家にこもって暮らしていると、読む本が尽きてくる。
このところ低調なのと「冷房コワイ」とで、枕元のツン読の山も大分低くなってきて、「下積み」 に耐えてくれていた本たちも、日の目を見つつある・・・という毎日。(こんなに何もせず本ばっかり読んでて、そのうちバチが当たりそう(^^;)
というわけで、随分前に買った「遠い声、遠い部屋」と「冷血」(どちらも文庫)を、やっと読むことが出来た。購入のきっかけは映画の『カポーティ』だったと思うので、もう何年も前になる。
「遠い声、遠い部屋」(”OTHER VOICES, OTHER ROOMS")(1947)は、今回初めて読んだ。
読みかけては途中でやめる・・・を繰り返して「ツン読」グループに入ってしまったのは、物語の輪郭がはっきりしないというか、筋を追うこと自体が(私にとっては)面倒なせいだった。カポーティが「彗星のようにデビューした」のは、この本が出版されたときらしいけれど、70年近く経ってからその翻訳(1955出版/90改版)を読んでいる私にとっては、さすがに文章が「もってまわって」いて、読みにくかったのだと思う。
その「読みにくさ」は、初めて読もうとしたときには、正直、意外だった。
カポーティは、「子どもを主人公にした短編」は、とても読みやすいシンプルな文章で書く人 ・・・というイメージがあったので、「上手といえば上手」なんだろうけど、ゴテゴテ飾りの多いこういう書き方を、デビュー当時はしていたんだということに、まず驚いたのだと思う。
それでも、腰を落ち着けてゆっくり読んでいくと、この人が抱えていた「混沌」の深さ、雑多さが、思春期直前の男の子の視点で書かれた物語から、透けて見えてくる気がした。ちょっとしたミステリーのような、小さな伏線の数々。「おとな」 という生き物の不可解さと、意思疎通の困難さ。子どもの自分がどこで生きていったらいいのか、誰も考えていないらしいという、心許なさ。不安。怒り・・・そして孤独。
カポーティの作家としてのスタート地点を、いつか覗いてみたかった私としては、これはこれで読めてよかったと思う。
そして、『冷血』(”IN COLD BLOOD")(1966)。
こちらは若い頃に読みかけて放り出したり、その後アキラメて?最後まで読んだり・・・でも、「どこがいいのかワカラナイ」のが気になって処分出来なくて・・・と、妙なつきあい方が続いている作品だ。
今回久しぶりに再読して、 自分が感じていた抵抗感(いちいち引っかかって読みにくい)がどこから来るのか、ちょっと解った気がする。
この小説で、「ノンフィクション・ノベル」なる分野を開拓するつもりでいた著者は、「書き手である自分(私)を、徹底的に消してしまおうと努力した」という。確かに、この小説には、書き手の姿は現れない。
でも・・・読み手の私には、登場人物を描写する言葉の一つ一つが、書き手(カポーティ)の目に映ったその人の姿、書き手の感想や評価そのもののように見える。(そういう書き方にしか見えない)
もっと中立的というか、無機質な書き方をすればいいのに・・・と、読んでいる私は多分ちょっとイライラするのだ。「せっかく『ノンフィクションの世界で小説を書こう。この分野ではまだ、そういうことは殆ど成されていないのだから』などと思って書き始めた・・・と、本人の言葉で最初に説明されるのに、どうしてこんな不自然で窮屈な書き方をするのだろう・・・と。
それでも、「物語」としては、これはこれで面白いと、私は初めて思った。残虐な殺人事件を起こした2人の男の姿は、かなり特異なもの?として描かれているのに、「人間」という生き物の場合、(その人生経路等によっては)こういうことも当然起こり得る・・・とでもいうような、ある種のリアルさを私は感じた。そのことは、これが「実話」に基づくということが、土台にあるとも思った。
今となると、小説や映画の世界では、「実話に基づく」作品は非常に多い。全くのフィクションではなく、「実際にあったこと」だと知っていると、作品のインパクトが増す・・・という経験は、ごく日常的になっていると思う。
カポーティが「冷血」を書こうと思った当時は、ノンフィクションの分野で書かれた小説というのは、「せいぜい紀行文か自叙伝の類が少しあるだけ」だったという。彼は「小説が書かれるフィールドとしては、殆ど処女地」という理由で、「ノンフィクション・ノベル」という分野を考え出した。
彼としては(もしかしたら)単純に「売れたかった」のかもしれない(私の勝手な想像)。けれど、そういうコトを早くから考えついた・・・ということ自体、この人の非凡さを表していると私は思った。(その後、モノになるかどうかもワカラナイこの事件の取材に、5年間を費やした、その執着の度合いも含めて)
こんなショーモナイ感想をクドクド書いてきたのには、個人的な理由がある。
自分には「(普通に)読み通す」ことさえ満足に出来ないような小説を書いた人なのに、カポーティという作家は、なぜか私には「気にかかる」存在であり続けた。
映画の『カポーティ』は、「冷血」が完成するまでの、取材対象である犯人と書き手である彼とのやり取りを、行き詰るような丁寧さで描いた作品だった。私はこの映画で、フィリップ・シーモア・ホフマンの演じたカポーティ像に圧倒される思いがした。
それでも、「ひとこと感想」を書く際には、「映画で描かれたのはある一面から見た彼であって、これがこの人のすべてじゃない」ということを言わずにいられなかった。それを聞いた若い友人はにっこり、「あなたはその作家に思い入れがあるんですよ」。
私が、自分の「思い入れ」「なぜか気にかかる」理由を自分なりに考え始めたのは、そのときからだと思う。そして今回、その理由なるものがちょっと見えてきた気がした。
カポーティという人は、(多分ごく幼い頃から)「眼」そのもののような人だったのだと思う。
文章を綴ることが天職で、子どもの頃から書くことに精進してきた・・・と彼は言う。『遠い声、遠い部屋』を出版した際、「こんなに若い人がかほどに書けるとは」 などと書評で言われたけれど、自分はそれまでの14年間、毎日ひたすら書いてきたのだ・・・と。
けれど、私はこの人の書く上での技巧、文体を完成させるための努力・・・などといったものは、ヨクワカラナイのだと思う。私にわかるのは、この人の「見る」ことの上手さ(的確さ?漏れの無さ?斬新さ??)だけだ。
「書く」ことが天職だったのは、この「眼」を持って生まれたせいだと私は(勝手)に考える。だから本当は、「冷血」も、書き手の存在を明らかにした方が、自然な文章になったんじゃないかと思った。
ずっと後になって、「カメレオンのための音楽」("MUSIC FOR CHAMELEONS")(1980)という短編集が出版され、こちらでは(「TC」という名前で)カポーティは、登場人物の一人になったりもする。そして、私はこの本に載った短編・中編は、本当に面白いと思って読んだ。(自称「翻訳には全く不慣れ」な野坂昭如が訳していて、それがいいのか悪いのかはともかく、野坂サンも好きな作家だったのでOK~と(^^)) 1983年、出版されたばかりのこの本に出会わなければ、カポーティは私の「思い入れのある」ヒトにはならなかった気がする。
でも・・・
こういう人が、人生における浮き沈みを(自分のせいもあるとしても?)並以上の極端さで経験し、その途上で、人間の持つ邪悪・凶悪なモノ、底知れぬ何かをごく間近に見たとしたら、その後の人生はどうなるのだろう・・・などと考えてしまった。「文学では何が表現できるのか」を、本気で考え続けているところが、この人にはあったと(私は)思うので、余計に。
「冷血」の後、何人もの殺人犯(死刑囚)にインタビューを続けた彼が何を考えていたのか(その結果何に囚われそうになったのか?)・・・私などにはわからない。それでも、「カメレオンのための音楽」にある「手彫りの棺」の恐ろしさ、「うつくしい子供」のマリリンの愛らしさ・悲しさを思うと、「ノンフィクション・ノベル」を目指した彼に、50年後の今でも、やっぱり拍手を送りたい。
(映画『カポーティ』のひとこと感想)
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/619c74b17a40b62dc701fa2322702e4f
私もカポーティは気になる作家です!
そのわりに全然読んでなくて、
ごく若い頃に「ティファニーで朝食を」と「冷血」を読んだきりなのです(^^;)
「カメレオンのための音楽」はぜひ読んでみたいと思います。
最近、幻の処女作「真夏の航海」を読みました。
主人公はNY社交界にデビューしたばかりの女の子で、ムーマさんの言う「見る」ことの上手さ(的確さ?漏れの無さ?斬新さ??)がすごくいいかんじに出てました。
安西水丸の訳もクールで瑞々しくて似合ってるなあと思いましたよ。
>主人公はNY社交界にデビューしたばかりの女の子
って、なんだかそれだけでもいい感じ~(わくわく)。
安西水丸さんの訳・・・なんて聞くと、ますます興味が湧きます。
(WOWOWの「W座の招待状」で見てた頃が懐かしくて。独特の感性の持ち主だと思いました)
「カメレオン」も、どうぞ読んでみて下さい。
こちらの野坂昭如訳は、「自分の文体をとらえ直したいから・・・と翻訳を引き受けた」くせに
この人以外の何者でもない?訳だと(私は)思ってます。
「翻訳に不慣れ」と本人が言ってるのもホントだと(^^;。
(でも、文庫化したときの後書きが面白かったから、ま、いいや)
「真夏の航海」、教えて下さってありがとう!
楽しみがまた一つ増えました(^^)。
(この手のミスが珍しくない?ヒト)
>世の中には不器用にしか生きれない人がいてること。そのことを大切にしたい
イエローフロッグフィシュさんは、そう仰るような気がしてました(優しいな~)(^^)。
実は私から見ると、カポーティなんて、「不器用」なくせに殊勝なところが全然無いっていうか、可愛げがあるよーな、全然無いよーなっていうヒト(^^;。
でも(だからこそ?)ある種のシンパシー?を感じずにはいられない・・・(「大切にしたいかどうかはワカラナイけど(^^;)。
>境遇は違うのですが、あの戦い方はできれば私もしたいものです。
『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』いつかきっと観ます!
「凄い才能」があって、しかも大変な時代を生きた人・・・
まさに「戦った」人だったんでしょうね。