今住んでいるマンションの大規模な補修工事も、そろそ終わりに近づいている。半年以上も組んだままだった足場も、最近漸く撤去された。
それでも、住人と業者との話し合いは今も続いている。
私は今回、自宅内部での工事作業に同意した時点では、悪くすると工事終了後、自分だけが今の家には住めなくなるかもしれない・・・という覚悟を迫られていると思った。避難先の賃貸マンションは築2年というとてもきれいな部屋だったけれど、空気の状態は私にとってそれほど良いわけではなく、自宅に戻れなかった場合、そもそも今の自分に住める部屋が見つかるかどうかも分からないのだと、改めて思ったりした。
どうなるか分からないことを不安に思っても仕方がないので、とにかくスタートしたからには、せめて室内工事が終わるまではと、先の事はなるべく考えないようにしていた。避難先のマンションには室内に24時間換気システムが付いていたけれど、それだけでは私にとっては追いつかない感じだったので、夜もあちこちの窓を少しずつ開けたまま眠った。1階ではなくても、1人暮らしで夜あちこちを開け放して眠るのは、必要に迫られてのこととはいえなんだか不安で、寒さよりその方が私には堪えた。
だから、作業が終了して避難先から自宅に戻り、幸運にも以前のように住み続けることが出来そうだと判った時・・・・・私は言葉に出来ないくらい、本当に本当に嬉しかった。
けれど、そのこととは別に、あの避難先での1人暮らし(4月から5月にかけての3週間)が、私に色々なことを考えさせてくれたのも本当だった。あの3週間の前と後とでは、私の自宅での生活は、外見には何も変わらなくても気持ちの上では随分変わったと、少なくとも私自身は思っている。そのことを少し書いておきたい。
避難先での1人暮らしが始まって間もなく、私は風邪で寝込んでしまった。ところが、珍しく38度台の熱もあって体調の悪さ以外何も考えられなかった間はまだマシで、治るにつれて、却って私はなんだか妙に落ち着かなくなってきた。
なんだかここに居てはいけないような、どこかへ帰らなければいけないような、曰く言い難い焦燥感のようなものがどこからか湧いてくるようで、私は困惑した。
「どこへ帰るというんだろう。自宅は工事中で、私は近づくことも出来ず、大体、戻っても居る場所もないのに・・・。」
私にとって、こういうイタタマレナイような胸騒ぎというのは、実はそれほど珍しいものではない。けれど、これほど強く感じたのは、過去にもそう多くはなかった。
大抵の場合そういった気分は、さほど長続きはしなかった。私は、例えば夕方のほんの暫くの時間、孤独?とも焦燥とも、或いは単なる胸騒ぎともつかない落ち着かなさに耐えていれば、そのうち自然にいつもの自分に戻っていけた。そして、夕食の準備をしたり、遊びに行っている子どもを迎えに行ったり・・・と、日々の細々とした雑事に紛れて、それまでの気分は忘れてしまうことが多かったと思う。
ところが、今回1人になって感じたのは、もっともっと強い空虚感?とでもいうものを伴っていて、なんだか私は自分が空っぽになってしまったようで、何も手につかなくなった。
私は普段、どれほど所謂「手抜き」でヒマな主婦だとしても、一応多少の家事はしている。あとは家で映画を観たり、本を読んだり、PCで知り合いその他のサイトを見たり、このブログを書いたり・・・というくらいだと聞いたら、なんという優雅な?身分かと思われそうだけれど、そもそも夕方からが一番忙しくなるので、私は昼間はある程度意識して休むようにしていないと、実際には却って「家事に差し支える」のだ。(身体的、精神的に、そのくらいのエネルギーしか元々無いのだということを、人に説明するのは、こうして書いていても案外難しい。)
最初は、そういった日常やっていたことがすべて、出来なくなったからなのかな・・・などと思った。(ネット環境が無いのでPCは自宅に置いてきていたし、地上波しか入らない旧式のテレビがあるだけ・・・などなど。)が、正直そんな程度(次元?)のことではないような気もした。
元々、私は1人で居ることが全く苦痛ではなく、寧ろなんとか1人の時間が僅かでも確保できないかとジタバタを繰り返すような生活が長かったので、「1人きりで自分以外に誰も居ない」ことを苦痛に感じるなんて、想像もしていなかったのだと思う。
と言う訳で、あまりに「檻の中のクマ状態」である自分に愕然としたことから、私の今回の空想?が始まった。
昔、ある講演会で、不思議な話を聞いた。講師の方も、知り合いからの伝聞と前置きして話されたのだけれど、その後他のところでも読んだりした記憶があるので、案外有名なエピソードなのかもしれない。
文化人類学だった何だったか、とにかくフィールド・ワークを必要とする学問の日本人研究者たちが、現地で人を雇ってチームを組み、アンデス山脈に分け入る旅に出発した時のことだ。
最初のうち、旅は思ったより順調で、予定よりかなり早い速度で調査隊は進むことが出来た。日本人スタッフたちは喜んでいたのだが、何日かするうちに、現地のスタッフたちの様子がなんだかオカシクなってきた。
そしてある日、とうとう全員が座り込んだまま動かなくなってしまった。日本人スタッフにとっては、理由が分からないストをされているようなものなのだけれど、別に何か要求がある訳でもないらしい。ただ、旅を続けるのを一時的に止めてしまった・・・という感じなので、取りあえず様子を見ることにした。
ところが、ほんの3日ほど後の朝、坐ってぼんやりしているように見えた人たちは、また甲斐甲斐しく支度を整え、何事も無かったかのように、旅の続きがそのまま始まったという。
不思議に思った研究者がいくら尋ねても、「いや、あなた方は日本人だから関係無いことだ。」と言葉を濁して、理由を話してくれない。
結局旅が終わり、別れの宴で、最後だからともう一度尋ねたところ、漸く話してくれたのは・・・・・
「あの時は、旅があんまり速く進むので、私たちの身体はどんどん先へ行ってしまって、私たちの魂がとうとうついて来れなくなってしまいました。」
「仕方なく、私たちは魂が追いついてくるのを待つことにしたのです。」
まだ、それほど遠く離れてしまった訳ではなかったので、ほんの数日で魂も追いついて来れて、自分たちもまた旅を続けることが出来るようになったのだと、静かに語る相手の顔を見ながら、日本人研究者は「あなた方は日本人だからいいのだ・・・」と言われた意味を、その後も考えさせられたという。
この話を思い出した私は、ふと自分の空虚感、焦燥感とも胸騒ぎともつかない落ち着かなさ、寄る辺なさのようなものの正体は、案外私のタマシイの所在と関係があるのかな・・・などと考えた。
避難先のマンションに移るまでは、マンション全体での話し合いや個別の業者の人たちとの打ち合わせ、家族各人の意向の確認、荷物の運び出し・・・などなど、私が一番苦手としている「対人交渉」の連続だった。
漸くそれが一段落して、避難先のマンションに移動する間に、私のヤワなタマシイはいい加減クタビレて、多分どこかでズッコケて、そのまま迷子になってしまったのだろう。自宅に戻っても私は居らず、避難先にはたどり着けないまま、ヤクザでホヨヨンなタマシイは、なんだかドーデモイイような気分になってしまったのかもしれない。
結局3週間、ずっとタマシイは戻ってこなかった気がする。私はその間、ただただボー然として、何も手につかない状態で過ごした。(「心ここに在らず」という表現は、随分とリアルなものなんだな・・・などと、妙なことに感心したりした。)
その後、自宅の室内工事が終わって家に戻ってからも、まだタマシイの奴は還ってくる気配が無く、流石に自分自身と家出状態のタマシイの両方にウンザリした私は、シジミールなオニーサンに、ちょっとだけぼやいてみた。
「例のいなくなっちゃったタマシイが、今になっても還って来ないの。困ったな・・・。」
彼はごくごく当たり前のことのように、うんうんと頷いて聴いた後、気の毒そうに言った。
「無理も無いかも。それほどの騒動だったんだよ。」
「自分のペースで動く分には、タマシイも振り落とされたりしないんでしょ? 事態の動くスピードの方が速いと、どうしてもそうなり易いっていうか、世の中のペースって往々にしてそれくらいに設定されてるっていうか・・・。」
そして、ちょっと微笑んで付け加えた。
「待ってたら、そのうち帰って来るよ。」
それから数日後、朝目を覚ますと、なんだかタマシイが枕元に坐っているような気がした。それからは、私の日常も徐々に元に戻っていったと思う。
呆然と暮らした3週間、私は、実は自分は過去長い間、こういう空虚さを当たり前のこととして生きていたのではないかとふと思った。あの頃、私の中にはタマシイは存在していなかったような気がしたのだ。
私は若い頃、自分の中の海がどれほど膨大な黒いエネルギーを秘めているかを、実感するような体験をしている。「海」が大荒れに荒れる時、本人であろうとそれ以外の人間であろうと、圧倒的な力で押し潰され飲み込まれてしまうであろうということを、私は肌に直接感じて知っているようなところがあるのだと思う。
今の私が、小波は立つことがあっても大抵は穏やかに凪いだ海を抱えて生きていられるのは、タマシイがそこに浮かんで、海を落ち着かせているからなのかもしれない・・・と、今回初めて気がついた。そう、ヤワだろうがボンクラだろうが、かつては私の元に居ないかに見えた「タマシイ」なるものが、いつの間にか私の所に還ってきたからなのではないかと。
そして、私のタマシイが私の中に安住するためには、私は1人きりになってはいけないらしいことにも、文字通り「生まれて初めて」気がついた。私は過去あれほど「1人になりたい」と、ほとんど焦がれるような想いで望んだのに。
単に、歳を取ったということなのだろうか。それとも、この20年以上も誰かが身近に居る生活をしているうちに、それを当たり前と感じるようになったのだろうか。
それとも、タマシイが不在の状態では、私は1人になりたいと痛切に願うけれども、タマシイが居る状態では、寧ろ人の気配が身近にあるのを心地よく感じるような人間だったのだろうか・・・。
そういえば、『崖の上のポニョ』は、私にとっては思った以上に不思議な作用を持つ作品だったのかもしれない。
ふわふわして捉えどころの無いようなタマシイが、私の中の「海」を宥めている風景は、なんだかあの小さなポニョがクラゲの笠を被って、海面で大の字になって寝ているのと似てるんじゃないかという気がする・・・。
今回の「迷子になったタマシイ」騒動を通じて、私は、この先も自分はこうして生きていけばいいんだ・・・というイメージのようなものを、やっとどこかに持つことが出来たのかもしれないと思っている。
私が子どもの頃からあれほど「死」と隣り合わせに歩いている気がしたのも、今となっては無理無い話だったと思う。私は人並み以上に、「1人では居たくない」子どもだったのだろう。(そして、現実には、人並み以上に「1人きり」での暮らしを余儀なくされたのだ。)
『ある愛の風景』の感想でも思ったことだけれど、「今になって解ったからといって、特に良いこともなさそうな」ささやかな発見に、自分でも呆れているくらいだけれど、それでも「解るべき時が来た」のだと思うと・・・・・何とも言えない気持ちになる。
あの「ルノアールの少女」に、私は生きていてもらいたかった。
生きて、私と同じように、解っても仕方がないような頃になって、ささやかな発見を、それでも喜んでもらいたかったと、今痛切に思う。
私の迷子になったタマシイは、本当に色んなものを引き連れて、長い旅から帰ってきたのだと思う。
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/1916445eb88fddc1af8a889c2f39c69a『ルノアールの少女』
https://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/4754a8b46c526f9ccff098147d02e363『ドキドキ、どぎまぎ、シジミール』
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