murota 雑記ブログ

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孔子と儒教、その由来が興味深い。

2018年10月27日 | 通常メモ
 加地伸行氏がその著「儒教とは何か」の中で書いている。古代には、「原儒」たちがいて、死という不可解な現象を説明しようとした。彼等はシャーマンであり、巫祝だった。広く「儒」といわれたのは、この原儒たちのことだ。原儒は、人間の本性が死によって、精神の主宰する「魂」(こん)と、肉体の主宰する「魄」(はく)とに分離すると考えた。この「魂」と「魄」との分離をもう一度統合することができれば、生死の本来がまっとうすると考え、人間の本性が蘇ると考えた。そこで「尸」(し)をもうけて、ここに魂魄が寄り憑きやすいようにした。「尸」は形代(かたしろ)のことで、たいていは木の板でできていて、そこに死者の姓名や事績などを書く。この木の板は「神主」(しんしゅ)とか「木主」(ぼくしゅ)とよばれ、日本の仏教にも取り入れられ「位牌」(いはい)となった。こうした魂魄の統合のための儀礼を司っていたのが原儒だ。その儀礼を一言でいえば「招魂再生」となる。儒教は「死」に深く結びついている故に宗教といえる。魯迅はそこを批判して、死人などにかかわる儒教の後進性に眉をしかめていた。

 原儒は、職能的シャーマンであったとはいえ、自分で何もかもを取り仕切るのではない。古代中国では、こうした招魂儀礼は各一族や各家族がとりおこなうべきものだとされていた。つまり儒の思想は、そのルーツにおいては、社会の単位である血族の系譜に強く結びつくもので「家」のための宗教だった。招魂再生は各自の「家」のためにおこなわれる。原儒はそれを扶助する役割だった。やがて古代社会に、原儒の特殊化や多様化や階層化がおこった。この階層化は大きくは「大儒」と「小儒」に分かれた。「大儒」は君子や貴族についてもっぱら内祭を担当し、「小儒」はさまざまな葬礼の仕事にたずさわって、外祭に当たるようになった。内祭のものを「史」と、外祭のものを「事」とよぶ。そのうち、大儒と小儒の分掌がしだいに混乱していった。原儒の混乱状況のなかに、いよいよ孔子が登場、春秋時代、紀元前6世紀くらいのこと。父は農民だったが、母が原儒だった。この両親は早く亡くなった。孔子は「儒」の根本を問い、この混乱を新たに組み立てなおす。両親の死が、孔子に「儒」の根本を問いなおさせる機縁になった。

 儒教はふつう「仁・義・礼・智」の四徳、あるいは「仁・義・礼・智・信」の五常によって語られる。なかでも「仁」を最も重視する。孔子の語録集としての『論語』も「仁」を多く説明し、その後の儒教も「仁」を中心におく。孔子の時代前後、「儒」の基本は、もともと「孝」にあった。なぜ「孝」なのか、血族や家族が「家」にまつわる死者を慰撫する原儒の本来の意味から、生前に「孝」を積んでおくことが最も有効と思われた。この「孝」は、のちに日本の徳川社会で喧伝された「忠孝」の孝徳感覚とは違うものだった。本来の「孝」というもので、その「孝」は古代中国の生命論全域にわたっている。完全な身体を父母から与えられたのだから、その完全なシステムを父母に返す、さらには祖先に返す、それが「孝」だ。「身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀着せざるは孝の始めなり」と『孝経』にある。自分の身体は父母の遺体であり、父母の身体は祖父母の遺体。ここに過去・現在・未来を貫く「生命の連続」としての東アジア的で、中国的な「孝」というものが位置づけられる。孔子も、さまざまな身近な者たちの死の観察を通して「孝」を自覚した。この「孝」を自覚するに、孔子は「礼」をもって構成した。「礼」とは、もともとは葬礼のことだ。死者を弔うことによってあらわす礼、この「礼」は親しい者にこそ心をこめる。『論語』為政篇に、「生には、これを事(つか)うるに礼をもってし、死には、これを葬るに礼をもってし、これを祭るに礼をもってす」とある。この「生」とは「生きている親」のこと、「死」は「親の死」のこと、「これを祭る」とは祖先の生命の流れのすべてを指している。

 つまり孔子は、生死の上に「孝」をおき、その「孝」のために「礼」を組み合わせた。これらは原儒の時代はまだ習俗にすぎなかったので、それを孔子は、「社会の規範」にまで高める。そのため、「孝」と「礼」を包含するコンセプトとして「仁」が高められることになる。儒教において「仁」は最高の徳目。儒学にとっての「仁」は大いに議論が分かれる。孔子時代の「仁」はまことに明快だった。一言でいえば「仁」とは「愛」。『論語』では「人を愛す」(顔淵篇)とか、「仁者は憂えず」(憲問篇)と言う。それをまとめて「仁愛」と言ってもいい。 この「愛としての仁」は行動をともなう。静かに深く沈潜する愛ではない。行為的であって、積極的な愛だ。自分から発して、人に及ぼす愛、それが「仁」だ。『論語』には、「仁者は己(おのれ)立たんと欲せば、人を立つ。己達せんと欲せば、人を達しむ」(雍也篇)とも、「仁に当たりては、師にも譲らず」(衛霊公篇)とも、「仁者は難きを先にして、獲るを後にす」(雍也篇)ともある。つまりは、他人に向かって何かをもたらすことが仁愛とみなされた。このような積極的な仁愛は、ややもすると押し付けがましくなる。人為的な愛になりかねない。そこで孔子とほぼ同時代であった墨子は、孔子の仁愛論を、親しい者や目上の者ばかりに仁愛をもたらす「別愛」(差別愛)と嫌い、痛烈に批判し、あえて「兼愛」(博愛)を唱えた。

 墨子のことは『論語』にはまったく出てこない。孔子が墨子をどのように感じていたのかはわからない。おそらく墨子の批判は聞こえていたはず。孔子は晩年になるにしたがって「仁」の思想を深めてゆく。「仁」のもとに「孝」が高められ、そこに「礼」がくっつくと、「礼」には「楽」(がく)が並列されるようになる。「楽」は礼のための音楽。すべてを測る尺度。孔子はその楽と礼を近づけた。礼と楽を二つをセットにして「礼楽」ともいう。 仁と孝、および礼と楽とが並びあう。孔子以前から編集されてきた『詩経』『礼記』『書記』が基本テキストとして重視される。のちの儒教では、これに『論語』と『易経』が加わり、五経とされた。これらはすべて儒教のリベラル・アーツとなる。古代中国社会は官僚が中心の社会であったから、社会をつくりあげる官僚は、「教養としての儒教」を習得することにもなる。孔子の死後、弟子は分散する。直弟子の曾子や子夏も、曾子の弟子の子思も、子夏の弟子の子游も一応は活躍したが、さすがに孔子の教えは分散した。100年ほどをへて孟子と荀子が登場し、時代が春秋から戦国に移ると、儒教は論争激しい「諸子百家」のひとつになる。儒教が儒学として問われることになる。

 秦の始皇帝による「焚書坑儒」がおこって、「儒」は決定的な迫害をうける。古典のテキストもすっかり読まれなくなる。それが漢代になると、文帝のころから文芸復興の兆しがおこる。最初は『詩経』あたりが復活し、やがて武帝の時代に董仲舒(とうちゅうじょ)が出て、「教化を明かして民性を導くこと」を説いたため、古典のテキストの読み方が求められた。やっと孔子に光があたる。「五経博士」がおかれ、これらのもとに儒教・儒学をめぐるコンセプトとコンテキストを解釈する分派がさまざまに登場する。武帝は儒教をついに国教とした。当然、儒教・儒学は一大学問体系を形成する。テキストをめぐる学派も生まれた。大きくは「古文派」と「今文派」とに分かれる。古文派はテキストを文献学的に解釈する『春秋左氏伝』に依拠する。今文派は歴史哲学を重視する『春秋公羊伝』を中心に解釈を広めた。総じて「経学の時代」となった。経学(けいがく)の隆盛では、意外にも『孝経』と『春秋』が大きな役割をはたす。いずれも「経」という字がついているが、経典ではない。『孝経』はいつ成立したのかはっきりしない。時間をかけて編集された。すでに荀子が、「孝」について小行・中行・大行などの区別をしており、古いテキストがあったらしく、また別説には大孝・中孝・小孝も区別したらしいが、結局はそれらが組み合わさって、漢代の経学では、当時の群国制度にもとづく共同体システムに応じて、「孝の分類」が進む。当時の社会は、天子・諸侯・卿・大夫・士・庶人などと分かれつつあり、これに応じた「それぞれの孝」が認知されてゆく。「家産的な共同体道徳」の確立だった。経学を学術的に支えたのは『春秋』だ。現存する『春秋』のテキストには「左氏伝」「公羊(くよう)伝」「穀梁(こくりょう)伝」がある。これらを用いることを「春秋学」といった。

 『春秋』そのものがどのように成立したかも、はっきりしない。周王朝のころの魯の年代記で、隠公から哀公にいたる12代242年間の記録になっているが、ひとまとまりのものではない。年代記にしては途中からの記述であり、それぞれの即位が明記されていないところも少なくない。それらの断簡を孔子とその門弟たちが編集したとなっているが、これも史実かどうかはわからない。「左氏伝」もまた、左丘明という孔子の弟子の編集ともされているものの、その実態はあきらかではない。

 科挙は、漢代の「察挙」、魏晋南北朝の「九品官人法」という人物推薦方式を、隋唐でがらりと試験方式に改めて以来、清朝にまで及んだ。この科挙のための学習こそ、徹底して儒教・儒学の基本を中国の中核社会に刷りこむものとなった。

 儒教3000年の流れが、今は使いものにならなくなった。とくに日本人にとっては儒教はいまだに古くさい因習にとらわれたものか、面倒な道徳や道義をもちだすものとして現代的検討を加えられないまま煙たがられている。日本では死者のことを「ほとけさん」と言い、「ほとけさん」の心を鎮めたいと言う。これは仏教の考え方ではなく、もともとは儒教の考え方だ。仏教での「仏」とは成仏、悟りをひらいたもの。誰かが亡くなったからといって、ああ、あの人も「ほとけさん」になったというのは変だ。この「ほとけさん」は儒教における死者の魂のことをさす。儒教では死者の魂は精神的な「魂」と肉体的な「魄」とに分かれる。「魂気」と「形魄」ともいう。白川静の字書を見ると、「魂」の偏(へん)は「気の流れ」になっている。「魄」は旁(つくり)が「白」になっていて、これは白骨のこと。「死」とはこの白骨の白さをあらわしていた。この「白骨としての死」を埋めることが「葬」だった。死者が出て、魂魄が分離する時期、仮の宿としての「殯」(もがり)に遺体を置いて、魂が天上へ、魄が地下に向くのを見届ける。そのうえで、これらの合体のための墓や廟を作っていく。そもそも「遺体」という言葉からが、「遺された体」という意味。それは継承されるべき身体だ。その遺体を先祖と同じ墓や廟に祀った。現在の仏式の葬儀や仏壇には儒教が強く反映している。祥月命日という言い方も、儒教においての3年目の喪を「大祥」とよぶのに因んでいる。今日の日本人の死と葬儀をめぐっては、儒教はさまざまに絡まる。位牌ですら、儒教の形代だ。なぜ儒教には教団組織がなく、寺院や神社のようなものをふやさなかったのか。儒教には教団もほとんど少なく、寺社仏閣にあたるものもあまりない。あるのは孔子廟ばかり。それは儒教が「家の宗教」だったからだ。

 日本では、儒教は徳川社会に顕著だった封建性と結びついて、女性を「家」に押し込めた。しかし、女性が結婚すると嫁いだ家の苗字を名のるというのは儒教にはない。儒教の原則は「夫婦別姓」だ。儒教が東アジア圏における単位の思想や尺度の感覚をつくってきたことも注目すべきだ。度量衡には二つの方法があった。ひとつは手の親指と人差指を広げて十寸とし、両手を広げて八尺とするというように、寸や尺や肘や尋を使うという身体的尺度。もうひとつには、「音」を使う方法があった。音階を「宮・商・角・徴・羽」の五音に分ける。これは音の絶対値をもたず、それぞれの音階の関係をさすようにする。もし「宮」が低い音で始まれば、そこから一定の関係で「商」や「角」を決める。それとはべつに六律と六呂をつくる。あわせて十二律呂というが、日本でよく「呂律がまわる」というように、この律呂は、その第一律から尺度が決まるようになっている。この第一律を「黄鐘」という。その「黄鐘」の作り方がいい。大きさがほぼ等しい秬黍(くろきび)を90粒選んで、それを並べた長さと同じ竹管をつくる。これを吹いたときの音が「黄鐘」の第一律。音のためだけではなかった。今度は秬黍を1200粒を入れた竹管を原器にして、その大きさを1勺とした。そしてそこから10勺を1合、10合を1升、10升を1斗、10斗を1斛(こく)とするようにのばしていった。それだけではない。同じ竹管の1200粒の秬黍の重さを12銖(しゅ)とし、その倍の24銖を1両とした。あとは16両が1斤、30斤を1鈞(きん)、4鈞を1石としていった。音階と度・量・衡がまことに密接に相互連関して、みごとな換算関係におかれたこのような見方が、天文・気象・易・五行のすべてに及んでいた。これらはすべて儒教が維持し、継承してきたものだった。

1 コメント

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日本の仏式葬儀も矛盾 (T.K)
2018-10-27 08:43:52
現在の仏式の葬儀や仏壇には儒教が強く反映している。祥月命日という言い方も、儒教においての3年目の喪を「大祥」とよぶのに因む。今日の日本人の死と葬儀をめぐっては、儒教はさまざまに絡まる。位牌ですら儒教の形代だ。儒教には教団組織がなく、寺院や神社のようなものをふやさなかった。儒教には教団もほとんど少なく、寺社仏閣にあたるものもあまりない。あるのは孔子廟ばかり、面白い現象ですね。既成仏教の僧侶による葬儀も、本来の仏教とは違うものなんですね。
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