長すぎる「ひとこと感想」その11。 (多少ネタバレです。ご注意下さい。)
同じ頃に観た『告白』と並べて、メモには「寓話的?なエンタテインメントとしては、私は『告白』よりこちらの方が好きかも。どちらもリアルじゃない感じがするけど、『告白』の方がより"マスコミ"的な物見高さ?を感じるからかなあ」などと書いてあった。
都会でルームシェアをしている4人の若い人たちと、さらに若い(闖入者)サトル。モラトリアム?もそろそろ終り??(或いは既に終わってしまった?)という4人と、その真っ只中なサトルを見ていると、「今」を生きる若い人たちの大変さが、同年齢の頃の私などとは全然質が違うのを痛感させられた。
学校を卒業する時、或いは夢を追うのをそろそろやめようと思う時、人は今居るそれなりに馴染んだトコロから出て行かなければならない。
「イヤなら出てくしかなくて、居たければ笑ってればいい」という暗黙の了解だけで成り立っている住み処は、そのルールの簡単さから言っても、ある種居心地がいいかもしれない。皆が「笑顔」でいられるなら、素顔を見せる必要などさらさらないのは当然かもしれないと、私なども思う。それぞれが他の場所に「素顔」を知る人がいるのなら、別にそれでいいんだろうと。
私が彼らを見て「大変だろうな~」と感じたのは、そういう他の場所の「誰か」がいるようには見えなかったからだと思う。
ふと自分の昔を考えた。「離人症」というタマゴの殻に守られて、学生時代からずっと転居を繰り返す人生を来た身としては、「笑顔」だけで済む付き合い方の心地よさは、「より必要としている」からこそ、もしかしたら人より多く経験してきたことなんじゃないか・・・と。
でも私の場合、それは常に「素顔」(としか言いようのない自分)を知る人が、たまたま身近に存在していたからこそ、出来たことなんじゃないかと初めて気づいた。少なくとも私自身は、あまりにもどうにもならない自分を抱えていたがために、逆にそれを誰かに知ってもらわずには、これまで現実を生きてはこれなかったのだ・・・と。
この映画の終盤、4人の中の1人を前に、サトルは事も無げに「(アンタのしたことは)みんなもう、薄々気がついてるんじゃないの?」。「アンタのしたこと」が大変な事実であっても、それは(格好をつけて言ってるわけじゃなくて)文字通り「だから何?」なコトなのだ。そして、「住み処」には同じ日常が待っている。皆それぞれ、それなりの出来事や変化を経験したというのに。
映画の後、「モラトリアム」という言葉自体、既に死語なのかもしれない・・・とも思った。
若い時期に同世代と身近で生活する(別に同居だけを指すんじゃなくて)という体験は、私の場合文字通り一生を通じての「貴重な宝物」になった。本当に特別で大事な人間関係は、その時に土台が出来たと思う。それは単なる友人関係ではなくて、自分自身を照らし出してくれる鏡の役割を、その後何十年も果たしてくれるような「何か」でもあった。
この『パレード』に描かれたような「何が起きても、何も起きない」人間関係の中だけで生きていくのは、少なくとも私には無理だっただろうと思う。(我が家にも若い人たちがいて、皆で何やらルームシェアの如き共同生活?をしているけれど、彼らにも観てもらって感想を訊いてみたい映画だった。)
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