長~い言い訳みたいな「ひとこと感想」その7。
北海道に向かうドライブ・シーンの空気感、その清々しさは今も忘れていない。チェーホフを多言語舞台劇として演じるという、その舞台裏、稽古風景も珍しく、3時間という長さも苦にはならなかった。
なのに、国内外で多くの賞を得ているというこの映画は、私の中にほとんど感慨と言えそうなものを残さなかった。
両手で受けようとしても、流れ去って何も残らない。この監督の作品は、なぜか毎回、私にそういう印象を残す。TV画面で観ただけとはいえ、『ハッピーアワー』も『寝ても覚めても」も、その影の薄さ?は同じ種類のものだ。
「どうしてなんだろう。観ているあいだはそれなりに関心を持って、面白いと思ってストーリーを追っていたと思うのに…」
観てから1年間、折に触れてその疑問が頭をよぎった。何とはなしに考え続けた挙句、今の私が思うようになったのは…
要するに、私の見ている世界とこの作り手の見せようとする世界が、どこも重ならないらしいということ。
私は、透明度は高いけれど、ぶ厚いガラスの壁越しに、この人の作り出す世界を見ている。それはフィクションやファンタジーのように見えても、私にとっては作り手の見つめる「現実」を描いたものだ(と私はいつも感じるらしい)
私は(乱暴に言えば)「現実」から離れるために、それを一時でも忘れるために、「映画」を観ている人間なので、誰かの現実(それが戯曲や舞台風景であろうと他の虚構的な物語であろうと)だけしか見せてもらえないように感じてしまうと、映画と自分との間には何の関係もなくなってしまう。
普通はここまで徹底して、そういう風に感じさせる作品に出会うことはないのだろう。「好みに合わない」「元から苦手」と分かっている分野(戦争、ホラー、過激な暴力など)だと、最初からパスしたり、そのつもりで心理的な距離を置いて観たりも出来る。「相性がよくないなあ」と、一時的に切り捨てることもある。
けれど濱口監督の作品は、一見(私のような人種に対してさえ)フレンドリーに見えるので、私が勘違いしてしまうのだと思う。
もっと何か(心に)残っててもいいのに… と後から思うのは寂しい。でも至極当然のように、記憶を探るたびそういう思いを味わう。私はそれが(もしかしたら)辛いのかもしれない。
先日地元の美術館ホールで、濱口竜介監督特集という上映会があり、本人のトークもあると知ってはいたけれど、気が進まなくて結局行かなかった。思い込み?を訂正するいい機会を逃したのかもしれないけれど、どうしても行く気になれなかった。
見方を変えれば、「今回は縁がなかった(^^;」 或いは「それくらい本気で、この監督の作品のことを考え続けている」(どちらも違っているかもしれないけど)
取りあえず… 次に濱口作品を観にいくとしたら、あまり一生懸命理解しようとはせず、距離を置いて、純粋に娯楽として楽しむつもりで、観てこようと思う。(やっとそこまで辿り着いた自分。メンドクサイ奴だな~)
同感です。この映画の後で見た他の映画で気がつきました。
この映画では、岡田君の演技がよかったです。車の中のシーンの緊張感。受けた西島君もよかったなぁ。
完全に忘れてました(ヒドイなあ)(^^;
でも、あのシーンは凄かったですね。
映画ってタダナラナイものだと思いました。
岡田くんも西島さんも本当によかった。
こうして思い出させてもらうと感動が蘇るんだから
あんまり冷めたことも言えない映画だったのかも(^^;