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眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

「テロリスト」の瞳 ・・・・・ 『パラダイス・ナウ』

2007-09-08 15:23:34 | 映画・本
これは、少なくとも私にとっては、本当に不思議な映画だった。この不思議さを自分自身のために少しでも整理したくて、今こうして書いているのだと思う。

映画自体は、「パレスチナの幼馴染の若者2人が自爆攻撃へと向かう、48時間の葛藤と友情を描いた作品」で、日本のマスコミでは『自爆テロ』と訳されることの多い自爆攻撃を「決行する側(つまり日本流に言うと『テロリスト』の側)から描いた、これまでにはあまり見られなかった種類の作品」といった説明がされているらしい。

パレスチナ人の監督・脚本で、実際にパレスチナのイスラエル占領地区で撮影され、各国の映画祭でさまざまな賞を受賞している。

さらに、「仏・独・蘭・パレスチナ」合作映画ということで、これまでパレスチナを国家としては認めていないという理由で取り上げられることのなかったアカデミー賞外国語映画部門にもノミネートされたという。(偶然かもしれないが、アメリカ国内における受賞は「最優秀外国語作品賞」といったタイトルのものが多い。会話の大半がアラビア語で交わされているので、当然の事なのかもしれないけれど、ヨーロッパでの受賞はわざわざ「外国」、「外国語」などとは付いていないものが多いように見えたので、それはそれでアメリカの映画事情を垣間見るようで、なんとなく面白い気がした。)

もっとも、各国で受賞しているとは言っても、所謂パレスチナ問題に対する考え方その他もあって、当然賛否両論あるようで、正に「話題を呼んだ」ということらしかった。


観た後で私は、この映画の内容を一番正確に言い表しているのは、チラシにも載っていたハニ・アブ・アサド監督自身の言葉だと改めて思った。

「物事を『邪悪』と『神聖』にわけるのはナンセンスだ。私は複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです。」

ステレオタイプな描き方には絶対したくないという、現実のパレスチナを知る人の性根の坐り方とでも言うべきものを、私はこのさりげない言い方から感じる。そして、そういう作った人たち(プロデューサーのひとりはユダヤ系イスラエル人とのこと)の真剣さ、誤魔化しの無さが、この映画を私にとって「本当に不思議な作品」にしたのだと思う。

以下、その「不思議さ」を少し考えてみる。


私はこの映画を見る際、「パレスチナ問題をテロリストの側から描いた」というイメージもあってちょっと緊張していた。頭をまっさらにして、余計な先入観を持たずに、作り手側の伝えたいことをきちんと受け取れる姿勢で観よう・・・と、無意識に肩に力が入っていたのかもしれない。

実際この映画は、イスラエル占領下のヨルダン川西岸での、イスラエル軍兵士による検問所での場面から始まる。その文字通り緊張した雰囲気、互いの猜疑心や嫌悪感がそのまま互いの刺すような視線に宿っている場面を過ぎると、今度は2人の若い修理工と車の持ち主との言い争いの場面に移る。持ち主はきちんと修理が出来ていないと言い出し、最後は若者の父親も引き合いに出して悪態をつき、もうひとりの若者はかっとなって車のバンパーを壊してしまう。当然その若者は仕事をクビになる。

「明日からまた職探しだ。」「お前が悪いんじゃない。」などと話しながら、二人は小高い丘の上で、代わる代わる水パイプを吸いながら、彼らの住む「西岸」の町並みを眺める・・・。

二人がごく普通の若者であることと同時に、若い人たちにとって全く希望の持てない「占領地」での暮らしの閉塞感が、ごく自然に観る者にも伝わってくるように描かれている。

実はこのあたりから、既に私は時間の感覚が無くなっていた。劇場のスクリーンではなく、居間のPCで1人でDVDを観ているという環境なのに、そういう自分の側の生活感覚も一切消えてしまった。そのまま90分、エンディングまでの間、私は映画を観ているということも忘れて、ただ「目の前で起こることをじっと見ていた」だけだったと思う。

父親の悪口を言われた方の若者は、どちらかというと大人しく、口数も少なく、あまり感情を表には表さない性格に見えた。しかしその彼が、終盤、自爆攻撃を計画しているグループの幹部(「生きている英雄」といった言葉で紹介されていたと思う)に対して、自分がイスラエルに対して抱いている思いを説明する時、或いは互いに好意を感じている外国育ちの若い女性に自分の父親のことを打ち明ける時、私は彼の言うことに、自分が全く反論出来ないことが分かった。そのまま、彼の言葉に「説得されてしまう」のだ。

私は普通、どういう事柄についてであろうと、自分は簡単には「説得」されない方だと思っている。自分や自分の意見に自信があるからではなく、物事は大抵そう簡単に説明できるようなものではないと、過去の経験から感じてきたからだ。(私のような年齢では、ごく当然の「疑い深さ」なのかもしれないし、逆に天邪鬼と言われるようなことなのかもしれない。他の人のことをあまり知らないので、なんとも言えない。)

ところが、今回この映画の主人公の言葉には、私は自分が異議を唱えられないこと、言い換えれば彼の立場に自分が居たら、同じようなことを考え同じ決断をするかもしれないと思ってしまうことが、妙な言い方だけれど「あっという間に」判ってしまった。私から見ると、それくらい彼の言葉、彼の行動は自然なものだったのだ。


「ごく普通の若者」が、「自爆攻撃の実行者」になることを決断する瞬間を、これほど自然に(と観るものに感じさせるような方法で)描いていること自体、もしかしたら大変なことなのかもしれない・・・と、後から気づいた。脚本の良さは勿論、余計な装飾の無い淡々とした描き方、人の表情や視線、その他本当に何気ない「言葉以外のもの」が多くを語りかける映像・・・。

例えばイスラエルの大都市テルアビブが、主人公たちの生まれ育った西岸の町ナブルスとどれほど違うか、どれほど豊かで屈託の無い平和な雰囲気に溢れているかは、彼らと共に車の中から一目見ただけで分かる。或いは田舎の停留所でバスを待つイスラエルのいかにも庶民と思われる人たちの穏やかさは、検問所のイスラエル兵士とは似ても似つかない。そもそもその兵士たちも、最後のシーンでテルアビブ市内を走るバスに乗り合わせている時には、服装その他で「兵士」と分かるだけで、当然と言えば当然の事ながら、他の一般市民同様、リラックスして仲間と談笑している「普通の人間」なのだ。

きれいな水は地球上のどんな場所で飲んでも、美味しい水と感じるだろう。そういう自然さでもって、この『パラダイス・ナウ』は私の中に流れ込んできたのだろう。私は何の抵抗も無くこの異国の映画を観て、その語るものも私なりに理解したと思う。パレスチナに関する知識の程度によって、理解度も違うのかもしれないが、作品の一番重要な部分については、一日本人の私にでも理解できるように、この映画は作られていると思う。

この自然さが、私の感じた「不思議さ」の一番大きい部分なのかもしれない。が、もう少し、複雑なモノが絡んでいるのを、私自身は感じている。

私はこの映画を観た直後、家族の1人にその内容をざっと説明しようとした。が、「こんな映画だった・・・。」という簡単な説明で良かったのに、自分がそれさえ出来ないことに気づいて、私は文字通り、愕然とした。

例えば離人症の説明なら、あの宇宙人にでもなったかのような奇妙な感覚を、それでも私は私なりに、自分の言葉で説明出来る。(それを聞いて、相手が理解できるかどうかはまた別の問題だ。)

だのに、たった今観たばかりの映画の内容を、自分が自分の言葉で親しい相手に説明出来ないことに、私は本当に驚いたのだ。背景になる歴史的政治的事情に自分が詳しくないからではないと思った。そういう具体的即物的な理由ではないという感じだけは、自分でも分かった。

そして、しばらく考えた後、あまりにも当たり前のことに気がついた。

私はこの主人公たちの暮らしているような世界、そういう「占領地」での「複雑きわまりない現状」を、ただただ「本当に知らない」のだ・・・と。


「本当に何も知らない」者に、それを澄んだ水のようにコップに入れて勧めてくれる・・・この『パラダイス・ナウ』という映画は、「映画でなければ知ることのなかった世界を見せてくれた」という意味では、私にとってはまさに「映画らしい映画」の1本だった。

私は映画を観る時、普通は多かれ少なかれ、相手の事情や約束事にこちらが寄り添う、或いは「許容」する必要性を感じる。それは特に困るほどのことではないことも多く、大抵は習慣的にそういう風にしてしまう・・・と言った程度のものだ。

けれどこの『パラダイス・ナウ』という作品は、そういう作業を私に全く感じさせなかった。描かれている文化・風俗の違いから、意味の分からないところは細かい部分に何箇所かあるのに、それさえ観る際の妨げには感じられなかった。

私は相手の土俵とでもいうべき要素を全く意識せずに、この映画を観ることが出来たと思う。そしてそのことには、主人公たちが、私と同じこの現在ただ今を生きている、私の周囲にも居るような「ごくごく普通の若者」であるという感覚を保証する作用もあったような気がする。

だからこそ、何度も同じようなことを書いているとは思うのだけれど、私は「ごくごく普通の若者が、スーツの下に爆弾を巻きつけての自爆攻撃を決意する」経緯を、ごく自然に、目の前で見た気がしたのだ。そしてそのこと自体が、私にとっては「本当に不思議なこと」だったのだと思う。



以下は個人的なことになる。

私の家族が『パレスチナの子どもの里親運動』というものに参加したため、うちでは毎月僅かの金額を「里子」たちへの経済支援として、この20年近く支払っている。私たちはあまり熱心な「里親」ではなかったので、ほとんどお金だけの関係に近かったけれど、「里子」たちからは手作りのクリスマス・カードなども送られてきた。

書類の僅かの記載事項と写りの良くない写真コピーでしか知らない、彼らの丁寧な感謝の言葉(アラビア文字の場合は向こうの支援団体で英語に訳してくれていた)は、不精で素っ気無い「里親」の眼には眩しく、心のどこかで私は恥ずかしさを感じることが多かった。

「里子」は15歳くらいで学校を出て、働き始めるとのことで、その年齢まで支援が続くこともあれば、家族で国外に移住するといって、数年もせずに打ち切りになることもあった。こちらに続ける意志がある間は、新しい「里子」が紹介されるシステムになっていた。

そんな中には、こちらの対応の悪さから傷つけてしまった「里子」も居た。

彼は、まだ始めて間もない頃の「里子」の1人で、父親の居ない家庭で、何人もの兄弟姉妹と病弱な母親が一緒に暮らしていた男の子だったと思う。彼は「里親」に、彼の「父」を求めたのかもしれない。手紙が欲しいと何度も書いてきたので、見かねて私が代わりに、たどたどしい英語で返事を書いたりもしたけれど、だんだん関係が良くない方へ向かっていくのを、私たちには止めることが出来なかった。

結局、彼が年齢を過ぎてから、それ以上の支援を断ったのだったと思う。その時の苦い経験を、私はふと思い出した。

あの男の子は、今頃丁度、映画の主人公たちのような年齢になっている筈だ。しかし、今もあの地に居るのか、どこかへ出稼ぎにでも行っているのか、そもそも生きているのかどうかさえ、普段の私は気にも留めない。

「里子」たちと個人的に人間らしい付き合い方をしないのは、言い出した家族の考え方でもあり、私自身については私の性格・生活からは、それ以上のことが出来ないからでもある。あの男の子についても、「可哀想なことをしてしまった・・・」という思いはあるけれど、あの程度のことしかそもそも出来ないのだという気持ちも変わっていない。その程度の「支援」でしかなく、だからこそ(経済支援ということ自体が良い事かどうかは別として)なんとか続けることも出来るのだという、我が家の事情だ。

それでも、私は今、あの男の子のことを考えている。

私が『パラダイス・ナウ』を観て、自分は要するに「この主人公たちの暮らしているような世界、そういう『占領地』での『複雑きわまりない現状』を、ただただ『本当に知らない』のだ・・・」という事実に突き当たったのには、こういった個人的な過去の出来事も、ほんの少し影響しているのかもしれない。



私は時を置いて、もう1度この映画を観ることにした。それほど迷いもせずこういう事をするのは、私にはとても珍しい。

そして、初めて、主人公が終始「考えている」のだということに気づいた。感情を露わにしないように見える主人公の顔に浮かぶさまざまな表情が、私にも読み取れるような気がしてきた。

「善良だが、弱い人間だった」父親が過去に取った行動のため、彼は同じパレスチナ人からも蔑まれ、ちょっとした行き違いだけで即座に「裏切った」と決めつけられるような扱いを受けている。しかも、未来の無い「占領地」でこれからも生きていくしかないという、二重の閉塞感の中にいる。孤独も希望の無さも「怒り」も、彼の中には二重になって存在しているのだ。ひとりの若者が、そういう状況で下す決断に、私は他の選択肢もあるなどとは、やはり到底言えそうにない。

彼に好意を感じている若い女性も、彼を思い止まらせることは出来なかった。彼女との激しい言葉の遣り取りを経て、同じく決断を迫られていた、主人公の友人の方は考えを変えるに至ったのに。友人の閉塞感は、二重三重のものではないからなのだろうか。それとも、個人の決断は人それぞれ違っていて当然・・・ということなのだろうか。

主人公は、今の私から見ると息子の世代、子どもに当たるような年齢だ。こういう若い人たちに、こういう「孤独」を味わわせたくないと、今の私はそれだけは無条件に思う。相手の生きている世界を私が全く知らなくても、これは私のこれまでの人生に裏打ちされた、私なりの正直な気持ちなのだ。私が富める側の人間、彼らを平然と無視している側の人間であるという事実は事実として。



映画のエンディングが忘れられない。

雑然とした日常の一部とでもいうような、リラックスしたバスの乗客たちの中に混じって、主人公ひとりだけが「時間の止まった」存在になっている。その「決断を下した」瞳からは、それまでの「考えている」彼の姿は感じられなくなっているように見える。彼はただ、断固とした「決意」の塊のようになって、「その時」を待っているかのようだ。

けれど、彼らを「テロリスト」と呼ぶことは、この映画を観た人には出来なくなると思う。あの瞳が「哀しみ」を感じさせようと、「断固たる決意」を感じさせようと、それだけは変わらない気がする。


私の涙は、勿論どこにも届かない。ただ、私自身を慰めるかのように、ほんのしばらく私の眼に浮かんだだけだ。

あの手放しで大泣きしていた友人の涙は、本当に私に届いたのだろうか。私はそれさえ分からないままなのだから。







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