以前『死ぬまでにしたい10のこと』という映画を観て、その甘ったるいような妙に苦いような、曰く言いがたいイヤな後味に懲りて、同じ監督、同じ主演女優、似たような邦題、そしてよく似た雰囲気のチラシ・・・という、この『あなたになら言える秘密のこと』は観に行かないつもりだった。ところが、あるブログで観た方の感想を読み、ふと気になって観に行ってしまった。私のこういう勘は、なぜか(私自身にとってだけ)よく当たる。この映画は、客観的な評価はともかく、私にとっては観に行くだけの値打ちがある作品だった。この3週間、私はひとりの時にはほとんどいつも、この映画の周辺で考え事をしていたような気がする。
この小さな(と、監督自身がどこかで言っていた)、どこか可愛らしくさえ見える映画にどうしてそこまで考えさせられたのかというと、ひとつは観た時期、私にとってのタイミングの問題だったのかもしれない。
例によって、少し元気だったり家から出られなくなったりを繰り返しながら暮らしていると、時には「本を読むしか、他に出来ることが無い」ような状態が何日か続くことがある。そういう時は、元気な時にはかえって落ち着いて読むことが出来ずに「積んである」本の中から、適当に選んで読み始める。エネルギー不足で歯が立たなければ、さっさと諦めて他の本を手に取る。けれど、他の事をすべて諦めて読むことだけに掛かっていると、自分がいつか読みたいと思って「積んである」程度のものは読めることが多い。
という訳で、私は当時『チェチェンーやめられない戦争(アンナ・ポリトコフスカヤ著)』、『誓いーチェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語(ハッサン・バイエフ著)』といった本を読んでいる最中だった。ただでさえエネルギーの足りない時に、何もそんな深刻そうなモノを読まなくても・・・と人には思われそうだけれど、私にとってウツは日常的なことなので、読める時に読めそうなモノを読むだけのこと。面白そうなミステリーやファンタジー作品があれば、当然そちらを先に読む。たまたまその時には、軽い本は読み尽くして手近に無かったのだ。
ロシア国内の片隅で長年にわたり続いている、所謂「チェチェン紛争」の現場を実際に知る人たちの証言の数々。よりによって、そんなものを覚束ない頭でノロノロと読んでいる最中に、わたしはこの映画に出会った。
ずいぶん妙なタイミング・・・というのも、戦争、それも宗教その他の絡む「民族浄化」(という言葉でいいのだろうか?)といった要素を孕む「内戦」状態というのは、私のちっぽけな想像力など消し飛ぶほどの現実であるらしいことを、私はその2冊の本で思い知らされた気がしていた。だから、例えば『ホテル・ルワンダ』ならともかく、この『あなたになら言える秘密のこと』という、旧ユーゴの内戦時に受けた凄惨な暴力による心の傷に苦しむ若いクロアチア人女性のその後を、どこかオトギバナシのようにさえ感じられるタッチで描いた作品を、自分がどう受け取っているのか、自分でもちょっと測りかねたのだと思う。
2冊の本は、現実そのものを客観的に正確に記すよう、それぞれ最大限の努力がなされているのが感じられ、マスコミに無視されるのみならず、事実無根の報道さえされているというチェチェンの現実を、少しでも多くの人に知ってもらいたいという、強い願いの下に書かれているのが私にもよくわかった。前者を書いたロシア人の女性ジャーナリストは、その後まもなく殺されている。後者はチェチェン人の医師本人が書いたものだけれど、野戦病院でロシア人もチェチェン人も同じように治療したため、双方から命を狙われることになった著者は、亡命先のアメリカで故郷へ帰る方法が無いまま、戦時の身体的・精神的な後遺症に苦しんでいる。
一方映画の方は、戦時の拷問被害に取材してはいても、クロアチア戦争そのものを扱う意図は監督には無いとのことで、あくまで「深い精神的な傷を抱え、生きる方向が見出せず、他者との関わりを絶って辛うじて生きている女性が、もう一度自分の人生を見出す物語」つまり、より一般的なテーマを描くフィクションの作品だ。同列に並べること自体、そもそも不自然なことなのに、なぜか私の頭の中で2冊の本とこの映画とは並んで存在していた。
この「小さな映画」になぜ自分がこれほどこだわるのか・・・と考えているうちに、映画の主人公であるハンナの「無表情」が私を捉えているのだと気がついた。
この映画の中で、私はハンナの3種類の「無表情」を見た。
ひとつは最初の頃の、補聴器のスイッチを切って工場内で黙々と毎日作業をこなし、時間潰しと人との関わりを避ける目的で、バスの中でまで完成させるつもりのない刺繍を続ける、あの固い鎧を纏った「無表情」。次は、上司に半強制的に取らされた「休暇」の後、また工場での仕事に戻ってからの、どこかほんの少し肩の力の抜けたような淡々とした無表情。このふたつの「無表情」は一見似ているようで、なぜか私の眼には全く違う表情に見えた。「休暇」の間にハンナがどれほど変わったかを、そっと教えてくれるような表情の変化だと思った。
そして3つ目の、家庭を持ち、家族がたまたま家に居ない日曜の朝のひとときに、かつて心の中のパートナーだった「女の子」が久々に会いにやって来る・・・その時、美しく整えられたキッチンにひとりで坐る、彼女の横顔に浮かぶ独特の静謐さを湛えた「無表情」・・・私にはその3番目の「無表情」が、とても強く印象に残ったのだと思う。
映画としては、この作品はハンナの2番目の「無表情」までで完結していてもいいのではないかと、最初私は思った。それなのに、傷が癒え、視力を取り戻したジョゼフは、わざわざハンナを担当したカウンセラー(実在の女性がモデルとのこと)を訪ね、カウンセラーもまた守秘義務を破って、ハンナの写真を渡したりする。ジョゼフはハンナの残したデイパックを届けに彼女の職場を訪れ、仕事を終えて出てきた彼女と再会する・・・という風に、物語は続いていく。
所謂ラヴ・ストーリーとしては、珍しくない成り行きなのかもしれない。けれどハンナの抱えていた「秘密」というのは、そんなありふれたものではなかった。(ジョゼフに打ち明けたハンナの体験の凄惨さは、私の眼にはこの映画全体の雰囲気とは不釣合いにさえ見えた。)
絶海の孤島のような、事故で休業中の油田掘削所という特殊な環境。そこに世界各国から集まってきた、ちょっと風変わりな、でもハンナには優しい、「ひとりでいたい」人々。そして、自分が親友の死を招いたのだという自責の気持ちを表に出さず、一時的な失明状態と骨折や火傷の痛みに耐える中で、それでもユーモアでハンナとコミュニケーションを図ろうとするジョゼフ・・・。
そういったさまざまな要素があって初めて、ハンナは(もしかしたらカウンセラーにも詳しくは話さなかったのかもしれない内容の)「秘密」を、彼女を傷つけ苦しめた人々の中にいた国連軍兵士たちと同じ外見、同じ言語のジョゼフに打ち明ける決心をする。そこに至るまでのひとつひとつのエピソードが丁寧に描かれているにも拘らず、それは、私にはほとんど奇跡のように感じられる光景だった。
だからこそ余計に、映画の最後の部分が、まるで「おとぎばなし」ででもあるかのように見えるのが、最初ちょっと不可解に感じられ、残念な気がした。
映画全体としては、(この監督の好みなのか、意図的に)メルヘンというか、どこか視覚的に可愛らしい雰囲気があるため、ハッピー・エンドの不自然さが逆に目立たなくなっているようにも見える。けれど、そもそもこの結末が本当に所謂「ハッピー・エンド」なのかどうかも、実は私にはよくわからなかったのかもしれない。
最後のシーン、ハンナの心の中だけにいる、おそらくは「秘密」を抱える以前の、明るく屈託の無かった「もうひとりの自分」である「女の子」は、ナレーションで、今後はもう自分がハンナに会いに来ることは無くなるだろうといった意味のことを語る。けれど、私にはその「女の子」の言葉はほとんど聞こえていなかったと思う。私はただただ、眼を伏せて、自分の内側だけを見ているかのようなハンナの横顔、あの3番目の「無表情」から眼が離せなかったのだ。
私はああいう表情に、見覚えがあるような気がするのだと思う。
実は遠い昔、私は、ハンナが会いに来たジョゼフに向かって叫んだのとよく似たことを、自分でも思いつめていた記憶がある。「私の中のどこかには、大量の涙が溜まったままになっていて、私は既にその中で溺れかけている。もしも誰かに心を許したら、私はその人に縋りついてしまうだろう。相手はその重さに耐えかねて、私のように溺れてしまうのではないか・・・。」或いはその前に、私という重荷を切り捨てざるを得なくなるだろう。それが出来ないほど優しければ、そのうち寧ろ私を憎むようになるかもしれない・・・などと。
私は好きになった相手には何も言えず、近寄ることも出来ないままだった。その後、私という人間の内面には決して踏み込んでこない、だからこそ「おそらくは共倒れにはならないであろう」相手と一緒に暮らすようになったけれど、今振り返ってみると、それが良かったのかどうかも、本当のところはよくわからない気がしている。
「大量の涙」というのは、溢れ出すとなかなか尽きない。それでも、流れ出した分だけ少しずつ少しずつ、本人の身体は本来の軽さを取り戻していくのだとは思う。ただ、それには信じられないくらい時間がかかる。しかも、流れた分の空洞が残ったりもする。その空洞は、また少しずつ、何かもっと良いもので塞がっていくといいのだけれど、時としてそれでも「透き間」のようなものが残るのだと思う。
私は、ハンナの3番目の「無表情」と共通のものを感じさせる私自身の写真を、過去に見たことがある。まったくの偶然だけれど、私もその頃幼い子ども二人の世話に追われていて、そんな忙しさの中、自分では気づいていない時に写された写真だった。珍しく眼鏡を外して、ひとりだけで、膝を抱えて放心しているような私の顔には自分でも見たことの無いような表情が浮かんでいて、見た時驚いた記憶が残っている。一種静かな、何と形容していいのかわからないような無表情。強いて言葉にするなら「空虚」とでもいうしか仕方の無いような、まるで写っているにも拘らず、私自身はそこには居ないかのような・・・。
私と暮らした人は長い年月の間に、そういう空洞や「透き間」を抱えた人間と暮らすことに疲れ、薄々その変わらなさにも気づき、虚しさのようなものを感じたのではないか・・・と、最近やっと私も思い当たった。たとえ涙の海に溺れてしまうようなことはなく過ぎても、そういう人間と共に生きるということは、当たり前と言えば当たり前のことなのだけれど、やはり「大変なこと」だったのだろうと。
この『あなたになら言える秘密のこと』という映画が、私から見て「どこか居心地が悪いオトギバナシ」のように感じられてしまうのは、先にも書いた通り、ハンナの「秘密」であるところの精神的な傷があまりにも深く、それも特殊というなら特殊な体験から生じたものであることから来ているのだと思う。ジョゼフの抱えている事情ですら大変なことなのに、ハンナの体験にはそれ以上のものがある。
実は、実際にハンナのような経験をした人がこの映画を観たら、一体どう思うのだろう・・・という疑問が、この作品を観てからずっと私の頭から離れない。監督はハンナのような人たちの存在を知ってもらいたいという意図もあって、この作品を作ったのかもしれないけれど、当事者の方がこれを観たら不愉快に思われるのか、それともいっそ微笑ましく感じられるのかも、私にはまったく判らないのだ。それくらい、実際の被害者の方たちのことを私は知らず、おそらくは想像することさえ出来ない。
しかし、あくまで私の感覚での話だけれど、この映画に何かリアルなものを感じるとしたら、それはもっと普通の人、たとえば私のようにごく些細な傷を持つ者のような気がする。だからこそ、主人公の女性の設定をもう少しだけ軽く?するか、或いはああいうハッピー・エンドは止めるか、とにかくもう少しどこかを変えた方が作品としてはバランスが良くなり、私としても、もっと違和感が少なく観ることができるようになると思う。
それでも・・・不思議なことに、実際は、私はあの結末が気に入っているのだとも思う。
考えてみると、私は小さい頃から、本やマンガや映画やアニメーションの中で「おとぎばなし」を食べて生きてきたのかもしれない。私にはそういうモノが必要だった。私にとって「希望」と「おとぎばなし」がほとんど同義語だった時代は、もしかしたらずいぶん長かったのかもしれないと、こういう映画を観ると改めて気づかされたりもする。
ふと我に返る。私はこんな長いものを書くつもりじゃなかった。
そもそもは、言語表現に長けているはずのジョゼフが訥々とカウンセラーに語った「彼女には僕が必要だ。いや、僕が彼女を必要としている。」、或いは去ろうとしているハンナに向かって必死で叫んだ「僕は泳ぎを覚える。きっとだ。」といった言葉、声、その表情が、どうしてこれほど見ていて辛く感じるのかを、ふと考え始めたのがきっかけだった。
それから既に1ヶ月、気がつくとこんなところまで来てしまっている。なんだか、知らないうちに遠くまで来てしまって驚いている子どものような気持ちになるけれど、それも無理ないのかもしれない。
・・・・・上手く言えない。ただ、私はこの歳になって、私の心のどこかに、本気で祈っている「女の子」がいるのを感じるようになった。
「世界中にいるはずの、たくさんのハンナ・・・そのひとりひとりの人生が、どうぞ、少しずつ少しずつでも開けていきますように。(そして、いつか、過去から自由になれる日が来ますように。)」
同情心とも倫理観とも違うところから来て、ちっぽけな一個人の中にいつのまにか住みついた、小さな女の子の願いなのだと思う。
この小さな(と、監督自身がどこかで言っていた)、どこか可愛らしくさえ見える映画にどうしてそこまで考えさせられたのかというと、ひとつは観た時期、私にとってのタイミングの問題だったのかもしれない。
例によって、少し元気だったり家から出られなくなったりを繰り返しながら暮らしていると、時には「本を読むしか、他に出来ることが無い」ような状態が何日か続くことがある。そういう時は、元気な時にはかえって落ち着いて読むことが出来ずに「積んである」本の中から、適当に選んで読み始める。エネルギー不足で歯が立たなければ、さっさと諦めて他の本を手に取る。けれど、他の事をすべて諦めて読むことだけに掛かっていると、自分がいつか読みたいと思って「積んである」程度のものは読めることが多い。
という訳で、私は当時『チェチェンーやめられない戦争(アンナ・ポリトコフスカヤ著)』、『誓いーチェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語(ハッサン・バイエフ著)』といった本を読んでいる最中だった。ただでさえエネルギーの足りない時に、何もそんな深刻そうなモノを読まなくても・・・と人には思われそうだけれど、私にとってウツは日常的なことなので、読める時に読めそうなモノを読むだけのこと。面白そうなミステリーやファンタジー作品があれば、当然そちらを先に読む。たまたまその時には、軽い本は読み尽くして手近に無かったのだ。
ロシア国内の片隅で長年にわたり続いている、所謂「チェチェン紛争」の現場を実際に知る人たちの証言の数々。よりによって、そんなものを覚束ない頭でノロノロと読んでいる最中に、わたしはこの映画に出会った。
ずいぶん妙なタイミング・・・というのも、戦争、それも宗教その他の絡む「民族浄化」(という言葉でいいのだろうか?)といった要素を孕む「内戦」状態というのは、私のちっぽけな想像力など消し飛ぶほどの現実であるらしいことを、私はその2冊の本で思い知らされた気がしていた。だから、例えば『ホテル・ルワンダ』ならともかく、この『あなたになら言える秘密のこと』という、旧ユーゴの内戦時に受けた凄惨な暴力による心の傷に苦しむ若いクロアチア人女性のその後を、どこかオトギバナシのようにさえ感じられるタッチで描いた作品を、自分がどう受け取っているのか、自分でもちょっと測りかねたのだと思う。
2冊の本は、現実そのものを客観的に正確に記すよう、それぞれ最大限の努力がなされているのが感じられ、マスコミに無視されるのみならず、事実無根の報道さえされているというチェチェンの現実を、少しでも多くの人に知ってもらいたいという、強い願いの下に書かれているのが私にもよくわかった。前者を書いたロシア人の女性ジャーナリストは、その後まもなく殺されている。後者はチェチェン人の医師本人が書いたものだけれど、野戦病院でロシア人もチェチェン人も同じように治療したため、双方から命を狙われることになった著者は、亡命先のアメリカで故郷へ帰る方法が無いまま、戦時の身体的・精神的な後遺症に苦しんでいる。
一方映画の方は、戦時の拷問被害に取材してはいても、クロアチア戦争そのものを扱う意図は監督には無いとのことで、あくまで「深い精神的な傷を抱え、生きる方向が見出せず、他者との関わりを絶って辛うじて生きている女性が、もう一度自分の人生を見出す物語」つまり、より一般的なテーマを描くフィクションの作品だ。同列に並べること自体、そもそも不自然なことなのに、なぜか私の頭の中で2冊の本とこの映画とは並んで存在していた。
この「小さな映画」になぜ自分がこれほどこだわるのか・・・と考えているうちに、映画の主人公であるハンナの「無表情」が私を捉えているのだと気がついた。
この映画の中で、私はハンナの3種類の「無表情」を見た。
ひとつは最初の頃の、補聴器のスイッチを切って工場内で黙々と毎日作業をこなし、時間潰しと人との関わりを避ける目的で、バスの中でまで完成させるつもりのない刺繍を続ける、あの固い鎧を纏った「無表情」。次は、上司に半強制的に取らされた「休暇」の後、また工場での仕事に戻ってからの、どこかほんの少し肩の力の抜けたような淡々とした無表情。このふたつの「無表情」は一見似ているようで、なぜか私の眼には全く違う表情に見えた。「休暇」の間にハンナがどれほど変わったかを、そっと教えてくれるような表情の変化だと思った。
そして3つ目の、家庭を持ち、家族がたまたま家に居ない日曜の朝のひとときに、かつて心の中のパートナーだった「女の子」が久々に会いにやって来る・・・その時、美しく整えられたキッチンにひとりで坐る、彼女の横顔に浮かぶ独特の静謐さを湛えた「無表情」・・・私にはその3番目の「無表情」が、とても強く印象に残ったのだと思う。
映画としては、この作品はハンナの2番目の「無表情」までで完結していてもいいのではないかと、最初私は思った。それなのに、傷が癒え、視力を取り戻したジョゼフは、わざわざハンナを担当したカウンセラー(実在の女性がモデルとのこと)を訪ね、カウンセラーもまた守秘義務を破って、ハンナの写真を渡したりする。ジョゼフはハンナの残したデイパックを届けに彼女の職場を訪れ、仕事を終えて出てきた彼女と再会する・・・という風に、物語は続いていく。
所謂ラヴ・ストーリーとしては、珍しくない成り行きなのかもしれない。けれどハンナの抱えていた「秘密」というのは、そんなありふれたものではなかった。(ジョゼフに打ち明けたハンナの体験の凄惨さは、私の眼にはこの映画全体の雰囲気とは不釣合いにさえ見えた。)
絶海の孤島のような、事故で休業中の油田掘削所という特殊な環境。そこに世界各国から集まってきた、ちょっと風変わりな、でもハンナには優しい、「ひとりでいたい」人々。そして、自分が親友の死を招いたのだという自責の気持ちを表に出さず、一時的な失明状態と骨折や火傷の痛みに耐える中で、それでもユーモアでハンナとコミュニケーションを図ろうとするジョゼフ・・・。
そういったさまざまな要素があって初めて、ハンナは(もしかしたらカウンセラーにも詳しくは話さなかったのかもしれない内容の)「秘密」を、彼女を傷つけ苦しめた人々の中にいた国連軍兵士たちと同じ外見、同じ言語のジョゼフに打ち明ける決心をする。そこに至るまでのひとつひとつのエピソードが丁寧に描かれているにも拘らず、それは、私にはほとんど奇跡のように感じられる光景だった。
だからこそ余計に、映画の最後の部分が、まるで「おとぎばなし」ででもあるかのように見えるのが、最初ちょっと不可解に感じられ、残念な気がした。
映画全体としては、(この監督の好みなのか、意図的に)メルヘンというか、どこか視覚的に可愛らしい雰囲気があるため、ハッピー・エンドの不自然さが逆に目立たなくなっているようにも見える。けれど、そもそもこの結末が本当に所謂「ハッピー・エンド」なのかどうかも、実は私にはよくわからなかったのかもしれない。
最後のシーン、ハンナの心の中だけにいる、おそらくは「秘密」を抱える以前の、明るく屈託の無かった「もうひとりの自分」である「女の子」は、ナレーションで、今後はもう自分がハンナに会いに来ることは無くなるだろうといった意味のことを語る。けれど、私にはその「女の子」の言葉はほとんど聞こえていなかったと思う。私はただただ、眼を伏せて、自分の内側だけを見ているかのようなハンナの横顔、あの3番目の「無表情」から眼が離せなかったのだ。
私はああいう表情に、見覚えがあるような気がするのだと思う。
実は遠い昔、私は、ハンナが会いに来たジョゼフに向かって叫んだのとよく似たことを、自分でも思いつめていた記憶がある。「私の中のどこかには、大量の涙が溜まったままになっていて、私は既にその中で溺れかけている。もしも誰かに心を許したら、私はその人に縋りついてしまうだろう。相手はその重さに耐えかねて、私のように溺れてしまうのではないか・・・。」或いはその前に、私という重荷を切り捨てざるを得なくなるだろう。それが出来ないほど優しければ、そのうち寧ろ私を憎むようになるかもしれない・・・などと。
私は好きになった相手には何も言えず、近寄ることも出来ないままだった。その後、私という人間の内面には決して踏み込んでこない、だからこそ「おそらくは共倒れにはならないであろう」相手と一緒に暮らすようになったけれど、今振り返ってみると、それが良かったのかどうかも、本当のところはよくわからない気がしている。
「大量の涙」というのは、溢れ出すとなかなか尽きない。それでも、流れ出した分だけ少しずつ少しずつ、本人の身体は本来の軽さを取り戻していくのだとは思う。ただ、それには信じられないくらい時間がかかる。しかも、流れた分の空洞が残ったりもする。その空洞は、また少しずつ、何かもっと良いもので塞がっていくといいのだけれど、時としてそれでも「透き間」のようなものが残るのだと思う。
私は、ハンナの3番目の「無表情」と共通のものを感じさせる私自身の写真を、過去に見たことがある。まったくの偶然だけれど、私もその頃幼い子ども二人の世話に追われていて、そんな忙しさの中、自分では気づいていない時に写された写真だった。珍しく眼鏡を外して、ひとりだけで、膝を抱えて放心しているような私の顔には自分でも見たことの無いような表情が浮かんでいて、見た時驚いた記憶が残っている。一種静かな、何と形容していいのかわからないような無表情。強いて言葉にするなら「空虚」とでもいうしか仕方の無いような、まるで写っているにも拘らず、私自身はそこには居ないかのような・・・。
私と暮らした人は長い年月の間に、そういう空洞や「透き間」を抱えた人間と暮らすことに疲れ、薄々その変わらなさにも気づき、虚しさのようなものを感じたのではないか・・・と、最近やっと私も思い当たった。たとえ涙の海に溺れてしまうようなことはなく過ぎても、そういう人間と共に生きるということは、当たり前と言えば当たり前のことなのだけれど、やはり「大変なこと」だったのだろうと。
この『あなたになら言える秘密のこと』という映画が、私から見て「どこか居心地が悪いオトギバナシ」のように感じられてしまうのは、先にも書いた通り、ハンナの「秘密」であるところの精神的な傷があまりにも深く、それも特殊というなら特殊な体験から生じたものであることから来ているのだと思う。ジョゼフの抱えている事情ですら大変なことなのに、ハンナの体験にはそれ以上のものがある。
実は、実際にハンナのような経験をした人がこの映画を観たら、一体どう思うのだろう・・・という疑問が、この作品を観てからずっと私の頭から離れない。監督はハンナのような人たちの存在を知ってもらいたいという意図もあって、この作品を作ったのかもしれないけれど、当事者の方がこれを観たら不愉快に思われるのか、それともいっそ微笑ましく感じられるのかも、私にはまったく判らないのだ。それくらい、実際の被害者の方たちのことを私は知らず、おそらくは想像することさえ出来ない。
しかし、あくまで私の感覚での話だけれど、この映画に何かリアルなものを感じるとしたら、それはもっと普通の人、たとえば私のようにごく些細な傷を持つ者のような気がする。だからこそ、主人公の女性の設定をもう少しだけ軽く?するか、或いはああいうハッピー・エンドは止めるか、とにかくもう少しどこかを変えた方が作品としてはバランスが良くなり、私としても、もっと違和感が少なく観ることができるようになると思う。
それでも・・・不思議なことに、実際は、私はあの結末が気に入っているのだとも思う。
考えてみると、私は小さい頃から、本やマンガや映画やアニメーションの中で「おとぎばなし」を食べて生きてきたのかもしれない。私にはそういうモノが必要だった。私にとって「希望」と「おとぎばなし」がほとんど同義語だった時代は、もしかしたらずいぶん長かったのかもしれないと、こういう映画を観ると改めて気づかされたりもする。
ふと我に返る。私はこんな長いものを書くつもりじゃなかった。
そもそもは、言語表現に長けているはずのジョゼフが訥々とカウンセラーに語った「彼女には僕が必要だ。いや、僕が彼女を必要としている。」、或いは去ろうとしているハンナに向かって必死で叫んだ「僕は泳ぎを覚える。きっとだ。」といった言葉、声、その表情が、どうしてこれほど見ていて辛く感じるのかを、ふと考え始めたのがきっかけだった。
それから既に1ヶ月、気がつくとこんなところまで来てしまっている。なんだか、知らないうちに遠くまで来てしまって驚いている子どものような気持ちになるけれど、それも無理ないのかもしれない。
・・・・・上手く言えない。ただ、私はこの歳になって、私の心のどこかに、本気で祈っている「女の子」がいるのを感じるようになった。
「世界中にいるはずの、たくさんのハンナ・・・そのひとりひとりの人生が、どうぞ、少しずつ少しずつでも開けていきますように。(そして、いつか、過去から自由になれる日が来ますように。)」
同情心とも倫理観とも違うところから来て、ちっぽけな一個人の中にいつのまにか住みついた、小さな女の子の願いなのだと思う。
長い間熟成して書けるなんてー・・・
そんなキッカケになれて(?)しやわせデスー(///‥//)~♪
ナンといーマスか・・
長い間、自分の中で暖めるコトが出来る
ソレって、アノ映画を作ろうと、ずっと思ってた
監督さんの気持ちとヒジョーに近く感じマス
映画全体の中で、トートツに語られる無残な過去わ
マタ、普通のヒトビトの人生にとってもトートツな事件で
マサカ、あのよーな展開になろーとわ
と、感じることも含めて一種の「体験」として
観たモノのココロに焼きつくのかも知れないなー
「世界中のハンナにしやわせになって欲しー」
ホントにわたくしの中の少女もそーゆってマス
>映画全体の中で、トートツに語られる無残な過去わ
マタ、普通のヒトビトの人生にとってもトートツな事件で
>マサカ、あのよーな展開になろーとわ
と、感じることも含めて一種の「体験」として
観たモノのココロに焼きつくのかも知れない
ああ、そうなんだ・・・って、初めて気がつきました。(なんというか、「眼からウロコ」です。)この映画は、私にとっても一種の「体験」だったのかもしれない。だから余計に、考えさせられたのでしょう。
とにかく、一事が万事、あまりに時間がかかるので、世の中の(映画の)スピードにまったくついていけてません(笑)。でも、興味深い作品に出会われたら、また教えてくださいね。
この1ヶ月、なんだか夢のようでした。ありがとうございました!