最近、姉と話す機会が増えた。私と姉はたった二人きりの姉妹だが、これまであまり近しい付き合い方をしてこなかったので、毎日のように午前中に電話がかかる現在の状態は、ほとんど初めてと言ってもいいかもしれない。
私達の父親は20年ほど前に亡くなった。その後、一人娘で係累も少ない母を気遣って、姉夫婦は自分たちの用意していた土地に家を建てることを諦め、実家の敷地の中に新しく家を建て、母の身近で暮らすことにしたらしい。実家のある金沢を遠く離れて、小さな子どもを抱え転々としている妹の私には、わざと事後承諾の形にしてくれた。「とても、あの時のあなたには相談出来ないと思った。」と、後に姉は言った。そういう相談に乗れるほどの精神的な余裕が私の方に無かったからだということは、私自身が一番よく解っていた。確かに、それは本当に姉の優しさと「長女としての責任感のようなもの」からだったのだと思う。
しかし後になってその話を聞いたとき、私はなぜひと言前もって相談してもらえなかったのかと、自分の力の無さが本気で悔やしかった。私達の母親がどういう人か、あまりに近いところで暮らすことがお互いにとってどういう生活に繋がるのかを、姉は想像できないのだろうかと、私から見ると「オソロシク無謀なこと」をわざわざしようとする姉の気持ちも測りかねた。「お母さんを頼む。あの人は身内の誰とも上手くはいかないだろうから、すまないけれどゆくゆくは面倒を見てやって欲しい。」と、亡くなる前に父から頼まれていたことを、私は長い間知らなかった。
親が子どものためにと用意してくれた道を、ものの見事に(精神科に入院するという「非常手段」を取ってまで)放りだし、それと同時に故郷も親も捨ててしまった私には、全く聞くことの無かった話だった。(こちらは父親の優しさと、私という娘に対する親としての謝罪のような気持ちから出ていたのだと思う。父は私のしたことに対して、自分の期待が裏切られたとして腹を立てたりすることは全くなく、私がもう戻らないだろうということも、当然のこととして受け止めているようだった。)
しかも父の死後、母は、葬儀その他が一段落するまでは持ち前の毅然とした態度を崩さなかったが、その後一人きりの生活になると、自分はいつ死んでもいい・・・といった言葉を、姉に対して頻繁に口にするようになったという。姉はそういう母を見ながら、一人きりで母の老後を考えなければならないと思い込んだのだ。当時の所謂老人病院にOTとして勤務した経験から、「自分の親には、家族に囲まれて安心出来る老後を迎えて貰いたいとつくづく思った」彼女は、母の若さ(まだ50代の半ばだった)もあって訝しげだった義兄を説得し、家族4人で隣に住むことにしたらしかった。
それから20年近い歳月の間には、本当にさまざまな出来事があったのだと思う。それは、遠く離れてほとんど没交渉に暮らす私などには、到底把握しきれないような母と姉との「歴史」だったに違いない。双方からどれほど話を聞いても、その時々で双方の目に別々に映っていた風景の違いが、第三者の私には感じ取れたとしても、結局のところ、二種類の事実、二つの真実が明らかになっていくだけで、当事者二人の間の溝を少しでも埋める手だてにはならないのが、私にも次第に解ってきた。
そして、姉は今、母と別れようとしている。
中途半端にしか事情を知らない人からは、母の傍で暮らすのを止めようとしている姉が、もしかしたら「いい年をして、老いた親を置き去りにしようとしている」ように見えるかもしれない。実際、姉自身も、それに近い言い方で自分のしようとしていることを表現することがある。しかし一方で、「私はこの歳になって、もう一度親に捨てられたみたいね。子どもの頃にも一度捨てられてるって言うのに。」といって電話口で仕方ないように笑う姉の言葉も、私には理解できるのだと思う。
だからこそ、姉は毎日のように電話をかけてきて、私と話をすることが現在の自分の大きな支えになっているのだと、真剣な口調で言うのだろう。「親の元を必死で逃げ出し、その後二度と帰ろうとしなかった」という点で、2歳年下の私は今の姉には先輩、それも30年近い大先輩に当たるらしい。
「私の逃げ足の速さが、今頃になってお姉ちゃんの役に立つなんて、人生ってなんだか不思議。」と言うと、姉は「逃げ足の速さ」という言葉がよほど可笑しいのか、疲れた口調が消え、コロコロと笑い声を立てたりする。その声はどこか可愛らしく、私にも女きょうだいが居たのだということを思い出させる。私はそのことを、単純に嬉しいとだけは言えない自分も感じるのだけれど。
子どもの頃、両親は仕事で忙しく、私と姉はほとんど祖父母と暮らしていたようなものだったが、私はなぜか、どうしても祖父母を好きになれなかった。家族の分以外に入院患者や職員の分も含めて、医院の賄い一切を任されている一方で、病気がちだった私の看病を一生懸命してくれた祖母を、どうしても「好き」だと思えない自分が自分でも理解できず、「おばあちゃん、好きでしょ?」と人から尋ねられたりすると、何も言えないまま、ただ恥ずかしかった。
はるか後になって、私は自分がなぜ祖母に違和感のようなものを感じていたのかに漸く気付いた。祖母は、一人娘の母が結婚して、たとえ同居はしていても、夫の仕事の手伝いに忙しいのが余程淋しかったのだろう。たとえば、いくつになっても、私は夜、一人の布団で寝かせてはもらえなかった。寝相が悪いから、夜中に布団を掛けてやらなければいけないから、などと説明されたが、何となくそれだけの理由ではないものを子供心に感じたのだと思う。私は、祖母と同じ布団で寝るのが嫌で堪らなかった。父や父方の祖母のことを、事ある毎に悪く言われることにも、子どもである私は当惑した。
祖母は私を母の身代わりにしていたのだと思う。孫だから可愛いという気持ちも勿論あっただろうけれど、とにかく私という子どもを可愛いと思ってくれていたのではないとふと思った途端、祖母についての色々な謎が解けていく気がした。
祖父については、もっと鮮やかな記憶がある。
ある夕方、小学校の低学年で、まだまだ病気で寝込むことの多かった私は、いつものように祖父の居室でもある蔵座敷の一室で床についていた。そこへ祖母の弟に当たる大叔父がやって来て、いつものように祖父に挨拶をしながら、私がよく眠っていると思ったのだろう、田舎の人らしい大きな声で何気ない風に言った。
「これはちょっと、気違いの気があるのぅ。」
祖父がいとも無造作に「ん、アカン。」と答える声がしたとき、私は時間が止まったような気がした。
その後も息を殺してずっと寝たふりをしていたが、その時の妙に冷静だった自分のことは、今もよく覚えている。大叔父の言葉には、驚いたけれど「ああ、やっぱりそうなのかもしれないな・・・」といった気分だった。腹も立たなかったし、泣きたいような気持ちにもならなかった。自分が周りの子ども達のたくましさについていけず、明らかに異質に見えるだろうということには既に気付いていた。
私が本当にショックだったのは、祖父のあまりにも自然な反応の仕方だった。祖父は、大叔父の言葉に驚きもせずためらいもせず、勿論怒りもせずに「ん、アカン。」と答えただけだったのだ。
年月が経つに従って、私は自分が夢を見たのではないかと、疑ってみたりもした。けれど、あまりにも鮮明な記憶なので、疑うこと自体が私にとっては不自然だった。その後、実際に私は大叔父の言葉通りの人生になったとも思うので、今となると彼の言葉自体は、何となく笑えてくるような可笑しさがある。祖父の返事についても、彼が「跡継ぎの長子でもない」女の子のことなど本気で見てはいない、というより「長女の姉を立てて、目立たなくしてればそれで良い」としか思っていないことが判ってくるにつれ、当然の言葉のような気がしてきた。
そもそも、祖父母は姉の誕生を喜んだ後、次は男の子が生まれるのを期待していたのかもしれない。母自身、何人も兄弟がいたのに皆子どものうち亡くなっての「一人娘」だったので、今度こそ男の子をと思っても無理はなかったのだということにも、やがて気がついた。
母の実家である祖父の医院の後を継いでいた父に、開業を止めようとしきりに言ったのは母の方だったと、後に父の口から聞いた。私は祖父母から離れて、両親と一緒に暮らせるようになるのが本当に嬉しかった。どんなに自分が望んでも、この古い家、この雪深い奥越の田舎町から出て行くことは出来ないような気がしていたのだ。
しかし、新しく住むことになる金沢の家は父の実家の近くだということもあってか、開業を止めたいという娘夫婦の希望を聞いた祖父母の怒りは凄まじかったらしい。「弱い立場にある人達のための医者に、僕はなりたいと思ってきた。」という理想家肌の父の肢体不自由児施設への就職も、「このままでは『家庭』が無い。」という母の言葉も、祖父母には全く通じなかっただろうと今の私は想像する。最後は、「どうせお前は捨てられる」「ここに居れば、この土地もこの家も、財産はみんなお前のものなのに」という祖父を振り切って医院を閉め、金沢への転居を敢行したのだといった話を、後に母から聞いたこともある。「私は絶対後悔なんかしない!」と言って、自分はあの家を出て来たのだと。
実際、引っ越しの前の1年くらいは、家の中の雰囲気は荒涼としたものになっていたのだろう。祖父母と両親の言い争う声を聞くこともあれば、祖母の愚痴もひどくなった。かといって、表面上はこれまで通りの日常生活が続けられており、離れた県庁所在地の中学に進学して下宿生活になった姉同様、私は私で、何だか身の回りに誰もいなくなったかのような生活を、特に辛いとも思わず続けた。(後に姉自身の口から聞いた姉の下宿生活は、私など問題にならないくらい深刻な傷を姉の心に残していた。当時姉が居たのは全くの他人の家で、高い下宿代さえ支払えばいいとでもいうかのような母の対応の無神経さに、まだ子どもだった私でさえ、姉が可哀想だと本気で思った。)
ただ、自分では辛いと自覚していなくても、今から振り返ってみて、当時10歳だった私も、子どもながらに精神的には普通の状態でなかったような感じがする。
訳もなく、なぜか不安で不安で堪らなくなることが珍しくなかった。学校の行き帰り、どちらの足で敷居を越えるかとか、何歩でどこまで行かなければと何度もやり直すとか、どうでもいいようなことが、遊びでなく本気で気になって仕方がなかった。近所の店で万引きをしたことも何回かある。店の人に見つかったことさえあるのに、なぜか一度も問題にならなかった。
友達や周囲の大人の言っている言葉の意味を、自分は本当は理解していないのではないかと不安になって、いちいち別の言葉に頭の中で置き換えてみて、自分は解っているはずだと自分に言い聞かせたり、授業中に出て来た用語の意味を執拗に大人に尋ね、辞書を見せられようが何と説明されようが、不安が募る一方の私は最後は泣くばかりで、人の良い父を困惑させたりした。「ワカルって、ほんとはどういうことなの?」「どうして自分と相手が同じ意味でその言葉を使ってるんだって思えるの?」などなど、答えようのない質問を次々考え出して、何と言っても納得せず、ただただ涙涙になる私に大人達も困ったと思うのだが、なぜかそれらが心配されたという記憶も無い。
問題になったのはただ一度。私が近所の遊び仲間と、その中の一人の家の納屋で、ロウソクに火を灯して遊んだ時だけだったと思う。その家の人から知らされたのだろう、あまり怒ったことのない父から、真剣な目で、ゆっくりと、努めて優しい口調(と、私は感じた)で、そういうことをしてはいけないと注意された。私は火事の危険など、子どもの感覚ではよく解っているつもりになっていたが、素直に二度としないと口にした。そのとき何となく、「ああ、大人は火事は怖いんだな」と思った。そういうことだけが、大人にとっては大事なことなのだ・・・とでもいうような、ある種の納得を私に与えるような感情だった。
一緒に居た他の子ども達はともかく、私の目には、ロウソクの炎はとても暖かく映った。ずっとそのままその暖かさの傍に居たい・・・とでも思わせるようなものが感じられ、だからこそ私は、なぜか穏やかで居心地良く思えたよその家の納屋で、ロウソクを灯していたのだ。単に火遊びが面白かった訳ではなかったのだが、そういうことを説明する言葉も習慣も、子どもの私には無かった。
親子4人で金沢に引っ越した翌年だったと思う。祖父は突然亡くなった。今で言う劇症肝炎だったが、当時はそういう言葉もまだ無いくらいで、死後に診断がつくのが普通だったらしい。具合が悪くなったという祖父を、金沢の病院へ移して間もなくのことだった。祖父の遺体は昔からよく知っているその土地のタクシーで田舎の家へ戻し、葬儀が営まれた。私にとってはその時が、10歳までの7年間、本当に子ども時代を過ごしたと言えるその家、その土地との最後の別れになった。
ここまで長々と書いてみて、私はこの文章の書きにくさの本当の理由が、漸く少し見えてきた気がする。
現在進行中のことは元々あまり書くつもりが無く、今の私の周囲の人間関係に触れることは極力避けてきたくらいだから、実在する姉や母の、それも長年の親子関係からくる家庭争議?など、これまで書く気は全くなかった。それなのに、こうして自分の力不足を承知で書き始めたのには、それなりの訳がある。
私はこの1ヶ月の姉からの電話で、自分があっという間に落っこちて「何も出来ない」状態になっていくのに困惑し、何とか少しでも元気を出したくて、前回の「『カーズ』的世界」を「娯楽」として書いた。この半年、ここで文章を書くことで自分が意外なほど元気になることを知ったので、この元気さを、「たかが電話」くらいで手放したくなかったのだと思う。
しかし、頭の中が「家」や「親子」その他についての長年にわたる葛藤の話で殆ど占拠されている状態では、何を書いても意味がないことがすぐに判った。これまで私は、ストレスが多い状態になると、エネルギーがそれに吸われてしまって何も出来なくなることはあっても、「頭の中のCPUが満杯」とでもいうような状態になった記憶はあまり無かったと思う。身体は何とか動かせるのに、「何も見えない聞こえない考えられない」ような状態は、自分でも不気味で嫌な感じがした。
とにかく、姉との話がなぜこれほどまでに今となっても自分にとって「重い」のかということだけでも、私は書いた方が自分の状態を良くすると思った。姉がまだネットを見ない人だということもあって、私は取りあえず書き始めた。
私は人づきあいが苦手で、ごく限られた人間関係の中で暮らしている。ただ、その分友人とは長いつきあいになることもあり、今も「おそらくは何を話しても大丈夫」というような人が何人かいる。自分ひとりの心に収めておくことが辛かったり、或いは逆にちょっとした「発見」をして誰かにそれを聞いて欲しい時など、互いに連絡を取り合う関係の人達だ。「相談する」とか「アドバイスを求める」のではなく、ただ「話を聞いて貰う」だけで、ずいぶん心は軽くなるのだということを、歳と共に私は痛感するようになった。自分では何が辛いのかすら解っていないようなときでも、そのことを人に話しているだけで、頭の中が整理され、自分が本当はどう思っていたのかが明らかになってきたりする。
しかし、姉との話は友人達との場合とは本質的に違ったものがあることを、今回改めて感じた。姉の話す内容は、私自身が全く関与していない場合でも、「私も当事者のひとり(或いは一部)」とでもいった気持ちにさせられるものが多いのだ。
例えば、姉が母のあまりの身勝手さ、家族総てを支配しようとでもするかのような度を超した行動を責める時、私はその光景がまざまざと目に浮かび、姉の苦痛がよく解るにもかかわらず、どこかで辛いものを感じる。私と姉とでは、母との関係が元々違っているのを否応なしに思い出させられる。
姉は母とコーヒーを飲みながらの四方山話で、たまたま姉の幼い頃の話になり、母自身の口から「あんたは『たなざらし』で育った」と言われたことがあるという。
「棚晒し」などというオソロシク的確な表現が即座に浮かぶのは、母のほとんどコピーライターのような資質からは別に珍しいことではないが、その結果母親を「どうしても親だと感じられない」まま育ってしまった娘相手に、本人がすんなり口にするのも、ちょっと信じられないような光景だと私は思う。姉はいつものように、呆れたとも仕方ないともつかないような口調で笑いながら話していたけれど。
私自身は、姉同様放っておかれた時期はあっても、「棚晒し」ではなかった。親子だけで暮らした3歳までの間で、私は母とふたりだけの「幸せ」を感じた記憶がいくつか残っている。その時々で、そこだけ春の陽差しが当たっているような情景は、その後の長い年月に渉って私にとっては本当に大事な宝物だった。母自身が親としては私をがんじがらめにして苦しめた「大変なヒト」だった事とも、それはなぜか矛盾していない。しかし、姉はどんなに努力しても、そういう情景がひとつも浮かんでこない人なのだ。
姉は、私が生後初めて病院から家に帰ってきたときのことを、はっきり覚えていると言う。当時、姉は二歳二ヶ月だった。母は、二番目に生まれた私を「なんだかコワレモノのようなところがある子だと感じて、努めて膝に乗せた」といった話を、姉にしたこともあるらしい。姉にとって私は、母と姉の間を裂くように現れた闖入者でもあったのだ。二人目の子どもが生まれた際よく起きる、ごくありふれた事と言ってしまえばそれまでだけれど、「春の陽差し」の情景が姉に見当たらないことに、私は自分が無関係ではないと感じる。
もう一つ、私が姉との会話を「重い」と感じる理由がある。姉と母とのこれまでの関係、その間の姉の葛藤だけが問題になっているように見えて、実はそんなに簡単な話ではないのだということ。少なくとも母方の祖父とその母親の関係あたりまで、当然のように遡れてしまう話であることが、30年近くもかかった揚句、私(や、おそらくは姉)にも見えてきてしまったことだ。
ほんのちょっと、姉からの電話について書こうとしただけで、あっという間に私の想いは祖父母と暮らした40年以上も昔に戻ってしまう。それも、浮かんでくるエピソードはどれも、何だか自分がいかにも「可哀想な子ども」だったかのようなものばかりになってしまう。
今となると、私はそんなものを祖父母についても両親についても、書きたいとは全く思わない。そもそも私は、親のことを憎んだり恨んだりする感情をあまり持たなかったような気がするのは、長い間に自分の記憶を書き換えてしまったからなのだろうか。自分がカワイソウとも、可哀想だと思って貰いたいとも感じたことは無かった気がする。「同情なんてされたくない!」というほど自尊心が強くもないらしい私が、それでもいつも感じていたのは、とにかく自分の持って生まれた資質が、両親とも、祖父母とも、あの田舎町とも、その後の金沢とも「合わなかった」らしいということだけだ。自分が異星人だと、半ば本気で思い込むほどに。
私は実は、いつか祖父と父については、私だけの鎮魂歌のようなものを書こうと思っていた。私の記憶の中にはそれが可能なくらい、彼らに纏わる印象的なエピソードも残っている。今となると彼らはそれらのエピソードで語られるべき人々に、私の中ではなってしまっているのだ。そして、私はほとんどそのためだけに、これまでの人生の時間とエネルギーの大半を費やしたような気さえしている。
それなのに、書き出したら止まらないほど当時の自分の悲しさや辛さが吹き出してくることに、私は呆然となりかけた。次々と文字になって私の目の前に現れるそれらの記憶は、ふと、かつて二度目に入院せざるを得なくなった頃の私の眼に映っていた「存在しない」者たちの姿を思い出させた。
私は驚いた。あの時、「猫」や美しい女性の姿以外にいつもその気配を感じていた魑魅魍魎とでもいうべき者たち。あの多くの「影」の群れと、今回私の中に蘇った些細な記憶の数々は、なぜかどこかで重なって見えたのだ。
今の私の眼からはすべてが、冬は3メートルも雪が積もるというあの小さな盆地の中で、綿々と、外から見れば大したこともない土地と財産を必死で守ってきた庄屋その他の、田舎の小金持ち達の「家」と「血」から始まったものに見えている。家と血縁の、ここまで来ると「呪い」としか言いようのないモノに、姉も私も三代に渉ってつきまとわれているようなものだと本気で思う。
私も姉も、ただ単に「親子関係」に苦しんだのではない。「毒になる親」に偶々出くわしたと言うほど根の浅い話とは、私には到底思えない。だからこそ、お互いにこれほどの時間が掛かったのだ。私は自分の身に一体なにが起きているのかを自分なりに納得するためだけに人生のほとんどすべてを費やし、姉は姉で、50代の半ばにもなって人生をもう一度丸々やり直すかのような作業を迫られている・・・というように。
私が昔、あれほど必死で逃げようとした対象は「親」だけではなかった。人間の「ありのまま」を全く認めなかった、父の完全主義、理想主義、科学信仰、或いは家族をまるで物のように扱う母の信じられないほどの鈍感さ、そんなものばかりではなかった。母親からあっさり捨てられた「私生児」だったという祖父の、「他人は誰も信じられない」、「人間は皆一人きり」、「頼れるのは土地、金、財産だけなのだ」・・・。そして、そんな祖父の妻として、過労から丈夫な子どもに恵まれず、沢山の子どもに死なれても、何の発言権もなかった祖母。
私は、当時の自分が知らなかったものまで含めて、本当に多くのモノから逃げたのだ。「影」の群れが、長年に渉って延々と追いかけてきたのも無理は無い。
実は、私が逃げ出したモノの中には姉も混じっていた事に、数年前から私は気づき始め、一時期何とも言えないような気持ちになった。姉が私を「たったひとりの大事な妹」と思ってくれているのは、私にもよく解っている。けれど私は、「呪い」から逃げ切ることの困難さが身に染みているせいか、姉に対する警戒心をどこかで解くことが出来ないままでいるのを感じる。
姉からの電話で一番辛かったのは、もしかしたらこの事だったのかも知れない。私も私なりに母に似たところがあり、自分でも困ったモンだと思ったりするけれど、姉がどれほど母に似ているかを、今の姉に言うことは出来ない・・・。
それでも、私が母を私なりにずっと愛してきたように、私なりに姉を愛しているのだと今は思う。
「家族でも、愛情を感じることが出来なくてもいいのだ」と自分なりに納得できたらしい今になって、彼らが皆、彼らなりに私を「愛して」くれていたのを感じるようになったように、私も私なりに彼らを愛していたのだと思うようになった。
一体どうなってしまうのだろう・・・と、自分でも全く予想のつかなかったこの文章がこういう終わり方になったのを、私はとても喜んでいる。
何だか、漸く本当に『鎮魂歌』が書けそうな気がする。
私達の父親は20年ほど前に亡くなった。その後、一人娘で係累も少ない母を気遣って、姉夫婦は自分たちの用意していた土地に家を建てることを諦め、実家の敷地の中に新しく家を建て、母の身近で暮らすことにしたらしい。実家のある金沢を遠く離れて、小さな子どもを抱え転々としている妹の私には、わざと事後承諾の形にしてくれた。「とても、あの時のあなたには相談出来ないと思った。」と、後に姉は言った。そういう相談に乗れるほどの精神的な余裕が私の方に無かったからだということは、私自身が一番よく解っていた。確かに、それは本当に姉の優しさと「長女としての責任感のようなもの」からだったのだと思う。
しかし後になってその話を聞いたとき、私はなぜひと言前もって相談してもらえなかったのかと、自分の力の無さが本気で悔やしかった。私達の母親がどういう人か、あまりに近いところで暮らすことがお互いにとってどういう生活に繋がるのかを、姉は想像できないのだろうかと、私から見ると「オソロシク無謀なこと」をわざわざしようとする姉の気持ちも測りかねた。「お母さんを頼む。あの人は身内の誰とも上手くはいかないだろうから、すまないけれどゆくゆくは面倒を見てやって欲しい。」と、亡くなる前に父から頼まれていたことを、私は長い間知らなかった。
親が子どものためにと用意してくれた道を、ものの見事に(精神科に入院するという「非常手段」を取ってまで)放りだし、それと同時に故郷も親も捨ててしまった私には、全く聞くことの無かった話だった。(こちらは父親の優しさと、私という娘に対する親としての謝罪のような気持ちから出ていたのだと思う。父は私のしたことに対して、自分の期待が裏切られたとして腹を立てたりすることは全くなく、私がもう戻らないだろうということも、当然のこととして受け止めているようだった。)
しかも父の死後、母は、葬儀その他が一段落するまでは持ち前の毅然とした態度を崩さなかったが、その後一人きりの生活になると、自分はいつ死んでもいい・・・といった言葉を、姉に対して頻繁に口にするようになったという。姉はそういう母を見ながら、一人きりで母の老後を考えなければならないと思い込んだのだ。当時の所謂老人病院にOTとして勤務した経験から、「自分の親には、家族に囲まれて安心出来る老後を迎えて貰いたいとつくづく思った」彼女は、母の若さ(まだ50代の半ばだった)もあって訝しげだった義兄を説得し、家族4人で隣に住むことにしたらしかった。
それから20年近い歳月の間には、本当にさまざまな出来事があったのだと思う。それは、遠く離れてほとんど没交渉に暮らす私などには、到底把握しきれないような母と姉との「歴史」だったに違いない。双方からどれほど話を聞いても、その時々で双方の目に別々に映っていた風景の違いが、第三者の私には感じ取れたとしても、結局のところ、二種類の事実、二つの真実が明らかになっていくだけで、当事者二人の間の溝を少しでも埋める手だてにはならないのが、私にも次第に解ってきた。
そして、姉は今、母と別れようとしている。
中途半端にしか事情を知らない人からは、母の傍で暮らすのを止めようとしている姉が、もしかしたら「いい年をして、老いた親を置き去りにしようとしている」ように見えるかもしれない。実際、姉自身も、それに近い言い方で自分のしようとしていることを表現することがある。しかし一方で、「私はこの歳になって、もう一度親に捨てられたみたいね。子どもの頃にも一度捨てられてるって言うのに。」といって電話口で仕方ないように笑う姉の言葉も、私には理解できるのだと思う。
だからこそ、姉は毎日のように電話をかけてきて、私と話をすることが現在の自分の大きな支えになっているのだと、真剣な口調で言うのだろう。「親の元を必死で逃げ出し、その後二度と帰ろうとしなかった」という点で、2歳年下の私は今の姉には先輩、それも30年近い大先輩に当たるらしい。
「私の逃げ足の速さが、今頃になってお姉ちゃんの役に立つなんて、人生ってなんだか不思議。」と言うと、姉は「逃げ足の速さ」という言葉がよほど可笑しいのか、疲れた口調が消え、コロコロと笑い声を立てたりする。その声はどこか可愛らしく、私にも女きょうだいが居たのだということを思い出させる。私はそのことを、単純に嬉しいとだけは言えない自分も感じるのだけれど。
子どもの頃、両親は仕事で忙しく、私と姉はほとんど祖父母と暮らしていたようなものだったが、私はなぜか、どうしても祖父母を好きになれなかった。家族の分以外に入院患者や職員の分も含めて、医院の賄い一切を任されている一方で、病気がちだった私の看病を一生懸命してくれた祖母を、どうしても「好き」だと思えない自分が自分でも理解できず、「おばあちゃん、好きでしょ?」と人から尋ねられたりすると、何も言えないまま、ただ恥ずかしかった。
はるか後になって、私は自分がなぜ祖母に違和感のようなものを感じていたのかに漸く気付いた。祖母は、一人娘の母が結婚して、たとえ同居はしていても、夫の仕事の手伝いに忙しいのが余程淋しかったのだろう。たとえば、いくつになっても、私は夜、一人の布団で寝かせてはもらえなかった。寝相が悪いから、夜中に布団を掛けてやらなければいけないから、などと説明されたが、何となくそれだけの理由ではないものを子供心に感じたのだと思う。私は、祖母と同じ布団で寝るのが嫌で堪らなかった。父や父方の祖母のことを、事ある毎に悪く言われることにも、子どもである私は当惑した。
祖母は私を母の身代わりにしていたのだと思う。孫だから可愛いという気持ちも勿論あっただろうけれど、とにかく私という子どもを可愛いと思ってくれていたのではないとふと思った途端、祖母についての色々な謎が解けていく気がした。
祖父については、もっと鮮やかな記憶がある。
ある夕方、小学校の低学年で、まだまだ病気で寝込むことの多かった私は、いつものように祖父の居室でもある蔵座敷の一室で床についていた。そこへ祖母の弟に当たる大叔父がやって来て、いつものように祖父に挨拶をしながら、私がよく眠っていると思ったのだろう、田舎の人らしい大きな声で何気ない風に言った。
「これはちょっと、気違いの気があるのぅ。」
祖父がいとも無造作に「ん、アカン。」と答える声がしたとき、私は時間が止まったような気がした。
その後も息を殺してずっと寝たふりをしていたが、その時の妙に冷静だった自分のことは、今もよく覚えている。大叔父の言葉には、驚いたけれど「ああ、やっぱりそうなのかもしれないな・・・」といった気分だった。腹も立たなかったし、泣きたいような気持ちにもならなかった。自分が周りの子ども達のたくましさについていけず、明らかに異質に見えるだろうということには既に気付いていた。
私が本当にショックだったのは、祖父のあまりにも自然な反応の仕方だった。祖父は、大叔父の言葉に驚きもせずためらいもせず、勿論怒りもせずに「ん、アカン。」と答えただけだったのだ。
年月が経つに従って、私は自分が夢を見たのではないかと、疑ってみたりもした。けれど、あまりにも鮮明な記憶なので、疑うこと自体が私にとっては不自然だった。その後、実際に私は大叔父の言葉通りの人生になったとも思うので、今となると彼の言葉自体は、何となく笑えてくるような可笑しさがある。祖父の返事についても、彼が「跡継ぎの長子でもない」女の子のことなど本気で見てはいない、というより「長女の姉を立てて、目立たなくしてればそれで良い」としか思っていないことが判ってくるにつれ、当然の言葉のような気がしてきた。
そもそも、祖父母は姉の誕生を喜んだ後、次は男の子が生まれるのを期待していたのかもしれない。母自身、何人も兄弟がいたのに皆子どものうち亡くなっての「一人娘」だったので、今度こそ男の子をと思っても無理はなかったのだということにも、やがて気がついた。
母の実家である祖父の医院の後を継いでいた父に、開業を止めようとしきりに言ったのは母の方だったと、後に父の口から聞いた。私は祖父母から離れて、両親と一緒に暮らせるようになるのが本当に嬉しかった。どんなに自分が望んでも、この古い家、この雪深い奥越の田舎町から出て行くことは出来ないような気がしていたのだ。
しかし、新しく住むことになる金沢の家は父の実家の近くだということもあってか、開業を止めたいという娘夫婦の希望を聞いた祖父母の怒りは凄まじかったらしい。「弱い立場にある人達のための医者に、僕はなりたいと思ってきた。」という理想家肌の父の肢体不自由児施設への就職も、「このままでは『家庭』が無い。」という母の言葉も、祖父母には全く通じなかっただろうと今の私は想像する。最後は、「どうせお前は捨てられる」「ここに居れば、この土地もこの家も、財産はみんなお前のものなのに」という祖父を振り切って医院を閉め、金沢への転居を敢行したのだといった話を、後に母から聞いたこともある。「私は絶対後悔なんかしない!」と言って、自分はあの家を出て来たのだと。
実際、引っ越しの前の1年くらいは、家の中の雰囲気は荒涼としたものになっていたのだろう。祖父母と両親の言い争う声を聞くこともあれば、祖母の愚痴もひどくなった。かといって、表面上はこれまで通りの日常生活が続けられており、離れた県庁所在地の中学に進学して下宿生活になった姉同様、私は私で、何だか身の回りに誰もいなくなったかのような生活を、特に辛いとも思わず続けた。(後に姉自身の口から聞いた姉の下宿生活は、私など問題にならないくらい深刻な傷を姉の心に残していた。当時姉が居たのは全くの他人の家で、高い下宿代さえ支払えばいいとでもいうかのような母の対応の無神経さに、まだ子どもだった私でさえ、姉が可哀想だと本気で思った。)
ただ、自分では辛いと自覚していなくても、今から振り返ってみて、当時10歳だった私も、子どもながらに精神的には普通の状態でなかったような感じがする。
訳もなく、なぜか不安で不安で堪らなくなることが珍しくなかった。学校の行き帰り、どちらの足で敷居を越えるかとか、何歩でどこまで行かなければと何度もやり直すとか、どうでもいいようなことが、遊びでなく本気で気になって仕方がなかった。近所の店で万引きをしたことも何回かある。店の人に見つかったことさえあるのに、なぜか一度も問題にならなかった。
友達や周囲の大人の言っている言葉の意味を、自分は本当は理解していないのではないかと不安になって、いちいち別の言葉に頭の中で置き換えてみて、自分は解っているはずだと自分に言い聞かせたり、授業中に出て来た用語の意味を執拗に大人に尋ね、辞書を見せられようが何と説明されようが、不安が募る一方の私は最後は泣くばかりで、人の良い父を困惑させたりした。「ワカルって、ほんとはどういうことなの?」「どうして自分と相手が同じ意味でその言葉を使ってるんだって思えるの?」などなど、答えようのない質問を次々考え出して、何と言っても納得せず、ただただ涙涙になる私に大人達も困ったと思うのだが、なぜかそれらが心配されたという記憶も無い。
問題になったのはただ一度。私が近所の遊び仲間と、その中の一人の家の納屋で、ロウソクに火を灯して遊んだ時だけだったと思う。その家の人から知らされたのだろう、あまり怒ったことのない父から、真剣な目で、ゆっくりと、努めて優しい口調(と、私は感じた)で、そういうことをしてはいけないと注意された。私は火事の危険など、子どもの感覚ではよく解っているつもりになっていたが、素直に二度としないと口にした。そのとき何となく、「ああ、大人は火事は怖いんだな」と思った。そういうことだけが、大人にとっては大事なことなのだ・・・とでもいうような、ある種の納得を私に与えるような感情だった。
一緒に居た他の子ども達はともかく、私の目には、ロウソクの炎はとても暖かく映った。ずっとそのままその暖かさの傍に居たい・・・とでも思わせるようなものが感じられ、だからこそ私は、なぜか穏やかで居心地良く思えたよその家の納屋で、ロウソクを灯していたのだ。単に火遊びが面白かった訳ではなかったのだが、そういうことを説明する言葉も習慣も、子どもの私には無かった。
親子4人で金沢に引っ越した翌年だったと思う。祖父は突然亡くなった。今で言う劇症肝炎だったが、当時はそういう言葉もまだ無いくらいで、死後に診断がつくのが普通だったらしい。具合が悪くなったという祖父を、金沢の病院へ移して間もなくのことだった。祖父の遺体は昔からよく知っているその土地のタクシーで田舎の家へ戻し、葬儀が営まれた。私にとってはその時が、10歳までの7年間、本当に子ども時代を過ごしたと言えるその家、その土地との最後の別れになった。
ここまで長々と書いてみて、私はこの文章の書きにくさの本当の理由が、漸く少し見えてきた気がする。
現在進行中のことは元々あまり書くつもりが無く、今の私の周囲の人間関係に触れることは極力避けてきたくらいだから、実在する姉や母の、それも長年の親子関係からくる家庭争議?など、これまで書く気は全くなかった。それなのに、こうして自分の力不足を承知で書き始めたのには、それなりの訳がある。
私はこの1ヶ月の姉からの電話で、自分があっという間に落っこちて「何も出来ない」状態になっていくのに困惑し、何とか少しでも元気を出したくて、前回の「『カーズ』的世界」を「娯楽」として書いた。この半年、ここで文章を書くことで自分が意外なほど元気になることを知ったので、この元気さを、「たかが電話」くらいで手放したくなかったのだと思う。
しかし、頭の中が「家」や「親子」その他についての長年にわたる葛藤の話で殆ど占拠されている状態では、何を書いても意味がないことがすぐに判った。これまで私は、ストレスが多い状態になると、エネルギーがそれに吸われてしまって何も出来なくなることはあっても、「頭の中のCPUが満杯」とでもいうような状態になった記憶はあまり無かったと思う。身体は何とか動かせるのに、「何も見えない聞こえない考えられない」ような状態は、自分でも不気味で嫌な感じがした。
とにかく、姉との話がなぜこれほどまでに今となっても自分にとって「重い」のかということだけでも、私は書いた方が自分の状態を良くすると思った。姉がまだネットを見ない人だということもあって、私は取りあえず書き始めた。
私は人づきあいが苦手で、ごく限られた人間関係の中で暮らしている。ただ、その分友人とは長いつきあいになることもあり、今も「おそらくは何を話しても大丈夫」というような人が何人かいる。自分ひとりの心に収めておくことが辛かったり、或いは逆にちょっとした「発見」をして誰かにそれを聞いて欲しい時など、互いに連絡を取り合う関係の人達だ。「相談する」とか「アドバイスを求める」のではなく、ただ「話を聞いて貰う」だけで、ずいぶん心は軽くなるのだということを、歳と共に私は痛感するようになった。自分では何が辛いのかすら解っていないようなときでも、そのことを人に話しているだけで、頭の中が整理され、自分が本当はどう思っていたのかが明らかになってきたりする。
しかし、姉との話は友人達との場合とは本質的に違ったものがあることを、今回改めて感じた。姉の話す内容は、私自身が全く関与していない場合でも、「私も当事者のひとり(或いは一部)」とでもいった気持ちにさせられるものが多いのだ。
例えば、姉が母のあまりの身勝手さ、家族総てを支配しようとでもするかのような度を超した行動を責める時、私はその光景がまざまざと目に浮かび、姉の苦痛がよく解るにもかかわらず、どこかで辛いものを感じる。私と姉とでは、母との関係が元々違っているのを否応なしに思い出させられる。
姉は母とコーヒーを飲みながらの四方山話で、たまたま姉の幼い頃の話になり、母自身の口から「あんたは『たなざらし』で育った」と言われたことがあるという。
「棚晒し」などというオソロシク的確な表現が即座に浮かぶのは、母のほとんどコピーライターのような資質からは別に珍しいことではないが、その結果母親を「どうしても親だと感じられない」まま育ってしまった娘相手に、本人がすんなり口にするのも、ちょっと信じられないような光景だと私は思う。姉はいつものように、呆れたとも仕方ないともつかないような口調で笑いながら話していたけれど。
私自身は、姉同様放っておかれた時期はあっても、「棚晒し」ではなかった。親子だけで暮らした3歳までの間で、私は母とふたりだけの「幸せ」を感じた記憶がいくつか残っている。その時々で、そこだけ春の陽差しが当たっているような情景は、その後の長い年月に渉って私にとっては本当に大事な宝物だった。母自身が親としては私をがんじがらめにして苦しめた「大変なヒト」だった事とも、それはなぜか矛盾していない。しかし、姉はどんなに努力しても、そういう情景がひとつも浮かんでこない人なのだ。
姉は、私が生後初めて病院から家に帰ってきたときのことを、はっきり覚えていると言う。当時、姉は二歳二ヶ月だった。母は、二番目に生まれた私を「なんだかコワレモノのようなところがある子だと感じて、努めて膝に乗せた」といった話を、姉にしたこともあるらしい。姉にとって私は、母と姉の間を裂くように現れた闖入者でもあったのだ。二人目の子どもが生まれた際よく起きる、ごくありふれた事と言ってしまえばそれまでだけれど、「春の陽差し」の情景が姉に見当たらないことに、私は自分が無関係ではないと感じる。
もう一つ、私が姉との会話を「重い」と感じる理由がある。姉と母とのこれまでの関係、その間の姉の葛藤だけが問題になっているように見えて、実はそんなに簡単な話ではないのだということ。少なくとも母方の祖父とその母親の関係あたりまで、当然のように遡れてしまう話であることが、30年近くもかかった揚句、私(や、おそらくは姉)にも見えてきてしまったことだ。
ほんのちょっと、姉からの電話について書こうとしただけで、あっという間に私の想いは祖父母と暮らした40年以上も昔に戻ってしまう。それも、浮かんでくるエピソードはどれも、何だか自分がいかにも「可哀想な子ども」だったかのようなものばかりになってしまう。
今となると、私はそんなものを祖父母についても両親についても、書きたいとは全く思わない。そもそも私は、親のことを憎んだり恨んだりする感情をあまり持たなかったような気がするのは、長い間に自分の記憶を書き換えてしまったからなのだろうか。自分がカワイソウとも、可哀想だと思って貰いたいとも感じたことは無かった気がする。「同情なんてされたくない!」というほど自尊心が強くもないらしい私が、それでもいつも感じていたのは、とにかく自分の持って生まれた資質が、両親とも、祖父母とも、あの田舎町とも、その後の金沢とも「合わなかった」らしいということだけだ。自分が異星人だと、半ば本気で思い込むほどに。
私は実は、いつか祖父と父については、私だけの鎮魂歌のようなものを書こうと思っていた。私の記憶の中にはそれが可能なくらい、彼らに纏わる印象的なエピソードも残っている。今となると彼らはそれらのエピソードで語られるべき人々に、私の中ではなってしまっているのだ。そして、私はほとんどそのためだけに、これまでの人生の時間とエネルギーの大半を費やしたような気さえしている。
それなのに、書き出したら止まらないほど当時の自分の悲しさや辛さが吹き出してくることに、私は呆然となりかけた。次々と文字になって私の目の前に現れるそれらの記憶は、ふと、かつて二度目に入院せざるを得なくなった頃の私の眼に映っていた「存在しない」者たちの姿を思い出させた。
私は驚いた。あの時、「猫」や美しい女性の姿以外にいつもその気配を感じていた魑魅魍魎とでもいうべき者たち。あの多くの「影」の群れと、今回私の中に蘇った些細な記憶の数々は、なぜかどこかで重なって見えたのだ。
今の私の眼からはすべてが、冬は3メートルも雪が積もるというあの小さな盆地の中で、綿々と、外から見れば大したこともない土地と財産を必死で守ってきた庄屋その他の、田舎の小金持ち達の「家」と「血」から始まったものに見えている。家と血縁の、ここまで来ると「呪い」としか言いようのないモノに、姉も私も三代に渉ってつきまとわれているようなものだと本気で思う。
私も姉も、ただ単に「親子関係」に苦しんだのではない。「毒になる親」に偶々出くわしたと言うほど根の浅い話とは、私には到底思えない。だからこそ、お互いにこれほどの時間が掛かったのだ。私は自分の身に一体なにが起きているのかを自分なりに納得するためだけに人生のほとんどすべてを費やし、姉は姉で、50代の半ばにもなって人生をもう一度丸々やり直すかのような作業を迫られている・・・というように。
私が昔、あれほど必死で逃げようとした対象は「親」だけではなかった。人間の「ありのまま」を全く認めなかった、父の完全主義、理想主義、科学信仰、或いは家族をまるで物のように扱う母の信じられないほどの鈍感さ、そんなものばかりではなかった。母親からあっさり捨てられた「私生児」だったという祖父の、「他人は誰も信じられない」、「人間は皆一人きり」、「頼れるのは土地、金、財産だけなのだ」・・・。そして、そんな祖父の妻として、過労から丈夫な子どもに恵まれず、沢山の子どもに死なれても、何の発言権もなかった祖母。
私は、当時の自分が知らなかったものまで含めて、本当に多くのモノから逃げたのだ。「影」の群れが、長年に渉って延々と追いかけてきたのも無理は無い。
実は、私が逃げ出したモノの中には姉も混じっていた事に、数年前から私は気づき始め、一時期何とも言えないような気持ちになった。姉が私を「たったひとりの大事な妹」と思ってくれているのは、私にもよく解っている。けれど私は、「呪い」から逃げ切ることの困難さが身に染みているせいか、姉に対する警戒心をどこかで解くことが出来ないままでいるのを感じる。
姉からの電話で一番辛かったのは、もしかしたらこの事だったのかも知れない。私も私なりに母に似たところがあり、自分でも困ったモンだと思ったりするけれど、姉がどれほど母に似ているかを、今の姉に言うことは出来ない・・・。
それでも、私が母を私なりにずっと愛してきたように、私なりに姉を愛しているのだと今は思う。
「家族でも、愛情を感じることが出来なくてもいいのだ」と自分なりに納得できたらしい今になって、彼らが皆、彼らなりに私を「愛して」くれていたのを感じるようになったように、私も私なりに彼らを愛していたのだと思うようになった。
一体どうなってしまうのだろう・・・と、自分でも全く予想のつかなかったこの文章がこういう終わり方になったのを、私はとても喜んでいる。
何だか、漸く本当に『鎮魂歌』が書けそうな気がする。
いつも力作ですが、今回は、破格の重さ・ながさ。
でも、最後まで読んでよかった、と、思いました。
わたしも、因習根深い田舎に育ち、八墓村のようだといわれていますが、、、
これは、なんというか、深い傷を抱えながらの一族の歴史。
うーん、うまく思い出せないけど、横溝正史でななく、有吉わさ子とか三島由紀夫とか(ごめんね、例えが違っているような気が、)まあ、古く誇り高く閉鎖的な一族の物語、という感じがしました。
この呪縛をとくには、熟年と呼ばれる年齢まで、年月を重ねないとできなかったんだなあ、としみじみおもいました。
鎮魂歌につなげる最後の文章。
つづきを、じっくり待っています。
何しろ、この長さ(おまけに内容?)なので、何か書いて下さる方が居ようとは思ってもいませんでした。(何だか、以前にも同じようなこと書いたような気がしますが・・・。)
今回は書き上がってからもイロイロあって、番外編を書くのはもう少し後になりそうです。
でも、「つづきを、じっくり待ってます。」と言って下さったのが、とても嬉しかった。
どうもありがとうございました。
私の母も、今までに背負ってきた物を、背負いきれなくなって格闘しています。
もう亡くなってしまった親に対する物を、どうやって解決するのかな?出来ないよね~
ネット上で公開する事は、勇気がいると思うけど、書くという作業はよても良い事だと、私は思ってますよ。
私もそうやって、自分の気持ちを整理し、見直してきた様な気がします。
もう1度書いたら、また別の物が見えてくるかもしれませんね。
もちろん、私には何も出来なくて、他人事で申し訳ないけど、お話は・・・ふむふむって、納得したり、どうして?そうなんだ~!・・・と、読ませて頂きました。
コメント下さってありがとう!
私は、風さんの言われるような意味で「書くという作業が好き」なのかどうか自分でも判りませんが、それでも、「書く」ことはおそらく「読む」或いは「観る」ことと同じくらい、(しかし全く違う方向から)私自身に直結している作業なのだと感じます。
私は自分のことを、現実の生活の場面では、「今ここに居るのは、間違いなく自分だ」という風には感じられない子どもがそのまま歳をとったような人間だと思っていますが、「読む」「観る」そして「書く」間は「ここにいるのは私自身だ」と感じることができるようなのです。
訳のワカラナイようなことを書きましたが、とにかく「ブログに書くこと」を、とても肯定的に捉えて下さったことに感謝しています。
どうもありがとう。
またいつか来て下さると嬉しいです。