ひとりを楽しむ

がん、脳梗塞を経験したバツイチ。
残りの人生ひとりを楽しみたいと思っている
おばさんの記録です。

やっと終わりました

2022年02月27日 | 身辺雑記

去年の11月から引きずっていた問題、やっと終わりを迎えました。

離婚しました。

と、いっても20年前から別居生活を送っており生活自体は何にも変化はありません。

別居してから1回も会ったことはなく、

今回も顔は合わせていません。

 

興味のある方だけ読んでいただければと思いますが、

最初から厳しい結婚生活でした。

結婚式の数週間前だった(古いことなので記憶が定かではありませんが)と思うのですが、

相手に転勤の辞令が下りました。

 

会社が探したハイツのようなところに住み、

私は知り合いもいない中、孤独でした。

仕事をしたかったのですが、田舎ということもあり仕事もありませんでした。

姑から電話で「なんで仕事をしないのか」と責められました。

それを夫に言っても庇ってもくれませんでした。

このときに何か勉強になればと雇用保険で職業訓練校に入りました。

この場所に1年住み、職業訓練校も卒業するというある日の夜、私は履歴書を書いていました。

そこへ夫が帰ってきて「転勤が決まった」と告げられました。

 

そしてまた会社が探したハイツに移り住みました。

転勤先が東京、バブルの時代ということもあり就職先は見つかりましたが、

また、いつ転勤と言われ引っ越さないといけないのだろう。

なんで落ち着いて仕事ができないのだろう‥といつも悩んでいました。

私はずっと仕事がしたかったのです。

 

東京には4年いてまた転勤です。

今度は関西でした。

このとき、私は自分で家を探したいと思いましたが、

またしても会社に家を決められそこに住みました。

夫は会社人間で会社の言いなりでした。

 

やっと関西に帰ってきて、

もう絶対に転勤に付いて行きたくないと思いました。

そこでマンションを買おうと思いました。

持ち家であれば夫が転勤になっても私は付いていかなくてすむと考えたからです。

それまでも何度か単身赴任をしてほしいと言いましたが、聞き入れられませんでした。

 

マンションを買ってようやくなんとか落ち着いたと思いましたが、

気持ちのズレは戻りませんでした。

元々、私の両親と夫も仲が悪く、私も姑が苦手でした。

転勤に振り回され、家族関係も悪く、せっかく関西に戻ったのにその頃は

バブルが弾け思ったような就職ができませんでした。

それで社労士の資格を取って仕事をしようと考えました。

 

あるとき、夫と喧嘩になりそこから関係が険悪化し家庭内別居が始まりました。

半年ぐらいだったのですが、夫はできるだけ私と顔を合わせたくないため、

明け方に帰ってきて私は朝から仕事に出かけます。

私としては関係をなんとか修復したいと思ったのですが、

夫は何も話しません。

思えばこの半年が人生の中で一番しんどいときだったと思います。

狭いマンションで話もしない、できるだけ顔を合わせない。

本当に神経がすり減っていきました。

 

そしてある決定打があり、私は夫に家を出て行ってほしいと言いました。

これ以上は私の精神が持たないと思ったからです。

夫は家を出ましたが、今後どうしたいのか何も言いませんでした。

結局、夫の意図はどこにあるのかわかりませんでした。

離婚したいのであればきちんと話をするべきなのにそういうことも言いませんでした。

別居後、私は夫の住所も知らず別居してから12年が経ったある日夫から郵便が届きました。

固定資産税の納付書を送り付けてきて今後払ってほしいということでした。

 

マンションは夫の持ち分が10分の9、私が10分の1でした。

夫が名義人なので夫のところに納付書が送られていたのでした。

その頃、私はがんの治療中で本当に治療費が大変でした。

がんで気持ちが塞ぎがちで辛い時に一方的にこんなものを送り付けてきた夫が本当に憎いと思いました。

 

仕方なく、私はマンションの名義を私に変えてくれること、

慰謝料をくれることを条件に離婚したいと手紙を出しました。

しかし、このときも夫が住所を知らせてくれたのではなく、

納付書に住所があったのでそれを見て手紙を送ったのです。

どこまでいっても逃げ続ける夫が本当に情けなかったです。

 

夫からはマンションを譲るのは構わないが、慰謝料は払わないと手紙がきました。

私は離婚調停を考えましたが、離婚調停は夫のところの家裁で行わないといけないらしく、

当時夫は仙台にいたので私は決心がつきませんでした。

とにかく当時はお金のやりくりが大変だったのです。

 

そしてそれからさらに8年が経った去年の11月にいきなり手紙が届きました。

そこには慰謝料とマンションの名義変更料を振り込んだとありました。

私はパニックになりました。

いきなりなんだ、それもまた住所も書いてありません。

とことんこの人は逃げたいんだなと思い、また情けなくなりました。

しばらくは放っておくことにしましたけど、それでもしばらく胃腸の調子がおかしくなりました。

そして2週間ほどが経ったとき、返信用の封筒が送られてきました。

そのときも別に離婚届を送れという文言もなくほんとにふざけた奴です。

 

と、いっても私ももうそろそろ戸籍を綺麗にしたいと思っていました。

相手も私ももういい年になってきたので今後は相続ということも考えないといけなくなってきたからです。

あちらは多分定年退職の年なので決心をしたのでしょう。

 

さて、マンションの名義の書き換えですが、

司法書士に相談しに行きました。

私としては事情を話して権利証書を渡せばそれでやってもらえると思っていたのですが、

夫の意思確認が必要ということで司法書士が夫と対面で話す必要があると言われました。

私としては夫の顔を見たくないし、電話もしたくないのであとは司法書士に

任せることにしました。

 

結構いろんな書類がいるとのことで12月はバタバタしていて

結局1月の17日にやっと離婚届を提出できました。

私、知らなかったのですが協議離婚の場合、保証人が2人いるのですね。

婚姻届に保証人がいるのは知っていましたが、離婚届にもいると知って驚きでした。

 

そして先日やっとマンションの名義の書き換えも終わりました。

これで一連の手続きは終了したことになります。

 

私は旧姓が嫌いなので姓は今のままです。

住所も変わりません。

本籍だけ変わりました。

前の本籍は夫の実家の本籍だったのでそれもすごく嫌でした。

1度別居中に市役所に本籍を変更したいと相談に行きましたが、

夫婦一緒でないと本籍は変えられないと言われ仕方なくそのままにしていました。

私がもし旧姓に戻っていたら手続きが大変だったと思います。

それでなくてもマンションの名義の件でもかなり疲れて

これ以上に手続きが煩雑だったらもうバテテいたと思います。

やっぱり早く夫婦別姓が認められることを願います。

 

結婚生活にはほとんどいい思い出がありません。

喧嘩もよくしましたし、今考えると私の意見を優先させてもらったことはほとんどありませんでした。

家のことしかり、新婚旅行もそうでした。

結婚前からどちらの親も同居したいと言い出したり大変でした。

やっぱり最初からこうなるような運命だったような気がします。

最後の最後まで卑怯な奴だったと思いますが、

縁が切れてそこはホッとしています。

 

もう結婚は懲り懲りだし、私自身結婚には向いていないということがよくわかりました。

子どもも欲しいと思ったこともなかったですし。

 

2月中に事が片付いて一応スッキリしました。

3月1日は開業の日なのでそこはスッキリと迎えたかったのです。

 

これで本当にひとりになりました。

両親は生きていますがそんなに先は長くないと思いますし、

私には兄弟姉妹はいません。

友人もいませんが、ずっと若い時から孤独だったので

孤独に対する耐性はあるのかなと思っています。

 

ひとりで老後をこれから迎えていきますが、

少しでも楽しく老後を過ごしたいなと考えています。

と、いうことでこのブログのタイトルを「ひとりを楽しむ」に変えたいと思います。

内容はこれまでと変わることはありませんので

また見ていただけると嬉しいです。

長々と書きましたが、読んでいただきありがとうございました。

がんばろう、私!

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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