不思議な映画だった。
ある家族(両親と姉弟)の12年間を追って物語は進んでいくのだけれど、終始同じ人が演じているので、撮影には12年(たとえ年数回程度?であっても)を要したことになる。しかも「演じている」、つまり(ドキュメンタリーではなくて)あくまでフィクションなのだ。
何というか・・・素人の私でも、よくこんな映画にお金を出す人がいたもんだ・・・と感心してしまった。(制作費が回収できたとしても12年後、それもできるかどうかわからないのに。)
物語をちょっと書くと・・・
舞台はアメリカ、テキサス州。主人公は6才の少年メイソン。
母親はミュージシャンになる夢ばかり追いかけてフラフラしている夫と別れ、キャリア・アップのために大学に戻ろうと、子どもたちを連れてヒューストンに引っ越す。実母に子どもの面倒を見てもらいながら大学に通う母親と、アラスカから戻り子どもたちに会いにくる父親。しかし、子どもたちは自分も楽しげに遊んでくれる父親が大好きなのだけれど、母親は(父親が望んでも)復縁しようとは全く考えない。
やがて母親は再婚する。 しかし、大学の指導教官だった夫はアルコール依存症で暴力を振るうようになり・・・母親は大学の教官として自活できるようになると、夫と別れ、オースティンに引っ越す。そこでは新たな恋人もできて・・・
一方、父親の方も新たに家庭を持ち、子どもが生まれる・・・
といった風に、(子どもにとっては迷惑な)親の人生模様に振り回されながらも、メイソンは(さまざまな苦痛を耐えたりかわしたりしながら)子ども時代を過ごし、思春期を経て、やがて大人になっていく。
ここまで書きながら改めて感じたことだけれど、観てから時間が経つほどに、私は「物語」には興味が無くなっていったんだなあ・・・と。
映画を観ている間はそうじゃなかった。
親としての責任感が強く、しかもとても前向きで行動力のある母親に感心したり、そのくせ妙にヤヤコシイ男と結婚する人だなあ・・・と思ったり、子どもであっても人の髪を本人の承諾なしに切るのは「傷害罪」じゃないか!と猛烈に腹が立ったり、 子どもたちの父親は(終盤本人が口にしていたけれど)良い父親・良い夫になれる素質のある人なんじゃないかなあ・・・とか、普通に「映画」としての物語を追いかけていたと思う。
けれど、観終わった後、映画館の廊下を歩きながら感じていたのは、もっと違う何かだった。
私がこの映画から感じた最も大きなことは、「時間」というものの途方も無さ・・・というか、抗いようの無さ・・・だったと思う。
不謹慎な?喩えなのかもしれないけれど、文字通り、大海原を伝わって行く「津波のような」圧倒的な力を持つ「時間」というもの。一方向にしか進まない、追い越すことも戻すこともできない、「もう一度」もあり得ない・・・というような。
映画では、人生というのはそういう時間の堆積なのだから、「今」このときを大切に生きよう・・・といったメッセージ(というほどのモノじゃあないけれど)も感じた。同時に、辛かった過去も幸せだった時間も、すべては過ぎ去っていく・・・といったニュアンスも。
ここから先は、ごく個人的な話になる。
私は子ども(それこそ冒頭のメイソンくらい?)の頃から、「時間」というものの不思議をよく感じた。「時間」って何なんだろう・・・とか、「時間」を追い越すことって出来ないんだろうか・・・とか。
もう一度あの頃に戻りたい・・・というような時期は私には無かったので、過去を懐かしむ気持ちも無かった。むしろ、どうしてもこれ以上早く前に進めることが出来ない「時間」というものの「揺るぎなさ」に押しつぶされそうで、何とかならないものか・・・と思うことが多かった。早く「人生」というデューティ、その重い荷物を降ろせる日が来てほしかった。
けれど、そういう風に「時間」を意識せざるを得なかったということが、逆に私の目を「過去」に向けさせたのかもしれない。
私はこのブログでも、よく個人的な「昔話」を書く。この年になると、すべては過ぎ去ったことなので「懐かしむ」気持ちも湧いてくる。残された時間の少なさが、過去の記憶の輝きを増すのかも・・・と思ったりもする。
でも・・・「残された時間」がわからないのは、若い頃も今も同じだ。若い頃は、自分で時間を断ち切りたいと感じる瞬間をどうやり過ごすか・・・もうこれ以上は無理だと思えば、「残り時間」を自分でゼロにしてしまいそうな衝動を、いつもどこかで感じていたような気がする。今は、自分にはそれが出来ないことがわかっている分、もしかしたら「残り時間」は長くなったのかもしれない。
映画の終盤、母親は子どもが幼かった頃のことを懐かしむ。一方、親元を離れようとしている息子には、それが全く理解できないように見える。
「時間」は人により、立場により、違う意味を持つものでもあるのだ。ほんの12年(私の年齢だとそう思う)の持つ意味、それが見せる記憶の中の情景は、人によって全然違うことがある・・・と。
そんなとりとめの無いことを、あれこれ思い浮かべながら家に帰って、上の息子にこの映画の話をした。すでに30代が近い彼は、「同じ俳優さんで12年間!」しかも「フィクション」ということに驚き、「凄いアイディアだ」と言った。
私はついでに言ってみた。
「あのね、映画の最後、大学1年の主人公は、確かに役柄を演じているんだけど、でもあの映画に出演したことで、あの男の子自身はきっと影響を受けたんだと思う。役柄と演じている本人とが、いつの間にか重なって一人の人間像になってる気がした。そういう風に見えたの。最初からそれを見越して、6才の彼を起用した・・・とか、演じる彼と一緒に途中の脚本を考えたとかいうことも、もちろんあったと思うけど」
息子は、「あ・・・それはわかる気がする。少しずつ重なっていく・・・っていうの。そういうことも込みで、その映画は出来ていったんだろな~って」。
彼も彼の弟も、「ほんの12年」で「大人」になんかならなかった(^^;人たちなので、そういう意味では映画の中の物語は、私にとってはまさに「フィクション」だった。それでも、家に帰ってからは、ふと彼らとの30年近い「時間」を私にしばし思い出させた・・・
『6才のボクが、大人になるまで。』は、私にとってはそういう映画だった。
ラジオではとにかく12年間という長い歳月を掛けて撮ったという事ばかりに焦点を合わせて紹介してたので、正直そんなに凄い内容だと思ってなかったんですが・・・
とっても興味が湧きました
ムーマさん、いつもありがとうです~^^
映画自体は、そんな「凄い内容」じゃないかもしれません(^^;
色んなことが家族に起きるんですが
今のアメリカだと、そんなに珍しいコトじゃないのかもしれない・・・とか
テキサスっていうのは、こういう土地柄なんだな~とか
そういう意味では、「アメリカ」を感じる物語ではありました。
でも、主人公の「男の子」が「長い顔のオニイサン」になるのは
やっぱり色々考えさせられるモノがありました。
ある種、映像の残酷さかも?・・・と思うくらい
「歳月」の力を感じさせるというか。
あ、他のキャストも良かったんですよ。
父親なんて、すごーく魅力的だった。
母親は、もっと・・・かも(^^)。(後ろを振り返らない女性が好きなので)
勝手なこと一杯書いちゃった~(^^;
それはともかく、いつも来て下さって、書き込んで下さって
本当に嬉しいです。、感謝してます。
また書こうっていう勇気とエネルギーが湧きます。
ありがとうございました(^^)。
昨日付けの拙サイトの更新で、こちらの頁をいつもの直リンクに拝借したので、報告とお礼に参上しました。
人生の機微よりも、むしろ「時間」についての映画なのですね。なるほど、と思いながらも、自分にとっては思い掛けない視点で、とても新鮮でした(礼)。
>私がこの映画から感じた最も大きなことは、「時間」というものの途方も無さ・・・というか、抗いようの無さ・・・だったと思う
いやぁ、いいなぁ。深いですね。感慨を覚えます。
どうもありがとうございました。
ご報告と直リンク、ありがとうございます。
レスが遅くなってしまって、本当にごめんなさい。
ヤマさんの日誌、もう一度読みました。
さまざまな「人生の機微」に、さりげなく、でも細やかに触れた作品だったな・・・って
ヤマさんの文章からいろいろ思い出して、改めて私もしみじみしました(本当)。
それにしてもこの監督さんは、こと「時間」というものについては
「反則」っぽい?くらいのことを、それも楽をするためじゃなく、苦労してわざわざ手数をかけて
やってのける人・・・みたいですね(^^)。
先日TVで、『恋人までの距離』を初めて観たんです。
主演の2人が元々ちょっと苦手で、観ないままになっていたんですが
「6才のボク」を今回観て、ちょっと興味が湧いて。
でも・・・後から調べてみたら
『恋人までの距離』(「ビフォア・サンライズ」)(95)の後、「ビフォア・サンセット」(04)、「ビフォア・ミッドナイト」(13)と
こちらは18年間!主演2人の俳優さんも物語の設定も変えないまま・・・と知って、思わず笑ってしまいました。
あとの2本もいつか観ようと思います。
(「時間」に興味がある人種?という意味で、なんとなく親近感を感じてしまって)
ともあれ、嬉しいコメント下さって
本当にありがとうございました。
住んでるマンションが目下工事中で、(自分は)ヨレヨレしていたのが
ちょっぴり元気が出てきました(^^)。