障がいがある人に接していると、さまざまな固定観念が潰されていく。
自身にも障がいがあり、いくら努力をしても出来ることには限界があり、
「ふつうはこうするものだ」というふつうができないことがいっぱいある。
いくら頑張ったって努力をしたってどうにもならないこともいっぱいあるが、
それでも生きている。
かつて『典子は今』という映画があった。
主人公の彼女は、母親が妊娠中に服薬したサリドマイドにより
両腕の無い状態で生まれてきた。
しかし器用に両足で包丁と野菜を握り、まな板の上で切っていく。
少し高い台の上に載って両足でフライパンで炒め物をつくり
自立生活をされていた。
私はこれまでは両親から「食べ物を足で粗末にしてはいけない」と教えられてきたので
彼女の調理する姿が衝撃的で、何気ない教訓でさえも彼女を傷つけてきたと知り
これまでは当たり前で正しいことと思われることでも疑ってかかり
正しい見方へと修正しながら自身を淘汰していく生き方が始まった。
こんなふうに受け止めていけば、
この世の中にはどれほどの固定観念が氾濫しているのかが分かってきた。
この固定観念こそが我々を押さえつけて生きにくくしている。
ケガや病気、うつなどで苦しんでおられる人たちを見ていて
この固定観念がなければ、もっと自由に生きられるのにと思うことが多い。
私は障がいのある人に接することでたくさんのことを淘汰してきた。
そのおかげで自由な発想が出来るようになってきた。
ひとつのイベントでも開催する側の立場と参加する立場に
ギャップを感じることもあるが、双方を経験することで無くしていける
固定観念も少なくない。
私はあの映画以降、さまざまな障がいのある人に接するように心掛け、
障がいのある人に助けられ、人生を幸せにしてもらっている。
自身にも障がいがあり、いくら努力をしても出来ることには限界があり、
「ふつうはこうするものだ」というふつうができないことがいっぱいある。
いくら頑張ったって努力をしたってどうにもならないこともいっぱいあるが、
それでも生きている。
かつて『典子は今』という映画があった。
主人公の彼女は、母親が妊娠中に服薬したサリドマイドにより
両腕の無い状態で生まれてきた。
しかし器用に両足で包丁と野菜を握り、まな板の上で切っていく。
少し高い台の上に載って両足でフライパンで炒め物をつくり
自立生活をされていた。
私はこれまでは両親から「食べ物を足で粗末にしてはいけない」と教えられてきたので
彼女の調理する姿が衝撃的で、何気ない教訓でさえも彼女を傷つけてきたと知り
これまでは当たり前で正しいことと思われることでも疑ってかかり
正しい見方へと修正しながら自身を淘汰していく生き方が始まった。
こんなふうに受け止めていけば、
この世の中にはどれほどの固定観念が氾濫しているのかが分かってきた。
この固定観念こそが我々を押さえつけて生きにくくしている。
ケガや病気、うつなどで苦しんでおられる人たちを見ていて
この固定観念がなければ、もっと自由に生きられるのにと思うことが多い。
私は障がいのある人に接することでたくさんのことを淘汰してきた。
そのおかげで自由な発想が出来るようになってきた。
ひとつのイベントでも開催する側の立場と参加する立場に
ギャップを感じることもあるが、双方を経験することで無くしていける
固定観念も少なくない。
私はあの映画以降、さまざまな障がいのある人に接するように心掛け、
障がいのある人に助けられ、人生を幸せにしてもらっている。