「将に之を縮めんと欲すれば、必ず之を張る。将に之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす。将に之を廃せんと欲すれば、必ず固く之を興す。将に之を奪わんと欲すれば、必ず固く之を与う。是を微明(びめい)と謂う。柔弱は剛強に勝つ。魚は淵を脱すべからず。国の利器は、以て人に示すべからず。」、これらの言葉をわかりやすくいいいかえると、あることやあるものを縮めさせたり、少なくさせたいと思うのなら、まず張りつめておきなさい。弱めたいと思うなら、まず強めておきなさい。衰えさせようと思うなら、まず勢いをつけなさい。すなわち、奪いとろうというなら、まずは与えておくべきだ。これが「微明」(びめい)というのであると。つまり、柔らかなものが剛いものに、弱いものが強いものに勝つ。魚は深い水の底にいるほうがいい。国家の最も鋭い武器も何人(なんぴと)にも見せぬほうがいい。このように老子が言っている。
さらに、「微明」(びめい)というのは「明(あかり)を微(かす)かにする」という意味であり、事をなすべき者、そのいずれの段階でもいったんはしばらく仄明(そくみょう)に佇んでいなければならないという。まして「柔よく剛を制す」は、よく言われるような意味での柔道の極意のようなことではなくて、むしろ「柔を秘める」ということで、「柔を微明に秘める」ということに近い。また、「与えることと奪うこと」の関係が、「足すことと引くこと」との関係が語られている。老子の柔弱は微妙なものに折りたたまれていて、そこからだけ明かりが洩れるほうがいいという。これは驚くべき発想といえる。しかし、そこまでが前半で、後半はそのような見方を「国の利器は、以て人に示すべからず」。これは深い。国家の最も鋭いところを見せるべきではないというのだが、弱さが強さの大半を包みこむというフラジャイル(柔弱)な国家論にもつながる。
今の混乱ニッポンにふさわしい章句もある。「天下に忌諱(きい)多くして民いよいよ貧しく、民に利器多くして国家ますます昏(くら)し」、また、「人に伎巧多くして奇物ますます起こり、法令ますます彰(あら)われて盗賊多くあり」。これは、今の日本にふさわしく、まさに「利器多くして国家ますます昏し」だ。老子がこのように至弱に徹する視野の広がりをもって「国」というものを捉えていることを理解するには、「ソフト」の意味を「柔弱」とみなすだけでなく、その奥にひそむラディカル・ウィークな意味にまで到達する。
老子を読むとよくおこることで、紆余曲折の紆余か曲折かにさしかかると、何かがいったんはよく見えてくるのだが、そこを曲がり切ってしまうと、そこからが難しくなり、「老子の国家論」として読むにはさらに大変になってくる。そのため、「柔弱」の本来に戻っていかなければならない。柔弱の本来とは、それは「水」、つまり、老子のフラジリティ「柔弱」は水のようなもの、木の葉のようなもの、そして生命的なるものを指している。この生命的なるものは、熱力学的平衡に逆らうような生命力ではない。何事にも逆らわない柔らかさだ。それが「生の徒である」。これをみごとに語っているのは、「天下に水より柔弱なるは莫(な)し」、老子にとって水こそは最高にフラジャイルな存在なのだ。横山大観の『生々流転』、一滴の水が山に落ち、滝となり、川となりながらついに大海に流れて龍を呼び、そのまま静かに大器に満ちて漫々とする。老子のフラジリティ(柔弱)の原像は水にある。そこに倫理を加えて、「上善は水の若(ごと)し」と、“The highest form of goodness is like water”。「上善若水」といわれれるものだ。日本酒にもこの名の銘柄がある。それはともかく、「水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)む所に処る。故に道に畿(ちか)し」という。水のいいところ(善なるところ)は、あらゆる生命的なるものに恵みをもたらしつつも、水自身は何とも争わず、それでいて多くがそこに行かないようなところに自足する。淵にたまっていく。その澹なるところが「道」(タオ)に近いというところという意味になるのだが、まさに柔弱は水の如し、この水の如き柔弱が「道」に近いというあたりからは、「道」(タオ)の本質へと話が広がっていくことになる。
さらに、「微明」(びめい)というのは「明(あかり)を微(かす)かにする」という意味であり、事をなすべき者、そのいずれの段階でもいったんはしばらく仄明(そくみょう)に佇んでいなければならないという。まして「柔よく剛を制す」は、よく言われるような意味での柔道の極意のようなことではなくて、むしろ「柔を秘める」ということで、「柔を微明に秘める」ということに近い。また、「与えることと奪うこと」の関係が、「足すことと引くこと」との関係が語られている。老子の柔弱は微妙なものに折りたたまれていて、そこからだけ明かりが洩れるほうがいいという。これは驚くべき発想といえる。しかし、そこまでが前半で、後半はそのような見方を「国の利器は、以て人に示すべからず」。これは深い。国家の最も鋭いところを見せるべきではないというのだが、弱さが強さの大半を包みこむというフラジャイル(柔弱)な国家論にもつながる。
今の混乱ニッポンにふさわしい章句もある。「天下に忌諱(きい)多くして民いよいよ貧しく、民に利器多くして国家ますます昏(くら)し」、また、「人に伎巧多くして奇物ますます起こり、法令ますます彰(あら)われて盗賊多くあり」。これは、今の日本にふさわしく、まさに「利器多くして国家ますます昏し」だ。老子がこのように至弱に徹する視野の広がりをもって「国」というものを捉えていることを理解するには、「ソフト」の意味を「柔弱」とみなすだけでなく、その奥にひそむラディカル・ウィークな意味にまで到達する。
老子を読むとよくおこることで、紆余曲折の紆余か曲折かにさしかかると、何かがいったんはよく見えてくるのだが、そこを曲がり切ってしまうと、そこからが難しくなり、「老子の国家論」として読むにはさらに大変になってくる。そのため、「柔弱」の本来に戻っていかなければならない。柔弱の本来とは、それは「水」、つまり、老子のフラジリティ「柔弱」は水のようなもの、木の葉のようなもの、そして生命的なるものを指している。この生命的なるものは、熱力学的平衡に逆らうような生命力ではない。何事にも逆らわない柔らかさだ。それが「生の徒である」。これをみごとに語っているのは、「天下に水より柔弱なるは莫(な)し」、老子にとって水こそは最高にフラジャイルな存在なのだ。横山大観の『生々流転』、一滴の水が山に落ち、滝となり、川となりながらついに大海に流れて龍を呼び、そのまま静かに大器に満ちて漫々とする。老子のフラジリティ(柔弱)の原像は水にある。そこに倫理を加えて、「上善は水の若(ごと)し」と、“The highest form of goodness is like water”。「上善若水」といわれれるものだ。日本酒にもこの名の銘柄がある。それはともかく、「水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)む所に処る。故に道に畿(ちか)し」という。水のいいところ(善なるところ)は、あらゆる生命的なるものに恵みをもたらしつつも、水自身は何とも争わず、それでいて多くがそこに行かないようなところに自足する。淵にたまっていく。その澹なるところが「道」(タオ)に近いというところという意味になるのだが、まさに柔弱は水の如し、この水の如き柔弱が「道」に近いというあたりからは、「道」(タオ)の本質へと話が広がっていくことになる。