murota 雑記ブログ

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聖徳太子時代前後に迫ってみる。

2016年02月08日 | 歴史メモ
 5世紀から6世紀の初め頃にかけて、日本では大王(おおきみ・天皇)の跡継ぎ問題や、有力な豪族(大伴氏・物部氏・蘇我氏など)の権力争いなどで国内の政治が乱れる。このため当時大和政権が支配していた朝鮮半島の任那地方(加羅)の支配力が弱まり、任那地方と同じく朝鮮半島にある新羅・高句麗からの侵略が心配されるようになった。 そこで大和政権は朝鮮半島の任那地方へ対新羅の救援軍約6万を派遣するが、この救援軍が当時九州の北半分を統治していた筑紫の国造(くにのみやつこ・大和政権の地方官)磐井氏に進路を妨害され足止めをくらってしまう。これが「磐井の乱」( 527年)と言われるものだ。

 磐井氏のこの様な行動には自分の統治している領地を大和政権から独立させたいという考えがあった。しかし大和政権側がこれを放置するはずもない。当時の大和政権の支配は日本全土には及んでおらず、その支配力も絶対的なものではなかったので早急に日本全土に及ぶ支配を固める必要があった。しかも磐井氏のバックには新羅がついており、このままでは朝鮮半島の国に任那地方どころか日本の国土をも奪われてしまうかも知れなかった。 そこで大和政権は磐井氏を討伐すべく、日本最強の軍隊を動かすことができる物部氏の麁鹿火(あらかい)に九州出兵を命ずる。物部麁鹿火が率いる大和政権軍と磐井氏の戦いは1年以上も続くが、結局528年大和政権側の勝利に終わる。

 磐井氏の息子である葛子は父の犯した反逆罪と同罪にされることを恐れて所領であった糠屋(ぬかや・現在の福岡市東区あたり)を大和政権側に差し出し、死罪をまぬがれる。 福岡県八女(やめ)市にある岩戸山(いわどやま)古墳は磐井氏の墓といわれる。物部麁鹿火が磐井氏の討伐に行く際、大王(当時は『継体天皇(けいたいてんのう)』)から「もし磐井氏を討ち取ることができたら長門(ながと・山口県)から東は私が、筑紫(つくし・福岡県)から西はお前が治め、賞罰は思いのまま行い、別に報告する必要はない」と言われた。すなわち、磐井に替わって物部麁鹿火が九州を統治しろと言われていた。磐井の乱は6世紀頃の日本はまだ大王による支配体制が固まってなかったことを示す象徴的な事件だった。

 聖徳太子は574年、「用明天皇(ようめいてんのう)」と「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」との間に生まれたが、幼名は「厩戸皇子(うまやとのおうじ)」、この名は母親(穴穂部間人皇女)が馬小屋の前で急に産気づき、その場で産んだために付けられた名前。この聖徳太子の両親は共に「欽明天皇(きんめいてんのう)」の子供で兄弟の関係でもある。この当時は母親が違っていれば同じ父親から生まれた兄弟でも結婚はできた。ちなみに用明天皇のお母さんは「堅塩媛(きたしひめ)」、穴穂部間人皇女のお母さんは「小姉君(おあねぎみ)」、2人とも「蘇我稲目(そがのいなめ)」の娘で姉妹の関係になる。厩戸皇子(聖徳太子)は両親から蘇我稲目の血を2重に受けており、当時の超有力豪族である「蘇我氏(そがし)」の血族のまっただ中にいた人物。そしてこの蘇我氏のもとには渡来人(中国・朝鮮から移住して日本に高度な文明をもたらした人々)が多数いて、厩戸皇子(聖徳太子)は彼ら渡来人達から儒教・仏教・暦学などの英才教育を幼少の頃から受け、青年期には激動の最新アジア情勢も渡来人達からいち早く伝えられるという環境に育った。

 当時のアジア情勢がどれくらい激動だったか、中国は「後漢(ごかん)」という国が西暦220年滅亡して以来、分裂・戦乱の時代が約370年間も続いていたが「隋(ずい)」と言う国によって再び統一されそうになり(統一されたのは589年)、まさに激動の時代。370年間も戦争していた地域を隋が一気に統一、隋の軍事力・外交力・政治力はかなり強大だった。もちろん隋に対して脅威を感じているのは日本も同じ。そして隋の中国統一という危機的状況に日本が対処するためには、日本は隋の政治を真似し「豪族達の連合政権」から「天皇中心の中央集権国家」へと改革しなければならなかった。当時、隋は「律令制(りつりょうせい)」と言う「律(りつ・刑法)」と「令(りょう・行政法と民法)」による中央集権国家に都合のいい非常に優れた政治体制を採用しており、律令制を補完するべく国家宗教としての「仏教」も採用していた。こういう中で日本の危機的状況をいち早く察知し、日本の体制を変革しようと1人の豪族が立ち上がる、「蘇我馬子(そがのうまこ・蘇我稲目の子)」だ。渡来人達との関係が深くアジア情勢にも詳しい蘇我氏の首長であり、日本に律令制を導入する手始めに仏教の導入を急いだ。そして、仏教導入に反対する豪族「物部守屋(もののべのもりや)」を滅ぼす(587年)。この直後に「法興寺(ほうこうじ・飛鳥寺)」の建立に着手する。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした戦いで、厩戸皇子(聖徳太子)が戦勝祈願のため自ら四天王の像を彫ってこれに祈り、勝利を得たので四天王へのお礼に建立した寺院が「四天王寺」だった。

 法興寺の建立でとりあえずは仏教導入に成功し、また強敵物部氏の滅亡で、豪族のトップに立った蘇我馬子は次の課題「律令制の確立」に向けて動き出す。従来通り自分の意見が通りやすい天皇を即位させ、裏から操るのが得策と考えた蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)の父である用明天皇の死後、自分の甥っ子である「崇峻天皇(すしゅんてんのう)」を即位させる(587年)。しかし、この崇峻天皇が自分の言うことを聞いてくれないと分かると自分の手下である「東漢直駒(あまとのあやのたいのこま)」を差し向け、崇峻天皇の兄の「穴穂部皇子(あなほべのみこ)」もろとも暗殺してしまう (592年)。歴代天皇で暗殺された疑いのある人物は何名かいるが、はっきりと暗殺されたことが記録されているのは崇峻天皇。ここで蘇我馬子にとって困った事態は、自分の意見を通しやすい蘇我氏の血を引く天皇候補がいないことだった。厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我氏の血族で頭も良く有力な候補だが、年も若く、暗殺された崇峻天皇の甥っ子でもあり、天皇とするには無理があった。その他の候補者は全て蘇我氏の血族以外、もしくは血縁が薄い人間だった。そこで浮上してきたのが「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」、彼女は用明天皇の妹であり、今は亡き「敏達天皇(びたつてんのう)」の皇后でもあったので血筋も位も申し分ない。そして厩戸皇子(聖徳太子)を「摂政(せっしょう)」「皇太子(こうたいし・次期天皇候補)」の地位につけて将来は厩戸皇子(聖徳太子)を天皇にすれば蘇我氏一族も安泰、政治も安定させることができるとの理由から、蘇我馬子は彼女を天皇に即位させた。日本初の女帝「推古天皇(すいこてんのう)」の誕生となる。(592年) 推古天皇で3人目だとの説もあるが、通説では推古天皇が初の女帝とされる。説得の理由に天照大神(あまてらすおおみかみ)が女性であったことを引用したといわれる。

 そして翌年(593年)4月10日、推古天皇の「摂政(せっしょう)」「皇太子(こうたいし・次期天皇候補)」として厩戸皇子が選ばれた。推古天皇には『竹田皇子(たけだのみこ)』という息子がいたが皇太子として選ばれてなかったところを見ると既に死亡していた可能性もある。「推古天皇」「聖徳太子」「蘇我馬子」の3人体制で律令制度の確立へ向けて日本が動き出した。聖徳太子はおじさん2人(崇峻天皇&穴穂部皇子)を蘇我馬子に殺されている事を知っていた。聖徳太子が蘇我氏の血族で優秀な人材であっても先走った行動をすればたちまち蘇我馬子によって殺されてしまうかもしれない。聖徳太子にとっては微妙で危険な立場でのスタート。593年に摂政となってから最初の7年間、聖徳太子は目立った行動をしていない。「冠位十二階」や「十七条憲法」「遣隋使の派遣」などは600年代に入ってからだ。そして608年を境に政治改革の表舞台からは姿を消し、仏教の普及や歴史書の編纂などの事業に携わっていく。聖徳太子は何をしたのか。隋(ずい・昔の中国)へ使いを送った。「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」の制度を作った。「十七条憲法」を作った。日本各地に仏教寺院を建立(こんりゅう)した。などなど天皇中心の国家の基礎を作ったといわれている。

 聖徳太子のエピソードといえば、一度に10人の人の意見を同時に聞き分けられた。 用明天皇の死を予言した。5歳くらいの頃、推古天皇の即位を予言した。3歳くらいの頃、「桃と松、どっちが好き」と聞かれて「桃の寿命は短いけど松は千年生きるから松の方が好き」と答えた。2歳の頃、教えられた訳でもないのに釈迦入滅の日(2月15日)に東に向かい「南無仏」と唱え合掌礼拝した。聖徳太子の母親の枕元に金色の僧が現れ、「しばらくお前の体内を借りる」と言って母親の口へ入り込み聖徳太子を身ごもった。そんな伝説めいた話からも分かるとおり、聖徳太子は奈良時代以降になると信仰の対象(太子信仰)にまでなってしまい、現在でも全国各地に聖徳太子の像がある。極端に言えば、実在したのかさえもよく分からない人物だと言う説もある。実はあの聖徳太子の肖像画は聖徳太子が死んでから100年くらい経ってから描かれたもの、正確には聖徳太子の似顔絵ではない、想像画だ。

 しかも聖徳太子は「推古天皇(すいこてんのう)」の「摂政(せっしょう)」として政治を補佐したと伝えられるが、聖徳太子が生きていた当時の役職や位に、「摂政」の地位は存在したが、当時の摂政は聖徳太子のように天皇に代わって政治を行う役目ではなかった。政治を代行するという立場での「摂政」の役職が出来たのは866年、藤原良房(ふじわらのよしふさ)が任命されたのが始まり。藤原良房より以前の摂政には政治を代行する権限は無かった。せいぜい天皇へ助言する程度の役目だった。聖徳太子が行ったとされる「冠位十二階」や「十七条憲法」は明らかに当時の摂政の権限ではできない。誰が「冠位十二階」や「十七条憲法」などの大事業の中心となっていたのか。これらの大事業の中心は権限のない聖徳太子でなく蘇我馬子やその他の有力豪族達が立案し実行した。日本の国家の基礎を作り上げたと言われ、学校で習ってきたはずの聖徳太子だが、何をやった人なのか、はっきりしていない。NHKの大河ドラマのリクエストでは聖徳太子が毎回上位を占めている。しかし大河ドラマになったことは無い。なぜ大河ドラマに採用されないのか、「よく分からない人」だからだという。ドラマを作ろうと調べてゆくと、聖徳太子がどんな人生を歩んだか資料が無くて分からない。分からないから1年間も放映する大河ドラマにはできないという事のようだ。


1 コメント

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こんな真実があったとはねえ。 (H.K)
2016-02-08 15:48:28
聖徳太子は「推古天皇(すいこてんのう)」の「摂政(せっしょう)」として政治を補佐したと伝えられるが、聖徳太子が生きていた当時の役職や位に、「摂政」の地位は存在したが、当時の摂政は聖徳太子のように天皇に代わって政治を行う役目ではなかった。政治を代行するという立場での「摂政」の役職が出来たのは866年、藤原良房(ふじわらのよしふさ)が任命されたのが始まり。藤原良房より以前の摂政には政治を代行する権限は無かった。せいぜい天皇へ助言する程度の役目だった。聖徳太子が行ったとされる「冠位十二階」や「十七条憲法」は明らかに当時の摂政の権限ではできない。誰が「冠位十二階」や「十七条憲法」などの大事業の中心となっていたのか。これらの大事業の中心は権限のない聖徳太子でなく蘇我馬子やその他の有力豪族達が立案し実行した。そうなのか。
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