全て回避するという手段に出るケースが、最近ではごく普通に見られるようになっているというものです。
彼らの方法論に則れば、「何もしない」「何も本気でやらない」人ほど全能感は温存されることになります。こうして、本気で勉強しない、本気で恋愛しない、何にも真面目に打ち込まないといった処世術が、(特に若者の間で)珍しくなくなっているということです。
本来 大抵の大人は、思春期のトライアンドエラーや人間関係の中で自分が思うほどオールマイティではないという事実に直面し、その挫折によってゆきすぎた全能感がなだらかになっていくものだと熊代氏は説明します。しかし、傷つくことに耐えられないと感じる人達は、敢えて挑戦しないことにより「いつまでも価値のあるボク」を維持することを選択するということです。
「俺は本気じゃない」とか「やだなぁ、ネタですから…」とか言い訳しながらの挑戦なら、全力を出してないから失敗した(=全力で挑戦していれば成功していた)と自己弁護できますから、全能感は保たれます。
従って、全能感を手放したくない人達はトライアルをクリアする確率を1%でも高めるよりも、自分自身の全能感がひび割れるリスクを1%でも低くすることのほうに夢中になってしまう。気が付けば、いざ本気で挑戦しようと思った時には、もはや本気で挑戦するタイミングを逸してしまっていて、いつまでたっても技能や経験に恵まれることもなく、生ぬるい日常を過ごし続けることになるということです。
熊代氏は、このように何もせず全能感の挫折を回避しつづけてきた人も、いつかは「実は何もできないまま歳だけとった自分」というものに直面する日がやってくると言います。そしてその時、「等身大の自分自身」と「全能な自分自身のイメージ」のギャップにひどく苦しめられ、ついにメンタルヘルスをこじらせて精神科/心療内科を受診する人も決して珍しくないということです。
環境の影響などもあって、一旦身に付いた過剰な自己愛は、自分自身の力ではどうしようもないケースが実際は多いのかもしれません。なので、可能であるならば、可塑性の高いうちに適度な失敗や挫折を経験し過度に全能感にしがみつかないようにした方が、平坦ではあっても危なげない人生を送ることができると熊代氏はこの論評で述べています。
もちろん、その場その場では辛い経験や充たされない経験もあるとは思う。しかし、その方が「常に充たされて当然」「辛い経験は避けるのが当然」という処世術をカチコチに築き上げるよりもはるかに柔軟な生き方が出来そうだし、最終的に挫折や失敗にへし折られるリスクも小さくなるだろうとする(ひとりの精神科医としての)氏の視点を、私も改めて興味深く受け止めたところです。
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