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眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

『ジェリーフィッシュ』

2008-08-26 11:57:28 | 映画・本
「くらげ」を意味するタイトルのこの映画は、イスラエル=フランス合作の作品だという。最近、こういったイスラエルの映画を観る機会が増えてきた。しかも、『約束の旅路』、『迷子の警察音楽隊』など、それぞれがとても質が高いというか、色々な意味で心に残る作品で、今回観た『ジェリーフィッシュ』も、長く記憶に残る映画になりそうな気がする。

実を言うと、これまでイスラエルというのは、私にとっては世界で最も「遠い」国のひとつだったと思う。周辺のアラブ諸国の方が、ニュースだのサッカーのW杯だの、或いは日本に働きに来ている人たちのことで、まだ身近な感じがしている。

ところが、この『ジェリーフィッシュ』で描かれている世界は、そんな私にも違和感を全く感じさせないものだった。全編を通じて「海」が共通のイメージとして使われているせいか、登場人物たちと同じ水の中を泳いでいるような自然さ、心地よさで、私はずっと観ていたと思う。

映画は3つのエピソードから成っていて、どれも同じく「海」に近い首都テルアビブ(両監督が長年暮らしてきた街でもある)を舞台にしている。

パンフレットにあった監督(2人が共同)の言葉が印象的だ。

「暴力や疑念や思想的偏見があまりにも濃く充満するイスラエルの現実において、海は多くの人々にとっての避難所であり安息の場所となってきました。海は誰にとっても自由で、イスラエルで唯一人々が民族や社会的地位に縛られずに、ありのままの自分でいられる場所なのです。」


「3つのエピソード」はどれも、「愛」を相手に上手く伝えられない(或いは上手く受け取ることが出来ない)人々の孤独や渇望を描いているのだけれど、私にとって一番胸に沁みたのは、小さな頃から両親にマトモに向かい合ってもらった記憶が無いらしい、若い女性(バティア)の話だった。

彼女は海辺で、迷子になったらしい浮き輪をつけた5歳くらいの少女(実は過去の自分自身?)と出会う。行きがかりでその子を1人暮らしのアパートに連れ帰ったことから、彼女は自分がなぜ人間を信じられないのか、何に引っ掛かって八方塞のような人生に閉じ込められているのかを、知ることになる。

このバティアの両親というのが、私の眼にはナカナカ徹底した凄い人たち(自分勝手で子どもなど眼に入っていないという意味で)に見えてしまうのだけれど、案外世の中には珍しくないのだろうか。(とは言っても、実は私自身もこういう親のひとりなのかもしれない。親の方にも、子どもの気持ちを受け止めたくない場合があるのを、何となく理解できるような気がするのが、そもそもアヤシイ。)

ただ、両親が揃ってこうだったら、私がバティアの立場なら、自分が一体何者なのか、自分の人生がどこにあるのか手探りすることさえ出来ず、全てがオボロゲに感じられて、何事も自分で決定できないような人間になってしまいそうな気がするのも確かだ。(それは実際、若い頃の私自身にとてもよく似た姿だとも思う。)

いなくなってしまった女の子を、オートバイで一緒に探しに行こうと言ってくれるバイト仲間の女性カメラマンに、後ろに乗れない、なぜなら「あなたが信用できないから」と言ってしまった時、バティアは自分のヘンテコリンさに改めて気づいたのではないかと、私は思った。


「浮き輪をつけた女の子」は、その浮き輪を外そうとすると『ブリキの太鼓』の主人公のようなモノスゴイ奇声を上げる以外は、特に変わった所は無いように見える。大きな目がちょっと不思議な雰囲気を感じさせる幼い女の子で、ただひと言もものを言わないだけだ。

実はその後、バティアはその女の子のために、交通事故に遭うわ溺れかけるわ、散々な目に遭うことになる。けれどその一つ一つの出来事を通して、バティアは忘れようとしていた遠い過去に辿り着き、そこで過去の自分自身である女の子から優しい「さよなら」を受け取ったのだ・・・と、私は思った。

この映画の場合は、女の子や赤い浮き輪といった幻想のようなものとバティアの生の現実との境界が、構成上の必要性からわざと曖昧にされているのだと思うけれど、私自身は遠い昔、こういうことを現実そのものとして経験しているせいか、むしろ「人生というのは、その個人にとっては、このくらい現実と非現実(ファンタジーとでも呼ぶべきもの)が混在していても不思議ではないもの」という風に感じながら、観ていたのだと思う。この映画が私にとって「全く違和感を感じさせない」作品だったのは、そういった私個人の感じ方のせいもあったのかもしれない。


この『ジェリーフィッシュ』という映画は、実は観ている間もその直後も、私の眼には相当深刻な作品に見えた。3つのエピソードが描く孤独感はほとんど絶望に近いくらいに、その時の私には感じられたのだ。

それが、こうして1ヶ月経つ間にいつの間にか、もっと温かみのある作品に思えてきて、私は今ちょっと驚いている。


この映画は例えば、鮮やかな色と微妙な色とを上手く使い分けた美しい水彩画の絵本のようにも見える。細部に拘って、さまざまな趣向・仕掛けを凝らしてあるので、観る度に違う発見があり、ストーリーそのものも少しずつ違って見えてきそうな予感がする。そういう意味では、完成度の高い詩集のようでもある。何回もの鑑賞に耐えるような種類の作品のような気がする。

けれど、バティアと女の子以外の2つのエピソードについても、底の部分には大前提のように「死」が存在しているのを感じる。そのせいもあって、思い通りにならない人生、親しいもの同士ほど難しいコミュニケーション、求めているのに報われない(或いは伝わらない)愛情・・・といったものに縛られたり振り回されたりして「くらげ」のように生きている人間のどうにもならなさのようなものの方を、私は最初強く感じたのだろう。

けれど、そういう「どうにもならなさ」の出口を見つける手伝いをしてくれるのは、往々にして、相手のことをよく知りもしないような「他人」だったりするのだ。(これも私の経験から来る実感そのもので、私は「他人」というのはとても親切だったり優しかったりするだけでなく、時として人生そのものを支えてくれる柱になってくれたりもすると、この歳になっても思い込んでいるフシがある。)

ナディアを後ろから引き止めてくれた友人、出稼ぎに来ている家政婦のフィリピン人女性、遺書を書こうとしていた女性作家・・・彼らが皆、「出口を見つける手伝い」をしてくれたのかどうか、本当のところは分からない。気難しい自分の母親が(自分とではなく)フィリピン人女性と抱き合っているのを窓の外から目にした娘がどう思ったかは、私には分からない。結婚したばかりの妻の書いた詩に自作の詩を書き足して遺書にした女性作家のエピソードなどは、私などには人生の虚しさを象徴しているようにさえ見えてしまう。


バティアの新しい友人になったカメラマンが、無造作に言った言葉が忘れられない。

「私たちはみんな何かの第二世代よ。」


イスラエルという国では、本当にそうなのだろう。世界中から色々なきっかけで移り住むようになった、言葉や育った文化風土、或いは戦争その他の体験もさまざまな人たちが集まって、周囲のアラブ諸国との戦いを繰り返しながらその地に根付く努力を必死で続けてきたのだろうから。

「第二世代」というのは、生まれた時から目に見えない(時には言葉で説明するのも困難な)何かを、既に肩に背負っているということだと思う。平和の真っ只中で生まれ育った私が、なぜか「戦争」の第二世代なくらいなのだから、本当にイスラエルでは当然のことだろう。

そしてその重さというのは、本人が意識するかどうかは別として、相当なものがあるのだということが、私にも分かるようになっている。「第一世代」に残る傷痕とはまた違う種類の重さというのが、第二世代にはあるのだと。


それでも、この映画の背景に流れるメロディーのように、諸々の事柄全てを飲み込んだ上での「ばら色の人生」を、人は生きていくのだろう。

こうして書きながらも、自分との距離が近すぎて、感想が上手く整理して書けない。(この映画の持つ普遍性を、改めて感じるところでもあるけれど。)

ただ・・・ピアフとは全く違う、柔らかく捉えどころのないような歌い方のこの「ばら色の人生」は、映画の幻想的な雰囲気と、通常の意味での努力などではどうにもならないような閉塞感の両方に相応しく感じられて、今も耳に残っている。







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