最近「アスペルガー症候群」という言葉を、立て続けに映画の中で聞く機会があった。
美術館で観た『メアリー&マックス』は、オーストラリアのクレイ(粘土)・アニメーション。『恋する宇宙』は、ケーブルTVでたまたま観たアメリカ映画。どちらの映画でも、主人公の一人(どちらも男性)が「アスペルガー症候群」という診断を受けていると観客にはっきり知らせる描写がある。
他にも、(診断名としては出てこなくても)主人公にアスペルガー症候群的な資質があることを前提に物語が語られている?映画もあった。去年、facebook創設時の実話に基づくということで話題を呼んだ『ソーシャル・ネットワーク』は、私にとってはfacebook云々よりもそういう主人公の人間描写の方が印象に残っている。
これらの映画はもちろん「アスペルガー症候群」について啓蒙することが目的ではなく、あくまで上質の娯楽作品としてきちんと仕上げられたものだ。そのため、主人公たちはそれぞれ全く別の人格、ひとりの個人として描かれていて、「アスペルガーってこういうもの」というようなステレオ・タイプな印象は全く受けない(と、少なくとも私は思った。)むしろ彼らは、(立場や生活が派手であれ地味であれ)それぞれとても個性的で、「世界にただ一人の自分」を私に感じさせるものがあったのだと思う。
それでも・・・私はどの映画を観ている間も、同じようなことを感じていた気がする。
上手く表現できないのだけれど、「こういう人っているよね・・・。」とでもいうような親しさ、懐かしさ、そしてある種のもどかしさ・・・彼らの言うべきことを、代わりに相手(アスペルガー的資質のない人)に説明してあげたい思いに駆られるような。(実際は、私も誤解する側の人間なのに。)
ここからは個人的な昔話になる。
私が「アスペルガー」という言葉を初めて聞いたのは、子どもが2人とも小学校に行かなくなって家にいるようになってからだから、90年代の後半だろうか。(今調べてみたら、そもそもWHOだのアメリカ精神医学界だので診断基準がきちんと掲載されたのも、90年代に入ってからのようだ。)
子どもたちを連れて遊びに行っていたフリー・スペースのような場所には、学校から離れている子ども達がたくさんいたけれど、ある時、「子どもにアスペルガーという診断がついてほっとした」というお母さんに出会った。
「あんたの育て方が悪い」「しつけが全然なってない」と周囲に言われ続けたというその人は、「この子は行儀が悪いんじゃなくて、そういう病気?なんだって判って、本当に良かった。」と、嬉しそうに話しておられた。それでも、子どもさんが大きな声で何かを私に言おうとする度、本当に申し訳なさそうに、そしてあまり関わり合いにならない欲しいというかのように、早々に彼の手を引いて場を離れるのが常だった。私は、声が大きいのはちょっと離れた所にいる私との距離を見計らってのことだと思ったので、気にすることないのにな・・・と、なんだかちょっと寂しかった。
私はそこでは自分の子どもは放ったらかしで、話しかけてくるよその子どもさんに絵やゲームの話を(ワカラナイながらも)聞いたり、一緒に体育館で走り回ったり?していた。子どもは子どもで、また別の(私よりずっとゲームに詳しい)お母さんと一緒にいて、テレビ画面を見ながらドラクエⅤだの何だの話をしていた。
「(そんなに気を遣わなくても)大丈夫なのにね・・・」といった会話を、ゲームに詳しいお母さん(その後とても親しい友人になった)とした記憶もある。コミュニケーションの仕方が他の子と違うのかな・・・と思うような子どもさんは、彼の他にもいた。そして「ゲームに詳しい」彼女は、そういう子どもさんともちゃんと意思疎通できる人だった。
けれども、そもそもオトナはコミュニケーションの相手にはなかなかしてもらえないことが多い場所だったとも思う。そこでは所謂「普通のオトナ」の言語によるコミュニケーションは、あまり信用されていない感じがした。「学校」や「家庭」で傷つけられることの多かった子どもたちが、先生や親(つまりはオトナ)を警戒するのは当然だと私も思った。
先生方(フリー・スペースのような場所ではあったけれど、教育委員会の管轄下にあって、現役の義務教育の先生たちが勤めておられた)も、「なんとか相手の言いたいことを聞き取りたい」という思いから、なるだけ自分の常識で相手の言葉や行動を勝手に解釈しないように注意しているのが感じ取れた。
それでも・・・オトナの常識(による理解)と子ども達の現実とはなかなか一致しないことが多いように、私には見えた。そういう場面に出くわす度に、自分が子どもだった頃の記憶もあって私は本気で腹を立て、それなのに何も出来ない自分にシミジミ嫌気がさした。
ずっと後になって、ある子ども(その時にはもう大人だったけれど)が言った言葉を思い出す。
「『理解者』っていうのは、理解出来る人のことじゃない。『理解しようとしてくれる』人のことだと思う。」
「コミュニケーションがソコソコ上手くできる(と自分で思う)側が、『わかりにくい』相手を理解しようと努力をするのは当然でしょう? その反対を相手に期待する人たちの方が間違ってるよ。」
「でも多数派は往々にして、少数派の方が相手を理解してそれに合わせるのが当然と思ってるんだよな・・・。」
不思議なことに、その後「アスペルガー症候群」当事者の書いたものを友人に勧められて読んだり、講演会を聴きに行ったりしているうちに、私は自分の周囲に「そういう感じの人」が何人もいたのに気がついた。あくまで「感じ」の話だけれど、私の血縁の中にも何人かいるし、とても親しくなった友人の多くが、どこか「アスペルガー的な資質」を感じさせる人だったと、今振り返ってみて思う。
もちろんこれは、「診断名としてのアスペルガー症候群」とは全く別の話だ。
けれど、発達障害について「自閉症スペクトラム」という言葉があるように、スペクトラムつまり境界領域とかグレイ・ゾーンとかの存在が当然ついてくる話のような気もする。○○症候群なんて聞くと「病気」みたいに聞こえるけれど、アスペルガー症候群というのはそもそも「病気」というより「生まれつきの資質」という風に私には見える。(あくまで素人の考えることだけれど。)
私は子どもの頃からずっと、自分が人から好かれないような人間だと感じてきたので、せめて縁あって知り合った人については、相手がどんなことを考えたり感じたりするのか、なるべく勝手な思い込みをしないように、正確に受け取りたいと思ってきた。そのせいだろうか、話を聞くときは「自分の判断は一時棚上げして」相手の言葉をそのまま受け取るように努める習慣がついた。
やがて私は、自分がとても親しくなったごく僅かの友人たちには、どこか共通のモノを感じさせる人たちが多いのに気づいた。ほんの数人のことなので、偶然と言えば本当にそれまでなのだけれど。
例えば、彼女(友人)たちは、理系の科目が好きだという。(だからそういう学校に進学したり、そういう分野の仕事に就いていたりする。)
所謂「社交的」な性格ではなく、人前で話をするのが苦手だったり、どう思うかと尋ねられても中々答えられなかったりする。「私はいつもこうなの。気にせず話を先に進めて。」と言った人もいる。(もちろん、言語表現に長けた人も中にはいるんだけれど。)
その代わり、わからないことは何でも尋ねて構わない・・・という雰囲気のある人が多い。コンナコト聞いていいかなあ・・・などとあまり思わず、聞きたいことをそのままスンナリ訊ける気がする。実際これまでそうしてきて、お互い嫌な思いをしたことはなかった(と思う。)。
また、問いに対する彼女たちの答え方も、私にはとてもわかりやすい。非常に即物的?というか具体的というか、懇切丁寧に「誤解の余地の残らない」説明の仕方をしてくれるので、「誤解したくない」私としては有り難いことが多かった。
多分、私が勝手に言うところの「アスペルガー的資質」というのは、私自身の中にもあるものなのだろう。だから相手とコミュニケーションがし易い面があったのだと思う。
ふと思う。
私の母も、今から振り返ってみるとアスペルガー的?な人だった。姉との関係がああまでこじれたのは、深いところでは、そのことが無関係じゃないような気が私はしている。
私が今に至るまで母に対して悪い感情を持たなかったのは、母の言うこと為すことの意味がなんとなくわかる気がしたからだ。人をモノ扱いするかのような彼女の行動、自分のことしか考えていないように見える我が儘さ・・・子どもから見て本当に「困ったヒト」ではあったけれど、今となるとそれは私の中にもあるもの・・・と、つくづく思う。
要するに、「アスペルガー的資質」の有る無しで、コミュニケーションの仕方が違っているのだという風に私は感じる。資質のある方が少数派なので、多数派のコミュニケーションの仕方を会得していないと「コミュニケーションが下手」と言われてしまう。けれど、資質のある人同士ではスンナリ通じることも多いだろうから、人間関係もそこまで難しくないんじゃないか・・・などと思ったりする。
「アスペルガー的資質」が有るのと無いのとでは、「世界の見え方」がきっと違っているのだろう。私程度では、そこまでのことはわからないけれど、もしかしたら私が何十年もその中にいる「離人感覚」に似たところがあるのかもしれない。
今でこそ少しは「生きものの世界」らしくなったけれど、元々私の住んでいる世界は「二次元」っぽくて、色彩も薄くなったり濃くなったり一定してなくて、時には人間も紙で切り抜いた人型みたいに見えたりする。そこまで行かなくても、自分と同じという感じのしない「多くの生きもの」とコミュニケーションを図るのは子どもの頃もオトナの年齢になってからも簡単ではなくて、相手が思いがけない受け取り方をする度、私は震え上がる思いをした。
だから、映画の中の、あるいは実際に知り合いの(診断を受けている)アスペルガー症候群の人たちを、何気なく見て、さっと「流して」しまうことが出来ないのかもしれない・・・。
関係の無いことを、またまた長々と書いてしまった。最後にちょっとだけ、映画のことを。
『メアリー&マックス』は、単純に「美しい」と言ってしまえない造形が、かえって長い間心に残る・・・というようなアニメーションだった。私は、「生きることの意味」さえ納得させられてしまうほど、あのラストに感動した。
『ソーシャル・ネットワーク』は、オープニングが美しかった。主人公はお世辞にも「人好きのする」奴じゃあなかった(笑)けれど、他の人たちも相当「なんかな~」なところがあったりするので、むしろ彼はまだ悪気がない?分、可愛らしくも見えた。IT関係の知識が無くても、そんな人間観察だけで、私には十分面白かった。
そして・・・『恋する宇宙』。
ロマンチックというならとてもロマンチックな映画だけれど、私はこれほど胸の痛くなるラブ・ストーリーをそう何本も観たことが無いような気がする。原題は“Adam”・・・主人公の名前だ。そのことがラストに生きてくる洒落た枠組みやニューヨークの風景の美しい映像を、いつかスクリーンで観られたらいいな・・・。
『恋する宇宙』をテレビで偶然観ることがなければ、おそらく私はこの記事を書かなかったと思う。でも本当は、『メアリー&マックス』の感想だけ(ちょっと頑張って)書いた方が良かったのかもしれない。
この記事を読んで、気分を害されるアスペルガー症候群の当事者や家族の方が居られたら、私としては本当に申訳ないと思う。ここに書いたのは、私がちっぽけな実人生の過程で気づいたこと、感じたことに過ぎないし、部外者が勝手なこと書き散らして・・・と言われても仕方ないようなものだからだ。
でも、私は今となると「外側にどういう説明が貼ってあろうと、人はその人自身でしかない」と思うし、だからこそ人は一人一人が平等で対等なのだと思っている。「診断名」が生きていく上で役に立つようならついた方がいいと思うけれど、「診断名」がつく前と後とで、(自分も含めて)その人が変わるわけじゃないとも思う。
「コミュニケーションが上手じゃない人が多い」とされるアスペルガーな人たちも、一対一で落ち着いて話す限りは別に困らない。むしろ思いがけない視点や表現に出合える相手かもしれない。そもそもコミュニケーションというのは、相手を理解したいという気持ちと姿勢、そして環境が整わなければ、そう簡単に上手くいくようなものではないのだという気がする。
『メアリー&マックス』も『恋する宇宙』も、そういう風景をちゃんと描いてくれていて、だからこそこれほど私の胸に残る映画になったのだと思う。
息子もコミュニケーションが苦手で「こだわり」が強いです。
私自身も軽度のADHDの可能性が高いとの診断を受けました。
私はアスペルガー診断は受けていないけれど、コミュニケーションが苦手。というか、物心ついた頃から人との関わりにエネルギーをすり減らしてしまうようになってしまいました。だから一人でいる事が多かったです。
私も子供の頃からずっと、自分が人から好かれないと感じてきました。
親しくなったごくわずかな人に、どこか共通するものを感じるというのも同じです。(あっ一緒にしちゃってごめんね!)
私も息子も普通に生活していく分には殆ど支障がない程度ですが、「生きづらさ」はずっと感じてきました。
自分の事だけつらつら書いてしまってごめんなさい。
「メアリー&マックス」、「恋する宇宙」いつか観れる機会があるといいな。
親ですら分からない事が多い息子の事を理解するのに、何かヒントを貰えそうな気がして...。
友人も文中にあるお母さんと同じく、診断名がついた事を喜んでいたので、ムーマさんの記事を読んで
そんなもんなのかな~?と・・・
私などには到底分からない親としての心労を抱えていたので、彼女がそれで少しでも楽になるなら良かったな~って、当時は思ってました。
ムーマさんの映画感想文、他の方の感想文との違いは、こんな所にもあります。
映画の内容云々より、描かれてる人々の奥深い所まで想像をさせる所!
映画の魅力を増してくれます。
いつか絶対に観ます。
今の時代に生まれていれば、少なくともうちの息子の片方は「広汎性発達障害」と言われた可能性が・・・と、私は思うことがあります。
私が「アスペルガー症候群」になんとなく関心を持ち続けたのは、そもそもそれが出発点だったのかもしれません。
上の記事に書いたとおり、母と私も「アスペルガー的資質」を持ってるという意味で似たところがあるんですが、息子は幼い頃からそれがずっとはっきりしているように見えました。
息子たちが学校に行かなくなった原因は色々考えられて、うちの場合は大部分が「親のせい」だと(私は)思っていますが、彼についてはそういう「アスペルガー的資質」も少しは関係があったのかなあ・・・と思ったこともあります。
でも、コミュニケーション能力というのは(共に過ごした時間と共に)「お互いに」磨かれるものなんだなあ・・・というのが、今の私の感慨です。(もう一人の息子曰く「本人はモチロン成長するんだけど、こちらも少~しずつは聞き取り能力が上がったんだったらいいな~(笑)。」)
結局息子たちは学校と名の付く場所とは無縁に成長して大人になり、私は親は廃業して、それでも今も親子4人で平和に暮らしています。
「変わった生きもの」が1匹ずつ4種類!集まったような家ですが、なんとかこの先もそれぞれ無事に生き延びていけますように・・・と(自分のコトも含めて)願っています(笑)。
私の方こそ、自分のことばかり書いてしまってごめんなさい。
るるさんくらいの頃が、子育ては色んな意味で大変だと思います。
どうぞ無理せず、息子さんやご主人との生活を、少しでも気楽に楽しまれますように。
(私は寝込んでばかりいるカリカリ不機嫌な母親で、そのことで随分罪悪感を持ちましたが、それらも含めて、すべては過去のこと?になってしまいました。過ぎてしまえばあっという間・・・というのも、それはそれで本当でした。)
>友人も文中にあるお母さんと同じく、診断名がついた事を喜んでいた
私は親の立場ではそういう経験が無いんですが、若い頃に自分自身のことで、「診断名がついてほっとした」記憶はあります。
私の場合は精神科で診断名(その後いろいろ変わりましたが(笑))がついたことで、とにかく「取りあえず何もかも忘れて休養できる」立場を保証をされた気がしたんです。
病人にあれこれ要求する人はいないだろうと。
それに、なんとなく「今人生に行き詰まっているのは、貴方だけのせいじゃない」と言ってもらえたような気もしました(苦笑)。
親の立場だとまた事情が違いますが、それでも「診断名」というのは、「貴方が悪いんじゃない」と、「専門家」の口を通して言ってくれるものなのかもしれないな・・・と。
子どものことで、母親が周囲の人たちから責められるとか、口に出してアレコレ言われなくても責任を感じて辛い・・・という話は、不登校関係の親の会でもよくされていました。
更年期さんの言われるように、そういう経験のない私などには想像も出来ないくらいの心労があるのだろうと思い、私も当時はそのお母さんに「良かったですね」と答えた記憶があります。
でも、今振り返ってみると、それは単に子どもさんとの生活を軌道修正?する、そのスタート地点だったんじゃないかと思います。
何もかもがお母さんのせいにされて、親子共々がんじがらめになっていた?所から、子どもさんにとってもっと自由な世界が、その後開けていったらいいなあ・・・と、今の私は思います。
またまた関係ないコト長々書いてスミマセン。
更年期さんが意外な(そして過分な)褒め方をして下さったので、ちょっと舞い上がってしまったのかも(笑)。
いつも読んで下さって、書き込んで下さってありがとう!!
「また書こう」って、勇気とエネルギーが湧きます。