ここしばらく『KUBO/ 二本の弦の秘密』(字幕)を、家で繰り返し観ている。
感想を少しでも書いておきたいと、ずっと思っているのに、なぜか書けない。
感想が書けないと、他の映画を観てもアタマの中を素通りするみたいで、落ち着かなくて困っている。
そういえば・・・去年の秋頃、『劇場版 夏目友人帳~うつせみに結ぶ~』を映画館で観たのがきっかけで
TV版の方も(若い友人に探してもらって)全部観た。
シリーズ6まであって、1から6までに10年かかっていると知った。
そのときも、少しでも感想を書きたかった。
自分から探してまで日本のTVアニメを観たのは初めてで、しかもほぼ2ヶ月毎日のように
繰り返し繰り返し観ていた自分。
でも、「感想」なんて書けなかった。
劇場版だけでも・・・と思ったけれど、やっぱり無理。
今回「クボ」でも同じことが起きているので、さすがにちょっと考えた。
「どうしてなんやろ・・・」
毎日でも観ていたいというような映画には、たまに出会うことがある。
私だけじゃあないらしく、映画好きの知人は『シン・レッド・ライン』について
「初めて観たとき、この映画をず~っと毎日、上映してくれる映画館がほしいと思った」と。
私もたとえば『パターソン』を毎日上映する所があったら「常連」になると思う。
でも『パターソン』では、下手は下手なりにちっぽけな感想が書けたりする。
「クボ」も「友人帳」もアニメーションだから・・・とか、関係あるのかなあ。
なんて思ったところで、気がついた。
私にとっては、「クボ」も「友人帳」も「懐かしさ」が共通なのだ。
「クボ」はアメリカで作られた、高い技術とストーリー・テリングのバランスの取れた
素晴らしいアニメーションだと思う。
作り手が「大の日本びいき」だそうで、昔の日本を感じさせる舞台設定も
主人公クボが三味縁を弾くと折り紙細工が動き出すというアイディアも
葛飾北斎などの有名な版画のモチーフも、「桃太郎」が冒険大活劇になったような
或いは「もうひとつのかぐや姫」のようなストーリーも
日本の文化(黒沢映画その他も含めて)に対する敬意と愛情に満ちている。
一方の「夏目友人帳」は、全く違うテイストのアニメーションだ。
けれど、「原作マンガの世界を、極力変えない、壊さないように」という
作り手たちの姿勢が(原作を知らない私にでさえ)感じられて
TVでの10年間、間が空いてもその雰囲気は変わらず
最近の劇場版でも「TVでは出来なかった丁寧な作りを心がけた」というくらい。
妖(あやかし)と人の子(人間)の確執・交流・共棲が描かれる物語は
田舎で育った私にとっては「フィクション」でありながら「現実」のようでもあって
ファンタジーに親和性の高い私にとっては、「懐かしさ」と同時にその心地よさに
「浸ってしまえる」種類のものだったのだと思う。
私は「現在」にも、その先の「未来」にも、さほど興味が持てないのだろうか。
「過去」に目が向きやすい人種なんだろうか・・・そんなことを考えた。
私がブログに書くのも、遠い昔に出会った人や、既に亡くなった人が多い。
「亡くなった人」だからこそ、丸ごとの「記憶」として「私のもの」になる・・・というか
「記憶」だからこそ「会う」ことが可能になるというか・・・
そう、「クボ」のラストのように。
生きている間は、「会う」ことは出来ないのかもしれない・・・
私はそんな風に感じる人間なのだろう。
『KUBO/ 二本の弦の秘密』や「夏目友人帳」作品を観ていると
私は「自分のフィールド」に帰ってきた気がするのだと思う。
私の目は映画を見ているのだし、その中の物語に魅せられているのだけれど
もっと深いところにいる「私」は、もっともっと広い海に
浮かんで手足を伸ばせるだけ伸ばしている・・・そんな気がする。
そこは、私などの拙く浅薄な「言葉」では表現出来ない、世界なのかもしれない。
或いは(もしかしたら)「表現」などしたくないと
昔から強情でヘンクツな「私」は
ごく自然に思い決めているのかもしれない。
(「感想が書けない」ことだけ書くつもりが、ずいぶん長い話になってしまって、自分でも驚いています。
それでも、「私」の気がやっと済んだよう?なので、安心して他の映画を観ることにします(^^:)
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