しばらく映画館から遠ざかっていた。
自主上映の方は、作品を選んで(エネルギーを掻き集めて)なんとかポツリポツリ出掛けるのだけれど、シネコンの新作なんかがなかなか観に行けない。
そういう時ちょっと前までは、「ヒコーキが小島に不時着」して「交換部品がどこかから届くのを、浜辺でボンヤリ待ってる」ような気がしていた。ボヤケた白黒写真の中にいるようなもので、現実味の薄い風景だった。
それが最近では、掘っ立て小屋にコタツと旧型テレビ(ケーブルTVもなんとか録画可能)がセットされた感じで、遭難したというよりは、一人っきりで長逗留してるビンボー旅行者みたいになってきている。このままだとヒコーキはもう飛べないままになりそうな気もしてくる。
知人と顔を合わせるのは、自主上映の会場くらい。それもほんの一言二言、言葉を交わせばいい方で、メールか電話でも来ない限り、家族以外とは話す機会がない。幸か不幸か、それで苦痛を感じない。
ネット上では元々サイレントな方だったけど、リアルはその上を行く感じになってきた。こんなに人づきあいに興味のない?人間だったなんて、さすがに自分でも知らなかった。(なんだかこのまま石ころにでもなってしまいそうだ。)
ところがある朝のこと。遠くに住む姉から電話がかかってきた。
姉からの長時間の電話は、この頃では珍しくなっている。数年前、母と断絶して、それまでの生活すべてを投げ出すようにして精神科に通うようになった頃の、日に何度もかかってくる姉の電話は、時には文字通りの「嵐」を思わせた。でも今は、それももう遠い昔のことのような気がする。(姉自身は、そもそも記憶にも残っていないかもしれない。)
今回も勿論そういったシンドイ話題ではなく、普通に楽しんで姉の四方山話を聞いて、こちらも色々喋って、またねと言って電話を切った。久しぶりなので小一時間かかったけれど、ごく普通の会話だったと思う。
それなのに・・・受話器を下ろした後、ずっと気が晴れない。
偶々朝から「ちょっとだけ元気が出てきたみたい。」「これならまた、映画の感想も書けるかも。」などと思っていた私は、そんなちょっとした気分の良さもウソのように消えてしまった自分に、正直驚いた。
この程度のことでどうしてここまでクタビレて、後から気が滅入るんだろう・・・と、電話機の傍に腰掛けたまま、回らないアタマで考えてみた。
そして、思った。
姉の声、話し方、話す内容・・・それらは皆、私にとっては今も「故郷の声」に聞こえるのかもしれない。私にとっては、姉は一人の人間、単なる家族の一人には、未だになりきっていないのだろうと。
私は57歳になった。
実家や姉の家のある金沢を離れて、既に40年近い歳月が経っている。そして、(ほんの10年足らず住んだだけの)「金沢」という街そのものも、所謂「出身地」という意味合いで、私の中に位置が定まっているのを感じる。
しかし姉(の声)は、今も私の中に眠っている「故郷」という正体の知れないような代物の、それも最もダークな部分?を、つついて目覚めさせようとする(らしい)。
姉自身にそんなつもりが毛頭無いのはよくわかっている。ただ、「声」が私の中に蘇らせようとするだけなのだ。でも、今更どうして・・・。
この間、『シチリア!シチリア!』という映画を見た。
作品としての出来はともかく、私にはその映画の中に描かれている「故郷」と作り手本人との間に存在する確固とした距離感?のようなものが、強く印象に残った。
作り手は生死の境を彷徨うほどの大けがから回復した後、この映画を撮ったという。
そのことが、作品にとってプラス方向にだけ働いたのかどうかは、私にはわからない。ただ、この映画の良さも足りなさも、「死」を間近にした経験の作用を受けている・・・という気がした。作り手と作り手の「内なる故郷」との距離も関係も、その経験が変えたのだと、一観客の私は終始感じた。
作品自体は従来よりも私的な度合いを増していて、そういう意味ではむしろ「故郷」との距離が上手く取れていないかのように見える。
でも私の眼には、「故郷」を「対象」として見ることの出来る作り手の視線が感じられたのだ。それは私にとっては、この監督がこれまでにシチリアを舞台に撮った映画からは、感じられない種類のものだったのだと思う。
故郷、家族、地縁血縁といった事柄に、自分なりの決着をつけるのは本当に難しい。だからこそ小説にも映画にも、膨大な作品群が存在するのだろう。
私自身は自分の場合、既にその決着がある程度ついたと思っていた。ほんのささやかな過去に数十年という時間が費やされたら、どのみち何らかの決着はついて当然だと。人は老いる。老いというものの圧倒的な重さに比べたら、内なる子どもの自分の影など、人は自然に見失っていくものなのかもしれないと。
けれど姉からの電話は、私をある種の現実に引き戻す。
「家族」がいる限り、「故郷」は解放してはくれない。
でもそれが「家族」がいる、「故郷」があるということの幸せと、どこかで繋がっているのも本当なのだろう。「家族」も「故郷」もそういうもの・・・今の私はそう思いたい。
私の故郷は、まだまだ美しいセピア色にはなってくれない。
それでもあのシチリアの果樹園、丘陵、街並みや路地裏の風景を見つめるトルナトーレ監督のように、私も温かく醒めた思いを込めて、故郷を思い浮かべる時が来るのだろうか。
何でも書いて下さいね
書いていれば、きっと・・・ですよ^^
故郷から離れて16年目です。
故郷は帰りたいけど帰りたくない場所です。
私も肉親からの電話は、良い内容でも私の心の中にあるダークな部分を思い出されて苦しくなってしまいます。
震災後も帰りたいと思えない。
不調だった事もあるのですが..。
ムーマさん体調が少しでも上向きになりますように。
ありがとうございます。
そんな風に言っていただけると、気持ちが楽になります。
考えが纏まらないので、しばらくはあまり考えずに
もう気の向くままに書こうと思います。(って、これまでとあんまり違わない?(笑))
kmさんも同じこと思っていらっしゃるんですね。
「帰りたいけど帰りたくない」
「心の中にあるダークな部分を思い出されて苦しくなって」
でも一方で、(私の場合は)今住んでいる土地とのちょっとした違いが
無性に懐かしく感じられたりすることもあります。
平気な顔でもっと行き来した方が、こういう複雑さが整理されていくのかな・・・
なんて思ったりもするんですが、現実にはなかなか
そこまで踏み込む気持ちにもなれずにいます。
大地震の後、るるさんもお父様のことを心配しておられましたね。
本当に大変でしたね。(って、まだまだ過去形じゃないのかもしれませんが。)
でも「帰りたい」と思うかどうかは、私もまた別問題だろうと思います。
たまに電話で声が聞ける・・・私にとってはこの10年ほどは
それが一番幸せに近い形だと思うようになっています。
それでも・・・今回の記事のようなことを書いてしまう。
「家族」も「故郷」もそれくらい、重たい(言い換えれば「軽くは扱えない」?)ものなんだろうと思います。
>ムーマさん体調が少しでも上向きになりますように。
ありがとうございます。
うっとうしい季節になりますが、るるさんもどうぞお大事に。
ムーマさんと違って、もう縁のある人はいないんですけどね。だから、ほんとに思い出の重みだけ。
幼い頃に感じた諸々のことは、思いの外、心の奥深くに沈んでいたのかしら・・・。
ムーマさんの文を読んで、そんなこと、考えました。
はにわさんのコメントから、初めて気づいたんですが
私が(京都や金沢などの)ああいう人づきあいのきめ細やかさ、丁重さ・・・といったことにほとんど総毛立つ思い?がするのは、
もしかしたら故郷」の風土だからなのかもしれません。
これまでは、自分が人づきあいが苦手なのと、そういう事柄を知る機会がなかったという
要するに社会的な経験不足のせいだとばかり思っていました(これはこれで本当なので)。
でもこの歳?になると、傍からどう見えようと
自分のやり方を通してしまってもいいわけです。
(私の場合は、それで実際済んでしまう(笑)。)
それなのに「故郷(にいる家族)」が絡んでいる場合は
最初からがんじがらめになっているような気がしてしまって
余計にどうしていいかわからなくなってしまう。
コドモのままの自分がまだそこにいる・・・そんな気がします。
>幼い頃に感じた諸々のことは、思いの外、心の奥深くに沈んで
はにわさんのように「思い出の重み」だけになっても、やっぱりそういうものなのかな・・・って
改めて考えたりしています。
書き込んで下さって、本当にありがとうございました。
今年の夏が猛暑にならないよう祈ってます。
次からは某所(そこではAMがついてますw)を通さず・・・・
お久しぶりです。
ブログ、時々(直接)オジャマしてます。
(私も某所からは遠ざかってることが多くなって・・・)
今年は去年より天気が不安定で、湿度も高いし身体にコタエます。
yosiさんもどうぞお大事になさって下さいね。
書き込んで下さって嬉しかった!!
どうもありがとうございました。