(以下の感想は映画の結末に直接触れています。未見の方はご注意下さい。)
設定に精神的な障碍のある登場人物がいると、私は観に行く前からなんとなく警戒してしまうようなところがある。私自身は統合失調症と診断されたことが無いけれど、若い頃に似た症状を経験した時期があるので、映画というフィクションの世界での扱われ方に、ともすると過敏になりやすいのかもしれない。
この映画についても予告編を観た段階で、「演技力のある俳優さんが揃っているからといって、あまり期待しないように。」という指示?が、自然にアタマの中で出されたのだろう。(ロサンゼルス・タイムズ紙のコラムに連載された実話に基づく物語と聞くと、寧ろ警戒心は強まったりする。)ただチェロのあの音色が聴ければいいや・・・とだけ思って、観に行くことにした。
ところが・・・こういう予想は往々にして外れるのだ。
観た直後のメモには「感動した。特に、記者の最後の言葉。」とある。今も最後のその場面での、主要人物2人の表情が目に浮かぶ。
そこに至るあらすじを少し書くと・・・
病気のためにジュリアードを退学して、今はホームレスの身ながら、それでも路上で「拾った2本弦のバイオリン」を弾くナサニエル・エアーズ(ジェイミー・フォックス)と偶然出会った記者ロペスは、彼のことを担当しているコラムに書く。
すると元々はチェリストであるナサニエルに、使わなくなった自分のチェロを提供したいという読者が現れる。記者はそれを届けようと、彼を捜すことにする。やがてハイウェイの高架の下に居たナサニエルを見つけたものの、彼は「弾くならここで弾きたい。」と譲らない。「建物の中よりここの方がずっとベートーベンにはふさわしい」と。
記者は(チェロを餌?に、或いはその後も有名オーケストラとの共演の機会を用意したりして)なんとか彼を「屋内」へ、引いてはこの「社会の枠組み」の中へ、引き戻そうと試みる。
それはコラムの話のネタなどという職業上の関わりから始まったとはいえ、才能ある音楽家の今の境遇に対する同情や善意からだったと思う。ナサニエルの音楽への愛の深さ・崇高さを知るほどに、記者は彼に「記者がイメージするところの、天才音楽家に相応しい人生」を、取り戻させようと奔走する。
しかし、ナサニエルから見えているのはまた別の風景なのだ。
映画の終盤、ナサニエルは記者に向かって、それまでずっと我慢してきたことをぶちまける。
「私はいつもあなたをミスター・ロペスと呼んできた。」
確かにそうだ。ナサニエルはとても礼儀正しく振る舞う人なのだ。
「でもあなたはいつも私のことを、ただナサニエルとしか呼ばない。」
記者は驚く。
記者が彼のことをナサニエルと呼ぶのは、別に彼を低く見ているからじゃない。そのことは映画の観客にはわかる。寧ろミスター・ロペスとしか相手を呼ばないナサニエルの方が、その独特の喋り方も相俟って「ちょっと堅苦しく」感じられる。記者も一瞬、そのことを彼に説明しようとする。
しかし次の瞬間、ロペスはナサニエルの言っていることの本質に気づいたのだと思う。結局、彼は黙ってその場を立ち去る。怒りを爆発させたナサニエルは、その場に取り残される・・・。
そして、喧嘩別れのようになった2人が再会する、最後の場面となる。
暴力を振るったことを謝罪しようとするナサニエルを押しとどめて、ロペスが言ったのは・・・
「あなたと友人になれて光栄です、ミスター・エアーズ。」
"I'm honored to be a friend of yours, Mr.Ayers. " という言葉を聞いた瞬間、ナサニエルの顔はミスター・エアーズという、「レスペクトを受けて当然の音楽家」そして「敬意を示されて当然のひとりの人間」の表情に変わる。
人と人とが、初めて対等になる瞬間。それは「対等じゃなかった」と「双方」が気づくことから始まるのだろう。人としての尊厳を訴えることと、実際にそういう扱いを受けることとの間には、大変な落差がある。それを気づかせようとしたナサニエルと、気づかされて「実行に移した」ロペスの眼の語るものに、私は感動したのだと思う。
それ以外では・・・
2人の男優さん以外のキャストも良かった。現実のロサンゼルスのスキッド・ロウ地区というダウンタウンに住む人たちがエキストラで出演していて、精神障碍のある人たちのセンターの情景もあるけれど、皆自然に映画に溶け込んで見えた。
ロサンゼルス交響楽団の演奏も、明るく、柔らかく、美しい。
ただ、1つだけ気になったこと。
オーケストラの奏でる音楽を色彩で表現しようという試みは、この作品については疑問を感じた。私が直視出来ないような映像を、現実のナサニエルが見たらなんて言うだろうか・・・と思っていたら、パンフレットに「映画は気に入ったけれど、あの音楽の部分だけは眼を閉じて見ないようにしている」という本人の言葉が載っていた。
あのシーンでは色彩表現よりも、ベートーベンに聴き惚れている(ナサニエル役の)ジェイミー・フォックスの表情の方が、音楽の素晴らしさをはるかに上手に表現しているように、私には思えた。
設定に精神的な障碍のある登場人物がいると、私は観に行く前からなんとなく警戒してしまうようなところがある。私自身は統合失調症と診断されたことが無いけれど、若い頃に似た症状を経験した時期があるので、映画というフィクションの世界での扱われ方に、ともすると過敏になりやすいのかもしれない。
この映画についても予告編を観た段階で、「演技力のある俳優さんが揃っているからといって、あまり期待しないように。」という指示?が、自然にアタマの中で出されたのだろう。(ロサンゼルス・タイムズ紙のコラムに連載された実話に基づく物語と聞くと、寧ろ警戒心は強まったりする。)ただチェロのあの音色が聴ければいいや・・・とだけ思って、観に行くことにした。
ところが・・・こういう予想は往々にして外れるのだ。
観た直後のメモには「感動した。特に、記者の最後の言葉。」とある。今も最後のその場面での、主要人物2人の表情が目に浮かぶ。
そこに至るあらすじを少し書くと・・・
病気のためにジュリアードを退学して、今はホームレスの身ながら、それでも路上で「拾った2本弦のバイオリン」を弾くナサニエル・エアーズ(ジェイミー・フォックス)と偶然出会った記者ロペスは、彼のことを担当しているコラムに書く。
すると元々はチェリストであるナサニエルに、使わなくなった自分のチェロを提供したいという読者が現れる。記者はそれを届けようと、彼を捜すことにする。やがてハイウェイの高架の下に居たナサニエルを見つけたものの、彼は「弾くならここで弾きたい。」と譲らない。「建物の中よりここの方がずっとベートーベンにはふさわしい」と。
記者は(チェロを餌?に、或いはその後も有名オーケストラとの共演の機会を用意したりして)なんとか彼を「屋内」へ、引いてはこの「社会の枠組み」の中へ、引き戻そうと試みる。
それはコラムの話のネタなどという職業上の関わりから始まったとはいえ、才能ある音楽家の今の境遇に対する同情や善意からだったと思う。ナサニエルの音楽への愛の深さ・崇高さを知るほどに、記者は彼に「記者がイメージするところの、天才音楽家に相応しい人生」を、取り戻させようと奔走する。
しかし、ナサニエルから見えているのはまた別の風景なのだ。
映画の終盤、ナサニエルは記者に向かって、それまでずっと我慢してきたことをぶちまける。
「私はいつもあなたをミスター・ロペスと呼んできた。」
確かにそうだ。ナサニエルはとても礼儀正しく振る舞う人なのだ。
「でもあなたはいつも私のことを、ただナサニエルとしか呼ばない。」
記者は驚く。
記者が彼のことをナサニエルと呼ぶのは、別に彼を低く見ているからじゃない。そのことは映画の観客にはわかる。寧ろミスター・ロペスとしか相手を呼ばないナサニエルの方が、その独特の喋り方も相俟って「ちょっと堅苦しく」感じられる。記者も一瞬、そのことを彼に説明しようとする。
しかし次の瞬間、ロペスはナサニエルの言っていることの本質に気づいたのだと思う。結局、彼は黙ってその場を立ち去る。怒りを爆発させたナサニエルは、その場に取り残される・・・。
そして、喧嘩別れのようになった2人が再会する、最後の場面となる。
暴力を振るったことを謝罪しようとするナサニエルを押しとどめて、ロペスが言ったのは・・・
「あなたと友人になれて光栄です、ミスター・エアーズ。」
"I'm honored to be a friend of yours, Mr.Ayers. " という言葉を聞いた瞬間、ナサニエルの顔はミスター・エアーズという、「レスペクトを受けて当然の音楽家」そして「敬意を示されて当然のひとりの人間」の表情に変わる。
人と人とが、初めて対等になる瞬間。それは「対等じゃなかった」と「双方」が気づくことから始まるのだろう。人としての尊厳を訴えることと、実際にそういう扱いを受けることとの間には、大変な落差がある。それを気づかせようとしたナサニエルと、気づかされて「実行に移した」ロペスの眼の語るものに、私は感動したのだと思う。
それ以外では・・・
2人の男優さん以外のキャストも良かった。現実のロサンゼルスのスキッド・ロウ地区というダウンタウンに住む人たちがエキストラで出演していて、精神障碍のある人たちのセンターの情景もあるけれど、皆自然に映画に溶け込んで見えた。
ロサンゼルス交響楽団の演奏も、明るく、柔らかく、美しい。
ただ、1つだけ気になったこと。
オーケストラの奏でる音楽を色彩で表現しようという試みは、この作品については疑問を感じた。私が直視出来ないような映像を、現実のナサニエルが見たらなんて言うだろうか・・・と思っていたら、パンフレットに「映画は気に入ったけれど、あの音楽の部分だけは眼を閉じて見ないようにしている」という本人の言葉が載っていた。
あのシーンでは色彩表現よりも、ベートーベンに聴き惚れている(ナサニエル役の)ジェイミー・フォックスの表情の方が、音楽の素晴らしさをはるかに上手に表現しているように、私には思えた。
ワタシも精神的に、まいっていた時期があったので、このような映画、なんとなく観れないなぁ・・・と思っていましたが・・・
何か才能がある人って、病に侵されやすいのでしょうか・・・
映画を観て、考えたいと思ってます!
>何か才能がある人って、病に侵されやすいのでしょうか・・・
そういうものでもないと私は思うんですが・・・。
ただ「才能に恵まれた人が(精神的な)病に至る」というストーリーの映画は、他にも観たことがあります。
『シャイン』ではピアニスト、『ビューティフル・マインド』では天才的な数学者で、どちらも実話を基にした作品でした。
どちらもこの『路上のピアニスト』と同じく、爽やかな後味が残った記憶があります。
どれかをもしもご覧になったら、感想を聞かせて下さいね~。