書き始めたら止まらなくなった「ひとこと感想」その6。
「若い頃に家を出て行かざるを得なかったゲイの男性が、作家として成功した後12年ぶりに帰郷する。それは34歳の自分の余命がすでに長くないコトを、家族に告げるためだった・・・」
実は映画を観ている間、あまりの騒々しさ!に、この家でこの主人公が暮らすのはそのことだけでも無理だっただろうと、私は妙な納得をした。ゲイであることが問題になって、主人公は家を出たことになってるみたいだったけれど、私から見るとそれ以前の問題だ。(私だってこの家では到底やっていけない。そもそも居られる場所がない・・・)
物語の細部は覚えていないけれど、「ずっと昔に家を出ていった父親」も、この騒々しさについていけなかったのかもしれないと思った。母親とは全く似てないように見えるこの主人公は、もしかしたら父親似なのかも。だから、昔父親と一緒に暮らした家に行ってみたいと最初から言っていたのかも・・・などなど、色々想像させられたほどの「喧騒」(というか家族の言い争い)。しかもそれは、この家では「日常」らしいのだから。
もちろん、家族(母・兄・妹)には一人一人、その人なりの言い分があるのが透けて見えるし、それぞれ(ある程度は)私にも理解できる。それでも、ごく当たり前に会話ができるのは初めて会った兄嫁だけ?で、元々の家族は、1対1ではともかく3人目が現れた途端に、相手の言うことに耳を傾けるような姿勢は皆無!になってしまうのだ。
言葉によるコミュニケーションどころか、それ以外の方法もあり得ないように、私などは感じてしまう。相手に少しずつ近づき、「理解」に至ろうとする「取っ掛かり?」が、なかなか見つからない。なんとかしようと色々試みて、でもその後は途方に暮れて、結局諦めてしまう・・・そんな成り行きだけが浮かぶ。
家族は一体、何にそんなに怯えているのだろう。(主人公がゲイであることが、そんなにオソロシイのだろうか)
見たくない。聞きたくない。主人公が言わんとしていることを「知りたくない!」と全身で表現しているかのような兄や母親を見ながら、「これじゃあ、(家族に病気のことを告げるのは)無理だろうな・・・」と観客の私の方が先に思ってしまった。
映画には(確か最初と最後)主人公が友人(現在のパートナー?)と話す短いシーンがある。
私はその静かさ、穏やかさに感動した。そういう世界で暮らせるに至った主人公のこれまでの人生を、それがどんなに傷つくことの多い、苦労の連続だったとしても、「本当に良かったね」と言いたくなったくらい。
血縁で繋がる「家族」は、その人の丸ごとの「過去」そのものでもあるけれど、手ざわりを確かめたり、気持ちよく触れることができるようなだらかにしたりすることが、時間が過ぎたからといって、必ずしも出来るとは限らない・・・それは、私も(経験上)思い当たるところがあるけれど、34歳の若さで死を目の前にして、その現実を突きつけられるのは、やっぱり可哀想だとも思った。
これまでに観たドラン監督の作品同様、この映画も重たい内容と判っていたので、私は最初、観にいくのが正直億劫だった。物語の内容についてだけでなく、なんというか・・・私は、スクリーンから迫ってくるこの人の自己愛?の強さ、重さ、その感触が、息苦しくて苦手なのかもしれない。
実際、観た直後は「やっぱり好きになれないなあ・・・」なんて思ったのだけれど、今ここまで書いてみて、その後半年の間に気持ちが少し変わってきているのに気づいた。「言いたいこと」「作り出したい世界」が明確にあり、しかもそれを表現することを「本当に必要としている」作り手のことを、私はやっぱり嫌いにはなれないんだな・・・とでもいうような気分になっている自分に驚いている。
「好きじゃない」という感覚を、年齢と共に、私は大事にするようになっている。最初から気に入る、相性がいいと感じる作り手よりも、「好きになれないなあ」という人の方が、時間と共に私にとって重要な存在になるのを、これまでに何度も経験してきたからだと思う。
グザヴィエ・ドラン監督も、いつかそんな一人になるのかもしれない。今のところは「なんだか気が進まないなあ」という相手だとしても。(なあんて、随分上から目線の言い方してるなあ→自分)
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