1961年、第35代米国大統領ジョン・F・ケネディ、日本人記者団からこんな質問を、「あなたが日本で最も尊敬する政治家はだれですか」、ケネディは「上杉鷹山(ようざん)」と答えた。日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人はいなかったらしい。上杉鷹山は江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家であり、財政危機に瀕する現代日本にとっても学ぶべき所が多い。戦前は小学校の修身教科書にも登場し青少年に敬愛されてきた人物だ。なぜケネディは鷹山を尊敬していたのか。1900年(明治33年)をはさむ約5年ごとに明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれた。いずれも大きなセンセーションをもたらした。その3冊とは、内村鑑三の“Japan and The Japanese”(日本及び日本人)、新渡戸稲造の“Bushido“(武士道)、岡倉天心の”The Book of Tea”(茶の本)。内村の著書は日清戦争が始まったばかりの1894年で34歳のときに書いた。この時期の内村は英文を書きまくっていて、日本の英文自伝の白眉ともいうべき“How I Become a Christian”(余は如何にして基督教徒となりしか)も書いていた。新渡戸の『武士道』は1900年、漱石がロンドンに向かっていた年だ。新渡戸はここで日本の武士道がいかにキリスト教に似ているかを説きまくり、ただし「愛」だけが欠けているとも結論づけた。天心の『茶の本』は、天心がボストン美術館の東洋部の顧問をしてからの著書で、45歳の1906年にニューヨークで刊行された。日露戦争の最中だ。『東洋の理想』『日本の目覚め』につぐ3冊目の英文著書。いずれもさまざまな意味で、今日の誰も書きえない名著だった。書名を、内村自身は最初は『日本及び日本人』と訳していた。それがいろいろの変節をへて『代表的日本人』となった。ジョン・F・ケネディも読んでいて、この中にある上杉鷹山を尊敬していたと思われる。
上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子となった。上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの半分の15万石に減らされてしまった。収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲し、家臣団は出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は11万両となり2年分近くに達していた。つまり現代の日本のような深刻な財政破綻におちいっていた。収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態だった。鷹山は17歳で第9代米沢藩主となった。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという自覚があった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈る、これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となった。1、国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候、2、人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候、3、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候。藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命があると鷹山は考えていた。それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、自ら助ける、すなわち「自助」、近隣社会が互いに助け合う「互助」、藩政府が手を貸す「扶助」。
「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだと身をもって示した。やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃、橋がこのままでは農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そうと下級武士たちが立ち上がった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだ。
「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。特に、孤児、孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か村が救援すべきことを定めた。貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていた。鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一つ。さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えた。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増えていた。
藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって冷夏となった。翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ、鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては30万人の餓死者、病死者が出たが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった。米沢藩の業績は幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。鷹山は、領内の学問振興にも心をくだく。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学校がぜひ必要だと考えたが、それだけの資金はない。学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金を募る。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、武士も庶民も同じだったのだ。ここでも農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能とした。
イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村であると、イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのだ。美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出した。
ケネディの問いかけ、And so my fellow Americans,Ask not what your country can do for you.Ask what you can do for your country.(それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。)ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節。国民がみな国家に頼ろうとしたら、国家はもたない。それは社会主義国家の失敗や、福祉国家の行詰りで歴史的にも証明されている。現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のための政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国からの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまったものともいえる。国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それぞれ国家のために、お互いのために何かをしようという自助と互助の精神が不可欠なのかもしれない。それがあってこそ、国が成り立ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。ケネディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が豊かで美しい国造りにつながることを実証した政治家であったからであろう。
上杉鷹山(うえすぎようざん)は、1751年7月20日、日向高鍋藩の江戸藩邸で、藩主秋月種美(あきづきたねよし)の次男として生まれた。歴史の教科書にも載らなかった。数ある大名のなかで名君中の名君といわれる。養子として上杉家を継ぎ、若くして藩政改革に取り組み、藩の窮乏を救うことに成功した。彼の母は、筑前秋月城主の娘で春姫。春姫の母は、米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘、豊姫、瑞耀院(ずいよういん)で、鷹山にとって上杉家は、祖母が現米沢藩主上杉重定と従姉弟にあたる、遠い親戚関係にあった。江戸時代の各藩、すなわち大名家は、それぞれが小国家で、その経営は各藩独自の方針に基づいて堆進されていた。よって経営者たる藩主の資質・力量によって、その経営内容は大きく左右された。どの藩も貧しく、徳川幕府でさえ財政危機の連続であった。財政の基盤は米を中心とした農業生産物であり、その年の天侯に左右されることが多く、各藩の経済はきわめて不安定であった。江戸時代を通じて、幕府以下どの大名家も、慢性的な不況にあえいでいたが、固定化された体制では、殆ど変わりようがなく、悪化した経営を建て直すことはまず不可能に近かった。
そうした中で、上杉鷹山は、行政改革に成功し、財政危機を乗り越えて経営改革を成し遂げた。鷹山は幼名を松三郎といい、直松とも呼ばれた。幼少時より頭がよいと評判の子供であったが、江戸時代の体制下にあっては、どんなに優秀であっても、次男が長男をさしおいて家を継ぐということはなかった。ところが、9歳の時、鷹山は祖母にあたる瑞耀院(ずいよういん)の推薦によって、出羽米沢藩十五万石上杉重定の養子に内定した。それは、重定の正室に男子がなかったからだ。鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となった。日向高鍋藩二万七千石の部屋住(へやずみ)の身が、十五万石の大名家を継ぐ立場となった。まさに逆玉!であるがこれは、単に彼に幸運があったからではなく、優秀な子であったからだろう。鷹山はこの幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかった。幸姫は、心身ともに発育が遅れており、10歳にも満たぬ幼女同然だった。鷹山はこの幸姫を、いつくしみ続けた。鷹山が、幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをする姿を見て、お付きの女中たちは涙を流したといわれる。鷹山は養子入りにあたり、秋月家の老臣三好重道から、懇切な訓戒書を与えられた。それには、忠孝・学問・武芸をはじめ、養家の作法に絶対違犯することがないよう生涯努力し、決して恥辱を残さぬよう、詳しく述べたものだった。鷹山は生涯これを秘蔵し、その体現に努力を怠らなかった。1766年、数え年16歳になった鷹山は、将軍徳川家治の前で元服し、将軍の一字をもらって治憲(はるのり)と改名した。鷹山と号するのは、ずっと後に養父の重定が死去してからである。そして翌、明和4年、重定が隠退して、鷹山は上杉家の家督を継ぎ、第9代米沢藩主となった。この時少年鷹山は17歳。厳しい状況で迎えた藩主の座であった。
米沢藩は未曾有といっていいほど、藩財政が極端に窮乏し、家臣も領民も貧困にあえいでいた。更に悪いことは重なり、何度かの大凶作が追い打ちをかけていた。藩主になった直後の鷹山の決意を、二つの誓詞が物語っている。一つは春日社に納めたもので、自分自身を律したもので、文学・武術を怠らぬこと、民の父母である心構えを第一にすること、質素倹約を忘れぬこと、言行がととのわなかったり賞罰に不正があったりしないようにすること等を神前に誓ったもの。もう一つは上杉家歴代が尊崇した鏡守社白子神社に奉納した、「連年国家が衰微し人々が困窮しているが、大倹によって必ず中興したい、その決意を怠るようなことがあれば神罰を蒙ってもよい」という意の誓文だ。鷹山はこれらの誓詞を密かに奉納したので、領民は誰もこのことを知らなかった。誓詞が発見されて公表されたのは、春日社のものが1865年、白子神社のものは1891年になってからのこと。明和4年9月、鷹山は大倹執行の命令を発する。短期間に大幅な収入増が見込めぬ以上、できるだけ出費を切りつめなければならない。しかし、低禄の家臣や領民の貧困をよそに、永年特権の上にあぐらをかいてきた藩上層部は、当然若き新藩主の方針に不満たらたらであった。しかし鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行した。藩主の生活費のすべてである江戸における年間仕切料は、これまで千五百両であったが、これを二百九両余まで圧縮した。実に七分の一という大幅節減。日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らした。明和6年10月、鷹山は藩主となって初めて米沢に入部した。藩主初のお国入り、このとき鷹山は、側近が止めるのもきかず、米沢のかなり手前から馬に乗り、風雪の中を雄々しく入城した。また、11月に行われた恒例の初入部の祝儀の宴では、大倹の際であるということで従来のご馳走料理を廃し、赤飯と酒だけで催した。その席で鷹山は、最下級の足軽格の軽輩にまで親しく言葉をかけたという。ケネディが尊敬したというのも納得できる話だ。
上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子となった。上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの半分の15万石に減らされてしまった。収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲し、家臣団は出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は11万両となり2年分近くに達していた。つまり現代の日本のような深刻な財政破綻におちいっていた。収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態だった。鷹山は17歳で第9代米沢藩主となった。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという自覚があった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈る、これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となった。1、国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候、2、人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候、3、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候。藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命があると鷹山は考えていた。それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、自ら助ける、すなわち「自助」、近隣社会が互いに助け合う「互助」、藩政府が手を貸す「扶助」。
「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだと身をもって示した。やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃、橋がこのままでは農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そうと下級武士たちが立ち上がった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだ。
「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。特に、孤児、孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か村が救援すべきことを定めた。貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていた。鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一つ。さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えた。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増えていた。
藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって冷夏となった。翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ、鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては30万人の餓死者、病死者が出たが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった。米沢藩の業績は幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。鷹山は、領内の学問振興にも心をくだく。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学校がぜひ必要だと考えたが、それだけの資金はない。学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金を募る。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、武士も庶民も同じだったのだ。ここでも農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能とした。
イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村であると、イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのだ。美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出した。
ケネディの問いかけ、And so my fellow Americans,Ask not what your country can do for you.Ask what you can do for your country.(それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。)ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節。国民がみな国家に頼ろうとしたら、国家はもたない。それは社会主義国家の失敗や、福祉国家の行詰りで歴史的にも証明されている。現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のための政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国からの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまったものともいえる。国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それぞれ国家のために、お互いのために何かをしようという自助と互助の精神が不可欠なのかもしれない。それがあってこそ、国が成り立ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。ケネディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が豊かで美しい国造りにつながることを実証した政治家であったからであろう。
上杉鷹山(うえすぎようざん)は、1751年7月20日、日向高鍋藩の江戸藩邸で、藩主秋月種美(あきづきたねよし)の次男として生まれた。歴史の教科書にも載らなかった。数ある大名のなかで名君中の名君といわれる。養子として上杉家を継ぎ、若くして藩政改革に取り組み、藩の窮乏を救うことに成功した。彼の母は、筑前秋月城主の娘で春姫。春姫の母は、米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘、豊姫、瑞耀院(ずいよういん)で、鷹山にとって上杉家は、祖母が現米沢藩主上杉重定と従姉弟にあたる、遠い親戚関係にあった。江戸時代の各藩、すなわち大名家は、それぞれが小国家で、その経営は各藩独自の方針に基づいて堆進されていた。よって経営者たる藩主の資質・力量によって、その経営内容は大きく左右された。どの藩も貧しく、徳川幕府でさえ財政危機の連続であった。財政の基盤は米を中心とした農業生産物であり、その年の天侯に左右されることが多く、各藩の経済はきわめて不安定であった。江戸時代を通じて、幕府以下どの大名家も、慢性的な不況にあえいでいたが、固定化された体制では、殆ど変わりようがなく、悪化した経営を建て直すことはまず不可能に近かった。
そうした中で、上杉鷹山は、行政改革に成功し、財政危機を乗り越えて経営改革を成し遂げた。鷹山は幼名を松三郎といい、直松とも呼ばれた。幼少時より頭がよいと評判の子供であったが、江戸時代の体制下にあっては、どんなに優秀であっても、次男が長男をさしおいて家を継ぐということはなかった。ところが、9歳の時、鷹山は祖母にあたる瑞耀院(ずいよういん)の推薦によって、出羽米沢藩十五万石上杉重定の養子に内定した。それは、重定の正室に男子がなかったからだ。鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となった。日向高鍋藩二万七千石の部屋住(へやずみ)の身が、十五万石の大名家を継ぐ立場となった。まさに逆玉!であるがこれは、単に彼に幸運があったからではなく、優秀な子であったからだろう。鷹山はこの幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかった。幸姫は、心身ともに発育が遅れており、10歳にも満たぬ幼女同然だった。鷹山はこの幸姫を、いつくしみ続けた。鷹山が、幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをする姿を見て、お付きの女中たちは涙を流したといわれる。鷹山は養子入りにあたり、秋月家の老臣三好重道から、懇切な訓戒書を与えられた。それには、忠孝・学問・武芸をはじめ、養家の作法に絶対違犯することがないよう生涯努力し、決して恥辱を残さぬよう、詳しく述べたものだった。鷹山は生涯これを秘蔵し、その体現に努力を怠らなかった。1766年、数え年16歳になった鷹山は、将軍徳川家治の前で元服し、将軍の一字をもらって治憲(はるのり)と改名した。鷹山と号するのは、ずっと後に養父の重定が死去してからである。そして翌、明和4年、重定が隠退して、鷹山は上杉家の家督を継ぎ、第9代米沢藩主となった。この時少年鷹山は17歳。厳しい状況で迎えた藩主の座であった。
米沢藩は未曾有といっていいほど、藩財政が極端に窮乏し、家臣も領民も貧困にあえいでいた。更に悪いことは重なり、何度かの大凶作が追い打ちをかけていた。藩主になった直後の鷹山の決意を、二つの誓詞が物語っている。一つは春日社に納めたもので、自分自身を律したもので、文学・武術を怠らぬこと、民の父母である心構えを第一にすること、質素倹約を忘れぬこと、言行がととのわなかったり賞罰に不正があったりしないようにすること等を神前に誓ったもの。もう一つは上杉家歴代が尊崇した鏡守社白子神社に奉納した、「連年国家が衰微し人々が困窮しているが、大倹によって必ず中興したい、その決意を怠るようなことがあれば神罰を蒙ってもよい」という意の誓文だ。鷹山はこれらの誓詞を密かに奉納したので、領民は誰もこのことを知らなかった。誓詞が発見されて公表されたのは、春日社のものが1865年、白子神社のものは1891年になってからのこと。明和4年9月、鷹山は大倹執行の命令を発する。短期間に大幅な収入増が見込めぬ以上、できるだけ出費を切りつめなければならない。しかし、低禄の家臣や領民の貧困をよそに、永年特権の上にあぐらをかいてきた藩上層部は、当然若き新藩主の方針に不満たらたらであった。しかし鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行した。藩主の生活費のすべてである江戸における年間仕切料は、これまで千五百両であったが、これを二百九両余まで圧縮した。実に七分の一という大幅節減。日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らした。明和6年10月、鷹山は藩主となって初めて米沢に入部した。藩主初のお国入り、このとき鷹山は、側近が止めるのもきかず、米沢のかなり手前から馬に乗り、風雪の中を雄々しく入城した。また、11月に行われた恒例の初入部の祝儀の宴では、大倹の際であるということで従来のご馳走料理を廃し、赤飯と酒だけで催した。その席で鷹山は、最下級の足軽格の軽輩にまで親しく言葉をかけたという。ケネディが尊敬したというのも納得できる話だ。