日本人は長らく法華経を、僧侶は漢訳経典を音読で、在家の多くはその漢訳を読み下して読誦してきた。もともと法華経はサンスクリット語で書かれていた。いまはその写本のうちのネパール本・中央アジア本・カシミール本の写本が残る。原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』、すなわち『白い蓮華のように正しい教えの経典』。それが漢訳・チベット語訳・ウイグル語訳などをへて、近代になると英訳・仏訳・日本語訳などとなってきた。漢訳は「六訳三存三欠」といわれるが、笠法護(じくほうご)や鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)らの6種類の翻訳となり、さらにそのうちの3種だけが現存する。『妙法蓮華経』というのは鳩摩羅什の訳になる。
日本人は長きにわたって漢訳仏典に従ってきた。例えていえばシェイクスピアやゲーテを最初から漢訳で読んできたようなもの、シェイクスピアの英語やゲーテのドイツ語の原典に当たったうえで、日本語訳もそこからの訳で読むのが一般的な話だが、仏典にあっても、サンスクリット原典からの法華経日本語訳が必要かもしれない。漢訳文語調でも内容が相当に堅い。少し現代日本語に近づけたものが岩本裕訳のものだが、それでもやはり漢文読み下しふうになっている。長らく、岩波文庫版として流布していたので、たいていの法華経ファンはこれを読んできた。それよりずっと現代語っぽいのは、レグルス文庫の『法華経現代語訳』3冊(第三文明社・1974)で、三枝充悳さんの思いきった訳だ。これなら法華経の内容がよく分かる。漢文読み下しにくらべると格調はないが、よく理解はできる。ほぼ同時期、中央公論社の『法華経Ⅰ・Ⅱ』(松濤誠廉・長尾雅人訳・1975)も出た。その他の試みもいろいろ出たが、植木さんの徹底したサンスクリット原典からの現代語訳も出ている。
ところで、松下真一が『法華経と原子物理学』(光文社)を書いたのは1979年で、その前にわずかにフリッチョフ・カプラが『タオ自然学』(工作舎)で華厳経とタオイズムと量子物理学を交差させているのも目立つ。松下真一は数学者としては、ハンブルク大学理論物理学研究所の位相解析学の研究員。それまで生体量子力学と法華経を一緒に語るなんて、そんな無謀なことを平気で言うような科学者や仏教学者はいなかった。
さて、大乗仏教における「菩薩」や「菩薩行」とはいったい何かということが気になる。法華経が演出した「地湧(じゆ)の菩薩」の満を持した覚悟の意味と、「常不軽(じょうふきょう)菩薩」の不思議なキャラクタリゼーションにも興味が出る。地湧の菩薩は法華経の第15「従地湧出品」(じゅう・じゆしゅつほん)に登場する。その名の通り、大地を割って出現した六万恒河沙の菩薩たち。ブッダが涅槃に入ったのち、その信仰の本来の意図が伝わりにくくなっていた時、ついに地面から出現したのが地湧の菩薩たちだ。この地湧の菩薩が出現してくる瞬間から法華経は劇的に転回していく。なぜ如来にならず、菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものがあるのか。それらを払拭したのが法華経の「地湧の菩薩」だ。いや、法華経における「地湧の菩薩」の巧みな登場でもある。これは、法華経におけるブッダが示した鍵に対する凹んだ鍵穴だった。菩薩(ボーディ・サットヴァ)とは、ブッダが覚醒する以前の悟りを求めつつある時期のキャラクタリゼーションをいう。しかし法華経においては、その格別特定のブッダの鍵がカウンター・リバースして、いつのまにか菩薩一般という鍵穴になった。
一方の常不軽(じょうふきょう)菩薩は、法華経第20の「常不軽菩薩品」に登場する。鳩摩羅什の漢訳では「常に軽んじない菩薩」(不軽)という漢名をもっているが、サンスクリット原典では一見、「常に軽蔑されている菩薩」とも読めるようになっている。植木氏は、「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」と訳している。この菩薩は鍵と鍵穴の関係をさらに出て、菩薩と世界の、菩薩と人々との“抜き型”そのものになる。常不軽菩薩がこのような、アンビバレントな(両価的、相反する感情を持つ)名前をもっていることも意味深長だが、この菩薩は、乞食のような恰好のまま、誰だって成仏できますと言い歩く、そこが不思議だ。そんな安直なことを急に言われても、誰も納得するはずがない。みんなに罵られ、石を投げられ、打たれたりする。それなのに常不軽菩薩はあいかわらず誰に対してもひたすら礼拝をする。あるいはひたすら菩薩の気持ちを述べる。この常不軽菩薩のキャラクタリゼーションが法華経全巻において燻し銀のごとく光る。「愚」であり、「忍」でもある。いわば常不軽菩薩は「誰も知らない菩薩者」として法華経に登場して、この菩薩こそ“何の説明もないすべての可能性”にもなっている。
そもそも仏教は、ブッダ亡きあとに長い時間と多くの信仰者と人士をもって複合的に組み立てられた。当然、経典もさまざまな編集プロセスをもって成立していった。仏典結集(けつじゅう)の試みは、ブッタ没後の直後から200年間ほどは口伝のままだった。ブッタが話していたのはマガタ語だが、それがどんなものであるかは、良くわかっていない。しだいにリテラシーをともなって紀元前250年前後のアショーカ王の頃の第三結集に及ぶ。ここで初めてサンスクリット語とブラフミー文字(アショーカ王碑文文字)が使われる。ほかにカローシュティー文字も使われた。記録にのこるリテラルな文書性が交わされたことは、リテラシーの対立を生み、それが思索の対立にもなった。
アショーカ王の時代、すでに仏教教団の内部や信仰者たちの間には議論や論争や対立が絶えず、仏教活動は激しく分派していった。ブッダの教えを守るのか教団の規律を重視するのかというコンプライアンスの問題による対立がきっかけで、大きくは伝統順守派の上座(じょうざ)部と時代適応派の大衆(だいしゅ)部に分かれた(根本分裂)。その対立部派が紀元前1世紀頃は20くらいの部派になって定着し(枝末分裂)、いくつものアビダルマ(論書)が編集された。これが「部派仏教」といわれるのだが、それぞれのリテラル・ロジックはそれなりに強烈だった。そうした部派仏教はもっぱら自己解脱をめざしていて、自己修行し、自己思索を深めていくことを主眼としていたので、やがてそのような態度を批判する連中も出てくる。それを乗りこえようとする動きも出てきた。これが大乗仏教ムーブメント。ここに大乗経典の執筆編集がとりくまれる。けれども、この執筆編集は決して容易なことではない。当然、それまでの部派仏教とは異なる解釈や展望がなければならないし、部派仏教の信徒やアビダルマの研究者も、ブッダの教えにもとづいた熱心な者たち、彼等を排斥するわけにはいかない。そこで大乗ムーブメントの推進者たちは、彼等をひとまず「声聞」(しょうもん)と呼ぶことにし、そこからさらに解脱をめざしながらも独りごちしている者たちを「縁覚」(えんかく)として位置づけ、その二乗(声聞・縁覚のこと)からさらに「利他行」に転じていった者を「菩薩」と位置づけることにした。
そのようにしたうえで、法華経の編者たちは大乗以前の考え方と大乗以降の考え方を、コンセプトにおいてもリプリゼンテーションの方法においても、うまくつなぐことを試みた。かくて西暦50年ころ、奇しくもキリスト教が確立していった時期にあたるが、今日の法華経構成でいう、第2「方便品」から第9「授学無学人記品」までの3分の1くらいが書かれ流布していった。これだけでは、小乗から大乗への転換はまだまだうまくはたせない。折しも時代状況の変化やヒンドゥイズムとブッディズムの確執もあった。西暦100年前後に、さらに第10「法師品」から第21「嘱類品」と「序品」が加わり、ここに第15「従地湧出品』や第16「如来寿量品」が入る、最終的には150年前後あたりで第23「薬王菩薩本事品」から第28「普賢菩薩勧発品」が添加編集され、ほぼ今日の構成にできあがる。こういう多様な編集プロセスがあったが、最も重要な転換は、なんといっても「菩薩行」としての大乗思想を提案することだった。これを法華教学では「一仏乗」の思想達成というが、ここに登場したのが「地湧の菩薩」だ。
総称して菩薩群、あるいは菩薩団。その一般化。これによって声聞・縁覚の小乗的ブッディズム理解が「一仏乗」に向かって一挙に止揚する。大乗仏教以前と大乗仏教以降は、まさに菩薩行の関係的介在によってなんとかつながりそうになる。しかしながら、まだ不具合もおこる。例えば、なぜブッダが教えを説いたときからそのような菩薩たちは登場していないのか。なぜ声聞や縁覚は出遅れたのか。自分の自覚と他者の救済は同時にできるのか。それらについての説明はまだできてない。このままでは経典中でのブッダの教えが小乗時代の説法と大乗時代の説法とで変節しているようにも見える。その理由が説明できない。ここにおいて「ブッダの方便」が披露される。あるいは「法華の七喩」(法華経には有名な7つの譬喩が用いられている)といわれる数々のメタファーが駆使される。法華経にはいろいろのレトリックやメタファーがある。総じて「方便」というものだ。方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用している。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの教えが永遠なものだと伝えるために、人手をつかい時間を費やして書かれたのだ。
ブッダは80歳で死ぬが、「仏としての永遠」もある。ブッダが菩提樹のもとで成仏したというのは方便であって、ほんとうのことをいえばブッダはずっと昔、久遠のときに成仏していた。法華経は後半部に進むにしたがって説いているのだが、衆生(しゅじょう)を救済するためにブッダはいったん涅槃に入る姿を示すが実態としての涅槃に入るのではない。この法華経をいま説いている霊鷲山(りょうじゅせん)において(法華経の序品はこの霊鷲山でブッダが説法をする場面から始まる)、ブッダは今も説教しつづけているという。驚くべき転換だ。いわば“意図のカーソル”とでもいうものを大きく動かした。それを、第15「従地湧出品」に続く第16「如来寿量品」で説明し、下地は第2「方便品」や第3「譬喩品」で用意され、「久遠の仏」としてのブッダの存在が確立する。歴史上のブッダは生身というが、これに対して永遠のブッダは「法身」(ほっしん)。しかし、ブッダは生存中に成仏・成道し、偉大な智慧を獲得した者でもあるから、その至高の智慧となるブッダ覚醒の内容は「報身」。では生身で亡くなるブッダとは何者か。死んで涅槃に入る、けれどもそれはまた、単なる死ではない、悟ったまま涅槃に入る。そのブッダを「応身」とする。ブッダは法身・報身・応身の三身にわたって過去・現在・未来をまたぐ時空を変化していたということになる。もともとそのような変化を見せる永遠性がすでにどこかで準備されていた。法華経のテキストは法華経を読む者たちが疑問をもつ場面があるだろうことも先取りしている。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いてから教えを広めて、そこから数えて40年程度にしかならないのに、どうして久遠の昔から教えを説けるということになるのか。ブッダがいよいよその意味を証していくのが法華経の後段になる。
「従地湧出品」とそれに続く「如来寿量品」は、そのブッダ存在の核心部になる。法華経は28品で構成されており、品は「ほん」と読む。「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になっているが、わかりやすく算用数字をあてれば、1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩観発品」となる。この構成が大きくは前半と後半に分かれる。ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっている。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは真実の永遠のブッダとなる。
キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと釈然としないものがある。だが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それよりもはるかに勝ったものが感じられる。菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになった。その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるが、そのひとつ、ふたつを示すと、4「信解品」に仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌(もうろく)したのかもしれないと言う一節だ。この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちだ。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことで「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解していたらしい。だから耄碌(もうろく)したのかもしれないと自分たちのことを語る。そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性を開くのだ。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファー(隠喩)による転換を示している。
つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもってゆく。その説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」に表れている。また、たとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとする(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまう。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈になるのだが、深く読むと、「法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら去りなさい」、そう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは大胆な演出だ。法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかアタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れる、イメージの束だから、ついついメタフォリカルになる、それを怠らない。それゆえ、ここは肝腎なところだが、完成した法華経を読みこんでゆくと、方便や比喩は単なるレトリックではないことがわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げる、それこそが法華経の妙とも言える。
だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせる。法華経の外観はよくできたドラマになっている。場面も移っていく、登場人物も多い。別々にできあがったエピソードやプロットをできるかぎり一貫したスクリプトのなかに収めようとしている。また、法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)が機能している。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」という。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だ。つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいる。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわす。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)にもなっている。この蝶番の機能は、法華経で「開近顕遠」(かいごんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)といわれるものだ。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしき教えから真実の教えを導くというものだ。法華経は用意周到に編集構成されている。
そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだが、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現する。ブッダが「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのように受けとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつける。そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発している。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを試みる。道は険しかったが、ブッダはついに覚悟し、バラモン社会から離れていく。覚悟したブッダは、世界を「一切皆苦」とみなし、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になる。ブッダは悟るが、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、深く研究もされた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法であった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていった。あとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界であった。これを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをし、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかる。その「2+1」を進めるにはどうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされた。これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判とする。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも一仏乗にしていこうというスキームだ。インド的な見方というよりも、むしろ中国仏教(天台大師)が得意とするハイパーロジカルな表現である。
これまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国の天台智顗大師の命名だ。法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本の後、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に着く。ここで法華経が漢訳されると徹底した解釈が加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していく。法華経の漢訳にとりくんだ鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、344年にクチャに生まれ、父親はインド出身の高貴な出家者で、母親はクチャの国王の妹だった。幼少期から仏法の重要性を教えられて育った鳩摩羅什は、やがて自身でもカシュガルに出向いて小乗仏教を修め、さらにはサンスクリット本の初期大乗経典を読む。その名声に関心をもったクチャ王の白純は鳩摩羅什をあらためて国で迎えることにした。関中にあって勢力を張り出していた前秦の符堅が羅什の名声を利用してクチャを攻略することを思いつく。かくて符堅が派遣した呂光は西域諸国を攻めてクチャ王を殺害、羅什を捕虜とした。それから17年間、羅什は涼州に停住させられる。しかし涼州を姚興が平定すると、姚興は羅什を国師として長安に招く。ここから鳩摩羅什が逍遥園のなかの西明閣や長安大寺で、数々の仏教経典の漢訳に取り組む。その質量、35部294巻といわれるが、その最たる漢訳が、先行していた笠法護の『正法蓮華経』を一変させる『妙法蓮華経』だった。
鳩摩羅什は他にも『阿弥陀経』『維摩経』『中論』『十二門論』『大智度論』などを漢訳した。廬山の慧遠(えおん)と交わした往復書簡集『大乗大義章』も興味深い。この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲が受け継ぎ、更に中国(当時の国は「随」)の天台智顗が徹底的に分析を始め、『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などを著述(天台三大部といわれる)し、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造が明らかにされた。智顗はその上かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつける。こうして中国法華経学が起爆した。こうした中国仏教における法華経解釈には、当然ながらいつくかの大きな特色がある。そもそも鳩摩羅什の長安における漢訳が国家的文化事業であったことにあらわれているように、中国において仏法は王法にも匹敵できる。そこには儒教やタオイズムとの優勝劣敗が必ずともなう。中国では最初から大乗仏教が優先されており、インド仏教のような部派仏教との争いがない。そのためかえって、大乗仏教の中の何が最も優秀なのかという議論が途絶えなかった。華厳経・法華経・維摩経・涅槃経はつねに判定を受け続ける。それは「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)といわれるが、たとえば「三乗方便・一乗真実」という見方は、たちまち「三乗真実・一乗方便」というふうに逆転もされた。こういう面倒な議論は朝鮮半島にも日本にもその傾向は流れてきた。たとえば鑑真が来朝するにあたっては、天台三大部をもちこんだ。一方、日本の法華経信仰はまず聖徳太子に始まる。その『法華義疎』は法雲の注釈からの引用が多い。ついで最澄による『法華秀句』が出て、さかんに法華八講や法華十講がおこなわれるようになる。法華経を紺紙に金泥で写す装飾経、法華経の一文字ずつを蓮弁に書く蓮台経、扇面に法華経を綴る扇面法華経、清盛が厳島神社に奉納した平家納経、道長の大和金峰山でのものが有名な埋経など、まさに法華経はまたたくまに人心と官能をとらえていった。
しかし、こうした和風の法華経感覚ともいうべきものに対し、独自の法華経を確立した法華経行者が登場した。その不惜身命(ふしゃくしんみょう)の行動といい、インドはむろん、中国仏教者にもいなかった。そもそも「南無妙法蓮華経」という題目、インドにも中国にもない。特に、10「法師品」から22「嘱累品」をつぶさに検証し、そこに殉教・殉難の精神の系譜を示したことも独創的だ。12「提婆達多品」(だいばだったほん)のことを付言すると、法華経はこの直前の11「見宝塔品」で、法華経の弘通に力を尽くす者がどんなにすばらしいかを説く。第12品では、その弘通を阻もうとする提婆達多さえ、悪人成仏の可能性をもっていることにつなげる。もとより提婆達多(デーヴァダッタ)は仏法を迫害する悪魔であって魔王のようなものだが、キリスト教ならサタンやアンチ・キリストにあたる。ところがブッダはこの提婆達多に感謝する理由として、こんな話をする。ある国の国王がその国の人々を救いたいと考えた。しかしそのためには法を求めなければならない。それには国王の座を捨てたほうがいい。けれども、その法をどこで学べばいいか。もしそのようなことを教えてくれる者がいるのなら、自分はその召使いになってもいいと考えた。そのとき阿私仙人という男がやってきて、自分は法をよく知っていると言うので、国王はよろこんで仙人の身のまわりの世話をした。いくら仕えても飽きることがないという。ブッダが、この話の裏を言う。国王とは実は自分のことなのだと明かす。そして、その仙人とは提婆達多であったことも明かす。もともと提婆達多はブッダの従兄弟(いとこ)にあたっていて、その弟が多聞第一といわれた阿難であった。ブッダと提婆達多は若いころからのライバルだった。後半には8歳の龍女にも成仏の可能性があるとなっていく。第12品でも舎利弗が龍女に、おまえはそんな資格がないと言う。しかし龍女が身につけていた宝珠をブッダにさしあげると、龍女は男子に変成する、これが有名な「男子変成」(なんしへんじょう)の話。法華経は実に壮大なドラマになっており、見事なストーリーになっている。
日本人は長きにわたって漢訳仏典に従ってきた。例えていえばシェイクスピアやゲーテを最初から漢訳で読んできたようなもの、シェイクスピアの英語やゲーテのドイツ語の原典に当たったうえで、日本語訳もそこからの訳で読むのが一般的な話だが、仏典にあっても、サンスクリット原典からの法華経日本語訳が必要かもしれない。漢訳文語調でも内容が相当に堅い。少し現代日本語に近づけたものが岩本裕訳のものだが、それでもやはり漢文読み下しふうになっている。長らく、岩波文庫版として流布していたので、たいていの法華経ファンはこれを読んできた。それよりずっと現代語っぽいのは、レグルス文庫の『法華経現代語訳』3冊(第三文明社・1974)で、三枝充悳さんの思いきった訳だ。これなら法華経の内容がよく分かる。漢文読み下しにくらべると格調はないが、よく理解はできる。ほぼ同時期、中央公論社の『法華経Ⅰ・Ⅱ』(松濤誠廉・長尾雅人訳・1975)も出た。その他の試みもいろいろ出たが、植木さんの徹底したサンスクリット原典からの現代語訳も出ている。
ところで、松下真一が『法華経と原子物理学』(光文社)を書いたのは1979年で、その前にわずかにフリッチョフ・カプラが『タオ自然学』(工作舎)で華厳経とタオイズムと量子物理学を交差させているのも目立つ。松下真一は数学者としては、ハンブルク大学理論物理学研究所の位相解析学の研究員。それまで生体量子力学と法華経を一緒に語るなんて、そんな無謀なことを平気で言うような科学者や仏教学者はいなかった。
さて、大乗仏教における「菩薩」や「菩薩行」とはいったい何かということが気になる。法華経が演出した「地湧(じゆ)の菩薩」の満を持した覚悟の意味と、「常不軽(じょうふきょう)菩薩」の不思議なキャラクタリゼーションにも興味が出る。地湧の菩薩は法華経の第15「従地湧出品」(じゅう・じゆしゅつほん)に登場する。その名の通り、大地を割って出現した六万恒河沙の菩薩たち。ブッダが涅槃に入ったのち、その信仰の本来の意図が伝わりにくくなっていた時、ついに地面から出現したのが地湧の菩薩たちだ。この地湧の菩薩が出現してくる瞬間から法華経は劇的に転回していく。なぜ如来にならず、菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものがあるのか。それらを払拭したのが法華経の「地湧の菩薩」だ。いや、法華経における「地湧の菩薩」の巧みな登場でもある。これは、法華経におけるブッダが示した鍵に対する凹んだ鍵穴だった。菩薩(ボーディ・サットヴァ)とは、ブッダが覚醒する以前の悟りを求めつつある時期のキャラクタリゼーションをいう。しかし法華経においては、その格別特定のブッダの鍵がカウンター・リバースして、いつのまにか菩薩一般という鍵穴になった。
一方の常不軽(じょうふきょう)菩薩は、法華経第20の「常不軽菩薩品」に登場する。鳩摩羅什の漢訳では「常に軽んじない菩薩」(不軽)という漢名をもっているが、サンスクリット原典では一見、「常に軽蔑されている菩薩」とも読めるようになっている。植木氏は、「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」と訳している。この菩薩は鍵と鍵穴の関係をさらに出て、菩薩と世界の、菩薩と人々との“抜き型”そのものになる。常不軽菩薩がこのような、アンビバレントな(両価的、相反する感情を持つ)名前をもっていることも意味深長だが、この菩薩は、乞食のような恰好のまま、誰だって成仏できますと言い歩く、そこが不思議だ。そんな安直なことを急に言われても、誰も納得するはずがない。みんなに罵られ、石を投げられ、打たれたりする。それなのに常不軽菩薩はあいかわらず誰に対してもひたすら礼拝をする。あるいはひたすら菩薩の気持ちを述べる。この常不軽菩薩のキャラクタリゼーションが法華経全巻において燻し銀のごとく光る。「愚」であり、「忍」でもある。いわば常不軽菩薩は「誰も知らない菩薩者」として法華経に登場して、この菩薩こそ“何の説明もないすべての可能性”にもなっている。
そもそも仏教は、ブッダ亡きあとに長い時間と多くの信仰者と人士をもって複合的に組み立てられた。当然、経典もさまざまな編集プロセスをもって成立していった。仏典結集(けつじゅう)の試みは、ブッタ没後の直後から200年間ほどは口伝のままだった。ブッタが話していたのはマガタ語だが、それがどんなものであるかは、良くわかっていない。しだいにリテラシーをともなって紀元前250年前後のアショーカ王の頃の第三結集に及ぶ。ここで初めてサンスクリット語とブラフミー文字(アショーカ王碑文文字)が使われる。ほかにカローシュティー文字も使われた。記録にのこるリテラルな文書性が交わされたことは、リテラシーの対立を生み、それが思索の対立にもなった。
アショーカ王の時代、すでに仏教教団の内部や信仰者たちの間には議論や論争や対立が絶えず、仏教活動は激しく分派していった。ブッダの教えを守るのか教団の規律を重視するのかというコンプライアンスの問題による対立がきっかけで、大きくは伝統順守派の上座(じょうざ)部と時代適応派の大衆(だいしゅ)部に分かれた(根本分裂)。その対立部派が紀元前1世紀頃は20くらいの部派になって定着し(枝末分裂)、いくつものアビダルマ(論書)が編集された。これが「部派仏教」といわれるのだが、それぞれのリテラル・ロジックはそれなりに強烈だった。そうした部派仏教はもっぱら自己解脱をめざしていて、自己修行し、自己思索を深めていくことを主眼としていたので、やがてそのような態度を批判する連中も出てくる。それを乗りこえようとする動きも出てきた。これが大乗仏教ムーブメント。ここに大乗経典の執筆編集がとりくまれる。けれども、この執筆編集は決して容易なことではない。当然、それまでの部派仏教とは異なる解釈や展望がなければならないし、部派仏教の信徒やアビダルマの研究者も、ブッダの教えにもとづいた熱心な者たち、彼等を排斥するわけにはいかない。そこで大乗ムーブメントの推進者たちは、彼等をひとまず「声聞」(しょうもん)と呼ぶことにし、そこからさらに解脱をめざしながらも独りごちしている者たちを「縁覚」(えんかく)として位置づけ、その二乗(声聞・縁覚のこと)からさらに「利他行」に転じていった者を「菩薩」と位置づけることにした。
そのようにしたうえで、法華経の編者たちは大乗以前の考え方と大乗以降の考え方を、コンセプトにおいてもリプリゼンテーションの方法においても、うまくつなぐことを試みた。かくて西暦50年ころ、奇しくもキリスト教が確立していった時期にあたるが、今日の法華経構成でいう、第2「方便品」から第9「授学無学人記品」までの3分の1くらいが書かれ流布していった。これだけでは、小乗から大乗への転換はまだまだうまくはたせない。折しも時代状況の変化やヒンドゥイズムとブッディズムの確執もあった。西暦100年前後に、さらに第10「法師品」から第21「嘱類品」と「序品」が加わり、ここに第15「従地湧出品』や第16「如来寿量品」が入る、最終的には150年前後あたりで第23「薬王菩薩本事品」から第28「普賢菩薩勧発品」が添加編集され、ほぼ今日の構成にできあがる。こういう多様な編集プロセスがあったが、最も重要な転換は、なんといっても「菩薩行」としての大乗思想を提案することだった。これを法華教学では「一仏乗」の思想達成というが、ここに登場したのが「地湧の菩薩」だ。
総称して菩薩群、あるいは菩薩団。その一般化。これによって声聞・縁覚の小乗的ブッディズム理解が「一仏乗」に向かって一挙に止揚する。大乗仏教以前と大乗仏教以降は、まさに菩薩行の関係的介在によってなんとかつながりそうになる。しかしながら、まだ不具合もおこる。例えば、なぜブッダが教えを説いたときからそのような菩薩たちは登場していないのか。なぜ声聞や縁覚は出遅れたのか。自分の自覚と他者の救済は同時にできるのか。それらについての説明はまだできてない。このままでは経典中でのブッダの教えが小乗時代の説法と大乗時代の説法とで変節しているようにも見える。その理由が説明できない。ここにおいて「ブッダの方便」が披露される。あるいは「法華の七喩」(法華経には有名な7つの譬喩が用いられている)といわれる数々のメタファーが駆使される。法華経にはいろいろのレトリックやメタファーがある。総じて「方便」というものだ。方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用している。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの教えが永遠なものだと伝えるために、人手をつかい時間を費やして書かれたのだ。
ブッダは80歳で死ぬが、「仏としての永遠」もある。ブッダが菩提樹のもとで成仏したというのは方便であって、ほんとうのことをいえばブッダはずっと昔、久遠のときに成仏していた。法華経は後半部に進むにしたがって説いているのだが、衆生(しゅじょう)を救済するためにブッダはいったん涅槃に入る姿を示すが実態としての涅槃に入るのではない。この法華経をいま説いている霊鷲山(りょうじゅせん)において(法華経の序品はこの霊鷲山でブッダが説法をする場面から始まる)、ブッダは今も説教しつづけているという。驚くべき転換だ。いわば“意図のカーソル”とでもいうものを大きく動かした。それを、第15「従地湧出品」に続く第16「如来寿量品」で説明し、下地は第2「方便品」や第3「譬喩品」で用意され、「久遠の仏」としてのブッダの存在が確立する。歴史上のブッダは生身というが、これに対して永遠のブッダは「法身」(ほっしん)。しかし、ブッダは生存中に成仏・成道し、偉大な智慧を獲得した者でもあるから、その至高の智慧となるブッダ覚醒の内容は「報身」。では生身で亡くなるブッダとは何者か。死んで涅槃に入る、けれどもそれはまた、単なる死ではない、悟ったまま涅槃に入る。そのブッダを「応身」とする。ブッダは法身・報身・応身の三身にわたって過去・現在・未来をまたぐ時空を変化していたということになる。もともとそのような変化を見せる永遠性がすでにどこかで準備されていた。法華経のテキストは法華経を読む者たちが疑問をもつ場面があるだろうことも先取りしている。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いてから教えを広めて、そこから数えて40年程度にしかならないのに、どうして久遠の昔から教えを説けるということになるのか。ブッダがいよいよその意味を証していくのが法華経の後段になる。
「従地湧出品」とそれに続く「如来寿量品」は、そのブッダ存在の核心部になる。法華経は28品で構成されており、品は「ほん」と読む。「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になっているが、わかりやすく算用数字をあてれば、1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩観発品」となる。この構成が大きくは前半と後半に分かれる。ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっている。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは真実の永遠のブッダとなる。
キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと釈然としないものがある。だが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それよりもはるかに勝ったものが感じられる。菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになった。その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるが、そのひとつ、ふたつを示すと、4「信解品」に仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌(もうろく)したのかもしれないと言う一節だ。この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちだ。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことで「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解していたらしい。だから耄碌(もうろく)したのかもしれないと自分たちのことを語る。そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性を開くのだ。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファー(隠喩)による転換を示している。
つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもってゆく。その説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」に表れている。また、たとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとする(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまう。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈になるのだが、深く読むと、「法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら去りなさい」、そう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは大胆な演出だ。法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかアタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れる、イメージの束だから、ついついメタフォリカルになる、それを怠らない。それゆえ、ここは肝腎なところだが、完成した法華経を読みこんでゆくと、方便や比喩は単なるレトリックではないことがわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げる、それこそが法華経の妙とも言える。
だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせる。法華経の外観はよくできたドラマになっている。場面も移っていく、登場人物も多い。別々にできあがったエピソードやプロットをできるかぎり一貫したスクリプトのなかに収めようとしている。また、法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)が機能している。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」という。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だ。つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいる。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわす。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)にもなっている。この蝶番の機能は、法華経で「開近顕遠」(かいごんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)といわれるものだ。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしき教えから真実の教えを導くというものだ。法華経は用意周到に編集構成されている。
そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだが、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現する。ブッダが「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのように受けとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつける。そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発している。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを試みる。道は険しかったが、ブッダはついに覚悟し、バラモン社会から離れていく。覚悟したブッダは、世界を「一切皆苦」とみなし、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になる。ブッダは悟るが、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、深く研究もされた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法であった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていった。あとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界であった。これを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをし、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかる。その「2+1」を進めるにはどうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされた。これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判とする。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも一仏乗にしていこうというスキームだ。インド的な見方というよりも、むしろ中国仏教(天台大師)が得意とするハイパーロジカルな表現である。
これまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国の天台智顗大師の命名だ。法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本の後、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に着く。ここで法華経が漢訳されると徹底した解釈が加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していく。法華経の漢訳にとりくんだ鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、344年にクチャに生まれ、父親はインド出身の高貴な出家者で、母親はクチャの国王の妹だった。幼少期から仏法の重要性を教えられて育った鳩摩羅什は、やがて自身でもカシュガルに出向いて小乗仏教を修め、さらにはサンスクリット本の初期大乗経典を読む。その名声に関心をもったクチャ王の白純は鳩摩羅什をあらためて国で迎えることにした。関中にあって勢力を張り出していた前秦の符堅が羅什の名声を利用してクチャを攻略することを思いつく。かくて符堅が派遣した呂光は西域諸国を攻めてクチャ王を殺害、羅什を捕虜とした。それから17年間、羅什は涼州に停住させられる。しかし涼州を姚興が平定すると、姚興は羅什を国師として長安に招く。ここから鳩摩羅什が逍遥園のなかの西明閣や長安大寺で、数々の仏教経典の漢訳に取り組む。その質量、35部294巻といわれるが、その最たる漢訳が、先行していた笠法護の『正法蓮華経』を一変させる『妙法蓮華経』だった。
鳩摩羅什は他にも『阿弥陀経』『維摩経』『中論』『十二門論』『大智度論』などを漢訳した。廬山の慧遠(えおん)と交わした往復書簡集『大乗大義章』も興味深い。この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲が受け継ぎ、更に中国(当時の国は「随」)の天台智顗が徹底的に分析を始め、『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などを著述(天台三大部といわれる)し、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造が明らかにされた。智顗はその上かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつける。こうして中国法華経学が起爆した。こうした中国仏教における法華経解釈には、当然ながらいつくかの大きな特色がある。そもそも鳩摩羅什の長安における漢訳が国家的文化事業であったことにあらわれているように、中国において仏法は王法にも匹敵できる。そこには儒教やタオイズムとの優勝劣敗が必ずともなう。中国では最初から大乗仏教が優先されており、インド仏教のような部派仏教との争いがない。そのためかえって、大乗仏教の中の何が最も優秀なのかという議論が途絶えなかった。華厳経・法華経・維摩経・涅槃経はつねに判定を受け続ける。それは「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)といわれるが、たとえば「三乗方便・一乗真実」という見方は、たちまち「三乗真実・一乗方便」というふうに逆転もされた。こういう面倒な議論は朝鮮半島にも日本にもその傾向は流れてきた。たとえば鑑真が来朝するにあたっては、天台三大部をもちこんだ。一方、日本の法華経信仰はまず聖徳太子に始まる。その『法華義疎』は法雲の注釈からの引用が多い。ついで最澄による『法華秀句』が出て、さかんに法華八講や法華十講がおこなわれるようになる。法華経を紺紙に金泥で写す装飾経、法華経の一文字ずつを蓮弁に書く蓮台経、扇面に法華経を綴る扇面法華経、清盛が厳島神社に奉納した平家納経、道長の大和金峰山でのものが有名な埋経など、まさに法華経はまたたくまに人心と官能をとらえていった。
しかし、こうした和風の法華経感覚ともいうべきものに対し、独自の法華経を確立した法華経行者が登場した。その不惜身命(ふしゃくしんみょう)の行動といい、インドはむろん、中国仏教者にもいなかった。そもそも「南無妙法蓮華経」という題目、インドにも中国にもない。特に、10「法師品」から22「嘱累品」をつぶさに検証し、そこに殉教・殉難の精神の系譜を示したことも独創的だ。12「提婆達多品」(だいばだったほん)のことを付言すると、法華経はこの直前の11「見宝塔品」で、法華経の弘通に力を尽くす者がどんなにすばらしいかを説く。第12品では、その弘通を阻もうとする提婆達多さえ、悪人成仏の可能性をもっていることにつなげる。もとより提婆達多(デーヴァダッタ)は仏法を迫害する悪魔であって魔王のようなものだが、キリスト教ならサタンやアンチ・キリストにあたる。ところがブッダはこの提婆達多に感謝する理由として、こんな話をする。ある国の国王がその国の人々を救いたいと考えた。しかしそのためには法を求めなければならない。それには国王の座を捨てたほうがいい。けれども、その法をどこで学べばいいか。もしそのようなことを教えてくれる者がいるのなら、自分はその召使いになってもいいと考えた。そのとき阿私仙人という男がやってきて、自分は法をよく知っていると言うので、国王はよろこんで仙人の身のまわりの世話をした。いくら仕えても飽きることがないという。ブッダが、この話の裏を言う。国王とは実は自分のことなのだと明かす。そして、その仙人とは提婆達多であったことも明かす。もともと提婆達多はブッダの従兄弟(いとこ)にあたっていて、その弟が多聞第一といわれた阿難であった。ブッダと提婆達多は若いころからのライバルだった。後半には8歳の龍女にも成仏の可能性があるとなっていく。第12品でも舎利弗が龍女に、おまえはそんな資格がないと言う。しかし龍女が身につけていた宝珠をブッダにさしあげると、龍女は男子に変成する、これが有名な「男子変成」(なんしへんじょう)の話。法華経は実に壮大なドラマになっており、見事なストーリーになっている。