私には、学生時代からの友人が2人いる。互いに家を遠く離れて、初めてのひとり暮らしを始めた最初の頃からの付き合いなので、知り合ってから今年で35年になった。今でも電話やカード、メールなどのやり取りがあって、相手がどういう生活をしているのか、ごく大雑把にではあってもいつも双方が知っている・・・という関係が続いている。
そのうちの1人とは、卒業後の一時期、ほとんど「運命共同体」?とでもいうような生活をした。お互いに既に結婚していたにもかかわらず、毎日のように顔を合わせ、私が2度目に入院する際はわざわざ付き添って来てくれて、しかも入院する本人と間違えられ、私の方が付き添いだと思われてしまったという、気の毒なエピソードまである。実際、私も彼女も、あの頃はどちらが患者と思われても不思議じゃない・・・というような毎日だった。現在の彼女は、そういう過去を想像するのも難しいくらい元気でタフな社会人になっているので、本人は全部忘れてしまったかもしれないけれど。
もうひとりは、このブログでも時々「精神科医の友人」として登場する女性だ。現在は病院勤務ではなく、カウンセリングのクリニックを開業している。そして今回の話は、この友人との電話での会話が関係している。
そもそもの発端は、夕食時テレビのニュースで、日本では最近中年男性の自殺が多いといったことを聞いて、家族の間で話題になったことだった。台所に立っていた私は、ふとその時思いついた言葉をそのまま口にした。
「自殺は男性が多い・・・。でも女性は、私の周りを見てると、なんかワケノワカラナイような病気を発症するのよね・・・。」
皿を運んでいた上の息子が、考え考え言った。
「えーっと、慢性疲労性症候群に化学物質過敏症。うつ病もあるね・・・。」
そして、本当に無邪気な口調で訊いた。
「おかあさんは何なの。」
突然のことだったので、私は驚いた。それでもほんの1、2秒の間、真剣に考えた。私(の「病気」)のことをひと言でいおうとするなら、一体どういう言葉が当てはまるのだろうか・・・。そして、そんな言葉を自分が見つけられないことはすぐに分かったので、なぜか胸を張って、その時閃いたとおりに口にした。
「私のはナマケ病よ。」
息子は笑い出して、それでも本人がそう言うのならそれもステキだといったフォローをしてくれた。
その場の会話はそれで終わった。しかし、この時自分がほとんど即座に答えた言葉は、私の記憶に強く残り、その後「精神科医の友人」が電話をくれた際、単なるお喋りとして、私は彼女に話した。
彼女は面白そうに聞いていたけれど、それについては何も言わなかった。
実は、その時彼女が電話をくれたのは、彼女の側に私に話したいことがあったからだった。彼女は、この歳でこういう事をあまりヒトには言いたくないけれど、あなたは経験者だから言っても構わないかなと思って・・・と前置きして、話し始めた。
「私、この間『解離』を初めて自分で体験したのよね。」
「解離」という言葉も少しずつ世に知られるようになってきた。モンゴル出身の横綱の診断名が「解離性障害」だったりして、心理学に興味は無くても、なんとなく分かるというヒトが増えているかも知れない。
「解離性障害」を検索すると「心的外傷への自己防衛として、自己同一性を失う神経症の一種。自分が誰か理解不能であったり、複数の自己を持ったりする。」などという説明にぶつかる。(今は精神科領域の分類が変わって、「神経症」という診断名自体は無くなってしまったらしいけれど。)
彼女の経験した「解離」というのは、遠くの病院を受診した後、帰宅のため高速道路を運転している途中で起きたという。
「ハンドルを握っている自分の手辺りまでは、確かに『自分』だという感じがするんだけど、そこから周囲に向かって『自分の居る現実の世界』っていう感じがしなくなってるの。」
「それでも家の近所というかいつもの自分の生活圏に帰ってきたら、非現実的な感じも消えていくのが分かった。『解離』の始まりと終わりが、自分ではっきり分かった。」
「それで、おたくみたいに『慢性的』に続くのを経験してる人の場合はどんな感じなのか、ちょっと訊いてみようと思って・・・。」
私は過去、入院・通院を通じて数人の精神科医と出会った。診断名もその度に違っていた。若い頃は「ボーダー・ライン」、「非定型精神病」などと言われた記憶があるが、2度目の入院の後、精神科の治療を受けるのを止めた。自分は「医療の対象」ではないのかもしれない・・・と、自分なりに思うところがあったからだ。初めて京都で入院してから3、4年後のことだったから、その後の25年くらいを、薬もカウンセリングも全く無しで暮らしてきたことになる。
40代の初めの頃、子どもの幼稚園への送り迎えがあまりに辛く感じられるので、「気力が湧かなくて本当に困っている」ことを訴えて久しぶりに精神科を受診したら、そのとき困っていた「うつ」のことだけを話したので「双極Ⅱ型のうつ病」と言われた。治療にはリチウムを使うことになるが構わないかと医師にわざわざ訊いてもらえたので、帰宅後家族と相談して、その時も結局薬物治療は諦めた。私は過去、精神科の薬を使うと、ほとんどいつも「ごく僅かの量で副作用が出てしまって、必要な量を使うことも出来ない」と医師に言われていた。アレルギー体質でもあり、家族も「リチウムはチェックしながら使っても、突然重い副作用が出たりするから、あなたの場合、そこまでしない方が良いのではないか。」と言ったのだ。
長々と私の病歴を書いた。もう30年近い歳月のことなので、今更どう書いて良いのか分からないような、要するにどうでもいい話なのだけれど、先の話に戻ると、私は大学を卒業して最初の入院をするよりもはるか昔から、一つだけ、「周囲の人と自分は、ここだけは違っている(らしい)」と自覚していることがあった。それが「離人症」、彼女が言ったところの「慢性的な解離症状」だった。
「離人症」を検索してみると、「『自分の意識や自分の身体が現実感を失う』という離人感と、『自分のまわりのものを奇妙な異物として感じる』という非現実感」で「実際には2つが重なって起こることが多く、厳密には区別できないのが一般的」といった説明に出会う。
要するに、自分の手足が自分のものという感じがしなくなったり、見えているこの世界に(実際には居る筈の)自分が所属していないような感じがしたりする。症状が強くなると、なんだか自分がすごく小さくなってしまって、頭の中に存在して、自分の手足を機械か何かのように操縦しているような感じまでしてきたりする。
例えば目の前のテーブルがどうしてもそこにあると感じられなくて、自分の手でバン!と叩いてみても、触っているという感覚は(私の場合は)あるのに、なぜかそれが自分の手という感じもテーブル自体の存在感も湧かないまま・・・といった具合なのだけれど、経験したことの無い人にはやはり想像しにくい感覚かもしれない。
「思春期から青年期にかけて生じやすく、40歳以上にはめったにみられません。」などという説明もあるくらいだが、それにしても、私は始まりが非常に早かったと思う。まだ学校に行かない年齢の頃から、時々、自分の周りの人々の様子が映画か何かのように見えたのを覚えている。なんだか私と全く関係の無いものを見ている感じがして、しかもそれが薄っぺらで、三次元というよりは正に二次元という感じだった。(勿論、当時の私がこういう言葉を知っていた訳ではなく、後になってそのときのことを思い出してみると、そういう表現になるというだけのことだ。)なぜか、幼稚園の園庭で皆が遊んでいるのを見ている時に、いつのまにかそうなっている・・・といった具合に、人がたくさん居る場所で起こりやすかった気がする。
当時の私は、誰でもそうなるのだ・・・とでも思っていたのだろうか。別に苦痛を感じることも無く、現実感があったり無かったりすることを、当然のように受け入れていたと思う。違和感を感じるには幼すぎたのかもしれないし、遺伝性の近視で、モノが裸眼ではっきり見えた記憶が無いくらいなので、そもそも視覚的に普通じゃなかったということかもしれない。
小学生になると、自分の手が自分の物じゃないような感じにも気がつくようになっていた。4年生の夏休み、祖父母と両親が揉めていた頃、畳に寝転んで自分の両手をずっと見ていた記憶がある。時折、風が吹くとそれは肌に感じられるのに、自分の手は何だか見たこともない道具のように見えた・・・。
ただ、そんな時でも、私は離人感を苦痛には感じなかった。私の感じていたのは自分はひとりきりだ・・・という漠然とした思いだけで、それが何から来ていようと、子どもの私には関係なかったのかもしれない。そもそも、自分が切り離されて辛いと思うような関係の人は、当時既に、家族の中にさえ居なかった気がする。
私の離人症状は、強まったり弱まったりしながらその後も続き、今に至っている。以前にこのブログでも少し書いたように、50代になって漸く、薄らいできたのを自覚したけれど、私にとって離人症というのはあまりに当たり前の感覚なので、これまでに自分でもあまり問題にしてこなかったと思う。精神科の医師からも「離人症はあまり気にしない方がいい。自分を守る役目を果たしている面があるから。」といった意味のことを言われ、逆に「そうか、気にする人もいるんだな・・・。」などと思ったりした。
実は今回、この文章を書くために離人症に関するサイトをいくつか覗いてみて、人がどれほどそのために苦しむかを初めて知り、ほとんど呆気にとられた。そして、ふと、自分が若い頃感じていた、あの世界に自分ひとりしか居ないような、周囲の人々は皆自分とは異なる生き物のような、言いようのない孤独感、自分と同じ生き物のいる星から、誰かに迎えに来て欲しいと本気で祈るような、焦がれるような淋しさの基には、この「離人症」も関係があったのかもしれない・・・と初めて思った。実際は、孤独感が離人症を育んだのかもしれないのだけれど。
友人との会話に戻る。彼女はここ数年、体調が思わしくない様子だった。生命には関わらない「小さな外科手術」後の経過も順調とは言いがたく、重症の更年期障害で「自分の体が自分のものとは思えないほど、予測不能の反応をする」毎日が続くうちに、だんだん精神的にも疲労が溜まっていったのは当然だったのに、愚痴を言う人ではないので、独特の明るい喋り方もあって、私は心配しながらも、どこかで彼女の現状を甘く見ていたのだと思う。だから、「解離を体験した」という彼女の言葉には本当に驚かされた。
「この歳で『解離』なんて、何だか思春期の女の子みたい・・・。」と、彼女はいかにもイヤだなといった口調で言ったので、中年期以降に、例えば「離人症」などが起きることはないのかと訊ねてみると、「あるよ。」とあっさり答えた。数は少ないけれど、無いわけでもないらしい。ただ普通は、「大人としての人生を生きて来た実績やそこから来る自信が誰でもある程度備わっているものだから、自分以外の『世界』の方を自分から切り離して身を守ろうとまでは、しなくて済むのよ。」だとか。
それから彼女の方の話を色々聞いた後で、どうして他の人たちはあんなにタフなんだろう・・・などと言い合っている時、単なる近況報告の一つとして、私は上の息子との会話を彼女に話したのだ。
こういう時、彼女は「ナマケ病」というわたしの言葉を文字通りには受け取らないことが分かっているので、私は安心して笑い話のように話すことが出来る。世間一般で使われる「怠け病」という言葉の持つ毒の強さは、言われたことのある人でないと分からないと思うくらいの物凄さで相手を傷つけるけれど、今の私が自分に対して使うのは、大抵の場合自虐的な意味合いは無く、「それがどうした?」気分に満ちているのを、息子同様、彼女も理解していると思うからだ。
ただ、この時いつもと違っていたのは、私がプロとしての彼女に「質問」をして、さらにその後「アドヴァイス」まで求めたことだった。
私は、心理の専門家としての彼女の意見を求めたことは、これまで無かったと思う。私と彼女は、普段は、女子学生だった頃のように話をしている。元々「人に相談する」という習慣が私に無いのと、彼女から見て私はクライアントでも何でもない、古くからの親しい友人なのだということがよく分かっているつもりなので、彼女にアドヴァイスを求めるとしたら、真冬に甥の結婚式に出席するとしたらどういう服装がいいと思う?といった程度のことになる。そして、実際はそれすらごく稀なことなのだ。
そんな私が、この時ふと、彼女に訊いてみたくなったのはなぜだったのだろう。
「ねえ、私の『うつ』は一体何なんだと思う?」
意外といえば意外なことには、彼女は別に驚きもせずに、淡々と、どちらかというと早口な喋り方で答えてくれた。そしてその答えは、私には全く予想外の内容だった。
「おたくの場合は、土台にあるのは『離人症』だと思う。」
それまで彼女の体験した「解離」の話を聞いていたにも拘らず、私は本当に驚いた。
「・・・離人症とうつなんて、関係あるの?」
彼女はちょっと丁寧な口調になって、細かい説明をしてくれた。
「私も今回経験してみて感じたけど、『離人症』って現実の世界と自分との間が上手く繋がらないってことだから、かなりそこでエネルギーを食われると思う。当然、『うつ』は出て来ると思うよ。」
私は、確かめるために念を押すように訊いた。
「離人症って、神経症の領域のものなんでしょ?」
彼女は、やはり淡々と答えた。
「そう。だから薬で治るっていうようなものじゃなくて、『生き方』の問題。」
私は言われた内容に本当に驚いていたにも関わらず、この時の彼女の説明が、かつて私を診察してくれたどの医師の言葉より、「腑に落ちる」感じがしたのだと思う。
だからこそ、そのまま、さらに訊いたのだ。
「そうかあ・・・それなら、この先どうしたらいいんだろ。」
彼女はあっさりと答えた。
「ちゃんと離人症になるのね。」
そして、あたかも自分の中で確認するかのように、小さな声で早口に続けた。
「うん・・・それしかないだろな。『離人症』は自分に必要なことだから起きているんだってことをキチンと自分で認めてやって、『ちゃんと離人症になる』こと。」
電話での会話は、その後まもなく終わったと思う。体調の良くない彼女は話すことに疲れているようだったし、私は私で、言われたことを自分なりに考えてみたかった。その後何日も、私は「ちゃんと離人症になる」ことのイメージを、自分の中で探していたような気がする。
実はその後、彼女の体調その他は、さらに良くない方に向かっていったらしいことを、ごく最近になって本人からの電話で知った。「人間にしか興味が無い」と本気で言っていた彼女が「人に会いたくない・・・。」と絞り出すような声で言うのを聞いた時、或いは「私は身体的にだけじゃなくて、精神的にまで壊れてしまったのかと、自分でも思いかけて・・・。」といった言葉に出会った時、私はこれまでに感じたことの無いような衝撃を受けた。彼女の持ち前の明るい口調は、それまでと殆ど変わっていなかったから余計にショックだったのかもしれない。
私にとって、彼女の苦しさは決して他人事ではなかった。若い頃、彼女と私はお互いに、それほど性格的に似たものを感じてはいなかったけれど、各々の人生が進むにつれて、お互いの中にある「どこか共通するもの」が、少しずつ見えてきたような気がしていたところだった。
人間たちの作るこの世界で、人々の間に自分をオープンにして人間関係を築くような生き方をする人は、やはりその「人間」によって、一番傷つくものなのだと改めて思った。彼女の体調の悪さに加えて、人の言葉、視線といったものが、彼女をどれほど苦しめたかを、目の前で見ているような気がした。
胸が詰まって、私は一瞬、物が言えなくなった。
そして、同時に気づいた。
「そうか・・・離人症なんていう、特別なシールドをいつの間にか張っていたお陰で、私はこの人のように人間の世界で受けるはずの傷を受けずに、ここまでたどり着くことが出来たんだ。」
ふと、私の頭の中に、透明な薄いタマゴのカラのようなものに包まれて、空中をフワフワ漂うように動いていく自分の姿が浮かんだ。
薄いけれど丈夫なシールド。せめて自分の体くらいは、全部がその中に在ってほしいと。
私は長い間自分の体、というか所謂「首から下」を、殆ど省みることが無いような生き方をしてきた気がする。私にとって自分とは、頭の中で小さく小さくなっている存在だった。でも、「タマゴのカラ」をちゃんと装備するつもりになったら、もしかして、体の端っこまで自分として大事に出来るようになるかもしれないと。
彼女の健康状態が少しでも良くなることを、私は祈っている。私は信仰などというものとは全く無縁の人間だけれど、これまでの人生の間にいつのまにか、「祈る」くらいしか自分に出来ることは無いらしいと思うようになっている。
今回、彼女が教えてくれたことが、どれほど私にとって大きなことだったかを、せめて本人にだけでも伝えたくて、私はこの文章を書いたのだということにも、ここまで来て漸く気がついた。
そのうちの1人とは、卒業後の一時期、ほとんど「運命共同体」?とでもいうような生活をした。お互いに既に結婚していたにもかかわらず、毎日のように顔を合わせ、私が2度目に入院する際はわざわざ付き添って来てくれて、しかも入院する本人と間違えられ、私の方が付き添いだと思われてしまったという、気の毒なエピソードまである。実際、私も彼女も、あの頃はどちらが患者と思われても不思議じゃない・・・というような毎日だった。現在の彼女は、そういう過去を想像するのも難しいくらい元気でタフな社会人になっているので、本人は全部忘れてしまったかもしれないけれど。
もうひとりは、このブログでも時々「精神科医の友人」として登場する女性だ。現在は病院勤務ではなく、カウンセリングのクリニックを開業している。そして今回の話は、この友人との電話での会話が関係している。
そもそもの発端は、夕食時テレビのニュースで、日本では最近中年男性の自殺が多いといったことを聞いて、家族の間で話題になったことだった。台所に立っていた私は、ふとその時思いついた言葉をそのまま口にした。
「自殺は男性が多い・・・。でも女性は、私の周りを見てると、なんかワケノワカラナイような病気を発症するのよね・・・。」
皿を運んでいた上の息子が、考え考え言った。
「えーっと、慢性疲労性症候群に化学物質過敏症。うつ病もあるね・・・。」
そして、本当に無邪気な口調で訊いた。
「おかあさんは何なの。」
突然のことだったので、私は驚いた。それでもほんの1、2秒の間、真剣に考えた。私(の「病気」)のことをひと言でいおうとするなら、一体どういう言葉が当てはまるのだろうか・・・。そして、そんな言葉を自分が見つけられないことはすぐに分かったので、なぜか胸を張って、その時閃いたとおりに口にした。
「私のはナマケ病よ。」
息子は笑い出して、それでも本人がそう言うのならそれもステキだといったフォローをしてくれた。
その場の会話はそれで終わった。しかし、この時自分がほとんど即座に答えた言葉は、私の記憶に強く残り、その後「精神科医の友人」が電話をくれた際、単なるお喋りとして、私は彼女に話した。
彼女は面白そうに聞いていたけれど、それについては何も言わなかった。
実は、その時彼女が電話をくれたのは、彼女の側に私に話したいことがあったからだった。彼女は、この歳でこういう事をあまりヒトには言いたくないけれど、あなたは経験者だから言っても構わないかなと思って・・・と前置きして、話し始めた。
「私、この間『解離』を初めて自分で体験したのよね。」
「解離」という言葉も少しずつ世に知られるようになってきた。モンゴル出身の横綱の診断名が「解離性障害」だったりして、心理学に興味は無くても、なんとなく分かるというヒトが増えているかも知れない。
「解離性障害」を検索すると「心的外傷への自己防衛として、自己同一性を失う神経症の一種。自分が誰か理解不能であったり、複数の自己を持ったりする。」などという説明にぶつかる。(今は精神科領域の分類が変わって、「神経症」という診断名自体は無くなってしまったらしいけれど。)
彼女の経験した「解離」というのは、遠くの病院を受診した後、帰宅のため高速道路を運転している途中で起きたという。
「ハンドルを握っている自分の手辺りまでは、確かに『自分』だという感じがするんだけど、そこから周囲に向かって『自分の居る現実の世界』っていう感じがしなくなってるの。」
「それでも家の近所というかいつもの自分の生活圏に帰ってきたら、非現実的な感じも消えていくのが分かった。『解離』の始まりと終わりが、自分ではっきり分かった。」
「それで、おたくみたいに『慢性的』に続くのを経験してる人の場合はどんな感じなのか、ちょっと訊いてみようと思って・・・。」
私は過去、入院・通院を通じて数人の精神科医と出会った。診断名もその度に違っていた。若い頃は「ボーダー・ライン」、「非定型精神病」などと言われた記憶があるが、2度目の入院の後、精神科の治療を受けるのを止めた。自分は「医療の対象」ではないのかもしれない・・・と、自分なりに思うところがあったからだ。初めて京都で入院してから3、4年後のことだったから、その後の25年くらいを、薬もカウンセリングも全く無しで暮らしてきたことになる。
40代の初めの頃、子どもの幼稚園への送り迎えがあまりに辛く感じられるので、「気力が湧かなくて本当に困っている」ことを訴えて久しぶりに精神科を受診したら、そのとき困っていた「うつ」のことだけを話したので「双極Ⅱ型のうつ病」と言われた。治療にはリチウムを使うことになるが構わないかと医師にわざわざ訊いてもらえたので、帰宅後家族と相談して、その時も結局薬物治療は諦めた。私は過去、精神科の薬を使うと、ほとんどいつも「ごく僅かの量で副作用が出てしまって、必要な量を使うことも出来ない」と医師に言われていた。アレルギー体質でもあり、家族も「リチウムはチェックしながら使っても、突然重い副作用が出たりするから、あなたの場合、そこまでしない方が良いのではないか。」と言ったのだ。
長々と私の病歴を書いた。もう30年近い歳月のことなので、今更どう書いて良いのか分からないような、要するにどうでもいい話なのだけれど、先の話に戻ると、私は大学を卒業して最初の入院をするよりもはるか昔から、一つだけ、「周囲の人と自分は、ここだけは違っている(らしい)」と自覚していることがあった。それが「離人症」、彼女が言ったところの「慢性的な解離症状」だった。
「離人症」を検索してみると、「『自分の意識や自分の身体が現実感を失う』という離人感と、『自分のまわりのものを奇妙な異物として感じる』という非現実感」で「実際には2つが重なって起こることが多く、厳密には区別できないのが一般的」といった説明に出会う。
要するに、自分の手足が自分のものという感じがしなくなったり、見えているこの世界に(実際には居る筈の)自分が所属していないような感じがしたりする。症状が強くなると、なんだか自分がすごく小さくなってしまって、頭の中に存在して、自分の手足を機械か何かのように操縦しているような感じまでしてきたりする。
例えば目の前のテーブルがどうしてもそこにあると感じられなくて、自分の手でバン!と叩いてみても、触っているという感覚は(私の場合は)あるのに、なぜかそれが自分の手という感じもテーブル自体の存在感も湧かないまま・・・といった具合なのだけれど、経験したことの無い人にはやはり想像しにくい感覚かもしれない。
「思春期から青年期にかけて生じやすく、40歳以上にはめったにみられません。」などという説明もあるくらいだが、それにしても、私は始まりが非常に早かったと思う。まだ学校に行かない年齢の頃から、時々、自分の周りの人々の様子が映画か何かのように見えたのを覚えている。なんだか私と全く関係の無いものを見ている感じがして、しかもそれが薄っぺらで、三次元というよりは正に二次元という感じだった。(勿論、当時の私がこういう言葉を知っていた訳ではなく、後になってそのときのことを思い出してみると、そういう表現になるというだけのことだ。)なぜか、幼稚園の園庭で皆が遊んでいるのを見ている時に、いつのまにかそうなっている・・・といった具合に、人がたくさん居る場所で起こりやすかった気がする。
当時の私は、誰でもそうなるのだ・・・とでも思っていたのだろうか。別に苦痛を感じることも無く、現実感があったり無かったりすることを、当然のように受け入れていたと思う。違和感を感じるには幼すぎたのかもしれないし、遺伝性の近視で、モノが裸眼ではっきり見えた記憶が無いくらいなので、そもそも視覚的に普通じゃなかったということかもしれない。
小学生になると、自分の手が自分の物じゃないような感じにも気がつくようになっていた。4年生の夏休み、祖父母と両親が揉めていた頃、畳に寝転んで自分の両手をずっと見ていた記憶がある。時折、風が吹くとそれは肌に感じられるのに、自分の手は何だか見たこともない道具のように見えた・・・。
ただ、そんな時でも、私は離人感を苦痛には感じなかった。私の感じていたのは自分はひとりきりだ・・・という漠然とした思いだけで、それが何から来ていようと、子どもの私には関係なかったのかもしれない。そもそも、自分が切り離されて辛いと思うような関係の人は、当時既に、家族の中にさえ居なかった気がする。
私の離人症状は、強まったり弱まったりしながらその後も続き、今に至っている。以前にこのブログでも少し書いたように、50代になって漸く、薄らいできたのを自覚したけれど、私にとって離人症というのはあまりに当たり前の感覚なので、これまでに自分でもあまり問題にしてこなかったと思う。精神科の医師からも「離人症はあまり気にしない方がいい。自分を守る役目を果たしている面があるから。」といった意味のことを言われ、逆に「そうか、気にする人もいるんだな・・・。」などと思ったりした。
実は今回、この文章を書くために離人症に関するサイトをいくつか覗いてみて、人がどれほどそのために苦しむかを初めて知り、ほとんど呆気にとられた。そして、ふと、自分が若い頃感じていた、あの世界に自分ひとりしか居ないような、周囲の人々は皆自分とは異なる生き物のような、言いようのない孤独感、自分と同じ生き物のいる星から、誰かに迎えに来て欲しいと本気で祈るような、焦がれるような淋しさの基には、この「離人症」も関係があったのかもしれない・・・と初めて思った。実際は、孤独感が離人症を育んだのかもしれないのだけれど。
友人との会話に戻る。彼女はここ数年、体調が思わしくない様子だった。生命には関わらない「小さな外科手術」後の経過も順調とは言いがたく、重症の更年期障害で「自分の体が自分のものとは思えないほど、予測不能の反応をする」毎日が続くうちに、だんだん精神的にも疲労が溜まっていったのは当然だったのに、愚痴を言う人ではないので、独特の明るい喋り方もあって、私は心配しながらも、どこかで彼女の現状を甘く見ていたのだと思う。だから、「解離を体験した」という彼女の言葉には本当に驚かされた。
「この歳で『解離』なんて、何だか思春期の女の子みたい・・・。」と、彼女はいかにもイヤだなといった口調で言ったので、中年期以降に、例えば「離人症」などが起きることはないのかと訊ねてみると、「あるよ。」とあっさり答えた。数は少ないけれど、無いわけでもないらしい。ただ普通は、「大人としての人生を生きて来た実績やそこから来る自信が誰でもある程度備わっているものだから、自分以外の『世界』の方を自分から切り離して身を守ろうとまでは、しなくて済むのよ。」だとか。
それから彼女の方の話を色々聞いた後で、どうして他の人たちはあんなにタフなんだろう・・・などと言い合っている時、単なる近況報告の一つとして、私は上の息子との会話を彼女に話したのだ。
こういう時、彼女は「ナマケ病」というわたしの言葉を文字通りには受け取らないことが分かっているので、私は安心して笑い話のように話すことが出来る。世間一般で使われる「怠け病」という言葉の持つ毒の強さは、言われたことのある人でないと分からないと思うくらいの物凄さで相手を傷つけるけれど、今の私が自分に対して使うのは、大抵の場合自虐的な意味合いは無く、「それがどうした?」気分に満ちているのを、息子同様、彼女も理解していると思うからだ。
ただ、この時いつもと違っていたのは、私がプロとしての彼女に「質問」をして、さらにその後「アドヴァイス」まで求めたことだった。
私は、心理の専門家としての彼女の意見を求めたことは、これまで無かったと思う。私と彼女は、普段は、女子学生だった頃のように話をしている。元々「人に相談する」という習慣が私に無いのと、彼女から見て私はクライアントでも何でもない、古くからの親しい友人なのだということがよく分かっているつもりなので、彼女にアドヴァイスを求めるとしたら、真冬に甥の結婚式に出席するとしたらどういう服装がいいと思う?といった程度のことになる。そして、実際はそれすらごく稀なことなのだ。
そんな私が、この時ふと、彼女に訊いてみたくなったのはなぜだったのだろう。
「ねえ、私の『うつ』は一体何なんだと思う?」
意外といえば意外なことには、彼女は別に驚きもせずに、淡々と、どちらかというと早口な喋り方で答えてくれた。そしてその答えは、私には全く予想外の内容だった。
「おたくの場合は、土台にあるのは『離人症』だと思う。」
それまで彼女の体験した「解離」の話を聞いていたにも拘らず、私は本当に驚いた。
「・・・離人症とうつなんて、関係あるの?」
彼女はちょっと丁寧な口調になって、細かい説明をしてくれた。
「私も今回経験してみて感じたけど、『離人症』って現実の世界と自分との間が上手く繋がらないってことだから、かなりそこでエネルギーを食われると思う。当然、『うつ』は出て来ると思うよ。」
私は、確かめるために念を押すように訊いた。
「離人症って、神経症の領域のものなんでしょ?」
彼女は、やはり淡々と答えた。
「そう。だから薬で治るっていうようなものじゃなくて、『生き方』の問題。」
私は言われた内容に本当に驚いていたにも関わらず、この時の彼女の説明が、かつて私を診察してくれたどの医師の言葉より、「腑に落ちる」感じがしたのだと思う。
だからこそ、そのまま、さらに訊いたのだ。
「そうかあ・・・それなら、この先どうしたらいいんだろ。」
彼女はあっさりと答えた。
「ちゃんと離人症になるのね。」
そして、あたかも自分の中で確認するかのように、小さな声で早口に続けた。
「うん・・・それしかないだろな。『離人症』は自分に必要なことだから起きているんだってことをキチンと自分で認めてやって、『ちゃんと離人症になる』こと。」
電話での会話は、その後まもなく終わったと思う。体調の良くない彼女は話すことに疲れているようだったし、私は私で、言われたことを自分なりに考えてみたかった。その後何日も、私は「ちゃんと離人症になる」ことのイメージを、自分の中で探していたような気がする。
実はその後、彼女の体調その他は、さらに良くない方に向かっていったらしいことを、ごく最近になって本人からの電話で知った。「人間にしか興味が無い」と本気で言っていた彼女が「人に会いたくない・・・。」と絞り出すような声で言うのを聞いた時、或いは「私は身体的にだけじゃなくて、精神的にまで壊れてしまったのかと、自分でも思いかけて・・・。」といった言葉に出会った時、私はこれまでに感じたことの無いような衝撃を受けた。彼女の持ち前の明るい口調は、それまでと殆ど変わっていなかったから余計にショックだったのかもしれない。
私にとって、彼女の苦しさは決して他人事ではなかった。若い頃、彼女と私はお互いに、それほど性格的に似たものを感じてはいなかったけれど、各々の人生が進むにつれて、お互いの中にある「どこか共通するもの」が、少しずつ見えてきたような気がしていたところだった。
人間たちの作るこの世界で、人々の間に自分をオープンにして人間関係を築くような生き方をする人は、やはりその「人間」によって、一番傷つくものなのだと改めて思った。彼女の体調の悪さに加えて、人の言葉、視線といったものが、彼女をどれほど苦しめたかを、目の前で見ているような気がした。
胸が詰まって、私は一瞬、物が言えなくなった。
そして、同時に気づいた。
「そうか・・・離人症なんていう、特別なシールドをいつの間にか張っていたお陰で、私はこの人のように人間の世界で受けるはずの傷を受けずに、ここまでたどり着くことが出来たんだ。」
ふと、私の頭の中に、透明な薄いタマゴのカラのようなものに包まれて、空中をフワフワ漂うように動いていく自分の姿が浮かんだ。
薄いけれど丈夫なシールド。せめて自分の体くらいは、全部がその中に在ってほしいと。
私は長い間自分の体、というか所謂「首から下」を、殆ど省みることが無いような生き方をしてきた気がする。私にとって自分とは、頭の中で小さく小さくなっている存在だった。でも、「タマゴのカラ」をちゃんと装備するつもりになったら、もしかして、体の端っこまで自分として大事に出来るようになるかもしれないと。
彼女の健康状態が少しでも良くなることを、私は祈っている。私は信仰などというものとは全く無縁の人間だけれど、これまでの人生の間にいつのまにか、「祈る」くらいしか自分に出来ることは無いらしいと思うようになっている。
今回、彼女が教えてくれたことが、どれほど私にとって大きなことだったかを、せめて本人にだけでも伝えたくて、私はこの文章を書いたのだということにも、ここまで来て漸く気がついた。
生存確認できてよかったぁ~(笑)。
離人症とは異なりますが、『ラブ&ポップ』という映画を思い出しました。
援助交際をしている十代の女の子が、とても傷ついているのですが、自分の傷の深さに自覚がなく、一見傷ついているようには見えないのです。外界と彼女を隔てる薄い皮膜のようなものがよく描けていた映画でした。
これも自己防御の一つなのでしょうね。
9月は見たい映画がいっぱいです。
ムーマさんも?
『ラブ&ポップ』はタイトルだけしか知りませんでした。面白そうですね。どこかで出合ったら観ようと思います。
そういえば、私もようやくシネコンのフリーパスがもらえるようになったんですが、なにしろカタツムリ生活なので、その後ずうっと放ったらかし。
夏休みも終わったことだし、そろそろ・・・と思うんですが、本当に「9月は観たい映画がいっぱい!」で、なんだか自主上映だけで、またまたオナカが一杯になってしまいそう。
いつもながらに、もうちょっと大きい胃袋!(と速い足?)が欲しい今日この頃です(笑)。
お節介なおやじと思われるコトを覚悟でまた書き込みいたします(;_;)
まずこの文章を読んでイメージしたのは【柳澤桂子】さんという科学者です
柳澤さんの著作に般若心経を読み解いた《生きて死ぬ智慧》という本があるのですが読まれてはどうでしょうか。(小学館より)《スデニオヨミデショウカ(`ヘ´)》
現在の柳澤さんは症状に適応したお薬との出逢いで大分お元気のようですが、、、、、、、、
柳澤さんも、永年原因不明の病を患い苦しまれた方です‐‐‐‐‐数多の医師の診断を受けたそうですが、更年期の所為だとか様々な神経症の病名を医師から言われたそうです。
そんな柳澤さんがベッドの上で耐え難い苦痛と闘い、天使と握手することなく自信のこころのヒダを解すように深淵な思索のコトバを綴ったものが ‐生きてしぬ智慧‐です。
この本は宗教学の専門家でも唸る内容だそうです。残念ですが、私はなかなかコトバが身体にはいって来ないのですが、元々はサンスクリット語ですので(*^o^*)、、、、、、
でも、もう長い年月のことで、私にとってはアイデンティティーの一部?になっているかもしれないようなコトなので、大丈夫です。
柳澤桂子さんのご本は、まだ読んだことがありません。ただ、私の姉がよく読んでいました。
姉は、柳澤さんとは種類は違うと思いますが、やはり長年、検査入院してもワカラナイ難病で苦しんできた人なので、深く共感するところがあったようです。
「般若心経を読み解いた・・・」となると、私にはわからないかもしれませんが、図書館に行った時に、ちょっと探してみようと思います。
ただ、私は、精神的エネルギーが常時不足している人種なので、「アタマを使う」文章には、ソモソモ歯が立たないかもしれません(笑)
ステージは4.2といったところでしょうか》》》》》》
故に転職を幾度も経験しております。
私は妻帯したこともありませんし子供もおりませんのであなたのような苦悩や=ヤルセナサといつた挫折を体験したことはないのでこの齢まで生きてこれたのでしょう(還暦までモウイクバクカ)~(´⌒`q)
あなたは、お子様も立派に育て上げられたご様子...........それだけで尊敬に値します。
人間も生きものですから生物の第一合目的事項は次の世代にイノチを繋げるというコトです
あなたは家族という枠組みの中で存在し次のGENERATIONと健康な関係をもっているのですから、それだけで私以上です
自分の意志でそういう生き方をしてきたにもかかわらず、世の中から離れて、温室の中に庇われて生きていることに、若い頃からずっと、ある種の後ろめたさを感じてきました。
もう一度人間に生まれることがあったら、そしてその時の私にはそれが出来るなら、K:Tさんのように、「仕事」をする(自分で食べていく)人生をやってみたいと思っています。
私には身体的・精神的「体力」も足りませんでしたが、一番不足していたのは「勇気」だったと、今でも思っているからです。
躁鬱病と自己診断しておられるK:Tさんが、あちこちの職場で働いてこられた・・・というのは、大変なことだと思います。立派です。
一方、私は子どもを「育てた」という自覚はなくて、子どもは結局「自分で育った」という印象です。
私自身は傍で彼らの恩恵を受けている(コレは本当!)と感じることが多々あり、そういう意味では、子どもはとても私の「役に立ってくれた」のに、私は彼らの役に立ったのか、はたまたさんざん迷惑ばかりかけたのか・・・本人達に訊いてみないとワカリマセン。
(それでも、私は彼らと一緒に暮らせるのがとてもシアワセだと思っています。)
人生はひとりひとり、ほんとにオリジナルなものですね。他と比べることなんて出来ない・・・。
まとまらなくて、お返事になっていませんが、取りあえず、「励まして下さってどうもありがとうございました(笑)。」
ところで、一つ質問が・・・。「デガラシカコミ」って、何ですか?
大した意味ハアリマセン〓 要するに内容の無いカスみたいなものということです・・・・・・(´⌒`q)
でも、「カコミ」って何かな~なんて、つい思っちゃって・・・困ったモンです(笑)。