種子島南部鉄砲隊火縄銃試射
戦後70ねんで歴史を振り返っとるアナクロメディアじゃけん。
でー、きょうは時代をさらに遡って室町時代ちう期、1467ねんのハナシからじゃけん。
将軍職を放棄して文化事業にはしった足利義政と、息子を将軍にしたい日野富子を中心に日本中を戦乱に巻き込んで、戦国時代の先駆けとなったんが応仁の乱じゃ。
この頃は各地で打ち壊しや一揆が相次いだワケで、カタナやヤリをだれもが求めとったけん。
トーゼン需要と供給のバランスから、それまでナベやカマを作っていた職人が”にわか刀鍛冶”となっていったじゃろう。
でも日本刀ちうのは高度な技術で作られとるハイテク兵器で、現代の技術でも作り出すんは難しいそうじゃ。
じゃけん安う手に入るカタナは、形ばかりの粗悪品だったじゃろう……。
ところが1543ねんに種子島に鉄砲が伝わると事態は大きう変わるけん!。
フシギなハナシじゃけど、この最新兵器は構造も簡単で、製造に高い技術を必要とせんかったけん。
そこで粗悪なカタナを作っとった”にわか刀鍛冶”は一斉に種子島を造り、これが国友、日野、堺で分業化されて鉄砲産業が発達するけん。
これが日本における産業革命だったワケじゃけん。
とまあココまでがわしの推理じゃけん。
その後は幕末にあたらしい銃が輸入されて主流となって、火縄銃はすたれていくけん……。
ところが、これで消えたかと思われた火縄銃が復活するチャンスが訪れるけん!。
大戦末期、本土決戦に備えて簡単に作れるこのイニシエの武器が注目されるワケじゃ。
なにしろ町工場で作れるうえに、構造が単純で頑丈じゃけんその威力は軍用銃と同等かそれ以上!。
竹ヤリで飛行機に立ち向かうより現実的じゃろう。
70ねん前に追いつめられた日本人が、400ねんも時代を遡って起死回生を図ったちうコトじゃな……。
しかもそれは応仁の乱のような大きな事件が土台となっとるかも知れんけん……。